昨日も日本海側での雪の模様がニュースで伝えられていた。ここは乾燥した碧空が広がっている。だが、寒い。日中は陽の光に温かみを感じたりもするが、朝晩の冷え込みは激しい.冷え性もあるのか、足下にいつも冷たさを感じている。
昨夕は先日発表した『彷徨える実存-F.カフカ-』の合評もあって、気の置けない友人たちと池袋で夕食を共にした。「キンキの開き」というのを美味しくいただいたりした。ただ、こういう食事は楽しいものだが、帰りに、あまりの寒さもあるのだろうが、頸椎を痛めていることもあって首から肩にかけて痛みを覚え、地下鉄のベンチに座ったり、途中で降りて休んだりして何台も電車を見送って、ようやく少し空いた電車に乗って帰ってきた。電車はたいてい満員である。だから、帰宅が深夜になってしまった。熱いシャワーを浴びると痛みも治まってきたのだが、冬の夜に出かけるのはなかなか気苦労がいる。
それからしばらく、出久根達郎『波のり舟の-佃島渡波風秘帖』(1996年 文藝春秋社)を結構おもしろく読んだ。
これは隅田川河口の佃島と対岸の舩松町(ふなまつちょう-現:中央区湊町)を結ぶ渡し舟の渡し守「正太」を巡る物語で、正直で気のいい正太が、彼が操る舟で出会う人々によって利用されたり、だまされたりするが、たいして気にも留めることなく日々を過ごしていく姿を、例によっておもしろく描き出したものである。
佃島は現在の佃煮の発祥の地(大阪の佃島という説もある)でもあり、1646年に住吉神社が建立され、1790年に隣の石川島に長谷川平蔵が人足寄せ場(犯罪者の更生施設)を作ったりして、渡し舟の利用者は結構多く、葛飾北斎の「富嶽三十六景色」にも描かれている。現在の佃島は橋が架けられ高層マンションが樹立するところでもある。
毎日同じところを渡し舟で往復するだけの正太の毎日には大きな変化はない。ある時は、住吉神社に験を担いで赤土を奉納して白砂を持ち帰る砂糖問屋の盗っ人事件に関係したり(第一話「徒恋初空音佃島-たにんのはじまりねっからうそをつくだじま」)、舟を利用する舩松町川の鯉を飼うという奇妙な性癖の女性と出会ったり(第二話)、石川島の人足寄せ場に入れられている囚人の脱走を女にだまされたり(第三話)、住吉神社に貼る千社札を利用した抜け荷(密貿易)に絡む出来事が起こったり(第四話)、葬式の時に蒔く紙銭を使って狂言を仕掛ける太鼓持ちが乗り合わせてきたり(第五話)、ゲテモノ食いの商家の娘が家出してきたり(第六話)、乗り合わせた蔭間(男娼)がいたり(第七話)するが、それらは一陣の風のように正太の生活に吹きつけるだけで、正太の日常に変わりはない。
そして、彼は幼なじみで男のような口をきく口やかましい娘と結婚し、生活をはじめるところで作品が終わる。ここには、正直で小心ではあるが、多くを望まず、ただ淡々と自分の生活を営むひとりの男の姿がある。彼に吹きつける一陣の風は、奇想天外といえば奇想天外だが、滑稽な人間の姿であり、気のいい正太はそこでだまされたりもするが、だからといって彼がそれに拘泥するということもない。
渡し場の渡し守として一生を送る江戸の庶民というのは、多くはそうだったのではないかと思わせるものが、ここにある。いろいろなことがあっても、気楽に生きるということはこういうことなのだろうと思ったりもする。そして、こういう「気楽さ」は、結構大事なことに違いないと思う。「Take it easy」は人生を喜んで生きていく秘訣なのだから。
2011年1月18日火曜日
2011年1月16日日曜日
山本一力『いかだ満月』
甚だしく寒い。毎年、大学の共通一次試験のころは本当に天気が荒れる。一昨日は北海道で零下28度以下にまで下がったところがあるとニュースで伝えられていた。冷え切った状態が続いている。
だが、山本一力『いかだ満月』(2008年 角川春樹事務所)を読み終えて、初めは作者得意の深川木場ものの「男気」を単純に描いたものかと思っていたが、読み進むうちに、これはなかなか味のある作品だという思いをもつことができた。
物語は、読み本や歌舞伎などで義賊として伝説のある鼠小僧次郎吉(1797-1832年)が1832年に捕縛され、市中引き回しの獄門として処刑された後、次郎吉が隠れ蓑として使っていた材木商と彼の妻と子を引き受けた友人の祥吉が、材木商としての大商いをやり遂げていく話で、次郎吉の妻「おきち」の姿やその子「太次郎」の成長、深川の木場の川並(木場の材木を扱う職人)の「男だて」ときっぷのよさ、商人としての見切りの良さなどが盛り込まれており、江戸から紀州の新宮(和歌山県新宮市)までの船旅や船に同席した水戸藩士たちの侍としての矜持なども描き出され、物語の幅を広げるものとなっている。
歴史的には、天保3年(1832年)に大泥棒として処刑された鼠小僧次郎吉の姿には不明なところが多く、その家族についての詳細などは不明だが、作者は、残された友人や家族を、商才も思い切りもよい人間や思いやりの深い女性、きちんとしつけられた機転の利く健気な子どもとして描き出している。
それを、次郎吉の友人であった祥吉が、材木商として6000両ほどにもなる大商いをやり遂げるために紀州の新宮まで大量の杉材を買いつけに行くまでの顛末や船旅、新宮での買いつけの顛末と、それに同行することになった深川木場の川並の若い頭の男気やきちんとけじめをつけていく姿を通して描くのである。
ただ、思うに、物語の中心は一人の材木商が大商いをやり遂げていく姿と、木場の川並の男気を描き出すところにあり、材木商と「おきち」や子どもの「太次郎」が背負う影として、ことさら鼠小僧を持ち出す必然性が薄いような気がした。また、同じように材木の買いつけを命じられて江戸から新宮まで一緒に行くことになった水戸藩士たちが、選りすぐりの人物たちであったとは言え、「出来すぎている」気がしないでもない。侍たちの立ち居振る舞いには達人の趣さえある。
作者の作品には成功物語が多く、もちろんそれはそれでいいし、成功には物事を切り開く才覚と知恵が必要だし、時には大胆さも必要だが、そこで描かれる人間が男としても女としても、周囲から受け入れられる理想的な姿として、あまりにも理想的すぎる傾向があるような気がするのである。作者の作品を読む度にそれを少し感じたりする。
とはいえ、物語としては大変おもしろく、状況の設定も明快で、文章もそういうリズムをもっているから、一気に読み進む魅力もある。成功物語としての独自の空気をもった作家の作品だと思う。
だが、山本一力『いかだ満月』(2008年 角川春樹事務所)を読み終えて、初めは作者得意の深川木場ものの「男気」を単純に描いたものかと思っていたが、読み進むうちに、これはなかなか味のある作品だという思いをもつことができた。
物語は、読み本や歌舞伎などで義賊として伝説のある鼠小僧次郎吉(1797-1832年)が1832年に捕縛され、市中引き回しの獄門として処刑された後、次郎吉が隠れ蓑として使っていた材木商と彼の妻と子を引き受けた友人の祥吉が、材木商としての大商いをやり遂げていく話で、次郎吉の妻「おきち」の姿やその子「太次郎」の成長、深川の木場の川並(木場の材木を扱う職人)の「男だて」ときっぷのよさ、商人としての見切りの良さなどが盛り込まれており、江戸から紀州の新宮(和歌山県新宮市)までの船旅や船に同席した水戸藩士たちの侍としての矜持なども描き出され、物語の幅を広げるものとなっている。
歴史的には、天保3年(1832年)に大泥棒として処刑された鼠小僧次郎吉の姿には不明なところが多く、その家族についての詳細などは不明だが、作者は、残された友人や家族を、商才も思い切りもよい人間や思いやりの深い女性、きちんとしつけられた機転の利く健気な子どもとして描き出している。
それを、次郎吉の友人であった祥吉が、材木商として6000両ほどにもなる大商いをやり遂げるために紀州の新宮まで大量の杉材を買いつけに行くまでの顛末や船旅、新宮での買いつけの顛末と、それに同行することになった深川木場の川並の若い頭の男気やきちんとけじめをつけていく姿を通して描くのである。
ただ、思うに、物語の中心は一人の材木商が大商いをやり遂げていく姿と、木場の川並の男気を描き出すところにあり、材木商と「おきち」や子どもの「太次郎」が背負う影として、ことさら鼠小僧を持ち出す必然性が薄いような気がした。また、同じように材木の買いつけを命じられて江戸から新宮まで一緒に行くことになった水戸藩士たちが、選りすぐりの人物たちであったとは言え、「出来すぎている」気がしないでもない。侍たちの立ち居振る舞いには達人の趣さえある。
作者の作品には成功物語が多く、もちろんそれはそれでいいし、成功には物事を切り開く才覚と知恵が必要だし、時には大胆さも必要だが、そこで描かれる人間が男としても女としても、周囲から受け入れられる理想的な姿として、あまりにも理想的すぎる傾向があるような気がするのである。作者の作品を読む度にそれを少し感じたりする。
とはいえ、物語としては大変おもしろく、状況の設定も明快で、文章もそういうリズムをもっているから、一気に読み進む魅力もある。成功物語としての独自の空気をもった作家の作品だと思う。
2011年1月14日金曜日
澤田ふじ子『比丘尼茶碗 公事宿事件書留帳』
北東の空に雲がたなびいている。晴れてはいるが寒い日々が続いて、昨年の夏がひときわ暑かっただけに寒さが厳しい。だが、身を律するのにちょうどいいのかも知れない。
昨夜遅く、澤田ふじ子『比丘尼茶碗 公事宿事件書留帳』(2006年 幻冬舎)を読み終えた。これは前に読んだ『世間の辻』よりも2作前のシリーズ12作目の作品だが、あまり深刻にならずに気楽に読める一作だった。
主人公の田村菊太郎は、京都東町奉行所同心組頭の長男として生まれたが、妾腹のために弟の銕蔵に家督を譲って、二条城近くの公事宿「鯉屋」に居候をしながら、公事宿に持ち込まれる事件を解決したりしている。本書に、この公事宿の先代の宗琳(元の名を武市)が菊太郎の父親の田村次右衛門の手下であり、その才能を見込んで次右衛門が公事宿を買い与えたという経緯が短く記されており、居候の身ながら、なるほど公事宿でのんびり世渡りができる境遇にあることがわかった(101ページ)。もちろんそれは、菊太郎の人柄や才能に負うところが大きい世渡りではあるが。
公事宿は主に民事訴訟を取り扱うから、本書に収録されている「お婆の斧」、「吉凶の餅」、「比丘尼茶碗」、「馬盗人」、「大黒さまが飛んだ」、「鬼婆」の六編は、いずれも大きな事件というよりは、人の心情や欲に絡んだ市井の出来事を記したもので、この中の「比丘尼茶碗」だけがある藩の跡継ぎを巡る内紛に絡んだ事件で、ここで中心になって描かれるのが菊太郎の父親の次右衛門と「鯉屋」の先代「宗琳」となっている。
だが、人の嫉妬や妬み、欲に絡んだ事件とはいえ、事件の複雑さはないし、その解決もきれいすぎるほどあっさりしている。そうした事件の顛末よりも、むしろ、主人公の田村菊太郎と公事宿「鯉屋」の奉公人たちの京風ののんびりした上方漫才のような掛け合いの面白さがあり、そうした雰囲気が全編の軽妙さになっているところが特質となっているように思われる。
作者は多作で、歴史的考証はいうまでもなく、構成もしっかりした作品であるが、あえて、2点ほど気になることがあった。
一つは、物語に登場する地名や古刹、社会風潮や仕組みについての歴史文書の検証がかなりたくさん出てきて、もちろん、「正しく知る」ということでは意味のあることだが、少し煩わしい気がしたことである。いわば、脚注の多い作品に仕上がっているように思われてならなかった。
もう一つは、主人公の田村菊太郎は、若いにもかかわらず書画などにも目が肥えており、「宗鷗(そうおう)」と号して俳句を詠むが、その俳句が年輪を重ねなければ詠めない俳句のように思われることである。
たとえば「あと幾度 桜見て去ぬ この世をば」(49ページ)や「送り火や 昨年見し夫の 盂蘭盆会」(193ページ)といった句は、人生の老年期にならなければ出てこないように思われ、どことなく主人公にそぐわないような気がするのである。作者が60歳の時の作品であるのでその句の心境が分かるような気もするが、主人公の田村菊太郎は「若旦那」と呼ばれる青年武士で、こうした心境には遠いところにいるのではないだろうか。
ともあれ、あまり肩の凝らない作品であることは間違いない。人の描き方が柔らかい。
昨夜遅く、澤田ふじ子『比丘尼茶碗 公事宿事件書留帳』(2006年 幻冬舎)を読み終えた。これは前に読んだ『世間の辻』よりも2作前のシリーズ12作目の作品だが、あまり深刻にならずに気楽に読める一作だった。
主人公の田村菊太郎は、京都東町奉行所同心組頭の長男として生まれたが、妾腹のために弟の銕蔵に家督を譲って、二条城近くの公事宿「鯉屋」に居候をしながら、公事宿に持ち込まれる事件を解決したりしている。本書に、この公事宿の先代の宗琳(元の名を武市)が菊太郎の父親の田村次右衛門の手下であり、その才能を見込んで次右衛門が公事宿を買い与えたという経緯が短く記されており、居候の身ながら、なるほど公事宿でのんびり世渡りができる境遇にあることがわかった(101ページ)。もちろんそれは、菊太郎の人柄や才能に負うところが大きい世渡りではあるが。
公事宿は主に民事訴訟を取り扱うから、本書に収録されている「お婆の斧」、「吉凶の餅」、「比丘尼茶碗」、「馬盗人」、「大黒さまが飛んだ」、「鬼婆」の六編は、いずれも大きな事件というよりは、人の心情や欲に絡んだ市井の出来事を記したもので、この中の「比丘尼茶碗」だけがある藩の跡継ぎを巡る内紛に絡んだ事件で、ここで中心になって描かれるのが菊太郎の父親の次右衛門と「鯉屋」の先代「宗琳」となっている。
だが、人の嫉妬や妬み、欲に絡んだ事件とはいえ、事件の複雑さはないし、その解決もきれいすぎるほどあっさりしている。そうした事件の顛末よりも、むしろ、主人公の田村菊太郎と公事宿「鯉屋」の奉公人たちの京風ののんびりした上方漫才のような掛け合いの面白さがあり、そうした雰囲気が全編の軽妙さになっているところが特質となっているように思われる。
作者は多作で、歴史的考証はいうまでもなく、構成もしっかりした作品であるが、あえて、2点ほど気になることがあった。
一つは、物語に登場する地名や古刹、社会風潮や仕組みについての歴史文書の検証がかなりたくさん出てきて、もちろん、「正しく知る」ということでは意味のあることだが、少し煩わしい気がしたことである。いわば、脚注の多い作品に仕上がっているように思われてならなかった。
もう一つは、主人公の田村菊太郎は、若いにもかかわらず書画などにも目が肥えており、「宗鷗(そうおう)」と号して俳句を詠むが、その俳句が年輪を重ねなければ詠めない俳句のように思われることである。
たとえば「あと幾度 桜見て去ぬ この世をば」(49ページ)や「送り火や 昨年見し夫の 盂蘭盆会」(193ページ)といった句は、人生の老年期にならなければ出てこないように思われ、どことなく主人公にそぐわないような気がするのである。作者が60歳の時の作品であるのでその句の心境が分かるような気もするが、主人公の田村菊太郎は「若旦那」と呼ばれる青年武士で、こうした心境には遠いところにいるのではないだろうか。
ともあれ、あまり肩の凝らない作品であることは間違いない。人の描き方が柔らかい。
2011年1月11日火曜日
千野隆司『追跡者』
ことさら寒い日々が続いている。朝のうち晴れ間も見えていたが、今は薄雲が広がって空気が凍てついている。昨日は成人式で、振り袖を着た華やぐ女の子たちを見かけたが、若いころは少し渋めの着物の方がいい、などと勝手なことを思いながら、この国が「成人の日」を定めた時は、まだ、青年に希望を託すことができた時代だったのかも知れないと思ったりもした。この国から希望が失われてどのくらい経つだろうか。
かつてE.ブロッホが『希望の原理』を著して、希望の哲学を打ち立てようとしたが、いつの間にか、希望は「お金」にすり替えられてしまったような気もする。あるいは、「あきらめない」という否定形でしか表されなくなったような気もする。希望は、人が抱くことができる思いのうち、もっとも大切なもののひとつで、たとえそれが幻想に過ぎないものであったとしても、希望なしに人は前に進むことができないし、希望と救いは表裏一体なのだから、それぞれがそれぞれの希望を抱けるようになれればいいと思ったりもする。
それはともかく、昨日は家事に精を出しながら、千野隆司『追跡』(2005年 講談社)を読み進めた。父親を殺されたと思い込んで、恨みを抱き続けた青年の話で、「たった一つの誤解が、癒しようのない傷を作ってしまうことがある。人が、関わりあって生きていくことは難しい。そして一度芽生えてしまった不信の中で、それでも人を許し、認めて行くことは、さらに難しいことだ」(211ページ)という重いテーマが続き、最後に、節穴から差し込んでくる朝日のように救いが訪れる話である。
主人公の磯市の父親は、腕のいい板前であったが、一緒に料理人としての腕を磨いていた友人の菊右衛門(最初の名前は乙蔵)とつまらない賭けをして橋の欄干から落ちて死んでしまう。息子の磯市は、父親が菊右衛門に殺されたと思い込み、父親が亡くなったあと自分の母親に救いの手を差し伸べていた菊右衛門と母親との間も疑うようになる。
彼は、父親の後を継いで料理人としての修行をしていたが、菊右衛門と自分の母親との仲を噂する同僚を刺して、店を首になり、高利貸しの手先に身を落としてしまう。いつか、自分から父親と母親を奪った菊右衛門に復讐をすることだけが、彼の悲願となり、高利貸しの手先として手ひどいことも平気でするようになっていく。
誤解に基づいて不信感に凝り固まった男の心情と行動が、哀れなくらいに面々と描き出されて、愚かに転落していく姿が綴られる。
磯市を手先として使っている高利貸しも、火事で焼け出されて料理屋を失った男の妾腹の子で、いつかその料理屋を再興したいと思って手ひどいことを平気でして金を作っていた男であったが、その料理屋の後に建てられた菊右衛門の料理屋が一流の料理屋としてびくともしないことで、菊右衛門を殺してそれを奪おうと企んでいたのである。磯市は、その男の思惑どおりに菊右衛門の命を狙う者となる。
磯市の妹と母親、そして磯市に思いを寄せていた菊右衛門の娘、菊右衛門自身などの磯市への配慮も思いも空振りに終わり、磯市は、ひとり恨みを深めていくのである。高利貸しの手先として追い出したが他の高利貸しから身売りされるようになったのを助けた女との関係、それを利用して菊右衛門殺しを命じる高利貸しの姿、そうした糸車から最後の土壇場が紡ぎ出されていく。
そして、菊右衛門を殺そうとする土壇場で、「守られるはずの男に襲われ、襲われると信じた男に守られ」(267ページ)、まるですべての憑き物が落ちていくように、磯市の中のどろどろしたものが消えていく。
磯市は八丈島送りになるが、その最後の場面で、「角次郎(磯市の父親)は、この永代橋で死んだ。だが自分は今、この永代橋で生き返った。磯市は遙かに離れた見送りの人たちを見ながら、そう思った」(270ページ)と締めくくられる。
この作品は、誤解に基づいて不信感を募らせていくひとりの男の救いがたい姿を描き、最後まで救いがないが、それだけに最後の救いが光彩を放つものになっている。
作者は、他の作品でもそうだが、丁寧で綿密な展開をする。この作品でも、救いがたい男の心情と行動を丁寧に描き出す。そして、この作品では特に、最後に救いをぽつんと落とす。こういう構成は、粘りのあるじっくりとした思考でないと生まれてこない。文章も、心象が情景描写になるような巧みさがあって、登場人物が生きてくる。この作品は、そういう意味でなかなか味のある作品だった。
そろそろ山積みしてきている仕事に精を出さなければならなくなってきた。少なくとも今日中にはいくつかのことを片づけなければ、また後が詰まってくる。高橋是清は「元気を出せば、何でもできる」と言ったが、元気を絞りだそう。それにしても寒い。
かつてE.ブロッホが『希望の原理』を著して、希望の哲学を打ち立てようとしたが、いつの間にか、希望は「お金」にすり替えられてしまったような気もする。あるいは、「あきらめない」という否定形でしか表されなくなったような気もする。希望は、人が抱くことができる思いのうち、もっとも大切なもののひとつで、たとえそれが幻想に過ぎないものであったとしても、希望なしに人は前に進むことができないし、希望と救いは表裏一体なのだから、それぞれがそれぞれの希望を抱けるようになれればいいと思ったりもする。
それはともかく、昨日は家事に精を出しながら、千野隆司『追跡』(2005年 講談社)を読み進めた。父親を殺されたと思い込んで、恨みを抱き続けた青年の話で、「たった一つの誤解が、癒しようのない傷を作ってしまうことがある。人が、関わりあって生きていくことは難しい。そして一度芽生えてしまった不信の中で、それでも人を許し、認めて行くことは、さらに難しいことだ」(211ページ)という重いテーマが続き、最後に、節穴から差し込んでくる朝日のように救いが訪れる話である。
主人公の磯市の父親は、腕のいい板前であったが、一緒に料理人としての腕を磨いていた友人の菊右衛門(最初の名前は乙蔵)とつまらない賭けをして橋の欄干から落ちて死んでしまう。息子の磯市は、父親が菊右衛門に殺されたと思い込み、父親が亡くなったあと自分の母親に救いの手を差し伸べていた菊右衛門と母親との間も疑うようになる。
彼は、父親の後を継いで料理人としての修行をしていたが、菊右衛門と自分の母親との仲を噂する同僚を刺して、店を首になり、高利貸しの手先に身を落としてしまう。いつか、自分から父親と母親を奪った菊右衛門に復讐をすることだけが、彼の悲願となり、高利貸しの手先として手ひどいことも平気でするようになっていく。
誤解に基づいて不信感に凝り固まった男の心情と行動が、哀れなくらいに面々と描き出されて、愚かに転落していく姿が綴られる。
磯市を手先として使っている高利貸しも、火事で焼け出されて料理屋を失った男の妾腹の子で、いつかその料理屋を再興したいと思って手ひどいことを平気でして金を作っていた男であったが、その料理屋の後に建てられた菊右衛門の料理屋が一流の料理屋としてびくともしないことで、菊右衛門を殺してそれを奪おうと企んでいたのである。磯市は、その男の思惑どおりに菊右衛門の命を狙う者となる。
磯市の妹と母親、そして磯市に思いを寄せていた菊右衛門の娘、菊右衛門自身などの磯市への配慮も思いも空振りに終わり、磯市は、ひとり恨みを深めていくのである。高利貸しの手先として追い出したが他の高利貸しから身売りされるようになったのを助けた女との関係、それを利用して菊右衛門殺しを命じる高利貸しの姿、そうした糸車から最後の土壇場が紡ぎ出されていく。
そして、菊右衛門を殺そうとする土壇場で、「守られるはずの男に襲われ、襲われると信じた男に守られ」(267ページ)、まるですべての憑き物が落ちていくように、磯市の中のどろどろしたものが消えていく。
磯市は八丈島送りになるが、その最後の場面で、「角次郎(磯市の父親)は、この永代橋で死んだ。だが自分は今、この永代橋で生き返った。磯市は遙かに離れた見送りの人たちを見ながら、そう思った」(270ページ)と締めくくられる。
この作品は、誤解に基づいて不信感を募らせていくひとりの男の救いがたい姿を描き、最後まで救いがないが、それだけに最後の救いが光彩を放つものになっている。
作者は、他の作品でもそうだが、丁寧で綿密な展開をする。この作品でも、救いがたい男の心情と行動を丁寧に描き出す。そして、この作品では特に、最後に救いをぽつんと落とす。こういう構成は、粘りのあるじっくりとした思考でないと生まれてこない。文章も、心象が情景描写になるような巧みさがあって、登場人物が生きてくる。この作品は、そういう意味でなかなか味のある作品だった。
そろそろ山積みしてきている仕事に精を出さなければならなくなってきた。少なくとも今日中にはいくつかのことを片づけなければ、また後が詰まってくる。高橋是清は「元気を出せば、何でもできる」と言ったが、元気を絞りだそう。それにしても寒い。
2011年1月8日土曜日
坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り』
二十四節季で言えば、今は「小寒」と呼ばれる季節だが、大寒を思わせるような凍てつく寒さの日々が続いていた。今日は、気温は低いが、風もなく、陽の光が有り難く感じられる。しかし、北の方はまた大雪だそうだ。以前札幌に住んでいた時、移り住んだ最初の年は降り続く雪のあまりの美しさに感動して一晩中降り積もっていく雪を眺めていたが、2年、3年と経つうちに「また雪か」と、その後の雪かきの大変さを思ってうんざりしたことを思い起こす。それから寒さには何とも言えないようなやりきれなさを感じるようになった。もっとも、札幌から転居してからも冬は毎年スキーに行っていた。この十年ほどは、それとも無縁になってきてはいるが。
3日連続で抜けられない会議が都内であって、早朝の満員電車に揺られながら、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り』(2005年 徳間文庫)を面白く読んだ。これは前に読んだシリーズの2作品が、文庫書下しではあるが、比較的丁寧に構成され、主人公を初めとする登場人物にも味わい深いものがあったので、できるなら読んでいこうと思っていたら、たまたま図書館にこのシリーズの1作目があったので、電車内で読むにはいいだろうと思って借りてきた次第である。
やはり、さすがにシリーズの第1作目だけあって人物描写も情景描写も丁寧で、主人公の視点と視線に合わせて展開される物語の展開にも面白味があり、味わい深いものになっていると感じた。
このシリーズの第2弾の『十手裁き』の方では、「うぽっぽ(役立たずの暢気者)」と綽名されている南町奉行所臨時廻り同心の長尾勘兵衛は56歳という年齢だが、このシリーズの第1作目である本書では52歳と設定されている。
彼は歩くことしか能がない「うぽっぽ」と同僚からは馬鹿にされているが、出世や金にも欲はなく、情に厚く、罪を犯した者でも情にほだされれば救っていき、彼に救われた者からは親しみと敬愛をこめて「うぽっぽの旦那」と呼ばれている。その彼の姿が、本書ではいかんなく描き出されている。「わかる者しかわからない。それでいい」という姿勢が一貫して貫かれているところが、何とも言えない味わいのあるものになっている。
「路傍に咲く薊のように、つつましく密やかに、それでいてしっかり大地に根を張った生き方がしたい、そんなふうに、勘兵衛はいつも望んでいた。
『夕餉が楽しみだな』
西の空を仰げば筋雲が茜に染まっている」(12ページ)
という短い一文は、情景の描写がそんな主人公の姿をよく表すものになっているように思われる。
人の思いを大切にし、救われた者にしか彼の良さが理解できないという主人公を理解し、支える者としての岡っ引きの銀次、「薊の隠居」として正体を隠して登場する南町奉行の根岸肥前守とその内与力(奉行所に所属するのではなく、奉行の家臣として奉行の意を受けて与力として働く者)で吟味方与力の門倉角左衛門、そして、ひとり娘の綾乃、主人公の家の一部を借りて金瘡医(外科医)をしている豪放磊落な井上仁徳、若い定町廻り同心の末吉鯉四郎、主人公が思いを寄せている料理屋の女将である「おふう」などが物語の彩をなしていく。それぞれの登場人物もしっかり特徴的に登場するし、主人公との兼ね合いも物語の重要な要素となっている。
本作品には、「いれぼくろ」、「ゆうかげ草」、「霧しぐれ」、「かごぬけ鳥」の四話が収められているが、それぞれに丁寧に物語が展開されている。
第一話「いれぼくろ」は、勘定奉行の息子が犯した暴行事件を隠蔽するために、その事件に関係する者たちが次々と殺されていくという事件が起こり、町方の同心が手を出すことができない勘定奉行に対して主人公の長尾勘兵衛が知力を尽くして事件の真相を暴いていく過程とともに、暴行を受け、両親を失い、遊女として苦界に沈まなければならなかった女性の幸せを守っていく姿が描き出されている。
第二話「ゆうかげ草」は、かつて掏摸で、長尾勘兵衛に助けられた香具師の元締めのひとり娘がある藩の藩士の争いに巻き込まれて無礼打ちに合い斬り殺される事件が起こった事を発端とする物語で、娘を斬り殺した藩士の藩の圧力で奉行所の探索は止められたが、長尾勘兵衛が上役の圧力の中で犯人の探索を続けていく顛末を描いたものである。ひとり娘を失って絶望し仇討ちを行おうとする香具師の元締めに、上役からの圧力をどこ吹く風と受け流して、勘兵衛は救いの手をさしのべる。
第三話「霧しぐれ」は、神田上水の関口にある胸突坂(むなつきざか)で男が変死を遂げ、続いて同僚の臨時廻り同心が殺された事件から、老いて恋をし楽隠居を計った同僚の心情を忍びつつも、事件の黒幕である強盗団を暴いていく話である。ここでは、普段は「うぽっぽ」の腰抜けと思われていた勘兵衛が、彼を侮る強盗団に見事な武術で立ち向かう姿が描かれ、長尾勘兵衛の隠されていたすごさが表れると同時に、強盗団の首領の妻として生きてきた女への憐れみが、静かに自死を選ぶ女性を見守る姿で描かれる。
第四話「かごぬけ鳥」は、男にだまされて京都の島原(遊郭)から足抜け(逃げ出すこと)してきた少女を追っ手から守っていく姿が描かれ、少女の健気さと勘兵衛の温かさが全編を貫いている。地回りと結託して少女を捕らえようとする京都からの追っ手と勘兵衛との駆け引き、「堪忍袋の緒が切れそうだぜ」と言って横柄な地回りの強欲を断ち切る凄みを見せる勘兵衛の姿、そこに何が何でも少女を守ろうとする思いが表れているし、その健気な少女「おこま」が自分を助けてくれた片目片腕の墓守である雁次郎と所帯を持っていけるように気働きをする姿など、「うぽっぽ同心」の真骨頂を表す物語となっている。
情景描写も、江戸市中を歩きまわる町奉行所臨時廻りという仕事柄で、主人公の移動に合わせて情景が描写されるので、その動きがよく分かるように描かれている。そういう描き方は、江戸古地図が頭に入っていないとできないのだから、しっかり描き出されて、意外の綿密さが伺われる。
どこか疲れを覚えた時ややり切れなさを抱えた時に読むと、いっそう爽快になるような作品だと思った。
3日連続で抜けられない会議が都内であって、早朝の満員電車に揺られながら、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り』(2005年 徳間文庫)を面白く読んだ。これは前に読んだシリーズの2作品が、文庫書下しではあるが、比較的丁寧に構成され、主人公を初めとする登場人物にも味わい深いものがあったので、できるなら読んでいこうと思っていたら、たまたま図書館にこのシリーズの1作目があったので、電車内で読むにはいいだろうと思って借りてきた次第である。
やはり、さすがにシリーズの第1作目だけあって人物描写も情景描写も丁寧で、主人公の視点と視線に合わせて展開される物語の展開にも面白味があり、味わい深いものになっていると感じた。
このシリーズの第2弾の『十手裁き』の方では、「うぽっぽ(役立たずの暢気者)」と綽名されている南町奉行所臨時廻り同心の長尾勘兵衛は56歳という年齢だが、このシリーズの第1作目である本書では52歳と設定されている。
彼は歩くことしか能がない「うぽっぽ」と同僚からは馬鹿にされているが、出世や金にも欲はなく、情に厚く、罪を犯した者でも情にほだされれば救っていき、彼に救われた者からは親しみと敬愛をこめて「うぽっぽの旦那」と呼ばれている。その彼の姿が、本書ではいかんなく描き出されている。「わかる者しかわからない。それでいい」という姿勢が一貫して貫かれているところが、何とも言えない味わいのあるものになっている。
「路傍に咲く薊のように、つつましく密やかに、それでいてしっかり大地に根を張った生き方がしたい、そんなふうに、勘兵衛はいつも望んでいた。
『夕餉が楽しみだな』
西の空を仰げば筋雲が茜に染まっている」(12ページ)
という短い一文は、情景の描写がそんな主人公の姿をよく表すものになっているように思われる。
人の思いを大切にし、救われた者にしか彼の良さが理解できないという主人公を理解し、支える者としての岡っ引きの銀次、「薊の隠居」として正体を隠して登場する南町奉行の根岸肥前守とその内与力(奉行所に所属するのではなく、奉行の家臣として奉行の意を受けて与力として働く者)で吟味方与力の門倉角左衛門、そして、ひとり娘の綾乃、主人公の家の一部を借りて金瘡医(外科医)をしている豪放磊落な井上仁徳、若い定町廻り同心の末吉鯉四郎、主人公が思いを寄せている料理屋の女将である「おふう」などが物語の彩をなしていく。それぞれの登場人物もしっかり特徴的に登場するし、主人公との兼ね合いも物語の重要な要素となっている。
本作品には、「いれぼくろ」、「ゆうかげ草」、「霧しぐれ」、「かごぬけ鳥」の四話が収められているが、それぞれに丁寧に物語が展開されている。
第一話「いれぼくろ」は、勘定奉行の息子が犯した暴行事件を隠蔽するために、その事件に関係する者たちが次々と殺されていくという事件が起こり、町方の同心が手を出すことができない勘定奉行に対して主人公の長尾勘兵衛が知力を尽くして事件の真相を暴いていく過程とともに、暴行を受け、両親を失い、遊女として苦界に沈まなければならなかった女性の幸せを守っていく姿が描き出されている。
第二話「ゆうかげ草」は、かつて掏摸で、長尾勘兵衛に助けられた香具師の元締めのひとり娘がある藩の藩士の争いに巻き込まれて無礼打ちに合い斬り殺される事件が起こった事を発端とする物語で、娘を斬り殺した藩士の藩の圧力で奉行所の探索は止められたが、長尾勘兵衛が上役の圧力の中で犯人の探索を続けていく顛末を描いたものである。ひとり娘を失って絶望し仇討ちを行おうとする香具師の元締めに、上役からの圧力をどこ吹く風と受け流して、勘兵衛は救いの手をさしのべる。
第三話「霧しぐれ」は、神田上水の関口にある胸突坂(むなつきざか)で男が変死を遂げ、続いて同僚の臨時廻り同心が殺された事件から、老いて恋をし楽隠居を計った同僚の心情を忍びつつも、事件の黒幕である強盗団を暴いていく話である。ここでは、普段は「うぽっぽ」の腰抜けと思われていた勘兵衛が、彼を侮る強盗団に見事な武術で立ち向かう姿が描かれ、長尾勘兵衛の隠されていたすごさが表れると同時に、強盗団の首領の妻として生きてきた女への憐れみが、静かに自死を選ぶ女性を見守る姿で描かれる。
第四話「かごぬけ鳥」は、男にだまされて京都の島原(遊郭)から足抜け(逃げ出すこと)してきた少女を追っ手から守っていく姿が描かれ、少女の健気さと勘兵衛の温かさが全編を貫いている。地回りと結託して少女を捕らえようとする京都からの追っ手と勘兵衛との駆け引き、「堪忍袋の緒が切れそうだぜ」と言って横柄な地回りの強欲を断ち切る凄みを見せる勘兵衛の姿、そこに何が何でも少女を守ろうとする思いが表れているし、その健気な少女「おこま」が自分を助けてくれた片目片腕の墓守である雁次郎と所帯を持っていけるように気働きをする姿など、「うぽっぽ同心」の真骨頂を表す物語となっている。
情景描写も、江戸市中を歩きまわる町奉行所臨時廻りという仕事柄で、主人公の移動に合わせて情景が描写されるので、その動きがよく分かるように描かれている。そういう描き方は、江戸古地図が頭に入っていないとできないのだから、しっかり描き出されて、意外の綿密さが伺われる。
どこか疲れを覚えた時ややり切れなさを抱えた時に読むと、いっそう爽快になるような作品だと思った。
2011年1月5日水曜日
杉本章子『銀河祭りのふたり 信太郎人情始末帖』
碧空が広がっているが、気温が低く空気が冷たい。幕の内が開けて気ぜわしさが戻ってきた。たわいのない夢ばかり見て眠りが浅いのか、朝から気が抜けたようなどことない気怠さを感じている。バイオリズムが低くなっているのかも知れない。
それでも、杉本章子『銀河祭りのふたり 信太郎人情始末帖』(2008年 文藝春秋社)を爽やかな読後感をもって読み終えた。このシリーズは、第1作目の『おすず』以外に、第2作目の『水雷屯』から第6作目の『その日』まで順に読んでおり、本作はその第7作目の作品で、太物問屋の大店の主人となった主人公の信太郎の商人としてのけじめをつけていく姿と、彼が惚れて一緒になった元吉原の引き手茶屋の女将であった「おぬい」が商家の新造(妻)として奥向きを切り盛りしていく姿を織り込みながら、亡くなった父親が残した妾腹の兄との関係を修復していく姿を人情味溢れる筆致で描き出したものである。
「おぬい」を嫌い抜いて辛く当たっていた信太郎の母「おさだ」も、孫娘を間に挟みながら、「おぬい」の陰日向のない人柄で次第に「おぬい」を支えていく者となり、義姉で気の強い「おふじ」も彼女の家に奉公に出されていた「おぬい」の連れ子の「千代太」の奉公人として働く健気で真っ直ぐな人柄に触れることで「おぬい親子」に向けていた嫌悪を氷解していく。
また、本書の表題ともなっている第三話「銀河祭りのふたり」では、信太郎の友人で徒目付となっている磯貝貞五郎と芸者である「小つな」の恋の顛末が、貞五郎に思いを寄せている義姉の「千恵」の心情とともに描き出されていく。
御家人の次男であった磯貝貞五郎は兄が家督を継いだときに、家を出て、芝居小屋で笛を吹く囃子方をしていた時に芸者の「小つな」と恋仲になったが、兄が殺された後に磯貝家に戻り、徒目付として働いていた。「小つな」を妻に迎えたいと思っていたが、「小つな」が芸者であることから母親を初め周囲の反対にあっていたのである。義姉の「千恵」とは幼なじみであった。
他方、義姉の「千恵」は、貞五郎とは幼なじみで恋心を抱いていたが、彼女の姉が貞五郎の兄との結婚を前にして亡くなったために、家どうしの話し合いで、貞五郎への思いを抱いたまま彼の兄の妻となっていた。その夫が死んだ後、貞五郎の母や周囲の勧めもあり、また自分の思いを通すために貞五郎に言い寄っていくのである。
貞五郎は徒目付としての仕事に情熱を傾けて江戸城御金蔵破りの犯人の探索に精を傾けていたが、義姉の「千恵」の思いを知り、周囲を傷つけないように、「小つな」への愛を貫いて、役を引いて、侍を捨て、「小つな」の元へ行くのである。それが七夕の夜で、「銀河祭りの夜」であった。
また、信太郎の家に恨みを抱いていた妾腹の子で太物問屋を乗っ取って近づいて来ていた兄の「玄太」との関係も二人が巻き込まれた事件をきっかけに回復されていく。
商人としての義理を欠いたために筋を通す信太郎に見放されて借金を重ねて「玄太」に店を乗っ取られ、借金苦で自死した太物問屋の息子たちの逆恨みで、信太郎と玄太の両方とも監禁されて殺されかける事件が起こったのである。監禁され、二人はなんとかしてそこを脱出しようとするが、うまくいかない。そういう中で互いに思いを分かっていくのである。
二人は、信太郎に恩を感じている奉行所の同心や幼なじみで岡っ引きの手下になっている「元吉」の手によって救い出されていく。「元吉」は、本書で、彼が前に傷ついたときに助けてくれた気立てのいい娘と夫婦になる約束ができ、彼を使っていた親分の後を継いで、晴れて岡っ引きになっていく。
こうしてすべが柔らかな温かみに包まれて終わる。すべての恋はそれぞれに自分の正直な思いを貫くことで一応の形をなしていく。描かれる人物たちが理想的すぎるところがないわけではないが、商人としてのけじめをつけて生きる姿は、昨今には見られない人間としてのけじめのつけ方でもあり、武家の矜持、商人の矜持、友情や愛情の矜持ということを考えさせるものではある。何にしろ、自分の心底の思いに正直になることこそが、人の幸せの第一歩であることに違いはないのだから。
今日はあざみ野の山内図書館によって、暮れに借りてきた本を返却して新しい本を借り、それから都内の会議に出る予定である。数冊の本を抱えて電車に揺られるのは面倒な気もするが、気乗りはしないが責任のある会議が予定されているのだし、本の返却日でもあるのだから致し方ないだろう。昨日、図書館に行けばよかったのだが、それをしなかった罰のようなものだろう。しなければならない仕事も次第に山積みしてきたなあ、と思ったりもする。まあ、すべて世はこともなしで、いいか。
それでも、杉本章子『銀河祭りのふたり 信太郎人情始末帖』(2008年 文藝春秋社)を爽やかな読後感をもって読み終えた。このシリーズは、第1作目の『おすず』以外に、第2作目の『水雷屯』から第6作目の『その日』まで順に読んでおり、本作はその第7作目の作品で、太物問屋の大店の主人となった主人公の信太郎の商人としてのけじめをつけていく姿と、彼が惚れて一緒になった元吉原の引き手茶屋の女将であった「おぬい」が商家の新造(妻)として奥向きを切り盛りしていく姿を織り込みながら、亡くなった父親が残した妾腹の兄との関係を修復していく姿を人情味溢れる筆致で描き出したものである。
「おぬい」を嫌い抜いて辛く当たっていた信太郎の母「おさだ」も、孫娘を間に挟みながら、「おぬい」の陰日向のない人柄で次第に「おぬい」を支えていく者となり、義姉で気の強い「おふじ」も彼女の家に奉公に出されていた「おぬい」の連れ子の「千代太」の奉公人として働く健気で真っ直ぐな人柄に触れることで「おぬい親子」に向けていた嫌悪を氷解していく。
また、本書の表題ともなっている第三話「銀河祭りのふたり」では、信太郎の友人で徒目付となっている磯貝貞五郎と芸者である「小つな」の恋の顛末が、貞五郎に思いを寄せている義姉の「千恵」の心情とともに描き出されていく。
御家人の次男であった磯貝貞五郎は兄が家督を継いだときに、家を出て、芝居小屋で笛を吹く囃子方をしていた時に芸者の「小つな」と恋仲になったが、兄が殺された後に磯貝家に戻り、徒目付として働いていた。「小つな」を妻に迎えたいと思っていたが、「小つな」が芸者であることから母親を初め周囲の反対にあっていたのである。義姉の「千恵」とは幼なじみであった。
他方、義姉の「千恵」は、貞五郎とは幼なじみで恋心を抱いていたが、彼女の姉が貞五郎の兄との結婚を前にして亡くなったために、家どうしの話し合いで、貞五郎への思いを抱いたまま彼の兄の妻となっていた。その夫が死んだ後、貞五郎の母や周囲の勧めもあり、また自分の思いを通すために貞五郎に言い寄っていくのである。
貞五郎は徒目付としての仕事に情熱を傾けて江戸城御金蔵破りの犯人の探索に精を傾けていたが、義姉の「千恵」の思いを知り、周囲を傷つけないように、「小つな」への愛を貫いて、役を引いて、侍を捨て、「小つな」の元へ行くのである。それが七夕の夜で、「銀河祭りの夜」であった。
また、信太郎の家に恨みを抱いていた妾腹の子で太物問屋を乗っ取って近づいて来ていた兄の「玄太」との関係も二人が巻き込まれた事件をきっかけに回復されていく。
商人としての義理を欠いたために筋を通す信太郎に見放されて借金を重ねて「玄太」に店を乗っ取られ、借金苦で自死した太物問屋の息子たちの逆恨みで、信太郎と玄太の両方とも監禁されて殺されかける事件が起こったのである。監禁され、二人はなんとかしてそこを脱出しようとするが、うまくいかない。そういう中で互いに思いを分かっていくのである。
二人は、信太郎に恩を感じている奉行所の同心や幼なじみで岡っ引きの手下になっている「元吉」の手によって救い出されていく。「元吉」は、本書で、彼が前に傷ついたときに助けてくれた気立てのいい娘と夫婦になる約束ができ、彼を使っていた親分の後を継いで、晴れて岡っ引きになっていく。
こうしてすべが柔らかな温かみに包まれて終わる。すべての恋はそれぞれに自分の正直な思いを貫くことで一応の形をなしていく。描かれる人物たちが理想的すぎるところがないわけではないが、商人としてのけじめをつけて生きる姿は、昨今には見られない人間としてのけじめのつけ方でもあり、武家の矜持、商人の矜持、友情や愛情の矜持ということを考えさせるものではある。何にしろ、自分の心底の思いに正直になることこそが、人の幸せの第一歩であることに違いはないのだから。
今日はあざみ野の山内図書館によって、暮れに借りてきた本を返却して新しい本を借り、それから都内の会議に出る予定である。数冊の本を抱えて電車に揺られるのは面倒な気もするが、気乗りはしないが責任のある会議が予定されているのだし、本の返却日でもあるのだから致し方ないだろう。昨日、図書館に行けばよかったのだが、それをしなかった罰のようなものだろう。しなければならない仕事も次第に山積みしてきたなあ、と思ったりもする。まあ、すべて世はこともなしで、いいか。
2011年1月3日月曜日
築山桂『寺子屋若草物語 てのひら一文』
日本海沿岸の西日本や北陸で大雪の天気をもたらしたが、関東地方は比較的穏やかなお正月になっている。毎年、年明け早々はかなり忙しくて、「めでたくもあり、めでたくもなし」と詠んだ一休和尚の言葉を思い起こしたりする。昨年は帰天者の方も多かったので、年賀の欠礼のご挨拶を多く受け取った。
大晦日にふとテレビをつけてみると、NHKのBSで『心霊探偵 八雲』というアニメ・ドラマを一挙に放映していたので、それを見ながら築山桂『寺子屋若草物語 てのひら一文』(2008年 徳間文庫)をゆっくり読んだ。
この作者の作品は初めて読むが、1969年に京都で生まれ、福井に在住されているらしく、NHK土曜時代劇『浪速の華-緒方洪庵事件帖-』の原作者であり、大阪大学の出身者らしく小説の舞台が大阪であるのも特徴的だと思ったし、以前から、寺子屋を取り扱ったと思われた題名が気になっていて、読んで見たいと思っていた作家のひとりであった。
『寺子屋若草物語』という書名は、アメリカの作家ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcot ・1832-1888年)の小説『若草物語』を意識してつけられたもので、『若草物語』の主人公たちは四姉妹であるが、こちらは大阪で寺子屋を営む三姉妹の物語である。
医者であった父と母を流行病で亡くした「お香」、「お涼」、「お美和」の三姉妹が「三春屋」という寺子屋を営んでいた叔母に引き取られて育てられ、叔母が亡くなった後を継いで、力を合わせて寺子屋を営んでいく姿が柔らかな筆致で描かれている。特に、貧しかったり親の手伝いや奉公のためであったりして昼間に寺子屋に通えない者などが手習い(文字や計算)を学ぶために、夜に「一文稽古」という、いわば夜学のようなものを開いていて、その維持のために苦労していく姿がきちんと描き出されていく。
「昼間の稽古と違って、事情も年齢もばらばらな者が集まるため、一文稽古は何かと苦労も多い。
入門時の束脩(入学金のようなもの)ばかりではなく、季節ごとの謝金も一文稽古では取らないことにしているから、「しんどいばっかりで儲かりもせんやり」とまわりに言われることもある。
だが、三姉妹は、一文稽古がなくなれば困る者がどれだけ多いか、知っている。
三人で力を合わせ、なんとかして続けたいと思っているのだ」(15ページ)
と初めの方で記されている。だが、本書は、そうした三姉妹の日常が描き出されるだけでなく、一文稽古に通う者が巻き込まれた事件の顛末が描かれるのだが、事件の裏にある陰謀の悪質さにもかかわらず、それが特に心優しい十六歳の末娘「お美和」の視点を中心に描かれ、それだけに、どこかしみじみした柔らかさがある。
三姉妹のそれぞれの人物像も明確で、それぞれに魅力的で、長女の「お香」は寺子屋である「三春屋」の全責任をしっかり負って、聡明だが控えめで、医学の修行のために江戸に行っている恋人がいるが、姉妹のことや寺子屋に通ってくる者たちへの深い心配りをする女性である。次女の「お涼」は、姉の「お香」とは全く違って、学問好きの天才肌の才女で、大阪随一の学問所である男ばかりの懐徳堂に男に混じって通うことをゆるされ、さばさばした性格で、身なりや格好もあまり気にしない。三女の「お美和」は、実は姉たちと血が繋がっていない娘で、子どもを育てることができなくなった親が置いていった子を姉たちの両親が姉妹として育てたものだが、姉たちの愛情をいっぱい受けて、明るく心優しい娘となり、「三春屋」の家事いっさいを引き受け、寺子屋を支えているしっかり者である。
こうした三姉妹の姿は類型的でわかりやすいだけに、会話にしろ様子にしろ、きっちり描き分けられていて、それぞれが魅力ある女性になっている。
物語は、大工の倅だが学者になることを夢見て、熱心に一文稽古に通っていた達次という若者が一文稽古に来なくなるところから始まる。彼は親に頼み込んで一年間という期限つきではあるが儒学者の内弟子となって学問の励むほどの熱心な若者だった。彼には「お若」という恋人がいたが、その「お若」の話によれば、彼が内弟子をしていた儒学者が江戸への遊学に達次を連れて行くと言っていたが、突然、話を翻らされて遊学には他の者を連れて行くことになり、達次は絶望して落ち込んでいるのだという。
その話の裏には、廻船問屋の大店の金に絡む話があった。達次の代わりに行く者はその廻船問屋のどら息子だという。廻船問屋の息子は、「お涼」が通う懐徳堂に懲罰的な躾のために入れられていた。だが、厳しい躾の期間が明けたとき、酒に酔って通りがかった「お若」を襲った。そして、料理屋を営んでいた「お若」の母親は、母親自体が性悪なところがあり、廻船問屋を強請る。強請られた廻船問屋は、それ以上調べられたら困るので、「お若」の母親を毒殺するのである。廻船問屋には調べられたら困る過去があったのである。
他方、千太という子どもが一文稽古に来るようになった。母親は、「お若」の母親が営む料理屋の近くで蕎麦屋を営み、殺された母親とも親しかったし、廻船問屋にも恨みがあった。廻船問屋は越前のある藩の大阪蔵屋敷の者と結託して抜け荷を行っていたのであり、それが暴露しそうになったときに蔵屋敷の藩士に罪を着せ死に追いやっていた。その犠牲となった藩士が千太の父親だったのである。
また、犠牲となった藩士の友人で真相を探るために浪人となった佐竹佐十郎という侍が寺子屋「三春屋」の裏店に越してくる。「三春屋」の「お美和」は、事情を知らないまでも、さばさばとした性格の佐竹佐十郎に淡い恋心を抱くが、佐十郎は真相究明のために千太の母親に近づいていく。千太の母親は廻船問屋の秘密のために危険にさらされていく。
そして、母親を殺された「お若」と恋人の達次が廻船問屋に捕らえられ、千太の母親も捕らえられていくのである。こうして事件は山場を迎えていく。
こうした展開の中で、挫折した達次の心境や「お若」との関係、学問一筋に生きる「お涼」と二枚目で女遊びが激しいが意外と「お涼」を案じて助ける幼なじみの合薬屋の跡取り息子との関係、佐竹佐十郎に淡い恋心をもつ恋する乙女である「お美和」の姿など、それぞれの姿と恋がじっくりと丹念に描かれ、それらが「一文稽古」という慈愛に満ちた設定の中に置かれている。
この作品は、予測していたとおりいい作品だった。歴史的にやがて事件を起こしてしまう大阪奉行所与力の大塩平八郎が正義感溢れる見習い与力として登場するのもおもしろい。歴史的考証もしっかりして構成されているし、描かれる人物像も、物語の構成もいいので、読後感も爽やかさがある。この作者の物語作者としての力は大きいものがあり、文章も、句読点の打ち方ひとつにしても、改行の仕方にしてもよく考えられた文章である。これはシリーズとして出されているらしいから、ぜひ他の作品も読んでみたいと思っている。
大晦日にふとテレビをつけてみると、NHKのBSで『心霊探偵 八雲』というアニメ・ドラマを一挙に放映していたので、それを見ながら築山桂『寺子屋若草物語 てのひら一文』(2008年 徳間文庫)をゆっくり読んだ。
この作者の作品は初めて読むが、1969年に京都で生まれ、福井に在住されているらしく、NHK土曜時代劇『浪速の華-緒方洪庵事件帖-』の原作者であり、大阪大学の出身者らしく小説の舞台が大阪であるのも特徴的だと思ったし、以前から、寺子屋を取り扱ったと思われた題名が気になっていて、読んで見たいと思っていた作家のひとりであった。
『寺子屋若草物語』という書名は、アメリカの作家ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcot ・1832-1888年)の小説『若草物語』を意識してつけられたもので、『若草物語』の主人公たちは四姉妹であるが、こちらは大阪で寺子屋を営む三姉妹の物語である。
医者であった父と母を流行病で亡くした「お香」、「お涼」、「お美和」の三姉妹が「三春屋」という寺子屋を営んでいた叔母に引き取られて育てられ、叔母が亡くなった後を継いで、力を合わせて寺子屋を営んでいく姿が柔らかな筆致で描かれている。特に、貧しかったり親の手伝いや奉公のためであったりして昼間に寺子屋に通えない者などが手習い(文字や計算)を学ぶために、夜に「一文稽古」という、いわば夜学のようなものを開いていて、その維持のために苦労していく姿がきちんと描き出されていく。
「昼間の稽古と違って、事情も年齢もばらばらな者が集まるため、一文稽古は何かと苦労も多い。
入門時の束脩(入学金のようなもの)ばかりではなく、季節ごとの謝金も一文稽古では取らないことにしているから、「しんどいばっかりで儲かりもせんやり」とまわりに言われることもある。
だが、三姉妹は、一文稽古がなくなれば困る者がどれだけ多いか、知っている。
三人で力を合わせ、なんとかして続けたいと思っているのだ」(15ページ)
と初めの方で記されている。だが、本書は、そうした三姉妹の日常が描き出されるだけでなく、一文稽古に通う者が巻き込まれた事件の顛末が描かれるのだが、事件の裏にある陰謀の悪質さにもかかわらず、それが特に心優しい十六歳の末娘「お美和」の視点を中心に描かれ、それだけに、どこかしみじみした柔らかさがある。
三姉妹のそれぞれの人物像も明確で、それぞれに魅力的で、長女の「お香」は寺子屋である「三春屋」の全責任をしっかり負って、聡明だが控えめで、医学の修行のために江戸に行っている恋人がいるが、姉妹のことや寺子屋に通ってくる者たちへの深い心配りをする女性である。次女の「お涼」は、姉の「お香」とは全く違って、学問好きの天才肌の才女で、大阪随一の学問所である男ばかりの懐徳堂に男に混じって通うことをゆるされ、さばさばした性格で、身なりや格好もあまり気にしない。三女の「お美和」は、実は姉たちと血が繋がっていない娘で、子どもを育てることができなくなった親が置いていった子を姉たちの両親が姉妹として育てたものだが、姉たちの愛情をいっぱい受けて、明るく心優しい娘となり、「三春屋」の家事いっさいを引き受け、寺子屋を支えているしっかり者である。
こうした三姉妹の姿は類型的でわかりやすいだけに、会話にしろ様子にしろ、きっちり描き分けられていて、それぞれが魅力ある女性になっている。
物語は、大工の倅だが学者になることを夢見て、熱心に一文稽古に通っていた達次という若者が一文稽古に来なくなるところから始まる。彼は親に頼み込んで一年間という期限つきではあるが儒学者の内弟子となって学問の励むほどの熱心な若者だった。彼には「お若」という恋人がいたが、その「お若」の話によれば、彼が内弟子をしていた儒学者が江戸への遊学に達次を連れて行くと言っていたが、突然、話を翻らされて遊学には他の者を連れて行くことになり、達次は絶望して落ち込んでいるのだという。
その話の裏には、廻船問屋の大店の金に絡む話があった。達次の代わりに行く者はその廻船問屋のどら息子だという。廻船問屋の息子は、「お涼」が通う懐徳堂に懲罰的な躾のために入れられていた。だが、厳しい躾の期間が明けたとき、酒に酔って通りがかった「お若」を襲った。そして、料理屋を営んでいた「お若」の母親は、母親自体が性悪なところがあり、廻船問屋を強請る。強請られた廻船問屋は、それ以上調べられたら困るので、「お若」の母親を毒殺するのである。廻船問屋には調べられたら困る過去があったのである。
他方、千太という子どもが一文稽古に来るようになった。母親は、「お若」の母親が営む料理屋の近くで蕎麦屋を営み、殺された母親とも親しかったし、廻船問屋にも恨みがあった。廻船問屋は越前のある藩の大阪蔵屋敷の者と結託して抜け荷を行っていたのであり、それが暴露しそうになったときに蔵屋敷の藩士に罪を着せ死に追いやっていた。その犠牲となった藩士が千太の父親だったのである。
また、犠牲となった藩士の友人で真相を探るために浪人となった佐竹佐十郎という侍が寺子屋「三春屋」の裏店に越してくる。「三春屋」の「お美和」は、事情を知らないまでも、さばさばとした性格の佐竹佐十郎に淡い恋心を抱くが、佐十郎は真相究明のために千太の母親に近づいていく。千太の母親は廻船問屋の秘密のために危険にさらされていく。
そして、母親を殺された「お若」と恋人の達次が廻船問屋に捕らえられ、千太の母親も捕らえられていくのである。こうして事件は山場を迎えていく。
こうした展開の中で、挫折した達次の心境や「お若」との関係、学問一筋に生きる「お涼」と二枚目で女遊びが激しいが意外と「お涼」を案じて助ける幼なじみの合薬屋の跡取り息子との関係、佐竹佐十郎に淡い恋心をもつ恋する乙女である「お美和」の姿など、それぞれの姿と恋がじっくりと丹念に描かれ、それらが「一文稽古」という慈愛に満ちた設定の中に置かれている。
この作品は、予測していたとおりいい作品だった。歴史的にやがて事件を起こしてしまう大阪奉行所与力の大塩平八郎が正義感溢れる見習い与力として登場するのもおもしろい。歴史的考証もしっかりして構成されているし、描かれる人物像も、物語の構成もいいので、読後感も爽やかさがある。この作者の物語作者としての力は大きいものがあり、文章も、句読点の打ち方ひとつにしても、改行の仕方にしてもよく考えられた文章である。これはシリーズとして出されているらしいから、ぜひ他の作品も読んでみたいと思っている。
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