2013年2月18日月曜日

乙川優三郎『武家用心集』(1)「田蔵田半右衛門」


 雨になった。まだまだ寒いのだが、初春の雨といってもいいかもしれない。昨日は湯河原まで出かけて、少し梅がほころびているのをあちらこちらで見ることができた。梅には人を励ます力があると、いつも思う。西行が「願わくは 花にしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃」と詠んだ「花」は桜で、「きさらぎ」は今の暦では2月ではなく、3~4月頃だが、涅槃を願うわけではないから「きさらぎの梅のした」でも、わたしはいいかと思ったりもする。

 閑話休題。乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)を、感銘を覚えて読んだ。彼の作品は、以前、短編集である『五年の梅』(2000年 新潮社)と『霧の旗』(1997年 講談社)を極めて優れた作品だと思いつつ読んでいたが、この作品も、内容が豊かで短編としての切れ味や余韻が強く残る短編集だった。ここには、「田蔵田半右衛門」、「しずれの音」、「九月の瓜」、「邯鄲(かんたん)」、「うつしみ」、「向椿山(むこうつばきやま)」、「磯波」、「梅雨のなごり」の八篇の短編が収められている。これらは、いずれも優れた作品だと思うので、少し詳しく記しておくことにする。

 第一作「田蔵田半右衛門」は、偶然に行き会って助けた友人が不正を行っていたことでお咎めを受け、七十石の郡奉行から四十石の閑職の植木奉行へ減封され、藩内の失笑をかった倉田半右衛門が、人間不信に陥って、人との接触を避け、釣り三昧の生活を送っていたが、藩の重職である一人の武士や周囲の人々との出会いによって人間性を回復していく物語が記されている。

 三十歳の時のある夕暮れ、郡奉行であった倉田半右衛門が村廻りの疲れを覚えて城下を歩いていたとき、突然、一人を相手の斬り合いが始まる場面に出くわしてしまう。囲われていた一人は、城下の神道流の剣術道場の同門で気心がしれていた立木安蔵だった。咄嗟に倉田半右衛門は刀を抜いてその友人を助けたが、立木安蔵は、材木問屋と結託して不正を働いた家老の一味で、討手は上意討ち(藩命)だったのである。

 このことで、倉田半右衛門もとばっちりを受け、減封され、植木奉行に格下げされたのである。それ以来、家中で軽視され、倉田という姓にひっかけて「田蔵田」という蔑称さえつけられてしまったのである(「田蔵田」がどういう意味の蔑称なのかは、わたしにはよくわからないが)。彼は、これが自業自得であることを肝に銘じ、同じ過ちを犯さないためにできる限り人との付き合いをやめて、釣り三昧の生活を送っていたのである。

 四十石に減封されて生活が苦しくなったこともあり、釣果は家族の貴重な食料でもあった。彼には、妻の珠江の他に食べ盛りの男子が二人いた。しかし、妻の珠江は、何一つ不平を言うこともなく、慎ましやかに暮らしていたのである。

 そういうところに、半右衛門がお咎めを受けて以来疎遠になっていた兄の勇蔵が訪ねてきて、藩の重職である大須賀十郎が川の堤防工事で不正を働いた奸臣であるから、上意討ちとして彼を討ってくれと頼みに来る。倉田半右衛門は神道流の相当な使い手でもあった。

 大須賀十郎は、大雨が降ると冠水してしまう水立川の水を海に流すための掘抜工事を同じ問題を抱えていた隣藩と交渉して共同で進め、五年の難工事の末に完成させ、それによって藩内の実力者として台頭していた。

 兄は、この時の工事に不正があり、それを知った藩主の内意を受けて、大須賀十郎を密かに討つよう半右衛門を説得するのである。半右衛門はそれを断るが、息子たちの行く末を考えろと強引に押しつけてくる。

 妻の珠江は、その話を聞いて案じる。彼女は、夫が減封されても、家中で蔑視されても変わることなく半右衛門を支えてきた。ただ、半右衛門はそういう彼女や子どもたちにも楽をさせたいと逡巡し、一応、兄の話の真偽を調べることにする。

 ところが、彼が実際に調べてみると、大須賀十郎は兄が言ったような人間ではなく、傲慢なところもひとつもなく、むしろ、細かなところにも配慮している人物で、掘抜工事で私腹を肥やしたとか賄賂をもらったとかいうこともなく、工事の完成によって村々と藩に増収をもたらしたことが分かっていく。大須賀十郎は、真摯な姿勢で施策を実践し、行政のすみずみまで気を配るような優れた人物であった。

 お咎めを受けて以来、人に裏切られることを恐れて人づきあいを断っていた彼の調査を快く助けてくれた者の素直な態度も、倉田半右衛門は感じていく。また、大須賀十郎が通っていると言われた妾宅に行き、それとなく出かけていき、素足に草履を履いている質素な姿も目にする。その時、大須賀十郎を闇討ちしようとする数人の人影にも気がつく。

 これらのことから、倉田半右衛門は兄の依頼をきっぱりと断る。そのことで兄が怒り、義絶を申し入れられるし、内命を知っている自分や家族も危険に晒されることになるが、彼は自分の決断をもって行動することにする。

 倉田半右衛門が大須賀十郎の暗殺を断ったことで、大須賀十郎は他の者から命を狙われることになる。彼が妾宅と言われている家からの帰り道に夜襲をかけられるのである。大須賀十郎も直心影流の使い手だったが、そこに倉田半右衛門が駆けつけて大須賀十郎に助勢するのである。倉田半右衛門は、この時のあることを知って大須賀十郎を見守っていたのである。

 その後、大掛かりな藩の執政交代が行われた。大須賀十郎は筆頭家老となり、上意と偽って刺客を放ち大須賀十郎を闇討ちしようとしたのは、彼の台頭を快く思っていなかった家老たちであった。半右衛門の兄も罷免された。家老たちも半右衛門の兄も、藩の御用達商人と手を組んで不正を働き、私利を貪り、その証拠を大須賀十郎が握って追求しようとしていたために、彼を暗殺しようとしたことが分かっていくのである。

 これらの人たちへの処分を、大須賀十郎は藩主に願い出て軽くした。もし、倉田半右衛門が暗殺を引き受けていたら、その後に別の刺客が半右衛門を斬る手はずでもあった。危ういところで、彼は、人の噂や語ることではなく、自分の見たことと考えたことに従って判断し、それが彼を救ったのである。

 事件後、倉田半右衛門は四十石を加増された。かつてお咎めを受けた時よりも十石多くなり、大須賀から元の郡奉行に戻ることを進められるが、身分は、閑職である植木奉行のままであることを固持した。自分が出世すれば誰かが辞めなければならないと思ったからで、このまま隠居していくような目立たない生き方の方が自分にはふさわしいと思ったからである。「たとえ人には槁木死灰(こうぼくしかい)のように思われても、真実に忠をつくせばよいのであって、役目が何であるかは問題ではなかろう」(44ページ)と、彼は考えるのである。それに、大須賀十郎が通っていると言われていた妾宅は、実は病んだ大須賀十郎の実母の家で、大須賀十郎は実母の見舞いに通っていたのであり、倉田半右衛門はこの点での自分の不明を恥じた。「(人は、とりわけわしのような慌て者は、望みの少し手前で暮らす方がいいのかもしれない)」と、彼は思う。

 この作品の最後がまことに味わい深いので少し抜書しておく。最後の場面は、倉田半右衛門が磯の波打ち際に腰掛けて好きな釣りをし、その側には妻の珠江がして、少し離れたところで子どもたちが釣りをしているところである。

 「そう思っていたとき、珠江がまた話しかけてきたので、半右衛門は動きそうにない浮木から妻へ眼を移した。珠江はすがすがしい顔に陽を浴びて、くすくす笑っていた。
 『おとなりのつやさんに訊かれましたの、田蔵田って何ですのって、返事に困りました』
 『それで、何と答えた』
 『それはもう正直に、麝香鹿に似た獣だそうですと申しました・・・そうしたら、つやさん、あなたは鹿に似ていないって言うんですよ、わたくしおかしくって・・・』
 『・・・・・』
 『だって、どちらかと言えば馬に似ていますって言うんですもの』
 『あの娘がそう言ったのか』
 『はい』
 珠江はうなずくと、半右衛門を見つめて吹き出すように笑い声をあげた。
 『ふん』
 半右衛門は憮然とした。娘のちんまりした顔を思い浮かべながら何か言い返す言葉を探したが、うまい悪口は見つからず、珠江の笑い声を聞くうちに何となくおかしくなって自分も笑い出した。屈託のない珠江の笑い声を聞くのも、自ら笑うのも久しぶりのことだった。見ると、子供たちもこちらをみて笑っている。
 (これがまことの褒賞かな・・・)
 大須賀十郎という逸材とともに藩の将来をも救って一躍名を上げたにしては、半右衛門はつつましい感情を抱いた。しかし、心は十分に満たされていた。
 何よりも珠江や子供たちが自分の気持ちを分かっていてくれるのを感じながら、半右衛門はさらに大きな声で笑った。その声は磯に住む小さな生物たちを驚かしたらしく、あわてた船虫が蜘蛛の子を散らすように岩陰に隠れるのが見えたが、いつもとようすの違う釣人に驚いているようでもあった」(44-46ページ)

 う~む、とうなりたくなるような見事な結びと言えるような気がする。
 第二話「しずれの音」も、いい作品で、これについては次回に記す。

2013年2月15日金曜日

諸田玲子『幽霊の涙 お鳥見女房』

 今日は曇って寒い。天気が崩れて雨か雪との予報も出ている。このところ日替わりで天気が変わるが、これも冬から春への脱皮の特徴だろう。まだまだ寒い日が続く。

 先日、あざみ野の山内図書館に行った時に、諸田玲子『幽霊の涙 お鳥見女房』(2011年 新潮社)があり、このシリーズも久しぶりな気がして、借りてきて読んだ。本作はこのシリーズの6作品目である。

 江戸幕府のお鳥見役とは、将軍が鷹狩りを行う御鷹場を管理し、鷹狩りの準備をする役務で、御鷹場における密猟の防止や獲物となる鳥の餌づけ、また、鷹狩りの際の周辺農民の動員の管理などを行った。こうしたことは長年の経験が必要とされ、技能職として世襲されたようである。役料は80俵5人扶持の下級御家人であるが、鳥の生息状況を見るために大名屋敷にも入ることが許され、そのことから情報収集のための隠密として用いられることもあったと言われている。

 本シリーズは、代々そのお鳥見役である矢島家の主婦である「珠代」を主人公にしたもので、ころころとよく笑い、笑窪ができて、人情家で、明るく真っ直ぐな性格の珠代を中心にした矢島家が幾度もの危機を乗り越えながら生きていく姿を描いたものである。珠代には全くの赤の他人を、事情を聞かないで居候として受け入れていく度量の広さもある。登場人物たちは、それぞれに重荷を抱えて生きているが、珠代はそれらの重荷を包みながらほっこりした温かさを醸し出していくのである。下級御家人の懸命な姿がそれに重なっていく。

 お鳥見役には危険がつきまとう。珠代の祖父も、隠密として出かけた先で殺され、父の久右衛門と夫の伴之助もそれぞれに隠密として出かけた先で一時行くへ不明になるという出来事があった。父の久右衛門は、役務のために親しくなった女性を捨てて来ていたし、伴之助は人を殺したことで一時精神を病んだことがあった。二人とも、それぞれを重荷として背負うほどの良心の持ち主であり、その中で珠代はそれぞれを受け入れながら闊達に生活を送っていくのである。

 本作では、伴之助と珠代の子どもたちもそれぞれに成長し、長男の久太郎もお鳥見役として出所するようになり、次男の久之助も大番組与力の家に養子となり、長女の君江も次女の幸江もそれぞれに嫁いでいる。一時期、矢島家に居候していた石塚源太夫も、彼を敵としていた美貌の女剣士の多津と珠代の人柄に触れて結ばれ、源太夫の子どもたちもそれぞれに成長している。

 そして、珠代の父の久右衛門が亡くなって一年後の初盆の時に、それぞれが寂しい思いをしている中で、久右衛門の幽霊が出るという話から始まり、それが久右衛門と喧嘩別れをした幼馴染の友人だとわかり、みんなで久右衛門を偲ぶところから始まり、やがて長男の久太郎が祖父や父と同じように密偵として相模に出かけていくという話へと展開されていく。

 時は、老中水野忠邦が失脚したとあるから弘化2年(1845年)ごろのことで、弘化の前の天保の時に、大阪で大塩平八郎の乱が起こったり、アメリカの商船「モリソン号」が江戸湾にやってきたりして(いずれも天宝8年 1837年)騒然としており、江戸幕府は海防を急務のこととして諸藩にその任を命じたが、お鳥見役の矢島久太郎に隠密として下された任務は、その海防の様子と海防にあたる諸藩を探ることであった。

 しかし、諸藩には諸藩のそれぞれの事情があり、幕府の隠密などに探られたくないのだから、矢島久太郎も相模で案内役として雇った親切な男から崖から突き落とされて殺されそうになるのである。最も親切な顔をして近づいてくる者が最も手酷い裏切りをするのは世の常である。イスカリオテのユダではないが、裏切りは接吻と共にやってくる。

 矢島家では久太郎の行くへが案じられる。だが、久太郎は一命を取り留め、漁師の祖父と娘に助けられていた。彼は、一時は記憶を失っていたが、体調が回復するまでの半年余りをそこで過ごすのである。彼は自分の身分を隠さなければならなかった。漁師の祖父と娘は久太郎を気に入り、娘は恋心を抱くようなるが、久太郎は、不義理はできないと思いつつも一切を秘したまま体力の回復を待つ。

 そうしているうちに、石塚源太夫の次男の源次郎が、久太郎の行くへを案じている珠代や久太郎の妻の恵以のことを考えて、少年ながら単身で相模に久太郎を探しに来るのである。源次郎は、まず、久太郎が案内役として使っていた男のところに行く。ところがその男こそ久太郎を殺そうとした人物で、そのことを知った久太郎は、世話になった漁師の祖父や娘にきちんとしたことを話さずに、源太郎のところに駆けつける。

 源太郎は案内役の男の人質となっていた。彼は金で雇われた男だが、源次郎を人質として久太郎ともども殺そうとする。その急場を漁師の娘が救う。それによって久太郎は江戸に帰ることができた。しかし、彼は自分の命を助けてくれた漁師の祖父への恩義と、その娘の恋心を知りつつも無視してきたことを悩む。

 娘は、久太郎を諦めることができないのか、久太郎を殺そうとした事件の背後を探り、江戸まで出てきたりする。久太郎の妻恵以はそのことで悩んだりするが、珠代は、その娘と会って、久太郎のことを話し、その事件の背後にはいろいろな複雑な事情があるから娘に深入りしないように語る。だが、不幸にも、娘は、事故か殺人かは判然としないが、崖から落ちて死ぬ。

 やがて、珠代は、ひとり残された漁師の祖父のことを案じて相模まで出かけていき、祖父は珠代の行いにすべてを悟って、またその姿の温かさに触れて、じっと穏やかに耐えていく姿を見せる。

 物語はそこで終わるが、そのあいだに石塚源太夫の娘の恋や居候となっている珠代の従姉の姿などが盛り込まれたり、子どもができないことで悩んだりする姿が描かれたりしながら、軽輩の御家人ではあるが、明るく、温かくしっかりと生きている家族の物語が展開されていくのである。

 あっさりとした文章で物語が展開されていくが、最後の場面で、孫娘を失い孤独に耐える漁師とその傍らで娘の墓に手を合わせる珠代が海を眺める姿は、なんとも味わい深い光景である。不幸に寄り添いながらも前を向いて生きる。この作品の主人公の珠代は、そんな女性である。

2013年2月13日水曜日

坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎』


 雪の予報も出ていたが、穏やかに晴れてきた。気温も、決して高くはないが、雪が降るほどの低さではない。昨日、北朝鮮が核兵器の地下実験を行ったことが報じられた。自分の力を保持して誇示するために兵器をもつという貧しい発想が、まだ世界には根強く残っているのを改めて感じる。国にしろ個人にしろ、地位や立場などというつまらないものは捨て去ったほうが遥かに生きやすいだろうに、と思ったりする。

 そんなことを思っていたが、その中で、坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎』(2010年 角川文庫)を気楽に面白く読んだ。この書き出しが、振るっている。

「天保九年如月。
腹あ減った。
もう一歩も動けぬ」

というもので、こういう書き出しで描かれる主人公の「あっけんからんとした」姿が彷彿させられるものである。

 物語は、播州龍野藩(現:兵庫県南西部)から江戸に出てきた田舎剣士毬谷慎十郎の活躍を描いたもので、彼が播磨の小京都と呼ばれるほどの美しい龍野から埃が舞い上がる江戸に出て、とうとう路銀も尽きて空腹で道端にひっくり返るところから始まる。

毬谷慎十郎は、龍野で剣術道場を営む親から勘当同然のようにして江戸に出奔してきて、浪人となったのだが、本人はそのことを意にも返さず、剣豪ひしめく江戸で名を挙げ、いつかは故郷に錦を飾りたいと思っていた。六尺を越える偉丈夫の体をもち、自由奔放で型破りながらも、素朴で真正直な彼の江戸での生活は、空腹で倒れるとことから始まり、江戸市中を騒がせていた「黒天狗」という強奪や殺戮を繰り返す一味との決着へと向かうことになる。

まず、往来でブッ倒れた彼に飯粒を与える願人坊主が現れ(この願人坊主は実は龍野藩の隠密)、次に同じような浪人によって飯を恵んでもらう。この浪人は恩田信長と名乗り、最初は毬谷慎十郎がもっていた刀を狙っていたのだが、それが失敗して、なぜか彼が気にいって世話をしていくのである。毬谷慎十郎は、その磊落さで人を惹きつけるものをもっていた。

それから彼の道場破りの日々が始まっていく。毬谷慎十郎は、単純に江戸の剣豪との手合わせを望み、恩田信長は、彼が打ち破った道場からいくばくかの金をもらうという互の利害が一致しての日々である。毬谷慎十郎は強かった。彼は、藩の剣術指南役であった円明流の達人である父から剣術を学び、毬谷三兄弟の末子として剣名をあげ、その兄弟の中でも最も優れた資質をもつと言われていたし、さらに鳥取藩の深尾角馬が生み出した雖井蛙流(せいありゅう)を会得しようとして、父の勘気を買って破門させられたのである。雖井蛙流はあらゆる攻撃に対しての対応の技で、雖井蛙(せいあ)とは「井の中の蛙」という意味で、毬谷慎十郎は、田舎ではなく江戸で大海を泳ぎたいと思っていたのである。当時の江戸で剣名を覇せていたのは、剣聖とまで言われた北辰一刀流の千葉周作、直心影流の男谷精一郎、神道無念流の斎藤弥九郎などで、慎十郎は、いつかはこれらの人たちと手合わせをすることを望み、次々と道場破りをし、また勝っていくのである。

彼の江戸での生活は、そうした破天荒の日々で、道場破りで勝ったときに相手が渡す「袴の損料代」という、いわば口止め料を彼についていた恩田信長がせしめることで成り立っていたが、彼は金銭には一切無頓着で、恩田信長はそれで吉原に遊びに行ったりもする。

しかし、その彼が、斎藤弥九郎の練兵館に出稽古に来ていた咲という美貌の女剣士に見事に負けてしまう。咲は、子どもの頃に丹波道場という剣術道場をしていた父親が何者かに殺され、祖父のもとで育てられて剣を学んだ女性だった。毬谷慎十郎は、自分を負かせた咲のいる丹波道場に居候として転がり込むのである。咲の祖父丹波一徹は、千葉周作の兄弟子で、丹石流の達人だったが、笹部右京之介という男に後ろから背中を斬られ、弟子を取るのをやめて咲と二人で暮らしていたのである。

この笹部右京之介が、いわば毬谷慎十郎の宿敵となる。笹部右京之介は、大身の旗本の次男で、千葉道場で剣の修行を積み、天才と称されるほどの腕を持ち、官学の昌平坂学問所では神童と言われた逸材だったが、いつか捻じ曲がって狂気を帯び、千葉道場を破門されて冷徹な人殺しに変わっていった人物である。彼は、咲の祖父の丹波一徹がもつ秘剣を教えてもらいに行ったが、一徹から断られ、背を向けた一徹の背中を斬ったのである。

毬谷慎十郎が江戸に出てきたころ、江戸では大阪で乱を起こした大塩平八郎の残党を名乗る者たちが、徒党を組んで商家を襲い、強奪して、家人を皆殺しにするという事件馬頻発していたが、その背後に「黒天狗」と名乗る武士の一団があり、笹部右京之介は、その首魁だった。天保の大飢饉で逃散してきた百姓や浪人者を集め、彼らを煽って暴徒と化して襲わせていたのである。

この事件の背後に、天保6-7年(1835-36年)に起こった但馬(兵庫県)の出石藩仙石家で起こった「仙石騒動」があった。「仙石騒動」については、先に触れた海音寺潮五郎『列藩騒動録』の通りだが、幕閣の水野忠邦の意を受けてこれを裁いたのは当時寺社奉行であった脇坂安薫(わきさか やすただ)であるが、彼は本書の主人公の毬谷慎十郎が属していた龍野藩の藩主である。

脇坂安薫は、この「仙石騒動」の裁きで、やがて老中にまでなっていくが、寺社奉行の時、大奥の女中と谷中の延命院の僧の日潤、日道が淫行にふけっていた「延命院事件」を摘発して裁いたことで有名で、長槍の穂先を貂の皮で包んでいたことから、「貂の皮の名奉行」と言われていた。彼は長年寺社奉行を勤め、一度退いてから、再び幕閣として再登用されたのである。そこに幕閣内の政争があったことは間違いないが、剛毅さと反骨精神に富んだ人物であった。「仙石騒動」の裁きは、彼が再登用されてからの出来事である。

「仙石騒動」の裁きで、仙石家に肩入れしていた老中松平康任が解任され、その康任に仕えていた笹部修理も無役となった。旗本の笹部修理は康任の口利きで勘定奉行にまでなったが、相談役のような役割を果たしていた出入り旗本としての仙石家への出入りも禁じられた。笹部修理は、自分に対してこのような仕置を招いた脇坂安薫を逆恨みして、龍野藩の出入りの商人の家を次男の右京之介を使って襲わせたち、強欲な札差と結託してコメ相場を煽ったりしていたのである。もちろん、このあたりは創作である。

龍野藩脇坂家の家老の赤松豪右衛門は、これを察知して、「黒天狗」を名乗る旗本の息子たちへの対応を、剣の腕があって浪人となった毬谷慎十郎にさせようとするのである。赤松豪右衛門と毬谷慎十郎は少なからぬ因縁があった。それは、豪右衛門の一人娘の静乃が龍野で花摘みに出かけた時に山賊に襲われ、そのとき16歳の若侍が山賊を蹴散らして静乃を助けたのである。その若侍が毬谷慎十郎で、娘を助けられた豪右衛門が、何でも好きなものを所望せよと言ったところ、「姫をくれ」と言ったので追い返したということがあったのである。しかし、それ以来、娘の静乃は慎十郎に想いを寄せて縁談を断り続けていた。慎十郎が律儀に城勤めをするような人間ではない自由人であることを彼は見抜いてもいた。もし、慎十郎が藩のために命を落としたということにでもなれば、静乃も納得するのではないかと考えていたのである。藩の家老としても、また静乃の父としても一石二鳥を狙ったのである。願人坊主の源信は、彼の密命を帯びて毬谷慎十郎を見張っていたのである。

だが、「黒天狗党」の首魁が笹部右京之介であることの証拠を探ろうとして、源信は右京之介に殺されてしまう。毬谷慎十郎の日常生活を見ていた恩田信長も殺されてしまう。吉原で、拐かされて売られようとした茶屋の娘を助けるために吉原に行った毬谷慎十郎は、偶然いあわせた笹部右京之介と出会い、一度立ち会うが、適わないことを知り、丹波道場を出て市中をさすらうようになる。そして、ふとしたことで札差にやり込められている貧乏御家人を助けたことから、その札差の用心棒となる。

ところが、その札差が、実は笹部修理と組んで、右京之介を使って市内の米問屋を襲撃させ、米の値段を釣り上げているような人物であった。毬谷慎十郎は、そういうことのからくりを見抜いて、札差と修理を川に叩き込み、右京之介と対峙して、これを討つのである。

こうした物語が本書で展開されているのだが、自由奔放で磊落ながらまっすぐに突き進み、義理堅い主人公の姿の描写の中で、人助けがあったり、吉原でのいざこざがあったり、暴徒と化す群衆が出てきたり、それを操る人間や米相場や強欲な札差、私怨に走りつつも欲の皮が突っ張ったような旗本、剣劇や殺人剣の使い手のねじ曲がった性格、老剣士の教えや恋、そういういわば時代小説の面白さを構成するものが盛り沢山で、しかもテンポのいい文章で、面白く読めるようになっている。

隠密であり願人坊主の源信や食いつめ百姓から侍の格好をしている憎めない恩田信長といった人物は、途中で殺さずに、ずっと物語に中で生かしたほうが良いようにも思ったが、きちんとした歴史を踏まえつつもこれだけ盛り沢山な作品であるから、真に気楽に面白く読める作品だった。

2013年2月11日月曜日

海音寺潮五郎『列藩騒動録』(7) 仙石騒動


 気温は低いが、穏やかな冬晴れといってもいいだろう。かすかながらも春の気配を感じたりする。

 先週の土曜日にテレビ朝日で放映された滝口康彦原作の『上意討ち 拝領妻始末』を見た。友人で作詞家のT氏が放映を知らせてくださったので、おそらく、以前、小林正樹監督、橋本忍脚本、三船敏郎主演の映画のリメイクだと思って、元の映画を見ていないので、関心を持って見た次第である。主演は田村正和で三船敏郎とは本質的に味の異なる役者であり、拝領妻となる「いち」を仲間由紀恵が演じるのにも興味があった。

 放映されたものは、原作と異なり、藩主から拝領妻として「いち」を下げ渡された笹原与五郎の父親が中心の主人公となり、結末も全く異なっていたが、理不尽な藩のやりかたに穏やかな与五郎の父が激怒する場面は圧巻だった。ドラマでは「いち」は自害し、与五郎も斬られてしまうのである。最後に江戸に訴えに向かう与五郎の父が鉄砲で打たれるという結末はどうかな、と思ったが、結構見応えがあった。

 滝口康彦の本があざみ野の山内図書館にはないのが残念で、いつか九州に行くことがあれば、佐賀の彼の足跡を訪ねてみたいと思っている。

閑話休題。今日は海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版 2007年 講談社文庫)の下巻に記されている「仙石騒動」について記しておくことにする。

 「仙石騒動」とは、江戸時代の末期の天保年間(1830-1843)に但馬(現:兵庫県)の出石(いずし)藩仙石家で起こった騒動だが、逼迫した藩の財政政策を巡る問題であると同時に、人間の欲や嫉妬心、あるいは驕りと傲慢性が生み出した事件であるということができるかもしれない。

 この時代になってくると諸大名の財政はどこもどうにもならないくらいに逼迫していて、武士の生活は困窮を極めてくるが、出石藩も同様で、第六代藩主の仙石政美(1797-1824年)の頃になると、藩の借金は6万両にも及ぶようになり、藩の財政改革が急務のこととなってきた。

 そこで、家老であった仙石久寿(左京)は、勝手方年寄(財務責任者)で仙谷左京家の分家筋に当たる仙石久恒(造酒 みき)を解任し、筆頭家老になると自分の財政政策を強行した。彼の財政政策というのは、産物会所を中心にして生糸の専売と魚市場の育成などの、いわば重商主義的産業振興策と、家臣の俸禄の平均4割削減という緊縮、領民への御用銀の賦課という重税政策であった。

 産業振興策は頷けるとしても、これは家臣や領民の生活を踏みにじって藩庫を豊かにするだけのもののように見えなくもないし、このあたりに仙石久寿(左京)という人間の考えが透けて見えるような気もするが、他方、これに真っ向から対立した解任された仙石久恒(造酒)も、質素倹約の励行という従来のあまりに無策としかいいようがない方針しか持つことができなかったのである。

 藩主の仙石政美は、仙石左京の政策を支持し、強い権限を与えて、これを断行させたのである。このあたりに、家臣や領民の生活を何とも思っていない大名の軽薄さがあるのだが、人々の生活を犠牲にするような政策がうまくいくはずがない。左京の政策は頓挫し、藩主の政美は失脚していた仙石久恒を復権させて藩政を執らせるのである。こういう処置は、仙石久寿(左京)と仙石久恒(造酒)の対立を煽るようなもので、それがやがてこの騒動を生んでいく因となったのである。

 そして、文政7年(1824年)、藩主の仙石政美が参勤交代の途中で発病して、享年28の若さで死去し、嗣子がなかったために、江戸で隠居していた前藩主であり政美の父である仙石久道が後嗣を決めるための会議を開く会議を開くことにした。筆頭家老であった仙石左京は国元を代表してこの会議に出席するために上京するが、彼はその時に実子である10歳になる小太郎を同伴するのである。この行為が、敵対していた仙石久恒(造酒)の疑惑を招いた。左京が実子を後継に押すつもりだと考えたのである。実際、左京は小太郎を久道に謁見させるなどしており、「あわよくば」という考えはあったであろう。仙石左京家もまた藩主の血筋ではあったのだから。

 しかし、後継藩主決定の会議は、直系を重んじるということで、久道の四男で前藩主政美の弟に当たる道之助を元服させて久利とし、藩主に据えることに決するのである。久利は妾腹の子で、まだ幼く、父の久道が後見となった。そして、仙石久恒(造酒)が、左京が小太郎を同伴したのは「我が子を藩主にして主家を乗っ取るつもりだった」と久道に訴え、久道は左京を家老職から罷免させ、仙石久恒(造酒)が藩の実権を握るようになったのである。

 能力もないのに権力がだけは握りたがる人間というのはどこにでもいるものだが、わたしにはどうも仙谷久恒という人がそういう人物だったとしか思えない。彼は藩の実権を掌握したが、質素倹約だけしか打ち出すことができずに、藩財政はますます窮乏し、出石藩が再建されることはなかったのである。久道も、流石にここまで来て久恒(造酒)を解任し、今度は久寿(左京)を取り立てるのである。他に有能な人材はいなかったと思いたくなるが、そういう視点は久道にはなかった。人材は育てなければ生まれてこないが、出石藩にはその発想すらなかったのではないかと思ってしまう。造酒はまもなく病死する。

 ここから、再び藩の実権を握り、反対する者がなくなった仙谷久寿(左京)の増上慢が始まっていく。彼は家臣の扶持(俸給)を極端に減らし、商人からは運上(営業税)を厳しく取り立て、領民に御用金を課した。その割に、自らは、その頃の大名家でもしなくなっていた鷹狩りをしたり、瀟洒な生活をしたりして、贅と権力を楽しみ、息子の小太郎には老中首座の松平康任の姪を嫁に迎え、それを迎える時も、まるで大名のように振舞ったのである。中途半端に賢くて、少しお金が回り始めるとまるで成功したように思い込む人がいるものだが、久寿(左京)もそういう人間だった気がしないでもない。他の者が彼よりも愚かだったことは間違いないが。

 こういう久寿(左京)に対して、当然、家中から反発が起きる。特に政敵でもあった仙石久恒(造酒)の実弟であった酒匂清兵衛は、左京の息子の小太郎の婚儀に際し、老中首座の姪を嫁にもらうなどという大名家のような振る舞いから、「左京が主家を横領し、乗っ取ろうとしている」という訴えを後見であった仙石久道に起こすのである。この時、仙石左京の横領を証拠立てたのが勝手役(財務)の河野瀬兵衛という人物であった。

 しかし、小賢しい仙石久寿(左京)の巧みな弁舌にかなうわけがなく、久道は、反対に、酒匂清兵衛を蟄居、河野瀬兵衛を追放処分としたのである。これでますます仙石久寿(左京)は増上慢となっていく。

 追放された河野瀬兵衛は、自分は忠を果たしていると思っているから、この処分に我慢がならずに、仙石家の江戸詰め家臣であった神谷転という人物に自分の正義を訴えて、彼とともに幕府閣僚や仙石家の分家に訴えを起こすのである。この時の河野の訴状を海音寺潮五郎は克明に記しているが、読んでいてばかばかしくなるような内容ではある。

 老中首座であった松平康任と縁戚関係を結んでいた仙石左京は、その関係を巧みに利用して弁舌をもってこの訴えを退け、江戸南町奉行の筒井政憲に二人の捕縛を依頼する。筒井政憲としては老中の息のかかった依頼であるからこれを断りきれずに、河野を捕らえ、左京に引き渡すのである。河野瀬兵衛は、このとき天領であった生野銀山に逃げ込み、本来なら天領での捕縛は幕府勘定奉行の許諾が必要なのだが、左京はその違法行為を行うのである。老中首座の松平康任がなんとかするだろうという奢りがここでも顔を出すのである。左京は河野の処断を急いで、河野瀬兵衛に切腹させる。天保6年(1835年)のことである。ところが、神谷転は捕縛される前に虚無僧に身を変えており、虚無僧は町奉行の管轄下にはなく、仙石家に引き渡されることなく慰留されたのである。

 ここで、神谷転が帰属していた虚無僧寺の普化宗一月寺が、僧は寺社奉行の管轄に属し、しかもその独立性が幕府によって認められているから町奉行所で彼を捕らえることはできないはずだから、即刻釈放するように要求するのである。当時の虚無僧は、武士が一時身を変えるためのものでもあり、武家社会を支えるものとして認められていると主張した。そして、それを神谷転が所持していた河野瀬兵衛の訴状とともに寺社奉行に訴え出たのである。この時の一月寺の役僧であった愛璿(あいせん)という人の文章はなかなかのものである。

 この時の幕閣内でも、松平康任に対抗するものとして水野忠邦が権力掌握を狙っており、松平康任が絡んでいるこの騒動を取り上げて、将軍家斉に言上し、徹底的に調べるのである。これを調べたのは、後の日米修好通商条約などでも活躍した川路聖謨(かわじ としあきら)である。そして、江戸幕府は、仙石左京に罪有りとして、彼を獄門とし、息子の小太郎を遠島とした。そのほかも死罪で、藩主の久利も「家政不取締り」として、5万8千石の所領を3万石に減じられた。老中松平康任も罷免されている。

 海音寺潮五郎は、この騒動は、幼君の下で家臣の勢力争いが引き起こしたものだが、この騒動は極めて愚かな騒動だったと断じている。「井の中の蛙」的に、傲慢になり、時代や社会をよく読むことなく、訴訟を起こし、その結果、お互いに切腹させられ、しかも減封された結果しか産まなかった。

 出石藩仙石家では、この騒動のあとも、実は幕末期にもう一度お家騒動が起こっている。これについては、本作では触れられないが、何とも人材不足の結果としか言い様がないものである。ちなみに、第7代藩主の仙石久利は、幕府への反発もあり、尊皇派となって、戊辰戦争で新政府に恭順し、明治2年(1869年)には出石藩知事に任じられたが、翌年、家督を養子の政固に譲って隠居している。明治30年(1897年)に、享年78で死去。

 海音寺潮五郎『列藩騒動録』については、また、機会を見て書き記したいと思っている。

2013年2月7日木曜日

高橋克彦『鬼』


 昨日、気象予報士が大雪の予報を出していたが、ここでは、今朝は薄らとした雪化粧で、やがて雨に変わっていった。冬の入口では雨が雪に変わるが、春の入口では雪が雨に変わる。今日は一転して少し寒さが和らいだ日になっている。熊本のSさんから庭のチューリップが芽を出したとの便りを頂いたし、湯島天神の早梅も咲いたという。あと数回寒い日が訪れて、やがて春になるだろう。

 昨夜、平安期の陰陽師たちを描いた高橋克彦『鬼』(1996年 角川春樹事務所)を読んでいた。陰陽師の中では、何といっても阿部晴明(あべのせいめい 921-1005年)が著名であるが、本書では彼の師であった賀茂忠行(生没不詳)やその子の賀茂保憲(やすのり 917-977年)についても記してあり、これらの陰陽師については主として「今昔物語集」に記されているものである。

 陰陽師とは、古代中国で生まれた自然哲学や陰陽五行説に起源をもつ陰陽道に携わる者で、万物は陰と陽の二気から生じるとする「陰陽思想」と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるという「五行思想」が組み合わされて、自然界におけるその変化をよく観察して災厄などを判断し、人間の吉凶を占う実用的なものとして日本で発達したものである。それに、占星術や天文学の知識、道教や仏教、また神道などからも様々な事柄が取り入れられている。

 陰陽五行説は古代中国の夏の時代(紀元前2000年頃)ぐらいから始まって、周の時代(紀元前1000年頃から紀元前256年)にほぼ完成していたと言われ、天文学や暦学、易、時間の概念などと合わせて飛鳥時代(592-710年)に日本に伝えられ、それらが自然の災厄や吉凶判断の技術として用いられてきたのが陰陽道で、当初は渡来人の僧侶によって行われていたが、やがて朝廷への奉仕を目的として(つまり政治を占うものとして)、7世紀頃から陰陽師という者が現れてきたのである。

 平安時代の律令制が敷かれた7世紀後半から8世紀前半では、朝廷の政治組織として陰陽寮というものが組織化されて、天文の観察や暦の作成、吉凶の判断などが行われた。その頃には、道教の呪術や密教の呪法、占星術なども取り入れられ、やがて10世紀にはこれらを極めた賀茂忠行・保憲親子が登場してほぼ完成し、その弟子であった阿部晴明が卓越した才能を示し、宮廷社会から絶大な信頼を得ていた。

 こうした陰陽道の思想や技術は、今日では、一見すれば非実用的で非科学的な古臭いものに見えるが、当時の自然科学であり、観察眼の鋭さは相当のものがあったのである。陰陽師は、いわば、自然科学者であったのである。

 加えて、794年(延暦13年)に桓武天皇が都を平安京(京都)に移してから始まる平安時代は、日本史の中では古代から中世に至る過渡期のようなもので、奈良時代に制定された律令制度がほころびを見せると同時に、世襲による家職化が進んで、特定の摂関家による摂関政治が行われ、権門による独占や軍事帰属の台頭などで比較的どろどろした政争が展開した時代でもあった。こういう時代の中で、呪詛を行い、未来の吉凶を行う陰陽師は大きな力と影響力をもっていたのである。

 一般の社会風習としても魑魅魍魎が信じられ、これらの魑魅魍魎の力を呪術によって封じるとされた陰陽師は神秘的な存在として認められていたのである。特に、賀茂忠行や賀茂保憲、そして阿部晴明が活躍した10世紀は、右大臣まで務めた学識豊かな菅原道真が左大臣であった藤原時平に讒訴されて太宰府に流され、903年に悲憤のうちに死に、その後で天変地異が多発し、災厄が多く発生したことから、朝廷はこれを菅原道真の怨霊による祟りと恐れていた時代であった。

 まず、政敵の藤原時平が39歳の若さで病死し(909年)、時平の甥で醍醐天皇の皇子の保明親王、その息子の慶頼王が次々と病死し、930年には清涼殿が落雷を受けて多数の死傷者が出て、それを目撃した醍醐天皇も体調を壊して、まもなく崩御した。それらはすべて菅原道真の怨霊と結びつけられ、火雷天神と結びつけられ、朝廷は京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを沈めようとしたのである。道真を神と祭り上げることによって慰霊を図ったのである。道真を天神様とする天神信仰は全国に広まった。

 こうした時代背景の中で、賀茂忠行は、道教の呪術に加え、密教などの呪術信仰を巧みに取り入れて、陰陽道を天文観測や暦の技術中心であったものから宗教的・呪術的なものに変えることに成功して、朝廷や貴族の中で影響力を獲得していったのである。その子の保憲も視鬼(見鬼・・鬼を見る能力)に長けていたと言われ、特に暦の制定には大きな力を発揮したと言われる。その弟子であった阿部清明はさらに卓越した能力を持ち、その事跡は神秘化されていった。

 本書は、こうした陰陽師の姿を、「髑髏鬼」、「絞鬼」、「夜光鬼」、「魅鬼」、「視鬼」といったそれぞれの「鬼」との対決として、賀茂忠行の師にあたる陰陽寮の滋丘川人(しげおかかわひと)や弓削是雄(ゆげこれお)が活躍した866年から初めて、賀茂忠行、賀茂保憲、そして、阿部晴明で終わるように編まれた短編連作集である。しかも、単なる「鬼」との対決のファンタジーではなく、その裏に潜んだ出世欲や政争の出来事としてこれを取り扱っている。「鬼」は、もちろん魑魅魍魎的な存在ではあるが、人の力を越えるほどの力を持つ「恐ろしいもの」の代名詞でもある。「鬼」の解釈には種々あるが、「鬼」の存在が長く信じられ、また語られてきたことは事実である。

 そして、作者は、「恐ろしいもの」として信じられてきた「鬼」というものや怨念、祟りといったことがらを利用して、敵対する者を排除しようとしたり、自分の地位を向上させようとしたりすることに対して、陰陽師としての闘いを繰り広げる姿として、これらの人を描きだしていくのである。「鬼」は人の心の中に住むものである。

 「人を呪う」という精神は、極めて下劣な精神である。その下劣さに陰陽師たちがはるかに高い精神をもって立ち向かうというのが本書の主眼だろうと思う。内容そのものやいくつかのエピソードは「今昔物語集」から取られており、作者がそれを駆使して作品を書いたことがよくわかる作品だった。

2013年2月4日月曜日

風野真知雄『痩せ神さま 大江戸落語百景2』


 如月の声を聞き、昨日は節分で、季節の分かれ目だった。この2~3日は春を思わせる天気が続いたが、水曜日は雪の予報も出ているし、春はまだ遠くにいる。こういう季節は、人がどこか精神のバランスを失いやすいのだが、本来的に脳天気であることが一番いいと思ったりする。春風駘蕩が一番平和である。

 そんな中で、風野真知雄『痩せ神さま 大江戸落語百景2』(2012年 朝日新聞出版)を気楽に読んだ。これはシリーズ名にあるとおり、落語を題材にして一話形式でまとめたものである。

 「落語」は、文字通り「落とし噺」で、最後の「落とし(オチ)」が機知に富んだものほど滑稽感があり、その機知も世の中や人間の真実を突いているものほど妙味がある。「落語」は、本来、「話芸」であるから、語り口調や間の取り方に絶妙さがあるのだが、これを文字として読むための工夫が本書ではいくつかされていたりする。

 まだ学生の頃、五代目柳家小さんが好きで、新宿の末廣亭によく通ったことがある。言葉の間の取り方が絶妙で、名人芸だった。後に永谷園の「お茶漬け海苔」のテレビコマーシャルにでられたとき、そのコマーシャルが放映されるのを楽しみにしていたりした。

 表題となっている「痩せ神さま」は、本書の「第一席(寄席と同じようにそう記されている)」に収められている作品で、太った大店の女将さん二人が、なんとか痩せたいと思って評判の「痩せ神さま」を拝む話で、「痩せ神さま」が、実は貧乏神で、一人は商売が傾いて痩せ、もう一人のたまご屋の女将は、同じように商売が傾くのだが売れ残った玉子や鶏肉を食べ過ぎて、反対にぶくぶくと太ってしまうという話である。

 この話の「オチ」は今ひとつのところがあるような気がしたが、第二席の「質入れ」は見事な「オチ」が仕掛けられている。

 話の筋は、堂城幸四郎(どうしろこうしろ)という売れない戯作者が、貧がつまってどうにもならなくなり、自分の女房を質入れするというものである。彼の女房は、羽子板の裏絵かきの仕事をして糊口をしのいでいたが、彼がその羽子板の親方を猫に仕立てて戯作を書いたことがばれ、親方が怒って仕事を辞めさせたのである。彼としては、自分が書いた戯作をなんとか売り込むからということで女房を三日間質入するのである。

 ところが、彼の戯作は売れず、女房を請け出すことができない。そうしている時に、羽子板の親方がやってきて、大きな仕事が入ったからもう一度裏絵を書いてくれと女房に頼みに来る。女房は喜んで引き受けるが、仕事ができるまでの金がない。どうしようかと思っている時に、話を聞いていた質屋が、「そりゃあ、かんたんだな。なあ、お亀さん?」お亀も笑ってうなずくと、「はい、うちの人を入れときます」

 となるのである。こういう楽天性が落語のおもしろさで、思わず「ハハ」と笑ってしまう。

 本書には、そのほか、「第三席 牛の医者」、「第四席 忠犬蔵」、「第五席 やみなべ」、「第六席 すっぽん」、「第七席 人喰い村」、「第八席 永代橋」、「第九席 長崎屋」、「第十席 ちゃらけ寿司」、と十話が収められている。ただ、「第三席」以降で機知に富んだ鋭い「オチ」はあまり見受けられず、「第八席 永代橋」は、むしろ、どうしようもない男に惚れてしまう女の悲しさのようなものを感じるものだった。

 ただ、落語の良さは、庶民の暮らしに根づきながら、その楽天性を遺憾なく発揮して機知を働かせるところにあるし、人間のおおらかさがあり、それが全体を包むところにある。その意味で、落語は言葉遊びやショートコントとは本質的に異なるものである。

 20世紀のマクルーハンという社会哲学者が、現代文化が聴覚文化から視覚文化に変わったと指摘し、現代では、それが単に視覚だけでなく、聴覚と視覚が統合された動画に変わってきて、人間の感性も徐々に変わってきているが、「語り」としての落語が醸し出すおおらかさや楽天性、機知は「人の生のあり方として」大事にされるべきだろうと思う。