2011年4月13日水曜日

米村圭伍『おんみつ蜜姫』


 よく晴れ、ようやく温かさを感じる日々になってきた。室内よりも戸外の方がはるかに温かい。福島の原子力発電所の被災に伴う事故は、まだ収拾の目途が立たないし、昨日は、暫定的ではあるが原子力事故の最悪状態を示すレベル7に指定された。レベル7であれば、近隣の住民は「一時避難」ではなく、「移住」が検討されるべきかも知れないが、日本政府はまだそこまでの判断をしていない。もっとも現状からして、判断保留が続くのかもしれないが。


 11-12日と、こちらでも大きな揺れを感じる余震が頻発した。月曜日は、ちょうど都内で組織の方策の歴史的検証の発題をしていた時で、一時中断せざるを得なかったし、12日は、朝からかなり頻発した。新聞やテレビなどのマスコミでは、何とか震災前の状態を取り戻して平常を装うとしているが、関東以北では「疲れ」をあちらこちらで感じる。前の状態に戻ることを志向するのではなく、経済活動も含めた生活スタイルや社会構造がとられるべきだろうが、重層的、複合的に絡まっている現在の社会システムでは、それがなかなか難しい気もする。


 そういうことを感じながら、全く無関係でお気楽な娯楽時代小説である米村圭伍『おんみつ蜜姫』(2004年 新潮社)を読んでいた。


 これは前に読んだ『おたから蜜姫』(2007年 新潮社)の前作に当たるものだが、和歌に精通し、学識もあり、頭脳も明晰だが、どこか一本ねじが抜けたような母親である「甲府御前」に育てられた豊後温水藩(作者の創作)のおてんばで冒険好きな姫である「蜜姫」の活躍を、歴史的事件を奇想天外に絡ませた中で描いたものである。


 蜜姫が飛び込んでしまった事件は、八代将軍徳川吉宗の時代に起こった「天一坊事件」で、これは、修験者(山伏)であった天一坊改行が吉宗の御落胤であると騙り、浪人を多数集めていた事件で、講談などでは南町奉行の大岡越前守忠相の名裁きによって解決した「大岡政談」で著名だが(実際には大岡忠相はこの事件には関係していない)、作者はこれと徳川吉宗と尾張徳川家の将軍位を巡る確執をからませ、「天一坊事件」が吉宗失脚を狙う尾張徳川家によって仕組まれたこととして物語を展開している。


 作中では、温水藩の藩主であり、「蜜姫」の父親である乙梨重利が天一坊改行を知り、これを一時匿ったが、天一坊を利用して吉宗の失脚を狙う尾張徳川家に天一坊を奪われ、その経過を隠蔽しようとする尾張徳川家から生命を狙われるのをおてんばの「蜜姫」が助け、そこから真相を突きとめようとする「蜜姫」の冒険の旅が始まるのである。


 そこに、豊後温水藩と四国風見藩(これも作者の創作)の疲弊した財政立て直しのための合併話で、風見藩主の後妻になることになった「蜜姫」の事情や、「蜜姫」の母である「甲府御前」の祖である武田勝頼が残した軍用金(秘宝)の話が加わり、「蜜姫」は、豊後から四国、尾張から諏訪、そして江戸までの旅をするということになっていく。


 この奇想天外な物語には、母親の愛猫「タマ」が実は忍び猫で、「蜜姫」の危急を助けていったり、吉宗が創設した公儀お庭番が登場したり、尾張徳川家の密命を受けた尾張柳生が登場したり、徳川吉宗や大岡忠相が戯画化されて登場したりして、物語をわざと滑稽なものに仕立てようとする作者の意図が顕著に見られるが、その実、「ひとりの凛とした女性」であろうとする「蜜姫」の物怖じしない姿が描き出されているのである。


 大筋の大部分が虚であるが、虚実をない交ぜにして、「娯楽読み物」を創作しようとする作者の意図は、他の作品でも顕著である。そして、それが顕著な『風流冷飯伝』(1999年 新潮社)から始まる『退屈姫伝』やこの「蜜姫」シリーズでは、時代の風刺がとことん為されて、それが現代文明批判のようなものにもなっている。


 ただ、作者が創作した温水藩や風見藩といった題材にこだわったところとか、こういう作風は、少々飽きが来るというのも正直な感想でもあり、作者の力量からすれば、他の視点や構成でも、あるいはテーマでも、充分書けるような気がするが、どうだろうか。


 昨日、ようやく急ぎの仕事が片づいたので、今週はいつものペースに戻って、少しのんびりできそうな気もする。それにしても、まあ、次から次へといろいろなことがあるものだ。

2011年4月11日月曜日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 あやめ河岸』

 好天ではないが春の温かさを感じる日になっている。昨日はなんだか疲れ切ってしまい、今もその疲れが尾を引いている気がするが、午後から小石川に出かけることになっており、そこで発表することになっているある組織の百年余に及ぶ方策の歴史的検証のまとめを一気に書いていた。何らかの方策には、社会学的検証や人間学的検証が不可欠なのだが、それが浅いとその方策をとる組織は消滅して行かざるを得ない。模索されている大震災の復興策にも言えるだろうが、「哲学なき方策は意味を失う」ことを痛感している。


 昨日行われた統一地方選挙では、現在の状態もあって、「現状維持」が採択された。現代日本社会の当然のような結果だろうし、政治の時代ははるか昔に終わっているのだから、「積み重ね」によってしか社会は動かないのが現状だろう。変化せざるを得ない状況下では、人は「防衛」を考える。


 閑話休題。9日(土)の夜に、坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 あやめ河岸』(2006年 双葉文庫)を読んでいたので、ここに記すことにした。先月の風邪による疲れも残っていたのか、なんだか柔らかいものを読みたいと思って手にした次第で、このシリーズは、前に11作目の『盗賊かもめ』というのを読んでいて、本作は、それより前のこのシリーズの5作目の作品である。


 このシリーズの主人公である浅間三左衛門は、ある藩を出奔し、江戸で貧乏浪人暮らしをしているくたびれた中年の代表のような人物であるが、小太刀の遣い手であり、知恵も機転も利き、洞察力もあり、思いやり豊かな人物である。「おまつ」という十分の一屋(結婚仲介業)を営む女性の亭主として養われ、普段は「ぼさぼさの頭髪に無精髭、よれよれの着流しを纏い、暢気そうな顔つきの痩せ傘張り浪人で、腰の刀は竹光である。「おまつ」にも事情があり、その連れ子「おすず」と共に裏店で暮らして、「おすず」からは、この作品ではまだ「おっちゃん」と呼ばれている。彼は家事もこなせば子守もする。だが、自分が背負っている過ちの贖罪のために人助けに奔走していくのである。


 本作には「第一話 松葉しぐれ」、「第二話 あやめ河岸」、「第三話 ひょうたん」、「第四話 片蔭」の4話が収められており、「第一話 松葉しぐれ」は、「おまつ」の幼なじみだった女性が、つまらない男の口車に乗せられてその男と恋をして、その子を棄てられ、散々苦労させられたあげくにその男からも棄てられ、女性の髪を集めて売る「落買い」という惨めな姿でいるのに出くわし、他方で、近所に越してきた合羽職人が義弟の博打の借金のために高利貸しから苦しめられる事態にも遭遇して、これを何とか助けようとする話である。


 物語の展開の中で、様々な人物とその人生が交差し、合羽職人を苦しめていた高利貸しが、実は「おまつ」の幼なじみの女を弄んだあげくに、その女性の家から大金を盗み出した男であることがわかり、女性が棄てた子どもが合羽職人に拾われて立派に育っている子どもだったことが分かってくる。因果が巡っていき、浅間三左衛門は、単身、高利貸しのもとに乗り込んでいく。高利貸しには凄腕の浪人が用心棒として雇われている。その用心棒にも罪過を背負っている陰があり、彼は、対峙した浅間三左衛門の前で、何を思ったか、雇い主である高利貸しの首をはね、一件は落着していく。


 ここでは、自分の過ちに責められながらも、それを背負って生きなければならない人間の悲哀が丹念に描かれ、それを負いつつも生きる道を模索していく姿が、主人公の姿とも重ね合わされて柔らかに表出していく展開がとられている。「おまつ」の気っぷの良さと人を思いやる「世話好き」佐や、それに応える主人公の姿もあって、主筋の展開と共に物語を深めるものとなっている。


 「第二話 あやめ河岸」は、主人公の浅間三左衛門の狂歌仲間であり、気があって、ときおり浅間三左衛門も事件の解決に手助けする南町奉行所定町廻り同心の八尾半四郎を中心にした物語である。八尾半四郎は、南町奉行の特番の隠密廻りとして働いている美貌で、利発で、武芸も達者な「雪乃」という女性に惚れているが、相手にされずにいる。母親からは次々と結婚話を迫られているが「雪乃」を思って母親が持ち込む結婚話には耳を貸さないでいる。だが、同心としての働きは抜群で、ここでは巧妙に隠されていた抜け荷(密貿易)に絡む殺人事件を丹念な捜査によって解決していく。当時流行していた千社札が事件の鍵となっていくという構成もよくできている。


 「第三話 ひょうたん」は、「おまつ」の連れ子で、三左衛門も子として可愛がっている「おすず」の姿を中心に描いたもので、ふとしたことから艾(もぐさ)屋の子どもの拐かし(誘拐)話を聞いた「おすず」が、母親の「おまつ」の遊び人の弟の怪我などであたふたとする母親や三左衛門に、つい相談し損ない、ひとりで誘拐された子どもを探し出そうと苦労していく。小さい女の子が苦労して誘拐された子どもが押し込められている場所を探し出し、岡っ引きらが駆けつけるが、そこに子どもはおらず、「おすず」は「嘘つき」呼ばわりされたりする。


 だが、三左衛門は、「おすず」を信じ、事件の解決に乗り出して、ついに誘拐犯を捕らえていくのである。そこには、「おすず」を「嘘つき」呼ばわりした岡っ引きも絡んでいる。こういう中で、「おすず」は三左衛門のことを、まだ「おとっつあん」とは呼べないが、三左衛門に信頼を寄せていくのである。


 「第四話 片蔭」は、役者に惚れぬき、やがて人気が出てきた役者から棄てられても、その役者が帰る「湊」のような者になろうとする女性の、いま妾とされている詐欺師の男から陥らされた窮地を、三左衛門が命がけで守っていこうとする話で、やがて自らが招いたことで役者ができなくなった男が最後に彼女のところに帰っていくというところで決着が着く。


 この作者の作品は、『うっぽぽ同心』シリーズも同じだが、中心となる人物たちが見せる日常での柔らかさがあっていいと思っている。あまり気を張らずに読めて、しかも事件の構成にも手が込んでいるので、事件帖物として味わいがある作品になっていると思う。何か集中して読むというのではないが、疲れた時は、こういう小説が本当にいい。

2011年4月7日木曜日

宮部みゆき『淋しい狩人』

 今日も春めいた陽射しが降り注ぎ、現状の右往左往をよそに、自然はゆっくりと動いている。人が自然と同じようなスローなペースで生きていればいいのだが、人工的に造られた物は人工的に壊れ、その壊れ方がひどいので、しなくてもいい苦労が山のように襲ってくる。そういう現状の中で、統一地方選挙の選挙カーが候補者の声を連呼して五月蠅い。知事選の演説を聞くと、この国の政治思想はつくづく貧しいと思ったりもする。


 昨夜は遅くまで起きていて、宮部みゆき『淋しい狩人』(1993年 新潮社)を読んだ。宮部みゆきの時代小説の中では『孤宿の人』が最も感動的で最も味わい深い作品だと思っているが、これまで読んだ時代小説以外の作品になかなか行き当たらずに、こうした「現代物」を時折読んでいる。


 これは、六話からなる一話完結型の短編連作推理小説で、連作となっている探偵役の主人公は、現役を引退したが友人の死去によって引き受けた古本屋を営む六十歳代の「イワさん」と呼ばれる岩永幸吉という異色の人物である。人生の経験を重ね、明晰な頭脳を働かせて難事件を解決する老女を主人公にしたアガサ・クリスティーの『ミス・マープル』を思わせるような設定だが、こちらは、古本屋だけに本にまつわる事件が取り扱われ、「イワさん」の店を週末だけ手伝いに来る高校生の孫息子との掛け合いや、その孫息子が陥った恋愛なども絡んで、物語の余韻も残るようなすっきりした短編推理小説になている。


 話の内容も、小金を貯め込んでいる姉の財産を狙った妹夫婦の悪巧みや(「第一話 六月は名ばかりの月」)、平凡に生きざるを得ない息子が、平凡に生きていた父親の死によって知ることになったある事故の真相を「イワさん」の名推理で教えられていくことになったり(第二話「黙って逝った」)、改築されることになった古い家の跡地の地下にあった戦争中の防空壕から発見された遺骨を巡る悔恨を察していったり(第三話 「詫びない年月」)といった日常的に起こりうる出来事が取り上げられている。


 また、教師による子どもの虐待という極めて現代的な問題が取り上げられたり(第四話「うそつき喇叭」)、取り柄がなくて生き甲斐を見いだず、少しひねくれた若い女性がふとしたきっかけで知ることになった会社の金を横領して自死した男女の姿が描かれたり(第五話「歪んだ鏡」)、作家が描いた未完の推理小説を模倣する事件で、行くへ不明で死亡したと思われていたその作家が生きて証言し、その事件が単なる模倣犯に過ぎないことを明白にしたり(第六話「淋しい狩人」)、ある意味で現代社会が抱えている暗部を照らすような内容が展開されている。


 これらの作品のテーマのいくつかは、まだ読んではいないが、『模倣犯』とか『楽園』といった作品名がすぐ思い浮かぶので、さらに徹底した形で後に長編として展開されていると推測されるから、そういう意味で、ここで取り扱われたテーマは、作者の中でデッサンのようなものとなっているのではないだろうか。


 静かに人生の経験を重ねてきた主人公であるだけに、物語の展開に余韻があり、短編の良さも充分にある。しかし、宮部みゆきは優れたストーリーテラーとして長編がいいと思う。長編になると、文章も膨らんで独特の感性の豊かさが感じられたりするし、なによりも悲喜こもごもの人間の姿が丁寧に描かれているからである。宮部みゆきは優れた作家として数々の賞を受賞しているが、なるほどその作品は豊かだとつくづく思う。

2011年4月5日火曜日

高橋克彦『だましゑ歌麿』

 先週の土曜と日曜日は寒の戻りで気温が下がり、被災地でも雪が舞ったりする光景が報道されていたが、今日は少し気温が上がって春めいてきた。桜も一気に開花するだろう。溜まっていた掃除や洗濯をしながら、日常の生活に追われ行く日々を感じていたら、仙台のF氏から電話をもらい、水と電気は回復したが、まだガスが復旧されないという話だった。無事であることは連絡を受けていたが、とにかく元気そうで何よりだった。


 今日はあまり仕事をする気にもなれずに、とにかく土曜と日曜にかけて高橋克彦『だましゑ歌麿』((1999年 文藝春秋社 2002年 文春文庫)を読んでいたので、それだけでも記しておくことにした。これは、松平定信の寛政の改革(1787-1793年)とそれによって辛苦を舐めなければならなかった人間の姿を真正面から小説の形で取り上げたなかなかの力作で、ある意味でミステリー仕立ての時代小説としての構成も展開も、面白さも備えた秀作だと思った。


 これは、松平定信が寛政の改革で風紀を厳しく取り締まり、あらゆる事柄に贅沢を禁止した禁令を断行し、火附盗賊改の長が有名な長谷川平蔵であった時代に、南町奉行の同心で30代半ばの仙波一之進が、人気絵師であった喜多川歌麿の妻が惨殺された事件を調べ、権力による圧力を受けながらも、喜多川歌麿の反骨精神、歌麿や山東京伝の出版元であり、自らも改革の犠牲となって処罰を受けた蔦屋重三郎などの当時の文化人たちの姿を絡ませながら、知恵と剛胆さ、もちまえの剣さばきなどを発揮させて真相を明らかにし、改革の主であった松平定信に反省を促していくというものである。


 事の発端は、深川一帯が大嵐の水害によって壊滅的になった後始末に駆り出された南町奉行所同心が、半壊した「おりよ」という女性が住んでいた家の不審に気づき、やがて「おりよ」の死体が無惨に陵辱された姿で見つかるというものであった。「おりよ」は絵師の喜多川歌麿が愛して止まない妻であった。


 仙波一之進はこの事件を探索しようとするが、上からの探索の中止の命令が下される。また、南町奉行所から火盗改めに移されたりする。しかし、彼は圧力がかかる中で密かにこの事件の真相を探り続け、そこに長谷川平蔵率いる火盗改めと老中松平定信の画策の匂いをかいでいくのである。当時の一番人気絵師であり文化の花形であった喜多川歌麿の妻を殺すことで、歌麿の活動を停止させ、言論の統制を図ろうとした意図が見え隠れする。


 一方、愛する妻を殺された喜多川歌麿は、そのことを感知して、ほんの僅かな金だけを盗むが、政道批判を展開する押し込み強盗団を作って、松平定信を窮地に追いやって復讐しようとする。作者は美術館学芸員の経歴を持ち、江戸時代の絵師についての専門的な知識もあるが、こういう発想が面白いし、また実際の歴史知識に裏打ちされた発想であるから、詳細に渡ってこの発想が生きている。


 権力の圧力に耐えながらの仙波一之進による地道な探索が続いていく。何度も危機的な場面に出くわす。だが、彼の武骨なまでの同心魂と剛胆さで、ついに真相が明らかになる。彼は、唯一信頼できると思われた北町奉行初鹿野信興(実在の人物)を引っ張り出し、ついに老中松平定信に反省を促していくのである。


 この作品には、喜多川歌麿をはじめとして、長谷川平蔵や松平定信、初鹿野信興は言うまでもなく、蔦屋重三郎、朋誠堂喜三郎(秋田藩江戸留守居役でもあった平沢常富)などの多くの実在の人物が登場するし、後に著名になる葛飾北斎も「春朗」として登場し、その鑑定眼を活かして仙波一之進を手助けする者として描かれたり、仙波一之進の父親左門らとの日常的な会話に絵の構造や手法について語る場面があったり、それらの会話から、風景画に進んで行く方向なども示されるという虚実を巧みに混ぜた展開がされている。


 また、武骨な主人公である仙波一之進と柳橋の売れっ子芸者である「おこう」との恋も描かれ、最後に二人が結ばれ、その「おこう」の活躍を描いた『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)が記されるほど、生き生きとした人物像となっている。


 寛政の改革という歴史的事柄と真正面から取り組み、そこでの文化統制、言論の弾圧といった問題に、政治によって翻弄され、苦しめられる人間の側からの視点で、しかも、時代小説としての醍醐味やミステリー仕立ての展開の面白さがあって、小説として読み応えのある作品だと思う。長谷川平蔵が設立した「人足寄せ場」(厚生施設)の問題もかなり突っ込んだ形で描き出されている。


 この作品については、もっと多くのことが語られうると思うが、他にももちろんすることやしなければならないことが山積みしているわけだし、今日はここで止めておこう。

2011年4月1日金曜日

佐伯泰英『無刀 密命・親子鷹』

 怒濤のようにして過ぎた三月が終わり、本来なら桜舞う四月を迎えた。来週は少し気温も下がり、「花冷え」という美しい言葉もあるが、このところ気温が上がっている。だが、地震と津波による被害はあまりにもひどく、あまりにも広域で、加えて懸命な作業が続けられているとはいえ、福島の原子力発電所からの高濃度の放射能漏れの収拾もめどが立たず、土壌や海洋汚染が広がっている。原子力発電所のある地帯は、今後何十年にもわたっての死の土地となる懸念もある。


 テレビで、特に民放で取り上げられるスポーツ選手や芸能人の「ガンバレ」という呼びかけにも、安価でうんざりする。妙なナショナリズムの高揚も行われ始めた。言われなくても生き抜かざるを得ない状況だし、忍耐しなければならない状況なのだから。現地の人たちは黙々と歩み始めている。少なくとも大仰に呼びかけたりしないで、粛々と支援したらよかろう。昨日、ささやかな支援物資を宅急便に託す作業をしながら、そんなことを思っていた。


 閑話休題。風邪で寝込んでいた時に佐伯泰英『密命 弦月三十二人斬り<巻之二>』(2007年 祥伝社文庫)を読んだので、昨夜は手元にあった佐伯泰英『無刀 密命・親子鷹』(2006年 祥伝社文庫)を読んだ。前者の方の発行年が遅いのは新装版だったからであり、本作はその密命シリーズの第15作目の作品だが、奥付を見て、同じシリーズ物であるにも関わらず、書名に<巻之十五>という記述はないし、表題の仕方も変わっているのは何故だろうと、ふと思ったりもした。些細なことではあるが、出版社の編集者はこういうところに気を使って欲しい気もする。


 これまでの内容は「巻之二」からずいぶん進んで、直心影流の達人である主人公の金杉惣三郎は、思いを寄せていた「しの」と再婚し、市井に生きる者として火事場の後始末を請け負っている「荒神屋」で帳簿つけをする仕事について糊口をしのぎながら、剣術指南をしているし、自分の道を見いだせずに荒れていた長男の清之助は、剣の道に邁進し、徳川吉宗の御前試合で剣名をあげ、諸国に修行の旅に出ている。しっかり者の長女「みわ」は、家計を支えるために八百屋で働きながら、火消し人足である「鍾馗の昇平」と恋仲になっている。


 本書では、家出をした次女の「結衣」が金杉惣三郎を暗殺しようとする尾張徳川家の暗殺集団に利用されそうになるのを、救い出すために、父親の金杉惣三郎が剣の修行中であった清之助と尾張名古屋で合流して無事に救い出して、清之助が世話になっている大和柳生の庄に滞在することになることころから始まる。


 大和柳生は柳生新陰流の発祥の地であるが、柳生家の歴史的経過の中で尾張柳生とは競い合う間柄でもあった。剣名の高い金杉親子を迎え、その人柄に触れて、大和柳生は活況を取り戻していく。金杉親子の剣名のために多くの武芸者が大和柳生を訪れるようになり、これを機に、大和柳生では金杉親子による大稽古を催すことになるが、尾張の暗殺集団の執拗な攻撃も続く。そういう中で、金杉惣三郎と清之助は、それらの暗殺集団の手をことごとく払っていくのである。


 また、江戸では、長女の「みわ」に思いを寄せる火消し人足の「鍾馗の昇平」が、金杉惣三郎から厳しい修行で仕込まれた剣と人柄から火消しの花形である纏持ちに抜擢されるということになり、それを嫉んだ先輩火消しから次々と刺客を送られるようになったりして騒動が持ち上がる。「鍾馗の昇平」は剣の師匠である金杉惣三郎から教えられた業で、それらの刺客をかろうじて倒していくが、剣の修羅場に引き込まれていくことを危惧した剣術道場主は、剣の修行をすることを止めさせ、「鍾馗の昇平」は、「みわ」を初めとする周囲の人々の心使いを知って、纏持ちとしての道へ邁進することにするのである。


 本書で、大和柳生と江戸でのこうした展開が繰り返されるのだが、正直なところ、剣の達人として描かれる金杉惣三郎と息子の清之助の姿が、剣においてはあまりにも超人的で、人柄においてはあまりにも理想的すぎる気がしないでもない。いくら剣豪小説でも、これはできすぎではないかと思わないでもない。もちろん剣豪小説としてのおもしろさはあるのだが、くりだされる秘剣というのが無敵すぎる気もするのである。「鍾馗の昇平」を支える「みわ」の心や、それに応える「鍾馗の昇平」も理想的すぎる気がしないでもない。いい男やいい女ばかりが登場する小説というのは、娯楽小説としては面白いが、ただそれだけのような気もする。また、「巻之二」で示された社会背景の陰というのも、このあたりになると薄れて、現状肯定の保守的な根性小説に陥る危険性を感じたりもする。「巻之二」で示された人間への鋭さは、少なくともここでは薄まっているのではないだろうか。


 批判的なことを書くのは、読み手であるこちらの気分が批判的になっているからでもあるし、客観性に乏しいのかも知れないが、そんなことを思いながらこの作品を読み終えた。

2011年3月30日水曜日

山本一力『かんじき飛脚』

 気温はまだ充分高いとは言えないが、今日は少し春を感じる日になった。このところ東京電力による計画停電の実施も見送られて、町は平穏さを取り戻しつつある。人はいつも、それが劣悪な環境であれ、その時々の状況の中で生きていくのだし、環境への順応性も高い。課題は、これまで築かれてきた社会のシステムそのものを変換することだろう。ささやかなことの中に「こころ」が感じられるような人間となり、そこからシステムが構築され直されればいいと思ったりする。


 毎日報道される被災地の様子を見て涙を流さない日々はないが、壊滅した町々の復興について、あるいはこの社会全体のあり方について、学者は専門家として、対処療法ではなく、もっと素直に、素朴に、そして大胆に未来への道筋を提言するべきかも知れないと思ったりする。


 個人的な風邪の症状はだいぶ治まってきて、体力が完全に回復するとまではいかないが、咳も止まって楽になってきた。それでも夜遅くまで仕事をするというわけにはいかないので、たいていは、ニュースを見ながら小説を読んでいる。


 昨夜は、山本一力『かんじき飛脚』(2005年 新潮社)を「?」と思いながら読んだ。これは寛政の改革を行った松平定信(1759-1829年)の統治下で、加賀金沢藩の存亡をかけた藩御用達の飛脚の活躍とその姿を描いたもので、江戸から金沢までの、特に難所の多い北国街道を藩の密命を帯びて駆け抜ける飛脚たちの厚い友情や信頼、人情、そしてそれを阻止しようとして放たれた公儀お庭番との攻防を描いたものである。  作者らしい「男気」や「信頼」、また「愛情」の姿を描いた場面が随所に盛り込まれているし、当時の飛脚の生活、各宿場の様子など、食べ物から寝食に至るまで細かな描写があり、それはそれで物語として面白く読めるが、「?」と思ったのは、全体の構成の中で飛脚が加賀金沢藩の密命を帯びて駆け抜けなければならない肝心の理由に納得がいかない点があったことである。


 加賀金沢藩が老中松平定信から正月に内室同伴で招待を受けた。こうした招待を受けること自体や内室(藩主の正室)同伴というのも前例のないことであり、そこに松平定信の企みの匂いをかいだ加賀金沢藩では困惑が走る。調べてみると招待を受けたのは加賀金沢藩と土佐藩だけであり、それぞれの留守居役どうしが互いに信頼して内情を打ち明けてみると、両藩共々に内室が病の床にあることがわかり、「内室同伴」というのが不可能に近いことが分かる。


 加賀金沢藩では、内室の病状回復のための「蜜丸」という秘薬があり、「内室同伴」を果たすためにはそれが必要となる。そこで、その「蜜丸」の運搬を飛脚に依頼するのである。松平定信は、その秘薬の運搬を阻止し、加賀金沢藩の落ち度を攻めるために、公儀お庭番を送るのである。


 しかし、なぜ松平定信がそのような画策をしたのか、果たしてそれが有効で必要な画策なのかの根拠がいまひとつわからない。


 本書では、松平定信が行った札差(武家の俸給であった米をあずかり、それを担保に武家に金を貸した)への借金棒引き策である「棄損令」によって、金を貸し渋るようになった札差からの借金ができなくなった武家が一気に窮乏に陥った。江戸の経済も全く停滞した。松平定信は、貸す金がないといって武家への貸し渋りをする札差に五万両もの金を貸し付けようとするが、札差たちはこれを拒否四、武家の生活はさらに窮乏を極めていくことになる。


 そして、「かくなるうえは、内室同伴を果たせぬことを責めるしかない」(257-258ページ)となるのだが、札差への公金貸付と加賀金沢藩と土佐藩を責めることが、どうにもつながらない。加賀金沢藩と土佐藩は、それぞれに幕府に内密にしている火薬の製造や鉄砲の貯蔵などがあるが、江戸の経済打開策と両藩を責めることに根拠が見いだせないのである。


 もうひとつは、松平定信が老中であったとしても、内室同伴の招待は「私的な招待」であり、内室の病状が幕府に届けられていなかったにしろ、「内室が急な病ゆえに」という理由が立つはずで、それを藩の存亡をかけたことがらとして受け止める加賀金沢藩の姿にリアリティーがない。また、飛脚たちが命がけで守ることになる「蜜丸」という秘薬で、病の床にある内室の病状が一時的にしろ招待に応じられるほど回復するというのも、どうもしっくりこない。


 飛脚たちや飛脚問屋の主人たちの姿は、それぞれに味のあるものになっているが、その飛脚たちを走らせる根拠に「?」を感じてしまったのである。飛脚の姿を描くのに妙な政争を持ち込まなくても良かったのではないかと思ったりする。


 作者は歴史的考証も丹念であり、物語の展開にも力量があって読ませる力をもっているが、もちろん、それは本書でも充分に感じられるが、本書に関してはそういう思いをもった次第である。

2011年3月29日火曜日

佐伯泰英『密命 弦月三十二人斬り <巻之二>』

 この2~3日、久しぶりに晴れ渡った青空が広がっているが、気温が低いために寒い。暦の上では春で、先日、熊本のSさんから「熊本では桜の開花宣言が出されました」というメールをいただき、こちらでもそろそろ咲き始めるころだろうが、今年の冬は頑固に頑張っている感じがする。被災した東北では雪が舞って、身も心も凍るような日々もある。


 原子力発電所から流失している放射能の被害もかなり広範囲となり、決死の覚悟で事態の収拾に臨まれている作業員も被曝されたという報道が伝わり、痛み、嘆き、悲しみの中で人々の不安も増大し、未曾有の困惑だけが一面を包んでいる。復興に向けての歩みも始められているが、悲嘆は覆う術がなく、人はいつも痛みと悲しみを抱えながら生きていかなければならない。ただ、人はどんな状態の中でも生きていけるし、生きていく知恵もある。いたずらに薄っぺらな希望を振り回すよりも、黙々と歩むこと、そのことを改めて覚えたりしている。日本の社会の中で、とくに東北の人たちは、歴史的にも多くの辛苦をなめ、その中を忍耐強く、粘り強く生きてきた資質を宿されているのだから、その資質に深く頭が下がるのを今回も覚える。24日(木)に、こちらで「炊き出し支援」をしている人と少し話をしたりした。


 個人的には、風邪の症状の中で咳だけが残って、まだ風邪薬のお世話になっているのだが、辛さからはずいぶんと解放されてきた。体質になってしまっているのか、一度風邪を引くと回復に時間が掛かるようになってしまった。ただ、様々なことを受け入れ、受け入れして生きていくしかないと思っているので、精神的にまいることはなく、平常と変わりない。


 発熱で寝込んでいる中で読んだ小説のひとつに、佐伯泰英『密命 弦月三十二人斬り<巻之二>』(2007年 祥伝社文庫)があるので、ここで記しておくことにする。  これは、2010年末で24巻を数える長大なシリーズとなっている剣豪小説で、江戸幕府の将軍家争いを演じて八代将軍徳川吉宗に敗れ、吉宗を激しく憎む尾張徳川家の陰謀と、その陰謀を阻止したために尾張徳川家から次々と送り出される刺客に立ち向かわざるを得なくなった直心影流の達人である剣客金杉惣三郎と、剣の道を究めようとするその息子清之助の活躍を描いたもので、その家族である長女の「みわ」、後妻の「しの」とその間にできた次女の「結衣」などの家族愛が盛り込まれ、穏和で質素、質実剛健の金杉惣三郎の人柄などが描き出されて、テレビドラマにもなる長大なシリーズとなっている。


 「巻之一」の『見参!寒月霞斬り』で、豊後相良藩(架空)の藩主を巡るお家騒動から藩主の密命を帯びて江戸で浪人生活をすることになった主人公の金杉惣三郎は、直心影流の秘剣「寒月霞斬り」を使って陰謀を粉砕し、この「巻之二」で『弦月三十二人斬り』で、豊後相良藩江戸留守居役として復命し、手腕を発揮して、藩主の厚い信頼の中で、倹約を励行する一方で藩の物産品の販路を広げるなどして藩の財政を立て直し、借財の返済を行い、藩政の立て直しに向けての日々を過ごすことになるのである。


 時はちょうど僅か四歳で七代将軍となった徳川家継が七歳未満で死去し、将軍家の跡目を巡って、徳川御三家である紀州徳川家と尾張徳川家(水戸徳川家には継嗣となる資格者がいなかった)が壮絶な争いをし、紀州の徳川吉宗が第八代将軍となることが決定した頃だった。


 しかし、吉宗の出生には、吉宗の生母が紀州和歌山城大奥の湯殿番という身分の低いこともあって(吉宗の生母は「御由利-おゆり-の方」と呼ばれる)、早くから疑義がもたれ、また、吉宗が紀州藩主となるにあたっては、継嗣であった長兄や次兄、父親までもが次々と死去したこともあり、御三家筆頭であった尾張徳川家の当主も若くして相次いで死去したことなどから、吉宗の将軍職就任にはいくつかの陰謀説が起こったりしていたのである。


 本書では、この徳川吉宗の出生を巡っての、その秘密を秘匿しようとする紀州徳川家と、秘密を暴露して吉宗の将軍職就任を阻止しようとする尾張徳川家の争いに小藩である豊後相良藩が巻き込まれ、相良藩江戸留守居役の金杉惣三郎も藩を守るための決死の働きをしていくということになっている。


 事の起こりは、相良藩主の夫人となった麻紀姫が相良藩下屋敷で月見の宴をしようとしていたところを何者かに襲撃され、麻紀姫の乳母であった「刀祢(とね)」が殺されたことに発する。江戸留守居役としての金杉惣三郎は、なぜ相良藩が襲われ、「刀祢」が殺されたのか、襲撃者がどのような背景をもっているのかなどを探るうちに、「刀祢」が、かつては将軍職に就こうとする徳川吉宗の乳母で、その出生の秘密を知っていたことを知り、また、襲撃者が紀州藩主に仕える忍びの集団であることを知っていく。そしてそこに吉宗の出生の秘密を暴露して将軍職就任を阻止しようとする尾張徳川家の暗躍が絡んでくる。  将軍職を巡っての尾張徳川家と紀州徳川家の争いに巻き込まれた小藩である豊後相良藩はひとたまりもなく潰されてしまう。江戸留守居役としての金杉惣三郎は、懸命に藩の存続のために働き、藩籍を離れ、再び一介の浪人となり、ことの収拾のために働くことにする。そして、「刀祢」が残した吉宗修正の秘密を記した証拠の書を巡って暗躍する紀州の忍び集団と尾張の暗殺集団に対峙していくのである。


 この展開の中で興味深いのは、吉宗の生母が和歌山城大奥の湯殿番であった「御由利の方」ではなく、実は朝鮮通信使に随行させられてきたマカオ生まれの異国の娘でキリシタンでもあったという奇想天外の発想が、無理なく、あり得るかも知れないという形で、しかも物語展開の鍵として設定されていることである。「巻之一」でも相良藩の藩主を巡る争いの元になったのが、藩主が集めたキリシタン本にあるということで話が展開されているのだが、こうした設定は作者独自の世界感覚ではないかと思う。


 興味深いことのもうひとつは、南町奉行になる前の大岡忠相(越前守)が、主人公を高く評価し、共に事態の収拾に向けて行動することで、それなりの人物として描かれていることである。大岡忠相については、既に江戸時代から数多くの講談や歌舞伎、そして近・現代の小説やドラマで名奉行として取り上げられ、人情溢れる庶民の味方、正義の士としてのイメージがほぼ定着しており、ここでもそうしたイメージで名判断を行う人物として登場している。  さらに、物語の流れの中で、金杉惣三郎自身や家族の姿が盛り込まれ、金杉惣三郎の長男である「清之助」がまだ自分の道が見いだせずに放蕩していく姿や長女の「みわ」の健気でそれでいてしっかりした姿、前妻亡き後に惣三郎と相愛になりながらも身を引いていた「しの」の姿と再会、その間に「結衣」という娘が生まれたことなどがあり、物語の主筋と剣豪としての活躍以上に、家族愛や周囲の人々への思いやりなどがあり、作品が単なる剣豪小説ではなく、家族愛を描いた作品にもなっていることが、作品が内包する豊かな妙味である。


 ただ、シリーズはその後もまれに見る長大なものとなっており、それらを読んで見ると、その後、市井で剣術道場を開くことになる金杉惣三郎や剣の道に邁進していく清之助の姿が、剣豪としてあまりにも並外れた理想的なものとなり過ぎているような気がしないでもない。それぞれの子どもたちがそれぞれの成長していく姿が克明に描かれているので、それはそれで面白いものになってはいるが、個人的には、剣の闘いの場面が人並みを越えているところは、どうもしっくりこない感があるし、作者のもうひとつの長大なシリーズとなっている『居眠り磐音 江戸双紙』と重なるところが多いような気もする。


 ともあれ、なぜこの作者の作品が極めて多くの人々に好んで読まれるのかは、分析に値するかもしれない。