2011年2月5日土曜日

井川香四郎『御船手奉行うたかた日記 風の舟唄』

 立春の声を聞いて、日中は少し春を感じさせる陽気になって梅がちらほらと咲き始めている。寒さが厳しい中で清楚な花をつける一重の白梅が好きで、枝垂れ梅を鉢植えにしていたのだが、我が家の梅はなかなか花をつけてくれない。植え替えたり肥料をやったりする手入れを怠ったせいだろう。

 昨日、図書館に行って目についた井川香四郎『船手奉行うたかた日記 風の舟唄』(2010年 幻冬舎時代小説文庫)を借りてきて読んだ。

 「船手奉行」もしくは「船奉行」は、江戸時代の徳川幕府では「船手頭」と呼ばれ、元々は徳川の水軍で、軍艦の管理と海上輸送の任についていた。しかし、太平が続く中で水軍としての役割がなくなり、たとえば世襲が認められていた船手頭の筆頭である向井家は、将軍が乗船する御召船の管理・運営などの役職をしていた。船手頭の下には、普通は船手同心30名、船頭などの水主50人がつけられており、海上輸送の荷改めなども船奉行の管轄であった。もちろん、各藩にも船手奉行(船奉行)が置かれていたが、組織構造と役割は概ね幕府の組織を踏襲したものとなっていった。

 江戸は河川も多く、堀割などの水路が発達し、現在のベネチア以上の海上都市でもあり、水路を利用した輸送手段が活発に取られていたので、船奉行の役割は重要であったが、太平が続く中で荷改めなどもほとんど形骸化し、船手同心の質も悪く、町奉行所の同心よりも下位に見られていた。下位の御船手は囚人の海上輸送などにも携わっていたので、「不浄役人」と蔑まれたりもした。

 こうした船手同心に着目し、それを主人公に設定した作者の着想はなかなかのもので、しかも、純真で正義感が強く、いささか青臭い青年が新人同心としてそれまでの因習を破りながら、その真っ直ぐさを発揮して事件に当たっていき、徐々に成長していく姿として物語を展開しているので、シリーズ物としての妙味があると言えるような気がした。

 巻末に収録されている出版社の広告を見れば、本書はこのシリーズの6作目で、『いのちの絆』(第1作)、『巣立ち雛』(第2作)、『ため息橋』(第3作)、『咲残る』(第4作)、『花涼み』(第5作)に続くものだということがわかるが、前作を全く読んでいないので、作品の登場人物の人間関係が、いまひとつ把握しがたい気がしないでもない。

 本書では「帆、満つる」(第一話)、「にが汐」(第二話)、「せせなげ」(第三話)、「風の舟唄」(第四話)が収められ、豪商の手を借りて幕府の若年寄(幕臣の支配)となった傲慢な大名が花火見物のために幕府御用船を出して船上で宴を催していたところ、地震があって津波を受け、船が転覆しそうになり、傲慢さに業を煮やしていたにも関わらず、護衛を命じられていた主人公の船手同心である早乙女薙左(さおとめ なぎさ)の、何事にも公平で生命を重んじる働きで助けられ、改心していく話(第一話)から始められている。

 第二話「にが汐」は、手柄を焦ったために強盗に女房を殺された岡っ引きが、その復讐のために、その強盗の昔の友人ではあったが何の関係もない男たちを罠に嵌めて復讐心を満たそうとしていたのを早乙女薙左が、持ち前の正義感と情けで見破っていく話であり、第三話「せせなげ」は、盗んだ金を貧しい者に配っていた「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗が両替商から大金を盗み出したということで、町方がその犯人を捕らえるが、薙左がよく調べてみると、そこには裏がありそうで、両替商は旗本からの借り入れを断るために贋金を作り、強盗事件をでっちあげようとしたことがわかり、町方もそれに一枚かんで犯人をでっちあげようとしていたことがわかっていく話である。表題の「せせなげ」は小さな溝の下水の流れを表す言葉で、「せせなげ」のようにして生きている人々の側に立って真相を突きとめ、傲慢な町方と渡り合っていく主人公の姿が描かれていくのである。

 第四話「風の舟唄」は、川船で行商をしている子どもが、遊女が監禁されたようにして暮らしていかなければならない「雪蛍」と呼ばれる岡場所の遊女を逃がすことが事件の発端として語られる。遊女は少年の手によって逃れようとするが、追いかけてきた忘八(遊女屋の仕事をしている男衆)に捕まる。しかし、その忘八が殺され、逃げた遊女が犯人として町方に捕らえられてしまうのである。川船で行商をしている子どもと親しかった早乙女薙左は、真相究明に立ち上がり、ついには遊女屋に単身で乗り込んでいく。そしてそこで「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗もいて、彼が逃れるために火をつけ、それを見逃して「雪蛍」という岡場所を壊滅させていくのである。

 全体的に、船手同心という役職に、真っ直ぐ、持ち前の正義感を発揮しながら取り組んでいく青年と、その青年を温かく見守る船手奉行所の奉行を初めとする古参の同心たちや、彼を気に入っている船頭たちや周囲の人々、町方との対決などが骨格としてあり、第一話では、江戸の町政の要として認められ、また権威づけられている町年寄とその娘「おかよ」が登場し、「おかよ」は早乙女薙左を自分の婿にすると言うほど気に入って、彼を助けていくようになり、その恋のいく末なども織り込まれて、なかなか味のあるものになっている。

 しかし、主人公の早乙女薙左が正義感の塊で直進する姿が受け入れられたり、武術の達人であったり、もののわかった奉行や先輩たちがいて、あるいは反対の傲慢な人間の姿が絵に描いたような傲慢さを発揮したり、薙左が主張する正義や情けも、どこか類型的で深みにかけるような気がしないでもない。

 たとえば、些細なことなのだが、第四話「風の舟唄」でも、逃げて捕らえられた遊女が薙左に、「私はただ、普通の幸せを掴みたかった・・・惚れた人と所帯を持って、可愛い子を儲けて、平凡で、親子水入らずで・・・凪いだ海のように、ゆったりした暮らしの中で、年を重ねて、おばあちゃんになって・・・それだけなのに・・・ぜんぶ逃げちまう」(293ページ)と語るが、苦酸を舐めなければならなかった女性の言葉としては、こういう言葉は作者の勝手な推量による陳腐なお涙ちょうだいの言葉のように思えてしまうのである。

 作者は、テレビ時代劇の「銭形平次」や「暴れん坊将軍」の脚本も手がけているそうだが、一般受けするように作品が構成され、描かれているのが気にならないわけではない。せっかく、御船手という新しい着想だから、もう少し深みが欲しいというのが正直な読後感である。

2011年2月3日木曜日

川田弥一郎『江戸の検屍官 闇女』

 節分になり、暦の上では明日から立春で、ようやくここでの日中の気温が10度前後にまで上がるようになってきたが、寒さを感じることには変わりはない。それでもやはり、二十四節気の通り、水仙がつぼみを膨らませて春の訪れの気配が漂い始めた。

 昨夜遅く、川田弥一郎『江戸の検屍官 闇女』(2000年 講談社 2008年 講談社文庫)を読み終えた。文庫版で580ページの長編で、物語の展開がゆっくり進められるので、読み終えるのに少し時間がかかった。

 この作者の作品は初めて読むが、文庫版に収められている細谷正充という人の解説によれば、作者は1948年生まれの現役の外科医で、医学ミステリーを執筆し、1992年に『白く長い廊下』で第38回江戸川乱歩賞を受賞され、1994年『赤い闇』から時代医学ミステリーの作品を発表されているらしい。

 本書は、「江戸の検屍官」というシリーズで、本書の前には『江戸の検屍官』(1997年 祥伝社)、『銀簪(ぎんかんざし)の翳り』(1997年 読売新聞社)の2作があるようで、本書の後にも『江戸の検屍官 女地獄』(2001年 角川春樹事務所)が出されているらしい。

 このシリーズの主人公は、検屍ということに特別にこだわりをもって事件の真相解明に当たる北町奉行所の定町廻り同心北沢彦太郎という人物で、中国の法医学書である『無冤録』を訳した検屍の教典ともいうべき『無冤録述』を手本にして、書名の通り、冤罪を出さないように十二分に死体を調べて真実を明らかにしていくことを心がけている人物である。冤罪を出さないことを、本書ではその「冤」という漢字から「兎に帽子をかぶせない」という表現で語られる。つまり、科学的・客観的捜査方法を可能な限り採っていくという江戸時代の同心の設定としては珍しい設定である。

 彼には、時に彼に重要な助言を与える妻の「お園」(本書では身重になっている)と娘の「お近」があり、娘の「お近」も父親の彦太郎が取り扱う事件に関心を持ったり、意見を言ったりする、そういう家庭である。そして、彼が検屍や事件解決のために頼りにしている医者の玄海と枕絵師の「お月」がいる。医者の玄海は、女好きで、すぐに女性に手を出す人物だが、医者としても検屍の能力は抜群で、そこから様々な推理を彦太郎に語ったりする。「お月」は、男を知らない生娘だが、男女交合の枕絵を描くことを生業として、性器や男女交合の姿態に関心が強く、彦太郎に惚れていて、その依頼で似顔絵などを描いて彦太郎を助けていく。「お月」はことあるごとに彦太郎に処女をささげようと誘いをかけている。

 こうした主要な人物設定の中で、北沢彦太郎が難事件に当たっていくのだが、彼は、毒殺死の可能性を調べるために銀の簪を遺体の口や肛門に差し入れて見ることから「銀簪の旦那」とも呼ばれている。その詳細な検屍方法が、外科医の作者らしく、詳しく何度も描かれている。

 本書で取り扱われる事件の発端は、自殺、他殺のどちらともとれる状態で水茶屋勤めの娘の死体が見つかった事件で、詳細な検屍や可能性をひとつひとつ推理していく中で、彦太郎は、初めはそれを自殺ではないかと思っていたが、その娘と関係を持っていた岡っ引きの鶴次郎が殺され、さらにその鶴次郎が関係を持っていた女性も殺され、彦太郎の捜査が伸びていく度に死人が出ていくという連続殺人事件へと発展していく。

 ふとしたことで彦太郎が助けた「おいね」の行方不明の姉の「お袖」も事件に関係しているように思われ、事件の謎が深まっていく。彦太郎はひとつひとつ地道な捜査を続けていくのである。そして、ようやく事件の真相に行き当たる。そこには、男と女のどろどろとした色欲が渦巻いていた。

 本書で取り扱われるのが、こうした男と女の色欲から出てきた連続殺人事件であるだけに、その展開を綴る表現に重いものがあり、真相に迫る捜査の仕方も地道なだけに、たとえば、せっかく銀簪という独特の検屍道具を使って毒殺を明白にしていくにしては、江戸時代に使われていた毒の種類には限りがあり、しかもなかなか手に入れることができなかったのだから、その毒の入手先を探っていくことで犯人に行き当たっていくというのが常道ではないかと思うが、本書ではその方法は採られずに、ひとりひとりの被疑者と思われる人物に細かく当たる方法が採られ、人間模様を色濃く描き出そうとしているなどがあって、しかもその人間模様が色欲を中心にして描かれるので、事件解明後でも重さが残ってしまうような気がしないでもない。

 ただ、好色だが優れた医学判断をしていく医者の玄海や、目の前で男女を交合させてそれを描いていく枕絵師の「お月」という女性などはなかなか魅力的で、真面目でひたむきに事件の捜査に当たる主人公の彦太郎といいコンビネーションがあって、作品に面白さを増している。それらの始まりを記すと思われる第1作『江戸の検屍官』を読んで見たいと思った。性に対する開放的な姿勢は、作者が医者であるだけに、その視点で描かれるのも悪くない。

2011年1月31日月曜日

山本一力『牡丹酒 深川黄表紙掛取り帖(二)』

 よく晴れてはいるが、この冬一番の寒気団の襲来で空気が冷たく寒い。昨日は福岡の実家でも20㎝ほど雪が積もったそうだし、熊本からもとても寒いというメールをいただいたりした。日本海側は大雪で、霧島では火山の噴火が続いており、列島が震撼している気さえする。

 ただ、個人の生活というのは、いつでも、どこでも、どんなときも、日常の喜怒哀楽が主で、土曜日の深夜にサッカーのアジア杯の日本とホーストラリア戦のテレビ中継を見続け、素晴らしいボレーシュートに感嘆したりし、昨夜は、日中の疲れも覚えて早々にベッドに入り眠りを貪っていた。

 それでも、山本一力『牡丹酒 深川黄表紙掛取り帖(二)』(2006年 講談社)を一気に読んだ。この作者は、他の作品でもそうだが、文章と展開のリズムが絶妙で、内容も痛快だから、長編でも一気に読ませる力量があり、この作品もそのリズムに乗って読み進めることができた。

 これは、夏ばての薬を売り歩く「定斎売り」をしている蔵秀(ぞうしゅう)、印形屋の次男で文章と計算にたけて絵草子本の作者を目指している辰次郎、酒好きだが明晰な頭脳と図抜けたアイディアを出す飾り提灯の職人である宗佑(そうすけ)、そして、小間物問屋のひとり娘で、勘所が鋭く、見事な絵やデザインを書く雅乃(まさの)の四人の若者の活躍を描いた『深川黄表紙掛取り帖』(2002年 講談社)の2作目に当たるもので、本作では、この四人が土佐の銘酒と鰹の塩辛をいかに大阪や江戸で売りさばいていくかを工夫していく展開になっている。

 蔵秀の父親で山師の雄之助が杉の手配のために行った土佐で、旨い辛口の酒と鰹の塩辛に出会い、これに惚れ込んで、江戸にもって帰り、これを江戸で広めたいという。相談を受けた蔵秀は、紀伊国屋文左衛門を通して幕府老中の柳沢吉保に取り次ぎ、それによって柳沢吉保はこれまでの土佐藩に対する見識を改め、紀伊国屋文左衛門と共にその銘酒と塩辛の江戸での販売に手を貸すことになる。

 蔵秀たち四人は、紀伊国屋文左衛門の後ろ盾で土佐藩の命を受け、これを土佐から江戸まで運ぶ工夫を重ね、仕入れのために土佐に行くことになり、途中、「出女」を禁じた箱根の関所で雅乃が苦労したりするが、土佐の土地の人たちからも気に入られて仕入れに成功し、まず、大阪で見事な飾り提灯を作って売り出し、次いで、江戸でも大仕掛けの宣伝をして売り出しに成功していくのである。

 この土佐までの往復の旅で、蔵秀と雅乃の仲が縮まり、二人は夫婦になることになるし、飾り提灯職人の宗祐は、土佐で知り合った子持ちの女性に思いを寄せていくようになる。そうした恋の事情を挟みながら、蔵秀の判断力と人間力、雅乃の立ち居振る舞いや魅力、飾り提灯造りにかける宗佑の情熱などがいかんなく発揮されて、青春活劇を観るようにして物語が展開されていく。

 この作品の中で、作者は土佐の風土と人柄を高く持ち上げている。作者が土佐(高知県)出身であることを割り引いても、「意気に感じる」というような人間模様が確かにあったのかも知れないと思わせるものがここにはある。「意気に感じる」というのは、今日ではほとんど皆無に近いような人間関係のあり方ではあるが、貴重な生きる姿勢ではあるだろう。

 「意気に感じる」ためには、双方の呼吸が必要だが、その呼吸が損得の利害によって乱れているのが昨今であるだけに、「意気に感じて」動く人々を描いた作者の作品世界は、一つの理想となり得るのかも知れないと思ったりもする。

 本書の終章で、ようやく蔵秀と雅乃の結婚が決まり、宗佑は土佐に旅立つことになって、一応の四人の青春物語に結末がつけられた感じだが、この四人が、江戸の広目屋(広告屋)として商人を相手に活躍していく姿をさらに見てみたい気もする。

2011年1月29日土曜日

千野隆司『主税助捕物暦 天狗斬り』

 晴れているがすこぶる気温が低い。3日間ほど、この冬一番の冷え込みが予想されている。霧島の火山の噴火が伝えられ、鳥インフルエンザと共に九州南部はたいへんな事態だろうと察している。

 昨日はエジプトでも政変を求める大きなデモがあり収拾がつかなくなっているという。1980年ごろから世界の構造が徐々に変化してアフリカ北部やアラブ諸国に至っているという気がする。この全世界的規模の構造変化の先行きに予測がつかないわけではなく、悲観的な思いも強くある。

 閑話休題。千野隆司『主税助捕物暦 天狗斬り』(2005年 双葉文庫)を、仙台からの帰りの新幹線の中で読み始めて、帰宅した夜に読み終えていたので、記しておくことにした。文庫本のカバーの裏書によれば、これはこのシリーズの2作目ということで、1作目はまだ読んでいないが、本書で時折触れられる1作目の内容から推測して、1作目の方が主人公の北町奉行所定町廻り同心である楓山主税助(かえでやま ちからのすけ)の姿が丹念に描かれた力作ではないかと思ったりする。

 だがそれは、この作品で作者が主人公の姿を描ききっていないというのでは決してない。作者は変わらずに丹念に物語を展開するし、表現の巧みさもあるし、構成力も優れている。ただ、主人公の楓山主税助は、惚れて結婚した妻の美里との間に七歳になる娘の由衣があるが、四年前に五歳の長男を病で亡くし、二年半ほど前に、妻の美里が身ごもったとき、小料理屋の女と浮気している。そのとき、妻の美里が雪の降りしきる夜に夫が浮気している小料理屋を外から眺め続けて流産している。それ以来、妻との関係はすきま風が吹いている。主人公はそれを背負っているのだが、そのあたりのことが1作目で描き出されているのではないかと思ったからである。

 自分が犯した過ちとはいえ、重荷を背負った人間にはその重荷の分だけ重さがあり、その重さが人を深くするので、作者はそれを描き出しているだろうと思えるからである。

 とは言え、本書で展開される事件の捜査の顛末も、実に丹念に描き出され、どんでん返しのような結末もあって、これはこれでよく構成された作品だと言えるだろう。

 発端の事件は、島送りのために囚人を乗せた唐丸駕籠が何者かに襲われ、ひとりの罪人が逃げた他はすべて斬殺されるというものである。その罪人は、かつて、喧嘩騒ぎで大工職人を殺すつもりもなく殺してしまった蝋燭問屋の用心棒で、主人公の楓山主税助が取り調べたものだった。事件そのものは用心棒の島送りで決着がついたはずであったが、その用心棒が奪還される事件が起こり、楓山主税助は自分の取り調べに手抜かりがあったことを知らされ、逃げた用心棒を捕らえ、唐丸駕籠を襲った賊を捕らえることを命じられる。

 唐丸駕籠を襲った賊は「天狗」と呼ばれる正体不明の凄腕の浪人である。手抜かりを自覚して重荷を負う楓山主税助は、最初の事件を一から調べ直すことから初め、そこに「天狗」を中心にした強盗団の匂いをかぎつけていく。だが、「天狗」は凄腕で、なかなかその正体がわからない。楓山主税助も若いころから剣術の修行を積み、鏡新明智流の達人であり、秘伝の剣を伝授されているほどだったが、「天狗」の腕はそれに勝るかも知れないと思われた。彼が習得した秘伝の剣「燕飛(えんび)の剣」は窮地に追いやられたときの最後の剣である。

 同心としての楓山主税助は、試行錯誤を繰り返しながらも徐々に真相に迫っていく。その操作の過程が、ひとつひとつ皮をはがしていくように丹念に描かれる。そして、「天狗」は思いもよらなかった人物であり、楓山主税助は、最後にこの「天狗」と対峙し、究極の剣技である「燕飛の剣」を用いてかろうじて「天狗」との勝負に勝ち、逃げた罪人を捕らえる、というものである。

 その合間に、会話のなくなった主人公の夫婦関係を巡ることや、娘の由衣をとおして何とか夫婦関係の修復を試みようとすることなどの個人的な問題が綴られていく。そのあたりの呼吸は絶妙である。

 作者には、同心物として『南町同心早瀬惣十郎捕物控』というシリーズがあり、その主人公夫婦も溝のある夫婦として描かれているが、本作では、それが主人公の浮気によって胎児が流れてしまうというさらに重いものとなり、主人公も本作では剣の達人として、幾分剣豪小説のように設定されている。

 個人的な好みからいえば、どちらも丹念に描かれているが、『南町同心早瀬惣十郎捕物控』の方が、妻が明快な楽天性を備えていることもあって、面白いのではないかと思っている。しかし、推理のどんでん返しもあって、この作者の構成力は最近の捕物帳的な時代小説の中では群を抜いているような気がする。

2011年1月27日木曜日

坂岡真『ぐずろ兵衛うにゃ桜 忘れ文』

 相変わらず寒い日々が続いているし、今週末は寒さが一段と厳しくなるという予報も出ている。以前から懸念されていた強毒性の鳥インフルエンザでたくさんの鳥たちが死んでいる。今のところ日本でこの鳥インフルエンザが直接人間に感染したという事例は聞かないが、既に世界では事例のあることである。ウィルスに対してはワクチンなどによって免疫力を高める方法が採られているが、ウィルスに対してだけでなく、何に対しても「免疫力」は必要で、つまるところは経験値を高めることかも知れないと思ったりもする。しなやかに揺れることができる木は強風にも倒れない。

 25-26日と仙台まで仕事で出かけていた。日陰には雪が残っていたが、心づもりもあったので思ったほど寒さを感じないですみ、往復の新幹線の中で、坂岡真『ぐずろ兵衛うにゃ桜 忘れ文』(2008年 幻冬舎文庫)を結構おもしろく読んだ。

 坂岡真の『うぽっぽ同心シリーズ』が主人公の温かみを中心にして構成された好シリーズだったので、表題から、そのシリーズの主人公以上に、出世や世間的評価とは無縁のところで生きている人間を主人公にした作品だろうと思って読み始めた次第で、思っていたとおりに、なかなか味のある主人公の姿が設定されていた。

 主人公の六兵衛は、親代々の十手持ちだが、祖父も父も、大酒飲みで、雪の降りしきる夜に酒を浴びるほど飲んで、桶屋の棺桶を湯船と勘違いして入ってしまい、そのまま凍死したといういわくつきで、浅草の仲見世大路の一画で流行らない海苔屋を営む祖母と暮らし、朝から晩まで寝てばかりで、近所の子どもたちからさえも「ぐずろ兵衛」と馬鹿にされるが、いっこうに気にする気配さえない人物である。背中に彫りかけの吹雪かない桜吹雪の刺青があることから「うにゃ桜」とも呼ばれている。

 彼の母親は六兵衛がまだ乳飲み子だったころ、若い男を作り逃げ出し、父親はその淋しさを酒で紛らわし、祖父と同じように桶屋の棺桶の中で凍死したのである。三代に渡っての阿呆というのであるが、それはただ、出世や手柄をあげたところであまり意味がないということを骨の髄から知っているというだけなのである。

 その「ぐずろ兵衛」である六兵衛に、浅草の門前小町といわれるほどの美女の家から婿養子の縁談話が舞い込む。相手は「七福」という損料屋(レンタル業)の「おこん」で、その父親の庄左衛門が祈祷師の験を担いで六兵衛に白羽の矢を立てたのだという。「おこん」と結婚した六兵衛は庄左衛門が営む裏店の木戸番小屋に住むことになる。しかし、結婚はしたものの契りは結ばせてもらえずに、六兵衛はていよく使われるだけで、どうも損料屋の庄左衛門には裏がありそうである。

 そのころ、蔵前の札差の大店で200両の金が盗まれるという事件が起こる。盗んだのは粋な盗みをし続けている「白狐」と呼ばれている一団らしい。しかし、「ぐずろ兵衛」である六兵衛にその事件の探索が依頼されるはずもないが、その盗まれた札差の若旦那が放蕩の果てに行方不明になっているから探すようにと彼に十手を預けている町廻り同心の浦島平内から依頼される。

 その浦島平内の言葉が振るっている。「世の中にゃ、おめえみてえなのも必要だ。ぐずだのろまだと言われても、平気な顔でのんべんだらりと暮らしていやがる。ことにな、江戸ってのは忙しねえところだ。せっかちな連中ばっかだし、火事だ喧嘩だとすぐに騒ぎたがる。男も女も年寄りも格好をつけたがり、何かにつけて粋だ野暮だときめつけたがる。春の野っ原で欠伸をしているようなやつを見掛けると、ほっとするぜ。それがな、おめえなのさ。おめえはよ、牛みてえな平和な面をさらしているだけで、充分他人様の役に立っている。おれにゃ、そうおもえて仕方ねえのさ」(22ぺーじ)と平然と言う。

 ここに、こういう主人公を設定する主旨がある。それは江戸ではなく、今の東京の姿であり、日本中が東京に真似てきているので日本中の姿でもあるが、作者は、「無為の存在の価値」をこの主人公を描くことで強調したいと思っているのだろうし、わたしもこうした考えには諸手を挙げて賛成したい。

 札差の放蕩息子の探索をはじめた六兵衛は、その札差を強請ろうとする男に拐かされていることをつきとめ、若旦那を救い出すが、そこにはさらに札差に大金を借りている旗本の計略があることを知り、土壇場で小知恵をひねりだして窮地を脱していく。この探索というのも、格別何かを探り出そうとするのではなく、ただのんびりとした顔を出すことで事態が変化していくだけである。しかし、それによって六兵衛は事件の真相に近づいていくのである。

 六兵衛に息子を助けられた札差も一筋縄ではいかない強突張りで、次にその放蕩息子を勘当し、大金を貸している旗本と姻戚関係を結び、旗本を出世させて旨い汁を吸おうと企むおである。しかし、旗本が邪険にした用人から殺されてしまい、札差の企みは水泡と帰す。

 そんなことがあった後で六兵衛の祝言が行われ、彼は持参金として、札差から白狐が盗み出したといわれる小判と同じ小判で200両を受け取ったりしながら、嫁の「おこん」とはなんだかんだと言い逃れられながら契りも結ぶことなく、通称「どろぼう長屋」と呼ばれる蛇骨長屋の木戸番をしながらのんべんだらりと生活している。

 しかし、どうもその蛇骨長屋に住む住人たちは、裏がありそうで、博打場の壺降りの亭主が残した20両もの大金を盗まれた菜売りの女性の事件や、白狐をかたって悪質な強盗殺人を企む人間と関わりながら(第二話「どろぼう長屋」)、あるいは、六兵衛の父親が温情をもって島送りにした男が御赦免になって江戸に戻ったことから強盗団の裏切りによる復讐事件などに関わり(第三話「舐め猫」)、なぜかしらいつも舅である庄左衛門や長屋の住人に助けられて事件の解決に導かれていくのである。庄左衛門には裏があり、六兵衛は、庄左衛門にていよく利用されていく。しかし、六兵衛は、庄左衛門と蛇骨長屋の住人たちが粋な強盗団である白狐であることに薄々気づいている。

 表題ともなっている第四話「忘れ文」は、ふとしたことで手に取った本の間から見つけた懸想文(恋文)を持ち主に返そうとして元の持ち主を探し始め、そこにその恋文をもらった若侍と、恋文を書いた女性との間に起こった悲恋を知っていくというもので、若侍は友人の仇討ちに助成して返り討ちにあって死に、恋文を書いた女性は、家の没落で身売りして場末の遊女となっているという境遇の中で、六兵衛の働きで、お互いの思いが届いたことを知って、それが生きる励ましになっていくという話である。そして、それによって契らないままで夫婦である「おこん」との距離も少し近づいたようになるところで終わる。

 物語の基本的な線が、愛情とかゆるしとか、人の温かみとか、あるいは生きる励ましとかにあって、ひとつひとつの場面が、自分が利用されていることを薄々知りつつも、それもよしとして、無用を平然と生きる主人公の姿を通して描き出されるので、なかなか味わい深くなっている。物語の展開に安っぽさが少し漂うのも、主人公のゆえにゆるされるとことがあるような気がするのである。

 それにしても、JR東日本が全席禁煙で、喫煙場所がホームに一カ所しかないから混雑していてよけいにひどく、わたしのような喫煙者には旅が苦行のようになってしまい、列車を用いることを敬遠したくなる。

2011年1月24日月曜日

米村圭伍『錦絵双花伝』

 冬型の気圧配置で寒い日々が続いている。長く寒い日々が続いている気がするのは、こちらの体調管理がうまくいっていないからだろう。宮崎県で41万羽もの養鶏が鳥インフルエンザのために殺処分されたというニュースも伝わる。強毒性をもつウィルスと人間の医学的・生物学的対処は「いたちごっこ」のようなところがある。ウィルスだけでなく豪州や南米の洪水もそうで、まるでパニック映画のようなことが現実となり、人はいつも、何事にも、その時々にその時々に合わせて対応するしかできないものだと、痛感したりもする。個人的には、良寛さんよろしく「災難に遭うときは災難に遭うがよく候」と思ってはいるが。

 閑話休題。米村圭伍『錦絵双花伝』(2001年 新潮社)を、歴史の虚実を絶妙にないまぜた作品だと感心しながら面白く読んだ。これは前に読んだ『風流冷飯伝』(1999年 新潮社)、『退屈姫君伝』(2000年 新潮社)に続く3作目の作品で、前作で登場した幕府お庭番倉知政之助の手先として働く女忍者の「お仙」が、成長して美女となり、明和(1764-1772年)の三美人のひとりとして名高かった「笠森お仙」として評判を得、特に、自分の出生の秘密と合わせて、田沼意次の息子の意知と対決していくという奇想天外な物語である。

 「笠森お仙」は、錦絵(多色刷りの浮世絵)で有名な鈴木春信(1725頃-1770年)がモデルとして描いた実在の人物で(1751-1827年)、浅草の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたやおよし)とともに江戸の三美人(明和三美人)のひとりとして一世を風靡した女性である。

 彼女は、人気絶頂となった1770年に突然に谷中の笠森の水茶屋「鍵屋」から姿を消したが、実際は、幕府お庭番の旗本で笠森稲荷の地主でもあった倉地甚左衛門の許に嫁いで、九人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたと言われている。本作のどこか茫洋としたお庭番である倉知政之助は、この倉知甚左衛門である。

 前作の『退屈姫君伝』で、笠森の水茶屋「鍵屋」を起こしたのが倉知政之助の父親であることが記され、その手先の「お仙」が「鍵屋」の茶汲み娘として働くというのも、こうした歴史的下地のある仕掛けで、それが美女の「笠森お仙」となるというのも、虚実を混ぜた仕掛けなのである。

 また、本書で「お仙」の出生の重要な鍵となる者として描かれる浮世絵師の鈴木春信も、姓は穂積、通称次郎兵衛で、平賀源内とも親交があり、本書で「笠森お仙」を美女として売り出した者とされる大田直次郎も、後に幕府勘定所支配勘定にまで出世し、「四方赤良(よものあから)」や「寝惚先生(ねぼけせんせい)として随筆や狂歌、洒落本などを書いた大田南畝(1749-1823年)である。

 こうした歴史的下地の上で、本作では、鈴木春信が若いころ、穂積次郎兵衛として老中田沼意次の命を受けて和歌山県の小藩の取り潰しに関わり、その藩の安泰を保証していた家康拝領の「垢付丸(あかつきまる)」という刀を盗み出し、その盗み出しのために利用した女が身ごもって双子を産み、女は殺されるが、ひとりは三美人の一人である楊枝屋の看板娘「柳屋お藤」であり、もうひとりが「笠森お仙」となる「お仙」であるという物語に仕上げられている。「柳屋お藤」は、取り潰された小藩の家老の娘として育てられ、家康拝領刀の「垢付丸」を探し出してお家の再興を願う娘となり、「お仙」はお庭番の手先であった鍵屋の亭主で忍者の五兵衛に女忍者として育てられたという設定になっている。

 鈴木春信(穂積次郎兵衛)は、江戸で評判の美女となった「笠森お仙」と「柳屋お藤」を錦絵として描いて売り出すが、そこに昔自分が利用して捨てた女の面影を見て、罪科に苦しみ病んでいくし、「お仙」は自分の出生の真実を知って、そこに「因果の糸車」を覚えざるを得なくなっていく。

 また、評判の美女二人を自分のものにしようとした田沼意知は、秘匿してあった「垢付丸」を持ち出し、これを抜いて、「垢付丸」の妖力の虜となり、また、その場にいた「お仙」もその妖力を浴びてしまって、女から男になってしまう。田沼意知は、実際に旗本の佐野善左衛門から殿中で斬られて死に、これをきっかけにしたように権勢を誇った田沼家は没落していくが、それをないまぜて、「お仙」の働きとして記されていく。

 そして、「笠森お仙」として倉知政之助と結婚したのは瓜二つの双子の妹「柳屋お藤」であり、男となった「お仙」は、「大蜘蛛仙太郎」として二人を見守っていくようになるところで結末を迎えていく。それが全2作を含めた3部作の結末ともなっている。

 ここには、前作まであった軽妙さよりも、むしろシリアスな、たとえば己の罪科に苦しむ鈴木春信や出生の秘密を抱く「お仙」といった比較的重いテーマが綴られている。しかし、作者の洒落や遊び心は満載で、たとえば家康拝領で妖力をもつ刀が「垢付丸(あかつきまる-赤月丸)」と名づけられたり、鈴木春信は春画も著名なことから男女の交合の姿がユーモラスに描かれたり、大田南畝の洒落て飄々とした姿が描かれたりしている。

 あるいはまた、たとえば「月下に門を推したが、びくともしない。敲いて案内を請うわけにもいかない」(241ページ)といった「推敲(すいこう)」という言葉が由来する故事がさりげなく用いられたりしている。こうした遊び心は、読んでいてなかなか楽しいものである。

 しかし、作者が本書の中で大田直次郎(南畝)の思いを借りて、「直次郎は痛感した。世俗を洒落のめすことができるのは、おのれがその世俗からは遊離しているか、遊離している素振りでいてこその行為だ。直次郎は軽格の幕臣である。退屈な毎日に飽き、文才を利して江戸に名をなしつつある。文人としての直次郎は、京極左門配下の御徒士(幕臣)とは別人格だ。その意識が、世間を斜に見ることを楽にさせている。徒士としての目で世の中を見れば、文章は不平不満で溢れ、誰も読みたがらぬものになるだろう」(338ページ)と語る下りは、あるいは作者が虚実ないまぜの洒落のめした作品を書く本音に近いような気がする。

 そして、洒落のめした後で、その背後には生きることの重いテーマがあることを記そうとしたのが、この作品ではなかったかと思ったりする。とはいえ、作者の洒落と遊び心はこの先も続くだろう。

2011年1月21日金曜日

内田康夫『悪魔の種子』

 昨日が大寒で、震えるような日々が続いている。雲が広がって、時折陽射しもあるが、空気と風が冷たい。洗濯物が凍えそうにあおられていく。

 昨夜遅く、内田康夫『悪魔の種子』(2005年 幻冬舎)をおもしろく読み終えた。もちろん歴史時代小説ではないし、テレビなどでたくさんドラマ化されている常番の「浅見光彦(探偵)シリーズ」の一冊で、この作品がこのシリーズの何作目になるのか数えていないけれど、ずいぶん以前に、まだテレビでのドラマ化などがされていないころに、比較的綿密な考察や古典文学や歴史が平明な文章で軟らかく表現されているのが好きで、この作者の作品をずいぶん読んだ。主人公の浅見光彦という人物の柔らかさも好きな探偵のひとりだった。

 たまたま、図書館で宇江佐真理の新作が入っていないかどうか書架を見ていて、「あっ、この作品はまだ読んでいなかったな」と目について借りてきた次第である。ランダムに読んでいるので、こういうことはよくある。

 本作は、日本の農業政策(特に米)とバイオテクノロジーに関連する米の品種改良、新品種の創造という、いわば現代社会の最先端技術を巡る問題に絡んで、人の欲と利潤を追求する企業が重なって生み出された巧妙な殺人事件を、警察庁刑事局長を兄にもつ厳格な浅見家の居候であり、ルポライターという世すぎで糊口を潤しながらも、持ち前の感性と観察力の鋭さで難事件を解決していくという浅見光彦が、通常では思いもよらない観察と推理、独自の人間観をもつ粘り強い捜査で明らかにしていくというものである。

 舞台は、今では日本有数の良質の米を産出するようになった東北地方である。日本三大盆踊りの一つで有名な秋田県の西馬音内(にしもない)で、その祭りの最中に祭りの格好をしたひとりの男が殺されるという事件が起こる。他方、新潟県長岡市の農業研究所の研究員の死体が茨城県の霞ヶ浦であがるという事件が発生する。二つの事件には全く関連性がなく、警察の捜査はそれぞれ独自で行われ、行き詰まりの様相を呈していた。

 浅見家のお手伝いの須美子の友人が長岡市の農業研究所に勤めており、その女性が密かに思いを寄せる研究員が殺された研究員の殺人容疑者として疑いをかけれら、須美子を通して浅見光彦に助けを求めたことから、光彦はこの事件と関わることになり、西馬音内で男が殺された事件を知り、その男もまた茨城の農業研究所の研究員であったことから、二つの事件には農業研究に関する関連性があるのではないかと疑い、そこに米の品種改良によって花粉症の抗体を作っていくという画期的な「花粉症緩和米」の存在を知っていく。

 花粉症緩和米は、まだ実験段階の品種であり、遺伝子操作への反発などから風評によって実験田そのものが市民の反発を招いたりして開発が頓挫していたが、もしこれが成功すれば莫大な利益を生むことから、業績が悪化していた製薬会社が秘密裏に開発の促進を図ろうとしてダミーの会社を作ってこれを行っていた。しかし、そこでダミーの会社の責任者が自殺に見せかけて殺されてしまうという第三の殺人事件が起こる。

 浅見光彦は、その事件の背後にある花粉症緩和米を巡る動きを丹念に追い、事件の関連性を指摘しながら事実を明らかにしていく。事件は冷静に追われていくが、その過程にあるのは人間に対する限りない優しさで、その情緒は至るところで発揮され、それが事件の真相に迫る方向にも結びついて、物語の味を醸し出している。そのあたりが、この探偵の大きな魅力になっている。

 事件そのものは、人間の欲と保身に絡んだ殺人事件なのだが、背景となっている農業問題と遺伝子組み換え操作による食と生物や環境問題などが絡み、特に「コシヒカリ」という画期的な米の品種の改良によって飢餓に苦しんだ東北地方が米所になっていくことと合わさって、花粉症緩和米という先端科学技術を用いた技術革新の姿が描かれて、物語に幅と深みができている。

 作者のこの「浅見光彦シリーズ」は、探偵役の浅見光彦の優しさも魅力的なのだが、単に事件の犯人を捜し出す推理探偵小説だけではなく、こうした社会問題が絡んだものが多く、それが作品のリアリティーを生み出している。遺伝子操作による食品の品種改良の問題は、今でも、もちろん大きな問題で、こうした問題に正面から、そして人間の内奥に潜む問題としても推理性をからめて展開する作者の手法は、松本清張が確立した流れの一つといえようが、松本清張のような固さがないのがいい。

 ただ、作者の他の作品でも同じ傾向があるように思われるが、かなり大きな熟考を要する社会問題が、どことなく我田引水的に「常識」の線に治まるようにして収められてしまう点に、幾ばくかの危惧を感じないわけではない。それは作者が靖国神社を巡る問題について書いた小説などでも言えるような気がする。そして、描かれる人物も「いい人」すぎる気がしないでもない。

 閑話休題。この作品が出されたのは2005年であるが、未だに花粉症漢和米なるものについては聞いたことがないが、日本の農業政策について改善されたこともない。しかし、本書で指摘されるように、日本の農業政策の現実はひどいもので、そこに政治が汚く絡んでいるのが現状だろう。作者の問題提起は、その意味では大きな意味があると思っている。

 ともあれ、久々に一気に読める推理小説を読んだ気がする。作者の作品の多くは、日本の各地の風俗と歴史、そこに生きる人々と社会、そして現代社会と人間が抱えている大きな問題などが絶妙に交差して物語が展開されるので、思想の深み云々は別にして、彼が時代のベストセラー作家のひとりであるのもうなずける。