昨日は起きたときに静かに雪が降り積もり、一面の白い世界が広がっていた。「お~、寒」と思いながらコーヒーを入れ、降り続く雪を眺めていた。しなければならないことが溜まっていたので、ひとつひとつこなしていったが、降っては溶ける雪片にはかなさを感じたりした。
葉室麟『蜩ノ記』について記そうかと思ったが、先に彼の『橘花抄(きっかしょう)』(2010年 新潮社)を読んでいたので記しておこう。これも名作だった。
本書は、筑前福岡藩の第三代藩主となった黒田光之と、その後継を巡る争いの中で、自らの真実を貫き通そうとした立花重根(しげもと)と弟の立花峯均(みねひら)、そして立花重根に引き取られた卯乃(うの)という娘を中心にして、深い愛に基づいて潔く生きていく人間の姿を描き出したものである。
黒田光之(1628-1707年)は、二代藩主黒田忠之の側室の子であったが、長男であったために忠之死後に家督を継ぎ、福岡藩の三代藩主となった人物である。藩祖の黒田如水(孝高)・長政はともかく、二代藩主忠之は人間的にも劣るところの多かった人物であったが、光之は、英邁で、財政困難に陥っていた福岡藩の大胆な改革を実行し、保守的な重臣を遠ざけ、新参に過ぎなかった立花重種(重根の父)などを家老として登用するなど数々の断行を行った。素養も豊かで、貝原益軒に『黒田家譜』などを編纂させたりもしている。
しかし、彼の長男であった黒田綱之をなぜか嫌い、これを廃嫡し(綱之は僧となり泰雲と名乗る)、三男であった長寛(綱政と改名)に家督を譲り、そのために藩政に混乱を招いてしまった。光之は1688年(元禄元年)に隠居して綱政に家督を譲ったのだが、80歳で死去するまで依然として藩政に影響力を持ち、晩年はその綱政とも対立していた。親にも愛されず、子も信じられずに、家族愛というものには恵まれなかった人物かもしれない。
その光之が新規に家老として重んじた立花重種の次男であった立花重根は、八歳で光之に近侍し、重用されて側近として仕え、光之が隠居した後も隠居付頭取として、五十三歳になるまでの長年を光之に仕えていた。秀才の誉れ高く、儒学、詩歌だけでなく、弓、槍、剣の奥義も究めていたと言われ、特に茶道では「実山」と号して、千利休の精神を伝える茶道極秘伝書『南方録』の編著者とも言われている。京文化とも繋がりが深く、福岡藩を代表する一流の文化人であった。
重根の腹違いの弟峯均も、兄であった重根の教えを受けて一流の茶人であり、それと同時に、宮本武蔵の流れをくむ二天一流の剣を学び、筑前二天流の相伝を受け、筑前二天流第5代相伝者になっている。福岡立花家は柳川立花家とも繋がりがあったが、福岡藩には、こういう重根や峯均のような傑出した人物を出す素地があったとも言えるだろう。
こうした主要人物の背景の中で、本書は、黒田光之によって廃嫡された綱之(泰雲)に仕えていた村上庄兵衛の娘「卯乃」が、廃嫡の騒動の中で自害したために孤児となり、立花重根によって引き取られていくところから始まる。「卯乃」は、十四歳で孤児となり重根に引き取られるが、その時に「泣くでない。泣かなければ明日は良い日が来るのだ」(6ページ)と語りかけられ、立花家で成長していくのである。
「卯乃」の父親村上庄兵衛が自害したのには、黒田綱之(泰雲)の廃嫡が大きく関わっていたのだが、藩内での状勢に逆らう形で、立花重根は、断固として娘を庇護していくのである。そして、「卯乃」が十八歳になったとき、妻を亡くしていた五十歳の重根の後添えになる話が持ち上がるのである。「卯乃」の父親の自害には藩内の複雑な事情が絡んでおり、「卯乃」を嫁に迎えようという家はなかったが、それ以上に、重根の優しさに触れていた「卯乃」の今後のこともあり、重根は「卯乃」を正式な妻として迎えることを決断し、「卯乃」もそれに応じるのである。
ところが、藩の家老で財政を取り仕切っている隅田清左衛門に仕える男が、父親の友人だったといってやってきて、黒田綱之に仕えていた父親の村上庄兵衛の自害に立花重根が深く関わっていたと告げるのである。綱之は才気発露の闊達な人物で、家臣を集めて酒宴を開くことが多く、藩内に倹約を勧めてきた光之の怒りを買って、蟄居させられて廃嫡されたが、その際、綱之の側近であった庄兵衛が責任を取る形で自害したというのである。泰雲(綱之)は、そのことに不満で、今なお復権を望んでいると言う。そして、光之に泰雲(綱之)の風聞を耳に入れたのが立花重根であるというのである。
だが、「卯乃」は、三月に重根との婚儀を控えた年の正月に失明してしまう。失明の原因には、自分を引き取り正式な妻にまでしようとしてくれている重根が、父親の自害に関係していたということを聞いた衝撃もあっただろう。失明した自分では、藩の重責を担う重根に仕えることができないと言い出すが、重根の心は変わらず、盲目となっても妻にするつもりだと語り、重根の継母の「りく」と共に弟の立花峯均が暮らす伊崎の屋敷で療養することを勧めるのである。
立花家に重種の後添いで入った「りく」は、家老であった立花家の家政を見事に切り盛りし、和歌、茶、香にも堪能で、重種が亡くなった後は、実子の峯均のところで暮らしていたのである。そして、目の見えなくなった「卯乃」と香を聞いてみたいと言い出すのである(「香を聞く」とは香道で香をかぐこと)。
重根の弟峯均は、二十一歳の時に豊前小倉藩の小笠原家に仕えていた巌流の遣い手であった津田天馬と名乗る侍との御前試合でひどい負け方をし、それを機に、巌流の佐々木小次郎を負かせた宮本武蔵の二天流を学びはじめたのである。峯均は、ひどい負け方をしたということで婿養子として入っていた花房家から家名を汚したということで追い出され、伊崎に家を造り、「兵法狂い」といわれるほど熱心に修行したのである。そして、前述したように、ついに二天流の相伝を受けるほどになっていたのである。おおらかで、まっすぐな性質で、兄の重根を助けていた人物で、母親の「りく」と婚家を追い出され他時に引き取っていた娘の「奈津」と静かに暮らしていたのである。重根は端正な顔立ちをしているが、峯均は丸顔の地味な顔つきで、体格も中肉中背だった。
伊崎の家で「卯乃」は「りく」や「奈津」から温かく迎えられ、畑仕事をしたりしながら、とりわけ「りく」から香道を教えられ、目が見えなくても凛として生きていくこと、人の心の香りを聞いて生きることを教えられるのである。そうした生活の中で、「卯乃」は峯均のもとに弟子入りを望む桐山作兵衛(実在の人物)から峯均のことを聞いたりして、峯均に「爽やかな香り」を感じたりしていくのである。
だが、藩の情勢は徐々に変化していった。隠居した黒田光之と藩主を継いだ黒田綱政との間がうまくいかず険悪になってきたのである。光之は隠居しても厳然と力をもっていたし、綱政に対して不満を持っていた。光之は二代目藩主であった黒田忠之から疎んじられて育てられ、忠之の放漫さによって藩の財政が逼迫した時に藩主を継いだこともあり、長子の綱之(泰雲)が豪放磊落で、放漫だった祖父の忠之に似て、奢侈に走り,藩財政を再び悪化させることを危惧して廃嫡したが、綱政の手ぬるさと綱政の子の吉之にも放漫さを感じていたのである。光之は鋭利なだけに、親にも子や孫にも信を置くことができなかったのである。
立花重根は、そうした光之の態度が藩に混乱をもたらすことになることを感じており、光之の側近として、そのような光之に対して親子の情愛を取り戻して、泰雲(綱之)をゆるし、綱政とも和解するように苦心する。だが、そうした重根の態度が、新参者である立花家の異例の出世を目論むものとして、譜代や古参の家臣の反発をかっていたのである。重根を暗殺しようとする動きが家老の隅田清左衛門を中心としてあり、命を狙われる重根を峯均が守っていくのである。そして、「卯乃」もまた、なぜか身の危険が迫ってくるのである。
ここまで物語の筋を追ってきて、指導者や権力者の新旧交代の時に起こる混乱は、たとえば徳川将軍家や福岡藩黒田家だけでなく、世の組織の常かも知れないと、ふと思ったりした。旧が強ければ新が潰され、新が強ければ旧が退けられる。そういう中で、ただ権力欲や保身だけで動こうとする人間も出てくる。そういう中で人生と生活が織りなされていくから、状勢に敏感にならざるを得ないし、それがまた混乱を招いていく。昨今の政治でも企業でも同じことが起こる。ただ、他を排斥しようとする人間ほど醜くつまらないものはないし、排斥する者は排斥される者となる。
その醜い争いの中で、たとえ孤立無援であったとしても自らの深い愛情と矜持をもってまっすぐに生きていく姿、それが、葉室麟が描き出す立花重根と峯均の姿である。そして、だからこそこの作品が琴線を揺さぶるのである。「矜持」とは、覚悟をもって生きることであり、しかも「愛する覚悟」をもって生きる人間の姿がここにあるのである。
物語の展開の続きは、また次に書くことにして、今日は少したまっている仕事を片づけよう。それにしても寒い。
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