2014年5月8日木曜日

熊谷達也『邂逅の森』(2)

 連休が明けて皐月の碧空が広がっている。連休中に一度だけ、車で15分ほどのところにある温泉に行ってきた。今のわたしにとってはそれでもう十分で、後は買い物に出たり、自宅での本の整理などを少ししたりであった。

さて、熊谷達也『邂逅の森』(2004年 文藝春秋、2006年 文春文庫)の続きであるが、富治が「文枝」に会いに行った日に、「イク」は、自ら身を引いて失踪した。「文枝」の息子が訪ねてきて、「イク」と話をしたという。富治は、「イク」が自分にはかけがえのない存在であることを改めて感じて、必死になって「イク」の行方を探す。「イク」が富治の実家に行ったと聞き、実家に行ってみるし、仙台の遊女屋にも行ってみる。だが、「イク」の行方はようとして知れなかった。そして、以前、「肘折温泉に行きたい」ということを思い出して、肘折温泉に出かけ、そこで、身を引いて土産物屋で働こうとしている「イク」をようやく見つけるのである。それは、富治と「イク」が最初に出会った場所であった。富治は、「俺の大事な女房に買ってやるから」と言って、こけし人形を売り子として働く「イク」に求めるのである。

 こうして「イク」と富治の生活が元に戻り、富治はマタギ仕事に出かける。マタギの仕事もすっかり様子が変わり、富治はこのままマタギを続けることの是非を自らに問うていた。マタギを辞めて「イク」と二人で暮らすつもりであった。

 だが、富治は最後のマタギ仕事に出る。そして、「山の神」の化身とも思われる熊に出会うのである。こうして、熊と富治の真剣勝負が始まる。互いに死力を尽くす。富治は右足をやられ、朦朧とする意識の中で「イク」の待つ家に向かって歩きはじめるところで終わる。富治の生死はどこにも記されないが、読者は富治が片足を引きずり、朦朧とした意識のままでも「イク」のところにたどり着くことを期待するだけである。

 「山の神」とも思える熊との対決は圧巻で、互いに力と知恵を尽くして対決する。「山の神様が宿っていようがいまいが、山の中で、一対一で対峙した時、野生の生き物のほうが人間に勝ってしかるべきなのだ。それが自然の姿であるべきなのだ」(文庫版530ページ)という一文が本書で示される自然の中での人間の姿の一つの帰結であろう。

 時代は明治から大正という、いわば日本の近代化が急速に、半ば強制的に進められた時代で、自然を相手のマタギの生活にもその時代が大きく影を落としていく姿が生活の座の視点で克明に描かれている。現代の日本には、もはやここで描かれたような自然はないが、自然の厳しさとその恩恵を受けていく素朴な人間の在り方が主題として取り上げられ、そこに人間の愛情の物語が織りなされているのである。その意味でも、作者が意識してこの物語を著わした視点があり、この作者の作家としての力量の確かさを感じる作品だった。

 「それにつけても疲れる日々よ」と組織の中で思う。もともと非組織的人間である者が、覚悟はしていたとはいえ組織の中に組み入れられているのだから当然ではあるが、なんだか30年前に帰ったようで、旧日の感覚を思い出したりしている。まあ、これも一生かもしれない。

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