2010年2月15日月曜日

諸田玲子『末世炎上』

 冷たい小糠雨が降っている。このところ冷えて気温が低く、天気も目まぐるしく変わっている。13日の土曜日からカナダのバンクーバーで冬季オリンピックが開かれ、その開会式での先住民族の人たちの踊りをテレビで見たりしていた。オリンピックの競技そのものには以前のような関心はなくなっているが、昨夏に友人がカナダに行ったということを聞いていたので、バンクーバーの町の人々の様子などを眺めたりしていた。

 諸田玲子『末世炎上』(2005年 講談社)を面白く読んだ。以前、平安期を取り扱った『髭麻呂 王朝捕物控え』(2005年 集英社文庫)を読んで、作者の時代考証の確かさに裏づけられた展開のうまさを感じていたが、この作品も、11世紀の半ばの平安末期が舞台となった作品で、藤原家が権勢を握り、官職が特定の家系に世襲される家職化が進んで、身分が固定され、貧富の差が拡大して、一方で贅を尽くした貴族たち、他方で、飢えで餓死していく貧民層たちに明瞭に区別され、「末法思想」が世情で支配的となった時代を背景としている。

 物語は後冷泉天皇(1045-1068年)から後三条天皇(1068-1072年)への変遷を背景としながら、貧民層出身で青年貴族たちから凌辱されたショックで、200年前の「吉子-小野小町」となる黒髪の美少女「髪奈女」と、彼女を助けて謎に挑むことになる下級役人(左衛門府の大志-だいさかん-門衛)で中心人物となる「橘音近」、美貌の青年貴族で「今業平」と噂される在原業平の子孫である在原風見、紀貫之の子孫である紀秋実、大伴氏の末裔である伴信人、優れた青年学者である藤原匡房、などが登場し、小野小町と在原業平を巻き込んで藤原家の台頭のきっかけとなった「応天門の変」(866年)の事件と重ね合わせながら、末法思想を利用して作り上げた「怨堕羅夜叉明王(おんだらやしゃみょうおう)」を導師とするカルト集団とそれを利用して政権を握ろうとする藤原家との対決が展開されていく。

 歴史的に見れば、この作品には二つの大きな前提があり、ひとつは「応天門の変」が藤原家によって仕組まれたものであることと、もうひとつは在原業平と小野小町が互いに思いを寄せあった者どうしであるということである。

 そうした歴史的前提を抜きにしても、それぞれの登場人物たちが、それぞれの歴史的に知られた人物を背景として描かれるので生き生きとしている。

 主人公のひとりであり、見事な黒髪をもつ美少女で小野小町を映し出す貧民の「髪奈女」は、貧しい生活ではあるが、「足るものを知る者は富む。髪奈女の心は豊かだった」(15ページ)と描かれるし、物語の後半で小野小町から貧しい髪奈女に戻った時も、「ふんだんな餞別を賜ったのに見向きもしなかった」(420ページ)女性で、「『おれは粥がいいよ。粥が食べたかったんだよ』髪奈女は明るい声で叫んだ。他に何を食べるというのか。家族そろって食べる粥以外に・・・」(425ページ)という女性である。

 いつも彼女を助け、彼女の味方となって事件を解決していく主人公の「橘音近」は、下級役人として出世欲もなく、たいだで退屈な日々を過ごしているが、そのために妻や子どもたちから馬鹿にされている人物である。しかし、底抜けに人がいい。そして、この事件と関わる中で自分の生きる目標を見出していく。

 「烏羽玉(東宮-後三条天皇-のために密命を帯びて働くうちに音近と契りを結び、やがて髪奈女-吉子-小野小町-を守るためにカルト集団の導師と戦い、相撃ちで命を落とす)恋しさに悶々とし、吉子のいない寂しさに鬱々とする。吉子に出会うまでの音近は、やる気のない中年男だった。仕事といえば居眠りばかり、妻子からはつれなくされ、これといった趣味もなく、日々だらけきっていた。ところが、吉子のお陰ですべてが変わった。
 吉子の素性を知るために、骨身を惜しまず駆けまわり、歴史を学び、和歌に親しみ、侘しく暮らす早子(音近の叔母)と親交を深め、烈しい恋に身を焦がし・・・さらには東宮のために働くという大きな目標を得た。自分が吉子を救ったのではない。吉子が自分を救ってくれたのだ。今ならわかる」(421ページ)という人物である。

 無聊の中で悪事ばかりを働くことで気を紛らわせていた青年貴族たちも、それぞれの悪事を悔いて、自らの生き方を見出していく。

 時代と状況は「末法の世」である。「現世は破滅の一途をたどっている。だから貴族はせっせと寺社を建立して極楽浄土を祈願する。官人は仕事を放り出して賭けごとに興じ、庶民は念仏三昧。貧民は悪事に奔る。それが当節の世相である」(124ページ)と述べられ、悪事を企むカルト集団の導師は「愚衆には盲信を、為政者には猜疑を植え付ける、それが肝要、・・・愚衆は盲信によって地獄の魑魅魍魎となる。為政者は猜疑を飼い育て、昨日の味方と争い、身内縁者と殺し合い、神仏に唾を吐きかけ、帝を地べたに引きずり降ろし、果ては自滅する」(187ページ)と嘯く。登場人物の一人であり、後に音近と共に真相の解明にあたる在原風見の名前が「風見」であるのも、そうした世相を表す。
 
 だから、こういう中で無欲な「髪奈女」と「橘音近」の姿が光る。事件そのものは政争に関わる生臭い事件であるにもかかわらず、この主人公たちの姿がその生臭さに勝っていくのは、作者の好ましいひとつの姿勢であろう。

 読みごたえのある作品である。構想も平安期の200年の時を越えるものであり、こまごまとした展開や会話も生き生きとしている。ただ、もちろん意図的な構造で、作品としても大胆な実験的な要素ではあろうが、それぞれの章が登場人物を中心に目まぐるしく変わっていくので、読者として物語の展開を辿っていく者にとってはそれを追いにくいのが若干の難点にもなっているような気がする。しかし、小野小町は、今でも謎の多い人物であり、彼女を中心に据えた着想は素晴らしく、秀作である。

 物語の中で使われる小野小町の有名な歌「花の色はうつりにけりないたずらに、わが身世にふるながめしままに」は、その心情の哀れさもあって胸に響く。「わが身世にふるながめしままに」は、まことに今のわたしの心情に近いものがあると、つくづく思ったりもする。しかし、「ながめしままに」でもいいかもしれないと思ってはいるが。

 今日は相談事が入ったので、都内に出る予定をキャンセルしてこれを書いている。「げに悩みの種は尽きまじ」が人の世ではある。夜はフルートの練習をすることにした。

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