今日も寒い。大晦日になっても格別普段と変わることがないのだが、世相とかけ離れた脳天気ぶりを発揮する新聞やテレビを横に見ながら、衰えていく体力の中で静かに行く末を考えたりした。想念や思想をじっと抱いたまま片田舎に逼塞することを考え続けているのだが、ふと、アメリカの作家のローラ・インガルス・ワイルダーが『大草原の小さな家』を書いたのが65歳であったことを思い出し、そろそろ壮大で哲学的なファンタジーを書き始めようかと思ったりする。
そんなことを思いながら、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』(2004年 小学館)を大変面白く読んだ。作者は、巻末の著者紹介で改めて気づいたのだが、1955年福岡の八女出身で、同窓でもあるので、たぶん、まだ青少年の頃にどこかで直接会ったことがあるかもしれない。しかし、その頃は個人的に思想の季節の中で閉じこもっていたし、化学に没頭していたために、ほとんど何も知らなかった。今回、この作品を読んで、これだけの力量のある作家であることに改めて驚いた次第である。
『薩摩燃ゆ』は、幕末のころに500万両もの借金を抱え、破綻寸前であえいでいた薩摩藩を立て直し、維新の雄藩にまで育て上げた調所笑左衛門廣郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと 1776-1849年)の姿を描いたものである。
調所廣郷は、薩摩藩軽格の出で、二十五代藩主であった島津重豪(しげひで)の茶坊主であったが、隠居してもなお厳然とした力をもっていた重豪に才能を見出されて、信頼を受けて重用され、二十六代藩主となった島津斉興(なりおき)の側用人となり、使番や町奉行を歴任した後、家老格となり、やがて家老となって藩の大改革を推進した人物である。彼がいなければ、維新の時の薩摩藩はなく、西郷隆盛も世に出ることはなかったし、明治維新も起きなかったといわれるほどの人物であった。
膨大な借金を抱えていた薩摩藩の中で、重豪に命じられて財政の立て直しに着手するが、行政改革や農政改革を行うと同時に、借金をしていた大阪商人に無利子の250年払いという途方もない策略で対応し、砂糖の専売制を敷いて商品開発を行うと同時に、琉球を通じての密貿易を行い、それらによって、短い年月で500万両の借金から250万両の蓄えのある藩に一変させたのである。本書では、贋金作りにも着手していたことが記されている。彼が画策した密貿易で薩摩藩の財政は立て直され、維新を推進するほどの力をもったが、彼自身は、おそらくその密貿易の責任を取って自死したと思われる。
調所廣郷はこうして藩の財政改革を成し遂げて、藩の重鎮になっていくが、もちろんこれだけの改革を断行するからには、それだけの無理もあり、砂糖の専売制を敷いて生産性を上げて利を得るために、生産地であった大島や徳之島の島民に過酷な状態をもたらしたり、贋金作りの時に出る水銀中毒を引き起こしたり、また、藩内の統制で一向宗徒を弾圧したりしている。本書では、そのあたりの調所廣郷の苦渋の決断が詳細に述べられている。彼が背負った苦悩をこうした姿で述べることが本書の眼目であろう。彼が藩の改革に着手したのは50歳代になってからである。それも驚嘆に値する。
晩年、調所廣郷は、何度も藩主の斉興に隠居を願い出るが許されず、ついには斉興の子の斉彬(なりあきら)と久光との間の争いの中で、すべての責任を取って毒を飲んで死を迎えなければならなかった。
斉彬は、剛胆で英邁であった祖父の重豪に気に入られた秀才の誉れの高い開明派の人物であったが、父親の斉興はそれが気に入らず、妾腹との間に生まれた久光を世継ぎとしたいと思い、それが斉彬と久光の争いになっていくのである。
一般には、調所廣郷は、斉興・久光派に属して藩主斉興の意向を尊重したといわれ、彼が服毒したのも密貿易などの罪が斉興にまで及ぶのを防ぐために責任を取ったのだと言われ、また斉彬の開明策によって藩の財政が再び窮地に陥ることを案じて、斉興・久光側であったと言われているが、本書では、斉彬の人物を見抜き、久光ではなく斉彬を藩主にするためにとった策がまったく裏目に出てしまい、それらすべてを呑み込んで服毒したという理解で後半の話が進められている。
斉興は、剛胆な父親の陰で気の小さなかんしゃく持ちの人物で、本書では斉興の気に入らないことを調所廣郷がしたために、廣郷の長男と長女が忙殺されたのではないかと記され、そのためにも廣郷が斉興・久光側ではなく、真実は斉彬側であったと語られていくのである。
わたしは個人的に斉彬が極めて優れた人物であったと思っているし、維新の時の藩主が久光だったために維新後の日本の歩みが曲がってしまったのではないかとさえ思えることがあるので、薩摩藩の屋台骨となった調所廣郷についてのこの解釈にうなずくところがある。
ともあれ、本書はその調所廣郷の苦労を克明に語りつつ、「前のめりに死ぬ」という薩摩武士としての覚悟をもった人物として見事に描き出している。「何をしたかではなく、どんな覚悟をもっていたかが問われる」(82ページ)のであり、調所廣郷の覚悟が記されていくのである。
改めて、この覚悟を西郷隆盛が引き継いだのだろうと思う。その意味では、調所廣郷によって薩摩武士のよい姿が作られたような気がしないでもない。薩摩武士の多くは嫌われたが、薩摩が戦国からずっと生きのびてきた秘訣もそこにあるような気がするのである。
薩摩(鹿児島)は、桜島の噴火によるシラス台地で痩せた土地である。だが、明治維新を起こしたほどの財力を自力で作った土地である。自主独立の気風に富み、美しいところであり、先年、鹿児島を訪れたときに、錦江湾を眺めながら、その美しさにしばらく佇んでしまったことがある。調所廣郷が作った甲突川の石橋も見事であるし、斉彬が残した諸施設もその先見性に驚いたことがある。西郷隆盛の城山での最後も人の世の哀しみをたたえる。そして、本書を読みながら、歴史の影に調所あり、と思った。本書は、そんな感慨も呼び起こしてくれる作品だった。2011年の最後に、こういう人物について少し考えることができて良かったと思っている。
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