2012年7月13日金曜日

火坂雅志『軍師の門』(2)


 九州で大雨による被害が報じられ、以前にわたしが住んでいた近郊でもあるので心配しながらテレビのニュースを見ていた。昨夜半にはここでも激しい雨が降った。今日は少し晴れ間も見えるが、湿度が高くベタベタしている。エアコンの除湿機能がつくづく有難いと思う。

 さて、火坂雅志『軍師の門 上下』(2008年 学芸出版)の下巻は、裏切った荒木村重によって摂津(現:大阪府北部と兵庫)の有岡城地下の穴蔵に閉じ込められて監禁されていた黒田官兵衛の救出劇と有岡城の戦いから始まる。

 長い間、地下の狭い穴蔵に閉じ込められていたために黒田官兵衛は気力、体力ともに相当弱っていくが、「生き延びること」を心に刻みつつ、深い自省を続けていく。その中で、荒木村重がなぜ織田信長を裏切ったのかということについて、敵対する者をすべて皆殺しにするような織田信長のやり方に荒木村重がついていけないものを感じ、反発したからではないかと官兵衛が考えていったことが本書で記されていく。

 信長のように「力」を誇示して脅えさせて従わせるのでもなく、また「利」をぶらさげてそれで人を動かそうとするのでもなく、もっと別のもの、信義や愛情、そういうものによって真実に動いていくのではないか、そういう展開が官兵衛の救出劇で展開されていく。

 竹中半兵衛が示した黒田官兵衛への深い信頼、何とかして黒田官兵衛を救出したいと奔走する家臣の栗山善助(四郎右衛門)、官兵衛の人柄に惚れ抜いて無償で官兵衛救出の手助けをした妓楼の朝霞といいう女性の設定、そういう人たちを通して、人が動くのが、「力」でも「利」でもなく、深い信頼と愛であることに黒田官兵衛が気づいていったことが物語られていくのである。

 やがて、兵糧攻めによって有岡城は落城していく。城主の荒木村重は、妻子も家臣も捨てて逃げ去り、織田信長は残された者たちを無残に処刑していく。信長の仕打ちは極めて残酷なものだった。有岡城落城によって黒田官兵衛は救出される。だが、その姿は、全身が疥癬で覆われ、頭髪が抜け落ち、足は動かなくなっているという無残なものだった。療養のためにしばらく有馬温泉で過ごし、妓楼の主である朝霞の無償の介護で、ようやく、杖をついてではあるが動けるようにまでなる。そして、その時に、竹中半兵衛の死と彼が己の全てをかけて自分の子の松寿丸を救ってくれたことを知り、黒田官兵衛は、ますます、「力」でも「利」でもなく、信義と情を大切にしていくことを覚悟していくのである。竹中半兵衛が示してくれたことの後を継ぐ。それがこの時の黒田官兵衛の決心であり、その後の人生となっていくのである。

 病が癒え、杖をつきながら、黒田官兵衛は三木城を取り囲んでいる羽柴秀吉(豊臣秀吉)のもとへ行く。秀吉は涙を流して官兵衛を歓迎する。長年の兵糧攻めで、ついに三木城も陥落していくが、このとき官兵衛は、竹中半兵衛が言い残していたように、三木城側に温情を与え、城下を復興させて、百姓や商人のために善政を敷くことを秀吉に進言し、秀吉もその通りに実行する。こうして、播磨、但馬が秀吉の手中に収められるようになり、秀吉軍は因幡(鳥取)へと向かうことになる。

 ここで秀吉は、官兵衛の進言を入れて、まず、籠城戦の要となる米を買い占めて、鳥取城内の兵糧を少なくしてから、周囲に陣を敷き、完全な包囲網を作ってから、さらにそこで市を開いたり興行を行ったりして、城の外郭に巨大な町を作り上げていく方法を採る。黒田官兵衛は、いたずらに血を流すことではなく、安定と繁栄を目指す者に人々が喝采を送るようになる、そういう戦のあり方が新しい時代を開いていくことを実感していく。そして、この感覚が高名な備中高松城(現:岡山市北区)の「水攻め」へと繋がっていくのである。

 高松城の水攻めには、黒田官兵衛の周到な現地調査と地形を読み取る力、情勢の判断力が大きな役割を果たした。分析は智者の業であり、正しく観察し、分析する能力のある者だけに道が見えてくる。この時の黒田官兵衛の秘策はそうしたことの結果であるし、それを信頼して採用した秀吉の人物の大きさにも依ることである。

 そいう中で、味方を決して裏切らない信頼に足る人物としての黒田官兵衛の名声が上がっていく。「将たる者は、戦った相手への礼節、情けを忘れてはならぬもの」(下巻 111ページ)が官兵衛の信条となり、「力」の脅威を見せつけようとする織田信長とは異なった道を歩むことを秀吉に勧めていくのである。

 この高松城の水攻めの時に、明智光秀による本能寺の変が勃発し、絶対的覇者であった織田信長が死去する。天正10年(1582年)6月のことである。信長死去の報は各地に動揺を走らせ、高松城を囲んでいた秀吉も、無論、動揺する。だが、その時に、黒田官兵衛が「畢竟、貴公天下の権柄を取り給うべきこと存じ候え」(『黒田家譜』)と進言したと言われている。敵対していた毛利側と急いで講和を結び、いち早く明智光秀を討つように勧め、こうして秀吉の「中国大返し」が起こったのである。

 秀吉は「仇討」を大義名分にして、各地の大名に書を送って明智光秀との決戦に備えながら、昼夜敢行して畿内に帰り、明智軍との戦が始まる。そして、これを打ち破り、光秀は落ち延びる途中で農民によって殺されて、秀吉は一躍天下の主へとのし上がっていく。織田家の家督を信長の孫に当たる三歳の三法師(後の織田秀信)に継がせ、自ら後見となることに成功していく。それもまた、黒田官兵衛の進言に従ったものであった。

 明智光秀討伐に遅れを取った織田家の筆頭家老であった柴田勝家は次第に力を失っていくが、織田家の家督を継ぐことができなかった三男の織田信孝と手を組み、信長の妹である「お市」を妻として迎え、秀吉包囲網を築いていく。そして、秀吉と柴田勝家の戦いが始まるが、秀吉は柴田勝家を撃ち、伊勢長島にいた滝川一益を撃ち、天下平定の要としての大阪城を築いていく。

 この時期頃から、秀吉は次第に黒田官兵衛を遠ざけるようになっていく。そのあまりの智者ぶりに秀吉が恐怖を覚え始めたからと言われている。秀吉はなぜ黒田官兵衛を九州に置いて大きな領地を与えないのかと問われた時に、黒田官兵衛が力をつけると、これほど恐ろしいものはないと語ったと言われている。黒田官兵衛は大阪城の縄張りを任せられるが、これまでの働きに対する恩賞もなく、彼は次第に軍議からも遠ざけられていくようになるのである。黒田官兵衛は、決して人を裏切らないことを自らの信条にしており、秀吉に忍従していくが、この齟齬が後までずっと続いていく。

 自らが不遇に処せられていることを知っていた官兵衛は、高山右近の勧めもあって、イエズス会の宣教師であったオルガティーノと会い、その教えに平安を見出して、キリスト教の洗礼を受ける。彼はそれによって功を求める自分を捨てていくのである。「自分の道を探す」それが黒田官兵衛の歩となっていくのである。

 織田家の家督を継ぐことができなかった次男の織田信雄は、日の出の勢いの中にある秀吉に次第に不満を持つようになり、三河の徳川家康と手を組んで、秀吉を葬りさろうとする。家康と信雄の連合軍は尾張の小牧に陣をしき、秀吉軍と対決するのである。だが、この戦の時に黒田官兵衛は毛利との同盟強化のために領土の取り決めを明瞭にする目的で中国地方へ向かわせられていたのである。

 徳川家康と尾張の小牧で膠着状態のまま、他方では秀吉は着々と天下平定へと動き出す。そのあとの展開は歴史が証するとおりであるが、その後の黒田官兵衛の姿については次回に記すことにする。本書はなかなか読みごたえのある一冊だと思っている。

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