2012年7月2日月曜日

芦川淳一『うつけ与力事件帖 皐月の空』


 ぼやぼやしているうちに一年の半分が過ぎて、7月の声を聞いてしまったという感があるが、ぼやぼやしながら生きるのも悪くはないので、一層スローダウンして、今月も過ごしていこうと思っている。もちろん、仕事は待っていてくれないが、そろそろ「暑さ」を理由にできるだろうと笑いながら思っている。

 そんな思いで7月を迎える中、芦川淳一『うつけ与力事件帖 皐月の空』(2009年 学研M文庫)を気楽に読んだ。この作者の作品は、前に「おいらか俊作江戸綴り」のシリーズを数冊読んでいるが、そのシリーズの主人公ものんびりとした陽だまりのような気性から「おいらか」と呼ばれているが、本作の主人公も、周囲の人から「うつけ(役立たず)」と呼ばれる南町奉行所の当番方与力である栗原平之助という人物である。

 「当番方与力」というのは、各奉行所に三騎(三人)いて、庶務や受付などの一般事務を三交代で宿直して行い、捕物があれば出役し、刑の執行があればそれが正しく行われたかどうかを見届ける検使も行う役職であるが、奉行所与力の中でも、いわば平与力で、普通は与力に成り立ての者がつくのだが、主人公の栗原平之助は長年この当番方与力のままの人物である。しかも、通常は三騎だが、彼は四番目の、いわば当番方与力の補佐のような立場で、何をするということもなく日を過ごしている余計者の当番方与力なのである。日頃はただ、与力部屋で、眠そうな顔をして古い書物を読んでいて、「うつけ」とか、役に立たないことから「散木(さんぼく)」とか呼ばれているのである。彼が南町奉行所で与力であること自体が不思議がられる始末である。

 作者はこの主人公を、中背の小太り、眉毛が太く、目が大きいが、いつも垂れ下がったような半眼気味の、要するに「冴えない中年」として設定している。彼には、おっとりとした美人の妻「桂」がいて、遊び呆けている十七歳の息子の「新一郎」と、美貌だが勝気で剣術の稽古ばかりしている十五歳になる娘の「美耶」がいる。

 この「うつけ与力」と呼ばれる栗原平之助が「うつけ」の日々を送るようになった事情を、本書は、若い頃の彼があまりに才気活発で、どんな事件にも首を突っ込んで解決の糸口を見出していったために、次第に他の与力たちから疎ましく思われるようになり、そのことを察知して、ある日から突然「うつけ」を装うようになり、ついにはそれが習い性となってしまったと語る。図抜けた才能の持ち主が、自分の才能を無意識に発揮してしまうと周囲から疎まれ、やがて嫌われて阻害されていくことはよくあることであり、特に、凡庸な時代ではそうで、作者がこの物語を、世相が表面の太平に溺れていた文政の頃に置いているので、この状況はよくわかるような気がする。

 しかし、この「うつけ与力」の下に、若くて情熱的な青年の同心が配属されることになる。この青年同心は、元は「定町廻り」という同心の中でも花形と言われる役職についていたのだが、幕政につながる同僚の同心のあまりのひどさを告発したのがもとで、同心の初心者がなる番方若同心に格下げされ、しかも「うつけ」と呼ばれる栗原平之助の下につくという閑職に追いやられた青年である。名を矢車京太郎という(彼は重要な脇役となっていくので、この命名はもう少し凝ってもいいような気もするが)。

 正義感が強く、純真で、いつかは定町廻り同心に返り咲きたいと思っている矢車京太郎は、「うつけ」と呼ばれる栗原平之助の無聊を囲ったような日々にとまどうが、次第に彼に惹かれ始め、彼の姿から大事なことを学んでいくようになるのである。

 きっかけは、「疾風の権蔵一味」と呼ばれていた盗賊の一味が、再び江戸で押し込み強盗を始め、何の手がかりもないままに奉行所全体が右往左往し始めたことによる。奉行の筒井和泉守が、どうも奉行所内に「疾風の権蔵一味」と繋がって捜査状況を内通している者がいるようなので、栗原平之助に内偵することを依頼するのである。筒井和泉守は、前奉行からの申送りとして、困ったことが起こったら、「うつけ」を装っているがもともと優れていた栗原平之助を使うように話が通じていた。奉行だけが、彼が「
うつけ」を装っていることを知っているのである。

 平之助は矢車京太郎を使って内通者を探り出す。そして、幼馴染の女のために金を必要とし、「疾風の権蔵」に罠にハメられた内通者を探し出し、「疾風の権蔵一味」を一網打尽にしていくのである。だが、内通した同心は「疾風の権蔵一味」の凄腕の浪人から殺されてしまい、内通者の幼馴染の女も、元同心であっら女の父親が奉行所の失態を引受させられて死に追いやられたことを恨みに思って、始めから内通者を騙していたのである。彼女は「疾風の権蔵」の女となり、恨みを晴らそうとしたのである。栗原平之助は、女はどうせ獄門になるから、内通者の家族を守るために、女に自害を勧め、一切を内密にして、手柄もほかの与力や同心に譲り、この事件を処理していくのである(第一話「さんぼく与力」)。

 そして、この事件によって、未熟だが正義感が強い矢車京之介によって煽られた形で、「うつけ」を装っていた栗原平之助の魂に火がついていく。

 第二話「青い空」は、町人の幼児の拐かし事件の裏に武家の後継をめぐる問題があることを見抜いていく出来事であり、第三話「光仙寺事件」は、寺の僧と武家の妻たちのとの不義を描いた枕絵が出回り、多くの武家の妻女と不義を働いていた僧が殺された事件の真相をつかんでいく話で、奉行所内の同心の妻女も絡んでいたこともあり、これを隠密裏に処理していく話である。

 そして、第四話「息子の災厄」は、栗原平之助の息子の新一郎が溺れてしまった女が何者かに連れ去られ、それを追いかける新一郎が行くへ不明になったことから、栗原平之助が父親として、息子の将来を案じて、その事件に関わっていくという話である。

 物語の設定や展開は、昨今の多くの書下ろし時代小説によく見られるものではあるが、主人公やその家族、あるいは周辺の人物の設定などで、こういう設定が面白くない訳はなく、気楽に面白く読めるし、「うつけ」と言われながらも才能を発揮し、しかも、人間を守るためにすべてを内密に処理していく主人公と、彼の下についた若い同心の成長、勝気な主人公の娘との恋や遊ぼ呆けていた主人公の息子の成長、そういうものが織り込まれながら、今後が展開されていくのだろうと思う。

 事柄よりも人間を大事にしていく、そういう一本の線があるので、読後感も爽やかさがあって、気楽に面白く読めた一冊だった。

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