2012年1月6日金曜日

西條奈加『烏金』

冬型の気圧配置で晴れた寒空が広がっている。今年は例年しなければならない仕事を一週間延ばして、Sさんと会うこと以外は、のんべんだらりとお正月を過ごそうと思い、その通りの日暮らし生活をした。Sさんと会えたことは生涯の喜びで、あとはお雑煮と黒豆を食べ過ぎて体重が3キロも増えてしまった。

そういう中で、西條奈加『烏金』(2007年 光文社)をかなり面白く読んだ。作者については何も知らず、巻末の著者紹介では1964年北海道生まれとあり、それ以外の詳細はわからないし、この本の装幀も、表紙絵の安っぽさもあって、どうかな、と思っていたのだが、内容は豊かだった。

物語は、因業な金貸しの婆である「お吟」のところに、なんらかの思惑をもって「浅吉」という若者が近づき、うまく取り入って転がり込み、日銭を貸すということで「烏金」と呼ばれる金貸しをしながら、借金でどうにもならない旗本御家人や町屋の人々、頼るものが何もなく集団で盗みを働きながら暮らしていた子どもたちなどを、才覚を働かせながら助けていくというものである。その才覚は頭抜けていて面白い。金を稼いで、困窮にあえぐ人を助けるということの壺がきちんと押さえられているのも作品の面白さになっている。

「浅吉」は、「お吟」から金を借りて返せなくなっている八百屋には、安くて新鮮な野菜の仕入れ先と売り先を見つけてやり、借金のために身売りしそうになった娘には、糠漬けが上手なところから、その八百屋で糠漬けを売る道を見つけてやったり、札差しからも借財の多かった旗本には、借金の整理と手内職を考案したり、集団で盗みを働いていた子どもたちには、稲荷寿司の販売という商売の道をつけてやったり、とにかく、いまで言えば、善良で優れたコンサルタントのようなことをして、すべての人の暮らしが成り立つようにしていくのである。

彼は「お吟」の下で金貸しをするのだが、奪うことより与えることで金が廻っていく仕組みを考えていくのである。その彼には可愛がっているカラスの勘三郎がついている。カラスの勘三郎は雛の時に獣に襲われ傷ついていたところを助けられ、その恩を忘れずに彼について来て、浅吉が危機の時には助けに来たりしてくれる。受けた恩を命がけできちんと帰す烏の勘三郎と「浅吉」は、人間の善性の二重性でもあるだろう。

浅吉は甲府の小さな村の庄屋の長男であったが、母親が死んだ後、父親に疎まれていたこともあり、幼馴染みで思いを寄せていた娘が借金のために売られてこともあって、ぐれてヤクザな世界に足を踏み入れていたところ、弟の懇願でヤクザから足を洗い、飢饉に陥っていた村の窮乏を救うために江戸に出てきたのである。その際、豪放磊落な算学師と出会い、算学を学びながら、その師の弟子となり、金貸しである「お吟」のところから村の窮乏を救う資金を調達しようとしていたのである。

人当たりが良く、人情家で頭脳も明晰であるが、ときおり、理不尽なことに対しては元ヤクザの暴れぶりも顔を出す。そういう浅吉であるが、吉原に売られていた幼馴染みの娘が足袋屋に身請けされることになったりして自棄になる中で、彼が生活を立て直してやろうとしていた子どもたちが、幼い子どもにいたずらをしようとした酔漢を痛めつけたために役人に捕らえられたりして、彼は命がけでその子どもを守り、彼も捕らえられてしまうのである。

こうした展開の中で、実は「お吟」が彼の祖母であり、若い頃に父親を生んだ後で商人と出奔し、父親がその母親である「お吟」を恨んでいたことが明らかにされたり、彼が「お吟」のところから金を取ろうとしたのが、村の窮乏対策としての葡萄の苗の買いつけのためだったりすることが明らかにされていく。そして、彼によって子どもたちは守られ、彼は江戸四方所払いを受けるが、それによって村に帰ることになるのである。

江戸時代の算学や烏金という日銭借りで暮らしを立てていた人々、商売の成り立ちなどがしっかり踏まえられているし、カラスの習性も盛り込まれ、平易な文体で、才覚を働かせて命がけで人々を守ろうとする人物が描かれており、ふと、北原亞以子や宇江佐真理、あるいは築山桂といった市井の中でたくましく生きている人々を描くわたしが好む作家を連想させる視点と作風を思い起こさせる作品だった。
主人公を初めとする登場人物たちの真っ直ぐな気持ちが、何よりもいい。

装幀でずいぶん損をしているような本だが、物語は面白い。この作者の作品は、これからまた読みたいと思っている。

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