2010年2月4日木曜日

北原亞以子『埋もれ火』(2)

 暦の上で立春になり、これからの寒さは「余寒」と呼ばれるが、このところ雪模様の日があったりして寒い日が続いている。今朝も、空気が刺すように冷たかった。如月は、どちらかといえば人間の精神状態が不安定になりがちな月で、「忍耐力」が失われやすい時でもある。創造力もずっと欠如するような気がする。

 北原亞以子『埋もれ火』の続きを読み終えた。なかなか意欲的な作品集である。第三話「波」と第四話「武士の妻」は、いずれも新撰組局長であった近藤勇に関係する女性の姿を描いたもので、「波」は、近藤勇の妾であった「おさわ」が、流山(江戸)で官軍によって捕えられ処刑された近藤勇の訃に接した時の姿を中心に描き出したもので、当時の権謀術策を張り巡らされた中での近藤勇の処刑と、手のひらを返したようにして去っていく人々の中で、「おさわ」は、ひとり、近藤勇の姿を抱いていく。作品の中では触れられず、「おさわ」が近藤勇の菩提を弔って生涯をすごすことを決意するようなこと匂わせる結末が描かれているが、実際は、「おさわ」は近藤勇の後を追って自害している。自害まで描かないところは作者の優しさだろう。

 第四話「武士の妻」は、近藤勇の正妻「ツネ」の姿を描いたもので、武家の出であった「ツネ」は、比較的安心して暮らすことができる豪農の三男で町道場の主であった近藤勇のもとに嫁いだはずなのに、いつの間にか時局の流れの中ではるかに遠方に行ってしまい、新撰組の局長となり、そして処刑された夫の姿を考える。そして、「武士の妻であるならば」と自害を試みる。実際の近藤ツネは、近藤勇の死後、勇の生家で娘の「タマ」の成長を見守りながら明治25年まで生きている。悩みも多く自殺癖もあったといわれるが、彼女もまた近藤勇という影を抱いて生きなければならなかった女性である。

 第五話「正義」は、幕末の志士のひとりである相楽総三(さがら そうぞう-本名小島四郎)の妻「照」の姿を描いたもので、相楽総三は、西郷隆盛と親交をもち、西郷の命によって江戸市中を混乱に陥れるために放火、略奪、暴行などを繰り返し、「大政奉還」によって徳川幕府への武力討伐の大義名分を失っていた薩長が徳川の幕臣を刺激して武力討伐の口実を作りだすという働きを行った。西郷の姦計は成功し、これが鳥羽・伏見の戦いの先端となった。相楽総三は、その後、戊辰戦争が勃発すると「赤報隊」を組織し、東山道軍先鋒隊として活躍し、新政府軍に民意を汲むための「年貢半減令」の建白書を出し、これが認められて進軍していくが、新政府軍の突然の方針返還によって、かってに「年貢半減」なるものを宣伝した偽官軍とされ、相楽は捕縛されて処刑された。

 作品は、この経過をたどりながら、政治に翻弄され続けた男を夫として持つ妻が、夫の主張を信じ、その夫に惨めな死を与えた者への悲憤の中で自らの命を絶っていく姿を描いたものである。

 私見だが、江戸時代が決して良かったとは思わないが、日本は明治維新でまた間違えた方向に進んだように思われてならない。大勢の、しかも有為な人間が殺されて出来上がったような社会が決していいわけはない。

 第六話「泥中の花」だけは、この短編集では異質の、討幕運動のきっかけを作った清河八郎の妻に横恋慕した男が清河八郎をつけねらっていくという設定で、清河八郎の姿をその妻との関係を含めて描きだしたものである。清河八郎もまた、激動していく時代を知恵と力を尽くしてうまく泳ぎ渡ろうとして、そして挫折しなければならなかった人間のひとりである。彼には大きな欠点もあったが、早く生まれすぎたきらいもある。

 第七話「お慶」は、坂本竜馬の海援隊を支援したりした長崎の豪商「大浦屋のお慶」の維新後の姿を描いたもので、「お慶」が、維新の波に乗れずにうらぶれていく男の影を引きずっていたために詐欺にあって財産を失っていくが、それを切り抜けていこうとする姿を描いたものである。「大浦屋お慶」という女性は、自立心の強い豪胆な女性であったが、それだけに、維新後に偉くなった明治政府の高官たちのつまらなさも見抜いていただろう。彼女の生きざまには、いつも爽快感があって「女竜馬」の思いがしたりもする。

 第八話「炎」は長州の支藩の回船問屋で幕末の志士たちを支え、この人なしでは維新は起こり得なっただろうと思われる白石正一郎の姿をその妻「加寿」の側から描き出したもので、高杉晋作の「奇兵隊」はこの白石家で産声を上げたりしたのだが、とくに薩摩と長州とを結ぶ経済的接点となったくだりが描き出されていく。

 白石正一郎は、幕末のそうした人間たちを支えるために莫大な財産を使い果たしていくが、維新後、竜馬を暗殺し、西郷を賊軍にした明治政府の高官となった人たちは、その恩義に報いることは一切なかった。しかし、「正一郎は、よかったなと言って逝きました。私も後悔しておりません」(259ページ)の「加寿」の言葉が、この夫婦の姿を象徴している。実際も、そうだったかもしれない。「おもしろきこともなき世を おもしろく」と謳った高杉晋作を敬愛していたのだから。

 第九話「呪縛」は、その高杉晋作が愛した女性「うの」が、晋作亡き後、彼の墓を守り、その墓のある「無隣庵」と名づけられた家で、彼を思ってひとり過ごしている姿を描いたもので、晋作の破天荒な日常の姿を愛していた「うの」が、世間の「偉人の思い人」の姿にはなりきれないでいる姿が見事に描き出されていく。

 これら九編の作品は、明治維新という激動の時代をそれぞれ生きてきた人物を、その人物ではなく、彼らを支え、愛し、彼らの大きな影を引きずりながら生きる人の姿を通して描き出した意欲作である。

 時代や社会の激動期には、個性が光る人物がいる。そこ個性はいずれも常識では計り知れない。それだからこそ時代や社会が変わり得る。だが、社会というものは常に保守的で、そうした計り知れない個性を閉じ込めようとする。それらの計り知れない個性に出会った人々は、男であれ女であれ、その狭間で苦労する。そうした社会に納まりきれない個性と社会の狭間で苦労した人々の姿が、この作品で描かれ、それによってまたそれぞれの個性のあり方が浮かび上がって来る。

 この作品は、そうしたことを意欲的に示そうとした作品である。ただ、現代は個性的な人間が生きることが難しい没個性が要求されるつまらない世間というものが出来た社会ではあると、つくづくおもったりもする。マスコミの働きもあって「世間並」というのが人々の価値観を支配してしまっている。

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