2011年12月27日火曜日

東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』

いよいよ今年も押し詰まってきたわけで、禍と混乱、悲しみの多かった年も終わろうとしている。過ぎ去る時は、もはや取り返すことができない無限の彼方に去る。こうして年々歳々が繰り返されていく。人はただ日々の暮らしの喜怒哀楽の中で生命の営みを続けるだけだが、その生命の営みが難しい。今年はつくづくそう思う。

 十年後に切腹を命じられ、淡々と生きるひとりの男の姿を描いた葉室麟『蜩の記』を読んで見たいと思っているが、まだ手にしていない。彼の作品はわたしの琴線に触れてしまい、今年であった最高の作家だと思っている。しかも、『蜩の記』は、いまのわたしの心境にはぴったりのような気がしている。

 そんな中で、いささかハードボイルド時代小説のような東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだ。この作家について詳細は知らないが、ゲームソフトなどでよく聞く『信長の野望』の原作者のようで、わたしのような感性をもつ人間は、どちらかといえばあまり触手が動かない作家なのだが読んでみることにした。内容のほとんどは創作だろうが、ときおり司馬遼太郎的な記述の仕方もあり、こういう作風もありかな、と思いつつ読み進めた。

 この作品はシリーズ物の一つであるが、シリーズの表題となっている「御用盗」というのは、幕末のころに混乱した江戸で市中を荒らし回った浪人たちのことで、薩摩藩による倒幕策のひとつとして強盗や喧嘩騒ぎを起こして江戸市中を混乱に陥れた薩摩浪士隊が結成されたりしている。西郷隆盛がそういう浪士隊を使ったとすれば、それは彼に似合わない姑息な手段だったと言える気がする。浪士隊は、商家を襲う打壊し運動も展開したようである。「御用盗」に関する歴史資料はほとんど残されていないが、薩摩浪士隊は、後に相良総三という人物が率いた「赤報隊」に繋がる。

 「赤報隊」は、維新の際に薩長新政府の意を受けて、農村などの支持を得るために「年貢が半減される」ということを各地で触れ回ったが、新政府はそういう財力がどこにもなく、彼らが勝手にやったこととして偽官軍の汚名を着せ、絶滅させた。「赤報隊」の浪士たちは、尊皇攘夷と貧民救済を合わせたような思想集団であった。それはまさに「赤心」であったが、政治力も方策もなく、薩長の権力で握りつぶされてしまった哀れさが残る。幕末から明治維新にかけて、新撰組もそうだが、こういう人々が血を流し続けた。こういう人たちを見ると、権力に踊らされて、利用され、やがて捨てられる武士の哀れさをどこか感じるので、何ともやりきれない。

 本書は、その御用盗として混乱する時代の中を生き抜いていく魁銀次郎という凄腕の侍を主人公にして、この銀次郎が江戸市中で起こった打壊しなどに関わっていく物語である。銀次郎は、いわゆる「人斬り」であり、江戸幕府が市中警護のために浪人や旗本の次男・三男を中心にして結成した新徴組(京都の新撰組とも繋がりがあった)にも関わり、やがて、庶民の一揆運動のような様相をもった打壊しや「ええじゃないか騒動」とも関係していく。その中で、「赤報隊」を指導した村上四郎左衛門と名乗っていた相良総三とも関わっていく姿が描き出されている。本書の物語の中心をなすのは、江戸市中での打壊し運動である。

 ただ、これは前作『御用盗銀次郎』(2004年 徳間書店)があるので、そこから読んでいる人には違和感がないかも知れないが、本作だけを読むと、冒頭に、元新徴組隊士の片岡主水というなかなか腕の立つ浪人が登場し、彼と主人公の銀次郎の出会の話が記されているのだが、それ以後にはこの片岡主水が全く登場せずに、冒頭に出てくる片岡主水は何だったのか、という思いが残ってしまった。しかし、内容は無頼の人斬りとして生きていく魁銀次郎の姿と当時の攘夷浪士たちの倒幕運動の展開で、それなりの面白さはある。文章も、内容に合わせてあるのかも知れないが、どこか武骨で、当時の殺伐とした雰囲気が伝わるとはいえ、全体的にニヒルなハードボイルド的である。ただ、どちらかと言えば、今のわたしの心情には合わない気がしながら読み終えた。

 「人斬り」は、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛、中村半次郎(後の桐野利秋)などもそうだが、どこかやるせなさが残る。このうち、桐野利秋だけが明治まで生き残ったが、西南戦争で戦死している。彼らは、ある意味で純朴だったのだが、それだけに力に利用される悲しみを背負っている。

 本書の主人公魁銀次郎は、そういう哀しみよりも、むしろ、割り切って自由闊達に生きようとした姿がある人物として描き出され、その意味ではハードボイルド時代小説とでもいうべき作品になっている。

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