2013年9月30日月曜日

宮部みゆき『桜ほうさら』(1)

 ようやくまた、秋らしい日々が戻ってきた。晴れた秋の空は穏やかさが漂って美しい。「空の鳥を見よ」である。

 先日来、宮部みゆき『桜ほうさら』(2013年 PHP研究所)を、やはりこの人は、言葉の使い方と文章、そして展開の巧さにおいて随一の作家だと思いつつ読んでいた。ストーリーテラーとして現代の第一人者であるだろう。

 『桜ほうさら』という聞きなれない言葉が表題として使われているが、作者によれば、甲州の韮山地方で、「あれこれといろんなことがあって大変だ、大騒ぎだっていうようなときに」使われる言葉で「ささらほうさら」というのがあり(4142ページ)、その言葉をもじって作者が創作した言葉である。

 「ささらほうさら」という言葉の音の響きがどこか柔らかくて、大騒ぎしているようなイメージではなく、いろいろなことが起こる中を流されながらも自分の身を天に委ねていくような大らかさがあるような感じがするこの言葉を、さらに桜にかけて、桜の花びらが風に吹かれてしきりに散っていくような印象が「桜ほうさら」という言葉から浮かぶ。

 本書は、江戸から二日ほどの近郊にある搗根藩(とうがねはん-作者の創作による藩)という小藩の八十石の小納戸役(服や日用品を管理する役)であった古橋宗左右衛門(そうざえもん)が賄賂を取ったという疑いをかけられて切腹した後、取り潰しにあった古橋家の次男である古橋笙之介(しょうのすけ)が江戸に出てきて、貧乏裏店に住みながら貸本屋の写本作りをして糊口をしのいでいるところから始まる。

 笙之介の父の宗左右衛門は、真面目で実直な人柄であり、穏和で、思いやりの深い心優しい人であったが、あるとき突然に藩の御用達の道具屋である「波野千(はのせん)」から賄賂を受け取ったという訴えを起こされ、彼が書いたと言われる証文が提出された。宗左右衛門には身に覚えがなかったが、証文に書かれていた筆跡は紛れもなく彼のものだった。そして、宗左右衛門の妻の里江が長男である勝之介の猟官運動に多大な金を使っていたことが明るみに出て、閉門蟄居を命じられたのである。この事件には何か裏があると目されていたが、宗左右衛門は、閉門蟄居を命じられて三日後に、自宅の庭先で腹を切り、その介錯を長男の勝之介がしたのである。

 宗左右衛門と気の強い妻の里江の間はなかなか反りが合わず、里江は剣の腕も立つ優秀な長男の勝之介を溺愛し、勝之介もまた、気の弱い父親を軽蔑していた。勝之介は父親を介錯したあと、「無様だ」と吐き捨てるほど父親を蔑視していたのである。武辺者ぶりを尊ぶ家中の雰囲気があった。だが、笙之介はその父親が好きで、彼の深い愛情や心優しさを汲み取るところがあった。笙之介自身も、剣もからっきしだめで、兄や母からは軟弱者と見られていた。彼もまた穏和で心優しい性格を父親から譲り受けていたのである。そして、二十歳になる笙之介は藩校に通い、剣ではだめでも文ならと励んでいた。そして、そこの老師に見込まれて、学問を続けながら祐筆(書記役)になる話もあったが、父親の一件で、その話も消え、老師の内弟子としての生活を送るようになった。

 そして、兄の勝之介の再興を諦めない母から、江戸留守居役の坂崎重秀のところに行って、古橋家の再興を頼むように言われる。母の里江が宗左右衛門のところに嫁いだのは三度目の婚儀で、江戸留守居役の坂崎重秀は、死別した最初の夫の縁故に当たる。坂崎重秀も笙之介を江戸にやるように手配しているという。それで、彼は江戸に出てきて、坂崎重秀の手配で、彼の密命を受けて、貧乏長屋に住んで、貸本の写本作りをしながら生活しているのである。坂崎の密命とは、父の収賄罪糾弾の際に用いられた本人のものと区別がつかないような筆跡で証文を書くことができる人物を探し出すというものだった。

 笙之介の人柄は長屋の者たちからも慕われ、彼の日常は何事もなく過ぎていく。貧しい者たちが肩を寄せ合い助け合っていく姿を経験していく。そして、彼に写本作りの仕事をもってくる貸本屋の村田屋治兵衛も彼の人柄を信頼し、何かと配慮をしてくれる。そんな中で、あるとき、長屋の裏手の掘割の土手に植えられている桜の木の下に、切り髪で少しおでこが出ているような愛らしい女性がいるのを見る。彼にはその女性はまるで桜の精のように見えた。それが、彼と和香との最初の出会いだった。彼はその女性のことがひどく気になったのである。

 和香は、仕立屋の一人娘であったが、体の左半分に赤い痣があり、それを隠して家から一歩も出ないような暮らしをしていた。彼女の痣は遺伝的な体質だという。だが、笙之介は、和香に痣があることを知っても、少しも気持ちは変わらなかった。そういう笙之介との出会いを通じて、和香もだんだんと変わっていき、徐々に人前にも出るようになっていく。この二人のそれぞれの思いは美しい。和香は、利発で、賢く、勝気さを持ち合わせている愛らしい女性だった。

 そのうち、貧しい小藩の老侍が、隠居した大殿が気鬱のようになって訳のわからない文字を書くようになり、その文字の判読ができる鍵をもっている人物の名が古橋笙之介という名であり、同名の笙之介を訪ねてきて、笙之介が和香と協力して、何とかその鍵となる人物やそれにゆかりのある者を探し出して、大殿が書いた文字の判読を行うという出来事も起こったりする。文字は人。だとしたら、他人の筆跡と同じような筆跡を使うことができる人物はいるのか。笙之介が受けていた密命の要の部分が、やがて明らかになっていく。

 笙之介を江戸に呼んだ江戸留守居役の坂崎重秀によって、次第に搗根藩(とうがねはん)の内情やそこで起こっている権力争いなどの姿がわかってくる。坂崎重秀は、心底、笙之介の身を案じ、母の里江と兄の勝之介の行く末を案じていたのである。彼は磊落で、成り行きを温かく見守るようなところのある太っ腹の人物であると同時に、やり手でもある。

 笙之介は坂崎重秀から命じられた同じ筆跡を書くことができる者を探し出していく。そうして、そういう人物が、世を拗ね、人を拗ね、ねじ切れて生きていることを知るのである。そして、父親の冤罪から始まる事件で、父親を訴えた御用達の道具屋の乗っ取りから藩の勢力争い、そして、それに加担していた兄の勝之介の野望などが明らかにされていく。今回はここまでとして、もう少し書いておきたいことがあるので、続きは次回にでも記そう。

2013年9月25日水曜日

岡本嗣郎『終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし』

 先週も台風の襲来があったが、今週末も台風の接近が予測されている。今年は海水温が高かったので台風が発生しやすくなっている気がする。心境的には雨が降ろうが槍が降ろうが変わらないのだが、爽やかな快晴のほうが気持ちがいいに違いなく、次第に秋が深くなっていく日々を、可能ならゆるやかに過ごしたいとは思う。だが、今日も雨である。

 ずいぶん前に、市が尾のNさんが岡本嗣郎『終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし-』(2013年 集英社文庫 2002年ホーム社発行『陛下をお救いなさいまし 河井道とバナー・フェラーズ』改題)を貸してくださっていたのを、ようやく読み終えた。Nさんは、この夏公開された映画をご覧になったとのことだった。

 本書は、改題される前の書名が示すように、日本がポツダム宣言を受諾して太平洋戦争の終結を迎えた後、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーの側近として占領下における日本に大きな影響を与え、特に天皇の戦争責任を巡る問題で、東京裁判における天皇の戦争責任訴追を回避するために尽力したボナー・フェラーズの姿を中心にして、彼と彼に大きな影響力を与えた人物として、現在の恵泉女学園の創設者である河井道の姿を描いたものである。

 ボナー・フェラーズ(Bonner F. Fellers 18961973年)は陸軍軍人として太平洋戦争における日米戦に従軍した人であったが、学究肌の文人的気質を強く持った人で、彼が1971年に日本政府から勲二等瑞宝章を贈られる際の申請書には「ボナー・フェラーズ准将は、連合国総司令部に於ける唯一の親日将校として天皇陛下を戦犯より救出した大恩人である」と記されている人である。司令長官マッカーサーから絶大な信頼を得て、その占領政策の要となった人物である。

 本書では、彼が1896年イリノイ州で、質素な生活をして人間の内面性を重要視する敬虔なクエーカー教徒の家に生まれて、クエーカー教徒が設立したアーラム大学で学び、やがて、第一次世界大戦中の1916年(20歳)に2年の学びを終えてウエストポイントの陸軍士官学校に進み、1921年からフィリピン駐留して、そこでダグラス・マッカーサーと出会ったという彼の前半生が簡略に記されている。

 そして、アーラム大学在学中に日本から留学していた一色(旧姓:渡辺)ゆりと出会う。一色ゆりは、津田梅子が設立した女子英学塾(現:津田塾大学)の学生だった頃に、そこで教えていた河井道と出会い、卒業後に河井道の尽力でアーラム大学に留学し、上級生となった時に新入生で入ってきたフェラーズの指導責任となったことからフェラーズを知るようになったのである。

 そして、1922年にフェラーズが初めて来日したとき、師である河井道と二人で彼をすき焼き屋に連れて行ったりして歓迎したのである。この時、河井道は既にキリスト教青年指導者としての活躍を始めており、その出会い以来、フェラーズは河井道を「戦争を望まないリベラルな日本人」、「世界の素晴らしい女性教育者の一人」として尊敬するようになり、日本における最も敬愛する人物として、河井道に接するようになっていくのである。また、この時に「もっと日本を知りたい」という彼の要望に応えて、ラフカデイォ・ハーン(小泉八雲)の作品を紹介している。フェラーズは、その後、ハーンの全作品を読み、彼に感銘するだけでなく、小泉家の人々とも親交をもつようにさえなった。

 フェラーズは、1930年に再び来日しているが、その時に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の家を訪ね(ラフカディオ・ハーンは1903年に死去している)、その遺影の前に座った時、「仏壇に小さな遺骨がある。だがそれは遺骨を超えたものである。家族の神である。彼らはそれを拝む。ろうそくは26年前にともされ、それいらいずっと消えることなく、ともされ続けてきた。
 私はいままでそのような家族の献身を見たことはなかった。日本以外にそのような献身を見出すことはできないだろう」(本書 84ページ)と記して、歴史の中で連綿と続く先祖への崇拝が日本の精神文化の要であると感じたようである。もちろん、これは若いフェラーズの感想であり、民族や宗教を正確に理解したものではないが、彼が日本人のもつこうした献身性に感動し、それが彼の日本理解の大きな要素になったことは疑い得ないだろう。

河井道は、1877年(明治10年)に現在の三重県伊勢市で伊勢神宮神官の家に生まれたが、明治政府は財政難から世襲による官職を廃止するように通達を出し、道の父の河井範康も代々続いてきた神官職を失職し、いくつかの事業に手を出すが失敗して、道が八歳の時(1885年)、叔父を頼って現在の北海道函館市に移住する。河井家は、その叔父の影響で次第にキリスト教を受け入れるようになっていくが、神道とキリスト教がうまく同居するような形であった。このことが、後の道の宗教観や教育観にも大きな影響を与えていると言えるかもしれない。

やがて、八歳の道は叔父の紹介でプロテスタント長老派教会のサラ・C・スミス(18511847年)が私費を投じて設立したスミス塾(女学校 現:北里学園女子中学高等学校)の第一回生として入塾した。このことが河井道の人生に大きく作用し、スミス女史との出会いがなければ、後の河井道はなかったと言えるかもしれない。彼女は、人生に挫折した父の背中を見て育った影のある少女であったが、努力家で、おそらく優秀な少女であっただろう。そして、スミス女史は、そういう彼女のひたむきな努力を認めてくれた存在であったのである。このスミス女学校の講師として教えに来ていたのが、札幌農学校を卒業した新渡戸稲造であったのである。

新渡戸稲造は、ひたむきに努力する河井道の才能を見抜いたに違いない。やがて、新渡戸稲造は河井道がスミス女学校を卒業したあとに、彼の勧めで1900年にフィラデルフィアにある北米クエーカー主義の大学であったブリンマー女子大学に留学した。河井道は新渡戸稲造の教え子であり、むしろ直弟子といってもいい女性なのである。キリスト教理解にしろ、天皇の理解にしろ、河井道は新渡戸稲造の弟子としての面を多大に持っている。

河井道がキリスト教の洗礼を受けたのはスミス女学校のころで、当然、プロテスタント長老派教会であっただろうが、クエーカー教徒であった新渡戸稲造の教えを受けて、クエーカーの女子大に留学しているのはなかなか興味深い。同じキリスト教でも、クエーカー派の教会と長老派の教会では、厳密に言えばいくつかの点で異なるのだが、当時の人々は、キリスト教という大枠でくくって理解していたに違いない。河井道は1094年にブリンマー女子大学を卒業して帰国し、津田梅子の女子英学塾の教師となった。そして、そこで生涯彼女と歩みを共にし、彼女の最後を看取った渡辺(一色)ゆりと出会うのであり、彼女を通してボナー・フェラーズと出会うのである。

やがて、河井道は、1929年(昭和4年)、自宅として借り受けた場所を教室にして、恵泉女学園(現:恵泉女学園大学)を設立する。この時、資金も土地もないことに呆れて新渡戸稲造は道の冒険に反対するし、政府も許可を出し渋ったが、道は諦めずに学校開校にこぎつけたと言われている。教室は道の自宅、生徒は9名、教師は道ひとりであった。ただ、新渡戸稲造は河合道の開学した恵泉に協力を惜しまず、自ら講師となったり、寄付を呼びかけたりして助力をし続けた。

クエーカー教徒であり平和主義者であった新渡戸稲造は、戦雲が高まる中で、戦争回避のために尽力していたが、1933年(昭和8年)、カナダのバンフで開かれた太平洋会議に日本代表として出席し、その帰路、病に倒れて死去した。河井道も師と同じように、太平洋戦争開戦前に渡米して、戦争をせずに平和の道を進むことを力説したが、時代は急激に海鮮へと傾いっていった。

戦争中、河井道は、恵泉女学園での天皇の御真影を掲げることを断固として拒否し、軍部に睨まれて何度も検挙されているが、天皇に対する崇敬の念は強烈に持ち続けていた。新渡戸稲造は「天皇は日本国民の統合的象徴である」と語ったが、河井の天皇観もそれに近いし、代々の神官の家に育った河井の方が、より強かったかもしれない。

やがて、敗戦を迎え、日本統治のために連合軍総司令官としてダグラス・マッカーサーが赴任するが、この時にマッカーサーの副官としてフェラーズも来日するのである。フェラーズは戦争中投降を訴えるビラや戦争放棄へのビラを山のように撒いた情報局の責任者であったが、本書では、そのビラの中に既に天皇の戦争責任を追求しない姿勢があったと分析する。

フェラーズは来日してすぐに河井道の行くへを探し、戦後の処理についての河井の意見を聞きたいと願った。そして、再会して、「陛下をお救いなさいまし」との河井の言葉を聞くのである。フェラーズは、連合軍総司令部の中では異色の人物で、彼に出会った人たちはその紳士的な態度や人格に感銘を受けている。

フェラーズもクエーカー教徒であり、河井もクエーカーの薫陶を受けているのだから、互の信頼は厚いし、フェラーズは何よりも河井の人格を深く尊敬していた。こうしてフェラーズは、戦後、天皇の処遇を決めるマッカーサーの政策に意見書を提出して、訴追の回避が行われたのである。フェラーズがマッカーサーに提出した『司令官あて覚書』の影響は大きく、その多くは河井道の進言の通りだった。本書では、これが緊迫した状況の中で行われたことがよく書かれている。

一般に、この文書が後の「象徴天皇制」の基となっていると言われているが、その概念の大筋は新渡戸稲造にあり、そして河井道に受け継がれたものである。

本書は、天皇の戦争責任訴追の回避に何があったかを明確に記すために、フェラーズと河井道の姿を、ちょうど螺旋階段を上るようにして描き出されており、なかなか味わい深いものになっている。もちろん、細かな歴史認識に若干の大まかすぎるところもあるのだが、それは些細なことで大きな問題ではない。

非常に優れていると思ったのは、天皇の戦争責任訴追回避と戦争の放棄が対になっていたという指摘で、自衛のための戦争手段もこれを放棄するという徹底した非戦論が、戦後の日本が取るべき道としてマッカーサーが考えていたことが明記されている点である。米国は、戦後の状況の中で日本への方針を若干変えてき、今日では日本国憲法では自衛権(自衛のために戦うこと)が認められているという解釈になっている。だがどうなのだろう。

本書で若干の問題を感じるのは、キリスト教が十把一握で論じられているところであったり、武田清子が理解した近代日本とキリスト教(『人間観の相克―近代日本の思想とキリスト教』(弘文堂 1959年)の線で、天皇制の問題と河井道のキリスト教理解が展開されたりしている点である。武田清子は優れた近代の分析家ではあったが、もう50年以上前の思想と方法でなされた分析で、戦後の天皇制の問題は、米国の日本政策の問題と合わせて、米国の精神史にも踏み込んでいかなければならないだろう。また、そのキリスト教理解にもある種の限界と偏りがあったとわたしは思っている。クエーカーはキリスト教の中では、やはり、特殊なものである。

2013年9月18日水曜日

高橋克彦『完四郎広目手控 天狗殺し』

 台風一過で、昨日から爽やかな秋空が広がっている。一日の寒暖の差が激しくなって、日中は暑いほどの日差しであるが、夜は肌寒くなった。こうして秋が深まっていくのだと、つくづく感じる。

 昨夕、買い物がてらに図書館に行ったら休館日で振られてしまった。調べていけばなんてこともないのだろうが、時折、こうしたことをして、トホホの人生になる。会いたい人には会えず、行きたくないところに行かなければならず、したくないことをしなければならないで、まさに、四苦八苦の八苦がこうして訪れる。

 だが、高橋克彦『完四郎広目手控 天狗殺し』(2000年 集英社 2003年 集英社文庫)を気楽に読んだ。これは、旗本の次男であり、剣の腕もお玉が池の千葉道場の免許皆伝という凄腕で頭脳明晰でありながらも、なぜか竹光を腰に差し、古本屋の「藤由」に居候して、「藤由」の主である藤岡屋由蔵が出す瓦版や広目(広告)などを手がける香治完四郎を名探偵役にして、安政から明治にかけての時代と社会背景を描きながら物語を展開していく、いわば時代推理小説のような作品であるシリーズの第二作目の作品である。

 先に、このシリーズの三作目と四作目である『いじん幽霊』(2003年)『文明怪化』(2007年)を読んでいた。この二作はいずれも明治維新後の時代と社会を背景としていたが、一作目の『完四郎広目手控』と本作は、安政という激動した時代を背景としている。本作では、井伊直弼が老中となり、日米修好通商条約(安政5年 1858年)などが結ばれて、尊王攘夷運動が激しくなっていく辺りが背景とされている。

 このシリーズでは、主人公の他に、先に記した広目屋(広告代理業)を行った藤岡屋由蔵、広目の文章を書く仮名垣魯文(かながき ろぶん)、絵を描く一恵斎芳幾(後の歌川芳幾)が登場するが、これらの人たちは実在の人物で、後に、明治になってから現在の毎日新聞の前身である東京日日新聞を発行した人たちである。その他にも、もちろん作者の手による創作上の人物であるが、特殊な能力を持つ「お映」や完四郎に惚れているしゃきしゃきの柳川芸者の「お新」も登場して、作品に色を添えている。「お映」は、文字通り、断片的であるが未来を映すことができ、「お新」は新しい女性像の代表でもある。本作では、この二人の女性はあまり登場しないが、坂本龍馬と新しい女性として蘭医を目指す「お杳(よう)」が登場する。

 物語は、老中になった井伊直弼が日米修好通商条約を締結した安政5年から始まる。この年は、第13代将軍徳川家定が病弱であったために以前から起こっていた将軍継承問題に対して、井伊直弼が、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推挙していた水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬を押し切って、徳川家茂を第14代将軍と定めた。そして、水戸の徳川斉昭への処罰を断行し、初期の頃の尊王攘夷志士たちを弾圧する安政の大獄を始めた年である。世情は騒然とし始め、こういう時代の流れを見極めて、江戸の人々に知らせようと、主人公の香治完四郎は、時代の中心となっている京都へ行くことを藤由に提案し、仮名垣魯文を連れて京都に向かうのである。この京都までの道中を共にするのが土佐に帰る坂本龍馬であり、京都での医者の勉学を目指す「お杳(よう)」である。

 そして、物語は江戸から京都までの東海道五十三次と京都から江戸までの中山道に従って、各地で起こる殺人事件や古い伝説にまつわって引き起こされた事件を香治完四郎が持ち前の頭脳の明晰さと観察眼によって解決していくのである。もっとも物語の多くは、京都での話で、特に尊王攘夷の急先鋒であった長州藩の動きが注目されていく。

 それぞれの事件の謎解きには、伝承や言い伝えを隠れ蓑にして隠蔽されようとする犯罪を、香治完四郎の徹底した合理性と科学的実証を探っていく頭脳が光っていく形で解決されていくが、面白いと思っているのは、武士という身分を捨てて広目屋を目指す完四郎が、武士も町人もないんだという姿勢を一貫させているところで、そういう姿に坂本龍馬が目を見張らされていくという展開になっているところである。

 そして、仮名垣魯文が、『東海道中膝栗毛』を著した十返舎一九を思わせるような人物として描き出されていくところである。物語の最後には、幕末から明治にかけての浮世絵師として知られる河鍋狂斎(河鍋暁斎)が江戸に帰る完四郎と仮名垣魯文の同行者として登場する。

 また、最後の第十一話「白雪火事」では、井伊直弼の側近で国学者あった長野主馬(長野主膳)による急進的な尊王攘夷派であった水戸や長州への弾圧の策略に対して完四郎が立ち向かうという展開になっている。江戸市中に二度の大火を起し、これを水戸や長州のせいにする噂を立てて、彼らを追い込もうとしたのである。

 ちなみに、長野主膳(18151862年)は安政の大獄で捕縛された者たちへの厳罰を主張し、また、水戸藩主であった徳川斉昭らへの厳罰も主張し、水戸藩に「悪謀あり」と過度の進言をしたことで、井伊直弼暗殺の桜田門外の変の引き金を引いたとも言われている。後に彼は井伊直弼暗殺後の彦根藩の跡を継いだ井伊直憲によって、斬首。打ち捨ての刑に処されている。

 物語はこの後、激動した幕末から明治にかけての鳥羽伏見の戦いや上野戦争、戊辰戦争などでの状況下での江戸が舞台となって描かれるつもりではなかったかとも思われるが、これに続く第三作では、時代は既に明治初期になる。だが、名探偵香治完四郎という設定はなかなか面白い。

 本書には、安藤広重の『東海道五十三次』や『京都名所』の浮世絵が絶妙に挿絵として使われ、作者の趣味も生きていて、それも面白い。作者は書画骨董には造詣が深い。粋な趣味人のような気がする。

2013年9月16日月曜日

井川香四郎『てっぺん 幕末繁盛記』

 今日は「敬老の日」だが、台風18号の暴風雨圏に入り、朝から激しい雨と風に見舞われている。窓ガラスを叩きつける雨とゴーゴーと吹き渡っていく風を未明からずっと眺めていた。夕方から都内で集まりがあるので、なんとか無事に過ぎ去って欲しい。

 昨夕、ぼんやりとテレビを見ながら思っていたことであるが、成功物語というのは、もしそれが金持ちになるとか社会的地位が上昇することとかいったような事柄を「成功」の基準にして書かれるなら、これほどつまらなくうんざりするものはない。現代人は、誰もが社会的上昇志向をもって生きているので、この手の成功物語を比較的好み、たとえば、現在のテレビ番組なども、よくよく見れば、バラエティーからニュース番組まで「成功主義」で構成されている。

 しかし、この手の成功物語ほど人間を軽蔑しているものはないのである。人の価値というものは、うまくいったこととか成功したことで計られるべきではないからである。アンデルセンの『みにくいアヒルの子』に対して、みにくいアヒルの子は白鳥なんかにならなくてもよいのではないか、アヒルはアヒル、白鳥は白鳥でどこが悪いかと批判したキルケゴールの主張は、現代こそ再考された方が良いと思う。

 なぜ、こんなことを書いたかといえば、一人の男の成功物語である井川香四郎『てっぺん 幕末繁盛記』(2012年 祥伝社文庫)を読んだからである。

 これは、幕末の頃に住友家の銅山であった四国の別子銅山で生まれ、そこで堀子(鉱夫)として働く鉄次郎という気一本の男が、やがて銅山を取り巻く陰湿な駆け引きに巻き込まれて銅山を追われ、大阪に出て、持ち前の気一本さと度胸、胆力で、やがて老舗の材木問屋を受け継いでいくまでの姿を描いたものである。

 物語の中には、もちろん、恋愛もあるが、計略を巡らせて自分お手柄をあげようとする役人や、私腹を肥やそうとするもの、激しい嫉妬から陰湿な行動に出る者、何とかして金儲けをしようとする者、そして、鉄次郎の人間味や胆力、ひたむきさを見抜いて彼を助ける者などが登場して、主人公の人生は一筋縄ではいかないが、運と出会う人間に恵まれて、彼は成功者となっていくのである。

 作者がどういう意図をもってこの作品を書いたのかは分からないが、全体的にはよくある成功譚の一つで、もちろん、それなりに読ませる技術があるので、それなりに面白いものではある。しかし、こういう人物を描くのに時代を幕末にする必要はないだろうとは思う。

2013年9月13日金曜日

北原亞以子『消えた人達 爽太捕物帖』

 小笠原の南で台風が発生したそうだが、今日は朝から暑い陽射しが照りつけていた。八月の炎暑ほどのものではないが、夏がまだ頑張っているという感じがする。このところ少し原稿に追われていたのだが、外出も少なく、気分的にはゆっくりしていたら、いつの間にかしなければならないことが山積みしていた。少し片づけるとしよう。

 それはそうと、『独り読む書の記』のブログのデザイン、いろいろ試行錯誤しようとは思っているが、Googleで用意されているテンプレートがどうも今ひとつぴったり来なくて「はあ~」という感じである。テンプレートを使わなければならないというところが、こういう無料のものの欠点だなあ。

 数日前、雨模様の天気が続いた中で、虫の声を聞きながら、今年の3月に帰天された北原亞以子さんの『消えた人達 爽太捕物帖』(1999年 毎日新聞社 2010年 文春文庫)を読んだ。これには『昨日の恋 爽太捕物帖』(1995年 毎日新聞社 1999年 文春文庫)という前作があるが、前作を読まなくても物語の展開がきちんと把握できるようにうまく配慮されている。

 これは江戸の大火(物語では文化3年 1806年とされているから、1200人ほどの死者が出た「文化の大火」であろう)で焼け出された子どもたちの物語で、芝神明町の紅白粉(おしろい)問屋の一人息子だった爽太郎も、九歳の時にこの火事で親も家も失った孤児となり、仲間たちと掏摸やかっぱらいなどをして必死で生き延び、昔、親が親切にしたという鰻屋の十三川(とみかわ)の十兵衛に助けられて居候となり、やがて奉行所同心に見込まれて岡っ引きとなって、十兵衛の娘の「おふく」と結ばれ、火事場を一緒に生き延びた仲間たちとの友情や絆を深めていく。これは、その爽太郎(爽太と名前を改める)を中心にした物語である。

 「おふく」は、その名前のとおり福々しい女性であるが、きっぱりとしたところがあって、ともすれば落ち込みがちな爽太を明るく支えていく女性で、作者がほかの作品でも登場させるような魅力的な人物であるが、そのあたりのくだりは前作の『昨日の恋』で展開されているのだろうと思う。本作では、爽太や「おふく」が中心ではなく、火事の後を爽太と一緒に生き延びた仲間で、気が弱くて真面目で、ざる売りの老人にもらわれ、散々苦労したが、ようやく「おせん」という女房をもらってざる売りの店を出すことができた弥忽吉(やそきち)の出来事が中心になっている。

 相思相愛で仲が良いと思われていた弥忽吉の恋女房の「おせん」が、探さないでくれという置き手紙を残して失踪したのである。

 「おせん」は美貌だが、言いたいことの半分も言わないようなおとなしくてどこか頼りなげで、一所懸命に弥忽吉の世話をするような女性で、とても置き手紙を残して失踪するような女性とは思われなかった。彼女は、彼女は金物屋の娘だったが、やはり、あの文化の大火で家と商売を失い、長屋に移ったが、やがて父親が病み、必死に働いたが追いつかずに、柳原の土手に出て夜鷹をしていた。彼女が16歳の時である。だが、夜鷹には夜鷹の縄張りというのがあり、夜鷹の世話をしている牛太郎(夜鷹の取りまとめをする者をそう呼んだ)の徳松に捕らえられて折檻を受けているところを弥忽吉に助けられたのである。牛太郎の徳松もまた、昔、爽太たちと生き延びた仲間であり、徳松は弥忽吉を知っており、こうして、弥忽吉は「おせん」にとって恩人となった。

 弥忽吉は「おせん」に惚れていたので、やがて二人は夫婦となり、「おせん」は弥忽吉によく仕えた。だが、ふとしたことで女房持ちの武蔵屋栄之助という男と出会い、恋に落ち、駆け落ちしたのである。「おせん」の恋の相手である栄之助もまた、あの大火で孤児となったところを武蔵屋に拾われ、そこの娘と相愛になって婿となった男であった。

 爽太は弥忽吉の頼みで「おせん」を探す過程で、その事実を知っていく。栄之助は、「おせん」と駆け落ちして逃避行をしていくが、途中で自分を養ってくれた恩義を重く感じて「おせん」を捨てて武蔵家に帰る。ひとり残された「おせん」は、しかし、なおも栄之助を慕っていく。だが、栄之助は駆け落ちの無理がたたって病で死んでしまい、裏切られた弥忽吉と栄之助の女房は、「おせん」への復讐を企んでいくのである。そこに武蔵屋の婿のことで武蔵家を脅して金をせしめようとする者たちも登場して絡んでくる。

 爽太は弥忽吉に罪を犯させたくない一心で奔走していく。「おせん」が偽手紙で江戸から上州へ呼び出され、物語も江戸から上州への中山道の旅となる。そして、すべてが明らかになるクライマックスを迎えていくのである。

 物語が、過去と現在を行き来するだけに、少し展開が荒くなっている気もするが、一つの大きな出来事で人生の歯車が狂い、それを受け入れて生きていく者と、受け入れることができないでいる者の姿が、微妙な男女の愛情のもつれとして描かれているだけに、微妙な味わいが残る作品である。それにしても、「おせん」という女性のしたたかさが強烈に残る。作者は「おせん」を決して悪くは書かないが、よくよく考えてみれば、こういう女性に男は騙されやすいような気がしないでもない。

2013年9月11日水曜日

泡坂妻夫『飛奴 夢裡庵先生捕物帳』

 「あわれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ男ありて 今日の夕餉に ひとりさんまを食らひて 思ひにふけると」いうには、まだほんの少し早いかもしれないが、「あわれ秋風よ」と言いたくなるような季節が近づいている。温暖化の影響で今年はさんまの南下が遅れているらしいが、「男ありて」は、いつも変わらない。

 ブログを掲載しているGoogleの表示が少しおかしくなり、前回デザインを変えてみた。よく「書きすぎ」と言われるので、「見ること」が中心の文化になっている今時は流行らない掲載量なのだろう。字数で言えば、全部で150万字近くにはなっているからなあ。200万字で400字詰め原稿用紙5000枚になる。まあ、そのくらいが良いかもしれない。

 さて、少しミステリーの要素が入った同心物時代小説である泡坂妻夫『飛奴 夢裡庵先生捕物帳』(2002年 徳間書店 2005年 徳間文庫)を読んでみた。元々が推理作家である泡坂妻夫の作品は、以前、『からくり東海道』(1996年 光文社)というのを1冊だけ読んで、どことなく消化不良を起こしそうな作品だというのが、その読後感であったが、本作は、幕末の頃の北町奉行所同心である富士宇衛門という、自分の身なりについては全くの無頓着である剣の遣い手を主人公にした『夢裡庵先生捕物帳』シリーズの最後の作品になっている。

 富士宇衛門は、頭脳も明晰で、剣の腕も立ち、情にも厚い、いわば剛の者であるが、容姿だけがあまりいただけず、「月代は伸び無精髭が生え、羽織はよれよれで色褪せている」姿で現れる。彼は、「空中楼夢裡庵」という雅号をもち、親しい者たちから「夢裡庵先生」と呼ばれており、彼を主人公にした最初の作品が『びいどろの筆』(1989年)で、第二作目が『からくり富』(1996年)と題して出され、本作はその完結編として出されたものである。

 これらはすべて短編連作の形で書かれており、本作には、「風車」、「飛奴」、「金魚狂言」、「仙台花押」、「一天地六」、「向かい天狗」、「夢裡庵の逃走」の七篇が収められている。作者は自ら手品や奇術に凝ったと言われるが、本作でも、トリック風の謎解きや手品を使ったものが出てきて、女性の死体だけがある船が漂っているということについてのトリックの謎解きをする「仙台花押」や、サイコロを意味する「一天地六」を使った手品が使われている。

 ただ、取り扱われる事件やその謎解きにはあまり深みも妙味もなく、一応の探偵役となる人物も一話ごとに変わり、誰のセリフもあまり特色がなくて似たようなセリフで説明がなければ誰が言っているのかわからないような書き方であるし、あっさりと謎が溶けるあたりも物足りなさが残る。

 「風車」は、武具屋の主人が殺され、離縁された元の妻に疑いがかかるが、殺したのは彼が再婚した今の妻であるというもので、表題は、自分の人生は風車のようなものだという元の妻の言葉から取られている。「飛奴」は、鳩を使って大阪の米相場をいち早く知り、大儲けをしていた米問屋の話で、糞から鳩を割り出すというものであり、「金魚狂言」は、毒饅頭の噂を利用して袋物問屋の番頭を、彼が囲っていた妾が殺すというものである。そのほかのものもだいたい同じような展開だが、最後の「夢裡庵の逃亡」だけは、これがシリーズの完結であるだけに、剛の者であった夢裡庵先生こと富士宇衛門が官軍となった薩長軍に対抗して上野で戦いを展開した彰義隊に入り、そこで負傷して、彼を尊敬していた町人たちの手によって助け出され、前から想いを寄せていた娘と、やがて夫婦となって新しい明治の世を生き抜こうとするところで終わるという展開になっている。

 彰義隊と薩長軍の攻防はよく知られており、その歴史が踏まえられて、戦いのさなかにある夢裡庵の姿を通して、それが描かれており、しかも、江戸町人の視点でそれが記されているので、読み応えのあるものとなっている。探偵小説としても時代小説としても、どこか古くて、少し不満足さが残っていたのだが、最後の「夢裡庵の逃亡」は、味のある結末だった。

2013年9月9日月曜日

乙川優三郎『生きる』 第三作「早梅記」

 荒れた天気が一変して、初秋の蒼空が広がっている。若干の暑さはあるが、こういう天気はわたしにとってはありがたい。来年度の仕事の依頼がそろそろ舞い込んでいるのだが、いくつかのことはお断りしなければならず、心苦しさもあるので、蒼空を仰いで、「Let it be !」と思いたい。

閑話休題。前に記し忘れていたので、改めて記しておきたいと思い、乙川優三郎『生きる』(2004年 文藝春秋社 2005年 文春文庫)に収められている第三作「早梅記」について書いておくことにする。これもまた、生きることの根幹に触れる非常に優れた作品であった。

主人公の高村喜藏は、家禄が十石七両二人扶持の軽輩の貧しい家庭に生まれた。彼は、二十歳で父をなくして家督を継ぎ、非常な努力をして、二十九歳で六十石となったが、結婚したのは三十歳の時で、それまでは、嫁取りよりもまずは出世と考えていた。

父の死後四年目に母親も死んで、家政のために「しょうぶ」という足軽の三女を雇った。「しょうぶ」は、近在の村から出てきたときは蓬頭垢衣の百姓と変わらなかったが、垢を落として髪を結うと見違えるほど美しくなり、しかも正直で賄いもうまく、喜藏はすっかり彼女が気に入り、二人が事実上の夫婦となるのに長い時はかからなかった。

二人のことはやがて噂になったが、「しょうぶ」は、「わたしは旦那様のそばに置いていただけるなら、何を言われてもかまいません」と言っていた。足軽の娘を嫁にもらうと彼の出世は遠のくことは明らかだった。やがて喜藏は馬廻り役に出世し、上役の世話で嫁をもらうことになり、「しょうぶ」は、「お暇をいただきとうございます」と言って、喜藏の縁談がまとまった翌春にあっさりと出て行った。「しょぶ」は、その時、二十一歳だった。高村喜藏は、「しょうぶ」のことを哀れに思いながらも、妾になるのが厭なら別れるしかないと思うくらいで、女子を自分の人生に合わせて都合よく動いてくれる者くらいにしか見ていなかったのである。

そのころ、高村喜藏は出世を焦っていた。だが、働き者で家事もうまく、家の畑では野菜も作り、貧しさを苦にせず、美しい「しょうぶ」と暮らすうちに、心も和み、身の回りも整えられて、喜藏は少しずつ変わっていった。ギラギラ した出世欲はうちに秘められ、人間が一回り大きくなったのである。

喜藏は、そのころ、藩の中小姓になっていたが、藩財政が逼迫する中で主家の分家に当たる藩主の叔父の石川頼母が江戸定府の費用を藩が持つように要求してきた。石川頼母は、奢侈を好む短気な人物で、三年前にも一度同じことがあり、その時に断りの使者を激怒して斬りつけたことがあった。今回も、藩は頼母の要求を断ることにしたが、そのことがあって使者として呼び出された者たちは次々と理由をつけて辞退してしまった。ところが、高村喜藏は、他の者たちが尻込みする役を進んで引き受けたのである。彼は、その条件として、家禄六十石、馬廻り役八両三人扶持を持ち出し、承諾された。彼は、「しょうぶ」がいてくれたから、彼女を知らず知らずのうちに心の拠所とし、気が大きくなっていたのである。

そして、石川頼母と対面するが、案の定、頼母は激怒し、刀を抜いて斬りつけた。喜藏は腰を抜かして動けなくなったが、辛うじて頼母の近習がこれを止め、大事には至らず、頼母の行為もなかったことにしてくれと言われて、無事に役目を果たしたこととなり、やがて家中で評判となり、藩主の覚えもよくなった。こうして、彼は出世をし、身分も変わり、屋敷も広い屋敷へと移った。

身分が変わったことで、喜藏は次第に世間体を気にするようになっていった。だが、「しょうぶ」は、少しも変わらず、よく働き、家政を賢明に切り盛りし、梅の花を見事に活けたりして、喜藏は彼女から大きな慰めを得ていた。そして、その年の秋、馬廻り役の組頭から喜藏に縁談が持ち込まれたのである。相手は町奉行の娘の「とも」と言い、器量も気立てもよく、出世の上でも申し分のない相手だった。喜藏は、それを断るこたができずに承諾すると、「しょうぶ」は、きっぱりと自分のすべての道具や身の回りのもの、匂いさえも消して出ていった。出ていくといっても、彼女が身を寄せることができる所はどこにもないにも関わらず、それから「しょうぶ」の行くへはわからないままになってしまった。

喜藏の妻の「とも」は、明るくよく笑い、大きな安心感を家庭に与え、二年後には子もできて、喜藏の生活は安定した。彼は、決して「しょうぶ」のことを忘れたわけではなかったが、藩主の覚えもめでたく、次第に出世していき、大目付となり、用人となり、家老となっていった。彼が家老になる時に、分家の石川頼母が義兄を惨殺するという事件が起こり、その事後処理を当時の家老に代わって見事に行ったということがあった。

彼は執政として隠居するまでの六年間を務めたが、藩の財政は逼迫したまま、時代も大きく変わろうとしていた。高村喜藏は、自分ができるだけのことをし、踏ん張れるだけ踏ん張ったが、どうにもならないこともあった。貧しさから脱け出すために出世を求めて歩んできて、残ったのは、広い屋敷と高禄、そして、気持ちの通わない家族だけだった。彼の息子は、父親の苦労も知らずに、どこか覚めた目で父親を見ているし、妻の「とも」には何度も救われてきたが、喜藏が彼女の心を救うことなく、隠居後に呆気なく死んでしまった。

彼は自分の人生の来し方を顧みる。結局、「しょうぶ」と「とも」という二人の女性に支えられてきた。「思いのほか運はあったが、人並み優れた才覚などなかった。それなのに自分ひとりの栄華を極めようとして二人を巻き込んでしまった。後悔が歳月という取り返しのつかない流れに行きつくと、彼は歩く気力を失い、茫然とするしかなかった」(文庫版 243ページ)。

こうして、孤独を抱えて散策する途中で、彼は貧しい足軽の長屋の一画にある梅の木の小枝を切ろうとしている小柄な女性を見る。それは、喜藏のところを黙って去っていった「しょうぶ」であった。彼女はそれが喜藏と分かりつつも、「いえ、お人違いでございましょう」と言い、「冬が終われば林も緑になって、子供たちは蕨や蕗の薹を採りに出かけます、林の中には古い祠があって産土神が祀られています、お参りするのはわたくしと子供たちだけでしょうが、手を合わせるだけで慰められます、そこから細い道が木立を縫って林の北側へ伸びていて、暖かくなるとよく散歩をいたします、林の北側から逆井川の川上へ出ると、遠い山脈が見えますし、その少し先の百姓家では野菜の種や苗を分けてもらいます、田植えの時期には子供たちが手伝いにゆき、稲刈りの時には藁をもらいにゆきます、・・・そうして人との小さなつながりを頼りに暮らしておりますが、貧しいつながりはたやすく切れることはありません」(文庫版    247248ページ)と語る。そして、蕾のある梅の一枝を差し出したのである。

喜藏は、その一枝をもって、いつになく穏やかな気持ちになる。「彼にとってしょうぶがそうであったように、早梅は何もない季節に咲いて、まだそのさきがあることを告げているかのようであった」(文庫版    250ページ)。

この結末は、「しょうぶ」という一人の女性が彼の元を去ってもしっかりと自分の生き方のスタイルをもって生きてきたことを早梅に託して告げる。貧しさゆえに出世を望み、そこであくせくして、得たものが孤独であった男と、「生きること」をしっかり営み、貧しいながらも心豊かに生きた女性。それが最後に交差し、豊かな情感を残して、また別れていく。そして、そこに残るのが、どんな状況や状態の中でも「梅一輪の暖かさ」であれば、もうそれでいい。この作品は、そんなことをしみじみと思わせる作品だった。