2011年5月7日土曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 長屋あやうし』

 雨の土曜日になった。5日(木)の午後に同級生のT氏が美味しい珈琲と手製のコーヒーカップを手土産に訪ねてくれた。数十年ぶりで再会し、懐かしい話に花を咲かせた。卒業後、お互いに苦労は重ねたのだが、T氏は、演歌などの作詞も手がけておられて、そういう方面に無縁なわたしには、その話も興味深く伺うことができた。テレビドラマ用の「忠臣蔵」を多方面から捕らえた脚本を執筆中ということであった。

その夜、テレビドラマ向きと思われる少し軽いものをと思って、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 長屋あやうし』(2008年 双葉文庫)を読んだ。


 気づいてみれば、けっこうこのシリーズの作品は読んでいて、第一作の『はぐれ長屋の用心棒』、二作目の『袖返し』、五作目の『深川しぐれ』、七作目の『黒衣の刺客』、九作目の『父子凧』、十作目の『孫六の宝』、十二作目の『瓜ふたつ』、15作目の『おっかあ』の八作品を読み、この『長屋あやうし』は第十三作目の作品である。

 世の中の「はぐれ者」ばかりがすむ「はぐれ長屋」の住人である傘張り牢人の老剣客の華町源九郎を中心に、居合いの達人でありながら大道芸で生活を糊口している将棋好きの菅井紋太夫、還暦を過ぎて岡っ引きを引退し、娘夫婦の世話になっている孫六、親方と喧嘩をしてしがない包丁研ぎをしている茂次、砂絵を描いて見物料を取ることで暮らしを立てている三太郎の五人が、それぞれの特質を生かしながら市井の人間として諸悪と闘っていく姿を描いたこのシリーズは、第一作の初版が2003年だから精力的に書き続けられた息の長いシリーズになっている。

 この『長屋あやうし』は、彼らが住んでいる通称「はぐれ長屋」と呼ばれる貧乏棟割り長屋である「伝兵衛長屋」が、深川の闇世界を牛耳る男に目をつけられて、地回り(やくざ)を使った乱暴狼藉によって立ち退きを迫られるという危機に直面した話である。闇世界を牛耳る男の正体は不明で、正体を巧妙に隠しながら、「伝兵衛長屋」の家主である材木問屋の息子を博打でつって誘拐し、家主の材木問屋を脅して巧妙に長屋に入り込み、乱暴狼藉を働いて住人たちの追い出しを図るのである。

 住民たちが不安と恐怖を覚える中で、華町源九郎ら五人は、それぞれ手分けして、事柄の真相と陰で操る闇世界を牛耳る男の正体を暴き出し、住民追い出しに雇われていた乱暴者の破落戸や凄腕の牢人たちと対峙し、「はぐれ長屋」を救っていく。

 このシリーズには、ひとつのパターンがあって、巧妙に仕組まれた悪と、その悪に雇われた凄腕の牢人といったものに「はぐれ長屋の用心棒」たちが対峙し、その悪を暴いて、孫六を初めとする茂次や三太郎が探索をし、剣客である華町源九郎や居合いの達人である菅井紋太夫が剣客として悪に雇われた凄腕の牢人と立ち会い、かろうじて勝利していくというもので、勧善懲悪の思想の問題もあって、通常はこういうパターンが繰り返されるとシリーズの途中で飽きがくるのだが、それぞれの人物描写や物語の展開があり、作者の手法もあって、「水戸黄門の印籠」のように、ある意味では安心して読めるものになっている。

 そうした意味では娯楽時代小説としては気軽に読みやすく読める作品群と言える。また、長いシリーズになるとそれぞれの人物たちの背景や物語があって、人物がそれぞれに浮かび上がってくるので、それぞれの主人公たちの抱えている問題が描き出され、人はそれぞれに喜怒哀楽を抱えながら、それぞれに生きているということが示され、それが面白味を出すものになっている。勧善懲悪はリアリティーを欠くのだが、それを避けるために、主人公たちが斬られたり傷つけられたりしていくという工夫が施されているところも作者ならではではないかと思う。

 最近の小説は、文学作品も含めてなのだが、映像ということが意識されているのか、人の思いや心情、思想というものを深く掘り下げるような作品が少ないが、娯楽物ということでは、それはそれでいいのかも知れないと思っている。そうなると、読ませる展開と作者の力量というものが作品の出来不出来に大いに関係してくるのだが、鳥羽亮にはその力量があると読みながら感心したりした。

2011年5月5日木曜日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 子授け銀杏』

この連休は全体的にあまり天気が優れず、今日も曇り空が広がり、気温が低い。予想に反して各観光地では大勢の人出があり、高速も渋滞しているとの報道がされ、ここでも、東名高速の青葉インターの近くということもあって旧大山街道である246号線も渋滞している。各地に出かけた人たちのインタビューで、「少しでも消費をすることで、被災した人々の復興になれば」という声をたくさん聞いて、この国の人たちは本当に思いやりと優しさに満ちているという気さえした。もちろん、個人的にはいろいろだろうが、こういう気持ちが国を動かすものになってほしいとさえ思う。

 彼の地では、国際的テロ組織の指導者が米軍によって殺害され、大統領が「正義がなされた」と宣言したことが報道された。国民の90%がそれを支持しているともいわれる。だが、いかなる正当な理由があるにしろ、殺人によって行われた行為を「正義」と呼ぶことはできない。報復や仇討ちが忍耐によって断ち切られるところにこそ人の豊かさは芽生える。

 そんなことを感じながら、坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 子授け銀杏』(2006年 双葉文庫)を一気に読んだので、ここに記しておくことにする。この書き下ろしのシリーズは、前に五作目の『あやめ河岸』と十一作目の『盗賊かもめ』を読み、これは六作目の作品だから、飛び飛びにぽつりぽつりと読んでいることになるが、作品がそれぞれに独立した展開になるような工夫がされているので、それぞれに面白い。

 また、書き下ろしとは思えないような文章の巧みさがあって、たとえば、本作の第一話「白鼠」で、琴三味線卸の大店の出戻り娘が殺され、内濠に死体となって浮かんでいるのが発見された情景で、「汀の舟寄せには荷を積んだ小舟がつぎつぎに漕ぎよせ、荷役夫たちが忙しなく働いている。川端には車力や出職や少女たちが行き交い、いつもと同じ朝のいとなみがはじまっていた」(54ページ)とあり、何ら変わらない平凡な日常の中で、胸に匕首(短刀)を突き立てられた娘の死骸が川面に浮かぶ残酷さが、生と死の対比として描き出され、そこにこの作者の人間の日常を鋭く見る目を感じたりする。

 本作には「白鼠」、「月夜に釜」、「木更津女」、「子授け銀杏」の四話が収められ、第一話「白鼠」は、飢饉に襲われて年貢が払えなくなり、両親も死んでしまって佐渡から逃げてきた兄弟が、江戸で途方もなくしているところを三弦師(三味線作り)に助けられて育てられ、兄はその三弦師の親方の世話で琴三味線卸の大店で、くるくるとよく働くので「白鼠」と呼ばれるほどになり、その大店の出戻り娘と結婚して暖簾分け(店を構えること)の話が進むが、三弦師の娘と恋仲であり、その義理と恋の狭間で悩んでいた時に、琴三味線卸の大店の出戻り娘が殺されてしまうという事件を取り扱ったものである。

 「白鼠」と呼ばれた兄に殺人の疑いがかかる。主人公の浅間三左衛門は、その兄と恋仲である三弦師の娘が町でからかわれているのを助けて知り合い、その殺人事件に出くわして、兄の疑いを晴らすために動き出し、その殺人に、その大店のどら息子を利用した強欲な金貸しが絡んでいることをつきとめて行き、事件の解決に臨んでいくのである。

 逃散(田畑を捨てて逃げてしまうこと)しなければならなかった兄弟の姿や、義理と恋の中で恋を取る兄の決意、また事件の探索に向かう主人公の足取りなど、この作者ならではの丁寧な展開がされている。もっとも、悪が強欲な金貸して凄腕の用心棒を雇っているというのは、少しありきたりの気がしないでもないが、中年の痩せ牢人である主人公が、思わぬところで三味線をつま弾いたりするのは、作者が語り出す主人公の面白さであり、それがこのシリーズの柱ともなっていて、その人間味が面白い。

 第二話「月夜に釜」は、主人公の狂歌仲間の友人である定町廻り同心の八尾半四郎の父親で元同心の八尾半兵衛を中心とする物語で、八尾半兵衛は隠居して、親子ほども年の違う宿場女郎だった娘に惚れて、彼女を身請けして一緒に静かに暮らしているが、ある夜に辻斬りに出会うのである。そして、その辻斬りが落としていった印籠から、元強盗が廻船問屋の商人となり、津軽藩江戸留守居役と結託して抜け荷(密貿易)を企んでいる事件と関わっていくのである。

 ここにも辻斬りをしなければならなくなった南部藩の牢人の夫婦の悲哀などが盛り込まれて、物語の幅と深みを与えているし、老いた八尾半兵衛の活躍が光る仕掛けがされている。

 第三話「木更津女」は、主人公の浅間三左衛門が惚れて一緒に暮らしている十分の一屋(仲人業)をしている「おまつ」の、人はよいがどうしようもない遊び人の弟「又七」の恋の顛末を描いたもので、彼が惚れた女のために十両を工面しようとして、知り合った奇妙でユニークな牢人と一緒に、強欲な金貸しから金を痛快にせしめていく展開になっている。

 第四話「子授け銀杏」は、照れ降れ長屋に越してきたばかりの面白い牢人が、芸者に惚れ、その身請けの金の工面を牢人の人柄の良さもあって長屋中で手伝ったが、その牢人が切り刻まれて殺され、川に浮かんでしまう。彼が惚れた芸者も悲観して身を投げてしまう。牢人は、元久留米藩の勘定方(計理)で、藩の勘定奉行の不正を暴いたために、反対に藩を追われて牢人となっていたのである。義憤を感じた浅間三左衛門は、同じ長屋に住む牢人と事件の真相を探ろうとする。その事件の裏に、金満家で鳥屋をして金貸しもしている男と結託して、性悪な元勘定奉行の次男が絡み、不正告発の逆恨みがあることがわかり、小太刀の業を駆使して、殺された牢人と芸者の無念を晴らしていくのである。

 この第四話で、主人公の浅間三左衛門と「おまつ」が雑司ヶ谷にある鬼子母神の「子授け銀杏」に参ったりしながら、ふたりの間に子どもができたことが語られ、中年になって子どもを持つことの嬉しさが語られたりする。

 ここに収録されている作品は、取り扱われる事柄が昨今の時代小説によくあるものではあるのだが、登場人物がそれぞれユニークで、それぞれに妙味があって、それだけに読ませる作品になっている。構成も文章も書き下ろしとは思えない出来が保たれていると思う。

2011年5月2日月曜日

羽太雄平『芋奉行 青木昆陽』

 薄く雲が広がっているが、予報では雨は降らないと出ていたので、朝から寝具を洗濯したり干したり、寝室のカーテンを洗ったりして家事に没頭していた。それから、今年は数十年ぶりくらいにこの連休に特別な予定はないので、以前から手を着けてまだ終わらない原稿の整理などをしていた。近くのホームセンターに日用品の買い出しにも行こうかと思っている。

昨夜は少し疲れも覚えていたのだが、作った「肉じゃが」がいたく美味しくできて、「これはうまくいった」と思いながら、羽太雄平『芋奉行 青木昆陽』(1997年 光文社)を読んだ。

これは、江戸中期に幕府の飢餓対策の農作物となって関東地方に広まっていったサツマイモ栽培の試作を行い、後に「甘藷先生」とまで呼ばれた儒学者青木昆陽(1698-1769年)についての伝記小説ではなく、青木昆陽が大岡越前守忠相の命を受けて徳川領となっていた甲斐(甲府)の古文書調査を行ったことに基づいて、その昆陽が幕府の甲府埋蔵金探索に用いられたという設定をした、ある種の秘宝探索の冒険小説である。

 江戸南町奉行を長年勤め、名奉行と人気を博した大岡越前守忠相は、その後、寺社奉行となり、大岡越前守に見出された青木昆陽はその配下として古文書調査を行っているが、この作品では、その際に公儀お庭番が同行することになり、お庭番は、困窮していた江戸経済を救うための一策としての武田家の埋蔵金探索を密かに大岡忠相から命じられ、昆陽の古文書調査の名目をかりて、昆陽をも巻き込んで探索を行っていくという筋書きになっている。

 作中の人物がユニークで、青木昆陽はあまり風采のあがらない独身男であるが、儒学者らしく洞察力に優れたところがあり、古文書調査を命じ、お庭番まで同行させた大岡越前守の真意を察していく人物であとして描かれている。また、荷物持ちの中間として同行することになったお庭番は、忍びの者としての相当な力量をもっているが、ケチで金勘定にうるさく、また、昆陽の用心棒という形で同行して剣の修行をしようとする旗本の次男坊は、どこかのんびりしたところがあって、この三人が、埋蔵金探索を阻止しようとする旧領主の柳沢家との争いを展開していくのである(五代将軍綱重のお気に入りとなり権勢を誇った柳沢吉保は甲府領主となった)。

 もちろん、実際に武田家の埋蔵金などは発見されていないのだから、昆陽らの調査によって埋蔵金が埋められているらしい場所は見つかるが、柳沢家によって爆破され、真偽がわからないというところで結末となるのだが、甲州街道を旅していく過程での姿や、昆陽の妻女となる大柄の女性との出会など、随所に作者の想像力が発揮されて面白く読める。

 この作者の作品は初めて読むが、かなり綿密な歴史知識に基づいて、しかも縦横にそれが自然な形で織り込まれているので、物語として面白いものになっている。本のタイトルから青木昆陽について書かれた作品かと思わせられるので、タイトルで損をしている気がしないでもない。作者には1991年の作品で第2回時代小説大賞を受賞した徳川家康の秘宝を巡る争いを描いた『本多の狐』という作品があり、こうした展開はお手の物のような気もする。

 青木昆陽という人は、学者としては極めて真面目だがあまり面白味のない人だと思っていた。しかし、こういう作品で描かれると親近感が湧くのは間違いない。昆陽を描いた小説に、わたしは初めて出会った。

2011年4月29日金曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 湯けむり浄土』

 薄く雲が広がり気温も低めだが、爽やかで新緑が嬉しい。昔「天皇誕生日」だった今日を「みどりの日」とはよく名づけたものだとつくづく思う。今朝、起き出して新聞を取りに玄関に行った時に数冊の時代小説が置いてあることに気づき、どなたが置いてくださったのだろうと思っていたら、脚本などを手がけておられるT氏が訪ねてきてくださったようで、せっかくおいでくださったのに、昨日は外出して会えずに残念だった。ブログをご覧になって連絡をくださり、彼が同級生だったことが最近わかって、今度会うことにしている。

 閑話休題。高橋義夫『花輪大八湯守り日記 湯けむり浄土』(2004年 中央公論新社)を読む。これは先に読んだ『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』(2009年 中公文庫)のシリーズ第一作目の作品で、現在の山形県新庄市の肘折温泉の湯守りとなった主人公の花輪大八のユニークさや当時の雪深い湯治場を巡る人々の人間模様、関わっていく事件の展開や全体を包んでいる大らかさなどが面白く、その第一作目の主人公が湯守りとなる経過を描いた一作目を読んだ次第である。そして、この一作目も、一気に読むことができる面白さをもった作品だった。

 山形新庄藩で在郷の代官を務める六十石の花輪家の次男の部屋住みであった大八は、城下で横暴を振るっていた黒川武平に捕らわれた友人を救い出すために武兵と対決し、祖父から習った具足術で武平を傷つけるが、大事にしないために私闘とされ、喧嘩両成敗ということで城下を追放され、兄や周囲の人々の計らいで雪深い鄙びた湯治場である肘折温泉の湯守りとなる。

 主人公の剛胆で物怖じしないが思いやりのある真っ直ぐな気質は、湯治場の人々に受け入れられ、湯治宿や村の人たちからも次第に認められるようになっていく。その中で、病を抱えた武士の親子と出会い、その武士が仇打ちの旅にあることを知っていく。だが、武士の病は重く、ようやく仇のいるところを探し出すが、その仇も銀山で働くうちに死病を患っていることを知る。やがて、武士の親子が仇と狙う相手は銀山で史に、武士も、己の一分を通しながら死んでいく。そして、大八は残された息子を湯治場の医者のところで働き、医者になるように計らっていくのである。

 そうしているうちに、私闘で破れた黒川武平が修行を積んで私闘の決着をつけるために現れる。花輪大八と黒川武平は雪の中で闘いを繰り広げ、、二人とも雪崩に巻き込まれてしまい、武平はもはや闘うことができなくなって私闘に決着が着いていく。

 こういう展開が、鄙びた肘折温泉の風情やそこで暮らす人々の暮らしぶり、主人公の大らかで物事に執着しない姿などを合わせて、時にはユーモラスに、時にはシリアスに描かれて、物語全体に何とも言えない柔らかな雰囲気が包んでいるのである。山形といえば、今頃は桜がきれいだろう。

 こうした作品は、疲れた時など、本当に気楽に読めていい。このシリーズは、第二作目があるので、機会があればそれも読んでみたい。

2011年4月27日水曜日

鳥羽亮『子連れ侍平十郎 おれも武士』

 晴れてはいるが、上空を風がごうごと唸りを上げて吹き抜けているのが分かる日になった。午後から明日にかけて天気がくずれるとの予報が出ているし、東北地方でも豪雨が予想されている。雨は地震で緩んだ地盤では災害ももたらすし、放射能の土壌への染み込みが案じられし、復興の作業にも困るだろうが、舞い上がった粉塵を鎮め、すべてを洗い流してくれる気もする。

 昨夜は爽風に身を委ねながら、鳥羽亮『子連れ侍平十郎 おれも武士』(2009年 双葉社)を一息に読んだ。これは、先に読んだ『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』(2004年 双葉社)の続編で、やはり、読ませる力量があって面白いと同時に、家族を大切にする現代的な視点もあると感じたりした。

 東北のある藩の政権争いに巻き込まれて、六歳になる娘の「千紗」のために娘を連れて江戸に出奔し、江戸で自分たち親子の窮乏を救ってくれた町道場の争いにも巻き込まれ、殺された道場主のひとり娘「佳江」の願いもあって道場を引き継いだ長岡平十郎は、上意討ち(主君の命によって討ち果たすこと)が降った執拗な藩の追手と、町道場の争いで破った男の凄腕の弟の両方から命を狙われるという二重の危機に直面する。

 長岡平十郎の命を狙う二組は、それぞれに剣の遣い手であり、町道場の争いに敗れた男の弟は、平十郎の道場の門弟たちを次々に殺していくし、藩の追手は、互いに思いを寄せ合うようになった「佳江」と娘の「千紗」を人質にとって、平十郎を争いの場に引きづり出そうとする。その危機の中で、それぞれに緊迫した争いが展開され、平十郎は「平常心」を取り戻すための修練を重ねて、これと対峙する。剣客どうしの争いが展開されていくのである。

 長岡平十郎は、彼を慕う門弟や元の藩の武士たちの助けもあって、何とかこの危機を乗り越えていく。そして、やがて国元の藩でも、彼を上意討ちにしようとした家老の衰退や状況の変化によって、彼への上意討ちが取り消され復藩が可能になる。だが、長岡平十郎は、初めの思いを貫いて、藩に戻らずに娘の「千紗」と相愛になった「佳江」を守って生きる道を選んでいくのである。

 作品の中で、病で母を亡くした娘の「千紗」(この作品では七歳になっているが)と、先の婚家で娘を亡くして出戻りとなっていた「佳江」が、互いに母娘としてお互いの絆を、特に人質とされた不安の中で強めていく話や、長岡平十郎と「佳江」の互いの思慕が深まっていく姿が丁寧に描かれて、このもまた物語の展開に深く味を添えるものとなっている。

 子どものために武士の一分を捨て、「子連れ侍」と揶揄されても、自分が愛し、大切に思うもののために生きることこそ「武士」という思いが、この表題となっていて、少なくてもわたしのような人間にとっては、それが読ませる力となっている。ただただ愛する者のために生きる、それは絶大な力と豊かさを持つ。剣の争いの場面でも、「平常心」をもつことの重要性が強調されているところが、すこぶるよい。もっとも、こういう武士の姿は最近の時代小説ではおなじみのものになっている感はあるが。

この作品は、先の『江戸の風花』との二作で完結しているのだが、またシリーズとなって書かれるかもっしれない。父親を慕い、案じ、またしっかり自分を保とうとする「千紗」の成長を見てみたい気もする。

2011年4月25日月曜日

鈴木英治『手習重兵衛 母恋い』

 めまぐるしく天気が変わり、少し家事をしようと掃除をし、洗濯物を干したと思ったら雨が降り出し、慌てて室内に入れたら晴れてきて、また干し直すことを繰り返したりした。でも、日常がこうして流れることも悪くないし、むしろ貴重なことだろう。柔らかな言葉を書き綴ってくださったメールをいただき、それをじっくり読みながら朝の時が過ぎていった。

 土曜日の夜に、鈴木英治『手習重兵衛 母恋い』(2009年 中公文庫)を読んだ。この作者の作品は、以前、『父子十手捕物日記 情けの背中』(2008年 徳間文庫)の一冊を読んで、親子の情や愛する人間の思いやりとか心情とかが柔らかく書かれる中で捕物帳ものとしての面白さもあって、娯楽時代小説としてはなかなかの味のある作品だと思っていたので、これを手にとって読んでみた次第である。

 これもシリーズもので、本作は、ある藩を出奔して江戸の白金村(現:港区白金)で手習い所師匠をしている興津重兵衛を主人公にしたシリーズの7作目だが、軽妙な語り口の中で様々な人間模様が描かれて軽く読める読み物になっている。もちろん、軽く読めるといっても、主人公が、深い事情があって友人を殺して出奔したという重荷を背負った人物であり、取り扱われる事件が軽く扱われているわけでも人間観が浅いわけでもない。

 ただ、主人公の友人となった奉行所定町廻り同心「川上惣三郎」と彼を慕っている中間で事件の探察を手伝う「善吉」の掛け合い漫才のような会話の軽妙さが光って、物語をユーモラスに仕立てているので、そうした印象が残るだけなのであり、また、その「川上惣三郎」と対称的な主人公の「興津重兵衛」の寡黙だが剣の腕も明晰で判断力もあり、思いやりも深くて、美男で、恋する女性に一途な姿も、理想的すぎると言えば理想的すぎるところや、彼が恋する女性も思いやり深く一途であるところなど、それぞれが典型的な人物となっているところなどが、あまり肩が凝らずに読めるところである。

 本作では、興津重兵衛を仇だと偽って保護を求めて転がり込んできた掏摸として育てられてきた女性のことから米問屋の乗っ取り事件に繋がっていく事件の顛末が描かれるのだが、事件の顛末はともかく、そこに手習い所に通ってくる子どもの産みの親を慕う姿やすりの娘と彼女を育てた掏摸の親方との関係、あるいは女に転がり込まれて困惑する主人公や恋人の姿など、それぞれに、ある程度の時代小説のパターンが用いられているとはいえ、それが巧妙に組み立てられているので、展開が面白くなっている。

 よくは知らないが、おそらく、このシリーズの作品もけっこう売れている作品だろうと思う。そういう要素がふんだんに盛り込まれているからだが、何故、こういう作品が現代の勤め人に好まれるのかを分析するのも面白いだろうと思う。もう少し読んで見てから、考えてみたいとは思っている。

2011年4月22日金曜日

佐江衆一『動かぬが勝』

「春霞」というほど天気は良くなく、肌寒い。かつて1923年に関東大震災が起こった時、時の首相を命じられた山本権兵衛は「帝都復興審議会」を直ちに創設し、震災の4週間後には「帝都復興院」が設立されて、総裁となった後藤新平(1857-1929年)はパリの区画整理をモデルにしたものではあったが、未来を見越した大規模な都市改造事業を含む復興計画を打ち出した。そこには土地の私有財産権を無視したことによる批判や莫大な予算の財源のための財界からの猛反対はあったが、これが未曾有の破壊的混乱の中にあった震災の4週間後に打ち出されたことは驚嘆に値する。いずれにしろ、復興を統一的に行う政府機関を直ちに設立したのである。

 マグニチュード9.3を記録した先のスマトラ沖の大震災においても、インドネシア政府は「復興省」を設立して統一的な復興に当たった。いまの日本政府は、まだ、その目途さえ立っていない。なぜ歴史に学んで復興と原子力発電所被害の問題に対して、少なくとも不安を払拭するためにこうした即座の対応を行わないのだろうかと疑問に思いながら、あちらこちらからばらばらに出されて齟齬を来し始めている復興策についての報道に接している。何でも一人でやりたがる「権力好き」が多いのかも知れない。

 閑話休題(それはともかく)、昨夜は佐江衆一『動かぬが勝』(2008年 新潮社)を読んだ。これは「動かぬが勝」、「峠の剣」、「最後の剣客」、「江戸四話」、「木更津余話」、「水の匂い」、「永代橋春景色」の七編からなる短編集だが、短編は長編よりも読むのに時間がかかる。物語の展開というよりもある場面や情景を切り取っていることが多いせいで、わたしのような「物語好き」にはどこか物足りなさを感じるためだろう。とはいえ、短編には短編特有の深みと余韻があり、この作品には特にその余韻が見事に表現されていた。

 最初の三編は、隠居した油問屋の老人が、老いて剣術を学び初め、剣術の試合に勝ちたいと焦るあまりにことごとく負けていたが、その負けを通して、焦らず、動かず、平静に間合いをとることを学び取っていく姿を描いた「動かぬが勝」と、息子を殺されたために仇を討とうと老いて動けなくなってしまった父親と孫息子を抱えながら苦労を重ねてきた老人と孫が、ついに仇と巡り会い、幼い孫の「無心さ」によって目的がようやく果たされた姿を描いた「峠の剣」、幕末を生き残った剣客が右手を失って侍を捨てて百姓をしていたが、県令(県知事)の横暴さの中で、自分の右手を切り落とした薩摩示現流の遣い手と同じ遣い手に出会い、剣客として勝負に挑み、「剣の間合い」を取ることに苦心してその勝負には勝つが、相手が引き連れてきていた鉄砲隊によって殺されてしまうという姿を描いた「最後の剣客」である。

 この三編は、いずれも「剣」というものを通して、「不動であること」、「待つこと」、「無心であること」、「平静に間合いをとること」を、そうありたいと願っている人間の姿を描いたものである。

 残りの四編は、いずれも「剣」ということとは無関係に、商家や料理屋などの下働きとして苦労させられているまだ幼い少年たちの年に二回しかない休日である「藪入り」の日の姿を通してその思いを描き出したり、木更津の船頭の恋や賭場の用心棒にまで落ちぶれた侍が捨てられた子どもと出会って、その子と暮らすうちに侍を捨てて家庭を持とうとする話であったりするもので、それぞれが味のある作品になっている。

 短編には情景描写も短編特有の切れ味が必要で、たとえば木更津の船頭の恋を描いた「木更津余話」の中で、心中に失敗して晒し者になっている男女を見た主人公の「茂七」が初めて惚れた女が、かつて心中で死に損なって遊女になっている女で、その女との最後の場面が次のような情景で描かれている。

 「月の光を全身に浴び、豊かな乱れ髪を海風になびかせ、月光がきらきらと煌めく海面を吸い込まれるように見つめている。十六夜の月の光は、昏い海の底深くまで射しこんで、この世の苦も悩みもない、男と女が身も心もひとつに解け合える水底の浄土へととどいているようである。
 女が茂七を見て微笑んだ。そして、手招いた。」(167-168ページ)

 こういう描写によって、幻想的な情景の中で主人公が惚れた女の手を取って自分が憐れだと思っていた心中へ誘われていくことを想像させるような幕切れとなっている。それは、男女のひとつの究極の愛の成就でもあり得る心中に至る独特の心象風景でもあるだろう。

 作者は1934年生まれだから、これを出された時は73歳か74歳で、老成された文章が光っている作品でもあるような気がした。