2010年10月4日月曜日

山手樹一郞『浪人若殿』

 昨日の日曜日は、午前中、爽やかに晴れた好日だったが、今朝は細かな雨がしとしとと降っている。外壁の補修工事が雨のために延びて、いまだに櫓に覆われたままで、ここは結構交通量もあって雨の日は車の騒音が激しいが、疲れを覚えているのか、今日は虚脱感を感じている。掃除や洗濯の家事も山積みしているのだが、雨のせいにして何もしないでいる。雨が降る風情をぼんやり眺めるのはとても好きだ。モーツアルトのヴァイオリン協奏曲5番をかけて、コーヒーを飲んでいた。

 土曜日(2日)の夜に、山手樹一郞『浪人若殿』(1978年 春陽堂書店 文庫 山手樹一郞長編時代小説全集45)を気楽に読んだ。この人の作品は、テレビドラマで著名な『桃太郎侍』や『遠山の金さん』でもおなじみで、善悪がはっきりしていて、そのように読むことができるように書かれており、事柄の顛末が明快に進んで行くので、面白さの点では群を抜いている。

 この人の作品は、以前にもだいぶ読んだ記憶があるのだが、文庫本の巻末にこの出版元から出されている『山手樹一郞長編時代小説全集』には別巻を入れて全84冊、『山手樹一郞短編時代小説全集』が全12巻あって、改めてその執筆量の多さに敬服した。物語の構成や展開、そして文章表現にどこか洗練されたものを感じていたのだが、きちんと整えられた表現でこれだけの執筆をするのは並大抵のことではない。

 この人の作品には、多くの場合、時代考証や社会背景、地理的考証の表現がほとんどない。だからといってそれがきちんと為されていないわけではなく、それがきちんと踏まえられた上で、どこまでも読者の側にたって、物語を読んでいく上でのそうしたことへの煩わしさを避けるために、いちいちそうしたことを表さないだけで、普通の読者へのサービス精神に溢れているのである。徹底して読み手の側にたった作家と言えるような気がする。

 その意味で、善はより善として、悪はより悪として描き出され、本書でも、主人公の香取礼三郎は、浜松藩5万石の藩主の別腹の弟で、品位をもったおっとりとした美貌の青年であり、機知に富み、剣の腕も立つ人物であり、彼を助ける江戸の岡っ引きの娘お吟は、義侠心のあるちゃきちゃきの江戸っ子気質をもつ美女である。やがて彼の妻となる兄嫁のお京も、誰もが彼女を狙う美貌の持ち主で、江戸幕府老中の娘として育ち、礼三郎の兄の元に嫁いだが、酒乱で狼藉を働く夫を避けて貞節を守っていた女性であり、事件をきっかけに礼三郎に命を助けられ、礼三郎を恋し、その恋一筋に生きていく女性である。

 善側の礼三郎の人間は、どれも、善であり、お吟の父親も、お吟を慕う手下も、お京の父親の老中松平伊賀守も、国家老の息子も、出入りの商人も、それぞれにそれぞれの立場で思いやりと愛情の深い人間として描き出されている。

 他方、悪の方は、浜松藩の乗っ取りを企む江戸家老、その意を受けて藩主を毒殺する家老、江戸家老の用人や江戸藩邸の用人、また、悪計に乗せられる藩主の血筋をもつ礼三郎の甥、江戸家老の娘など、色と欲の塊のような人間として描かれる。彼らの藩乗っ取りの計略は、極めて粗略で乱暴なものであるが、それを力で押し通そうとするところに、その悪が倍化されている。

 物語は、藩の乗っ取りを企む江戸家老の企みに乗せられて酒乱で手当たり次第に女を手籠めにするようになった藩主に、弟の礼三郎が意見をし、逆鱗に触れた礼三郎を藩主が上意討ちにする命令を出して、礼三郎が浪人となって江戸に出てくるというところから始まる。

 こういう筋立ても単純明快で、やがて、江戸家老の計略は着々と進み、江戸家老が跡目相続の権利を持つ礼三郎をなきものにしようとするのである。礼三郎は藩主の跡目など未練もなく、浪人として爽やかに生きようとするが、江戸家老一派の執拗な策略の火の粉を払わざるを得なくなり、兄嫁の命が狙われていることなどの悪行に立ち向かわざるを得なくなるのである。

 もちろん、物語は主人公たちの危機という山場をいくつか迎えていくが、ハッピーエンドで終わる。強欲に対する無欲、色情に対しての一筋の恋、人をただの道具として使い、人を人とも思わないことに対しての人の思いやりと愛情や義侠心、そうした対照が明白で、最後は善が勝利するというものである。

 ただ、面白いと思っているのは、善側の人間として描かれる人物像で、男であれば、1)何事にも捕らわれない自由でおっとりとしている、2)知恵と機知に富み、明察力がある、3)腕も立つ、4)愛情や思いやりが豊かである、5)無欲で爽やか、6)美男などが挙げられ、女であれば、1)素直で、自分に正直である、2)自分の気持ちを真っ直ぐに伝えることができる、3)知恵も愛情もある、4)一筋である、5)美貌の持ち主、といったことが挙げられるだろう。おそらく、これは作者の理想であるが、作者が生きた1899-1978年までの間の、ことに戦後の日本の一般的な理想像でもあっただろう。

 こうし見ると、最近の人々が描く理想像は、男にしろ女にしろ、もう少しどろどろしているので、むしろ山手樹一郞が描いた悪役に近くなっているのかも知れないと思ったりもする。「慎み」というのが薄くなっているのは事実である。山手樹一郞の作品は、もちろん、ただ面白いのだが、細かに人間像を見ていくと以外に深いものがあるのではないだろうか。もちろん、それは思想云々という話ではない。

 この秋は予定がけっこう詰まってはいるが、それだけに仕事の意欲は何となくわかないなぁ、と思っている。まあ、のんびりやっていこう。

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