2011年12月12日月曜日

羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸へ行く』

昨日、今日と、日中は陽が差してありがたいが、寒さが日毎に厳しく感じられる。一日一日を数えるようにして過ごしているが、「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」今日も憮然と過ごしそうな気配がある。午後からS.キルケゴールの思想について話をすることになっており、以前書いた『逍遙の人-S.キルケゴール』を読み返したり、それを書いていたころのことを思い出したりしていた。

 そんな中で、羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸を行く』(2006年 角川書店)を結構面白く読んだ。これは、手に取ったときは知らなかったが、読み進めるうちにどうも前作があるようだと思い、奥づけを見ると、やはりシリーズ物で、『峠越え』、『新任家老 与一郎(されど道なかば)』の前2作があって、3作品目であるということであった。しかし、前作を読まなくても物語の展開のおおよその背景はわかり、日光近辺の小藩の新任家老となった榎戸与一郎という主人公を中心に、藩内で起こる勢力争いを絡めながら、彼が、ひとりの人間として、あるいは武士として新しい地平を開いていく物語である。

 主人公の榎戸与一郎は、その藩の中でも特別な存在であった家柄家老の榎戸家の嫡男として生まれ、甲源一刀流の遣い手でありながらも、どこか、あくせくしない茫洋としたところがあったが、筆頭家老であった父親の弥次郎衛門の力が強く、彼の家柄からどうしても藩内の勢力争いに巻き込まれざるを得ない状態に置かれていた。そうした藩主の跡目を巡る争いや藩内での抗争に巻き込まれていく姿は前作で展開されているのだろうと思われる。

 彼は、その父親が隠居し、家老の末席に加えられたが、藩主の側女となっていた姉の七重が子を産んで死んでから、その死にまつわる様々なこともあり、父親も病に倒れて抑えが効かなくなり、いつの間に酒に溺れて酒毒に犯され(アルコール中毒)、その依存症に苦しみながらも、新しい藩命として藩主の側女の選定のために江戸へ向かわせられることになる。そこから本書の物語が始まるのだが、彼の江戸行きは、彼の酒毒を直すためでもあり、友人でもあった元目付頭で、今は藩籍を奪われている奥山左十郎も同行する。だが、アルコール依存症の与一郎は、あの手この手を使って何とか酒を入手しようとするのである。彼は江戸についても酒を求めて意地汚く奔走する。

 そういうアルコール依存症に陥っている与一郎の姿が、実にリアリティーをもって描き出されており、のどから手が出るほど酒を求める姿が展開されていく。友人の奥山左十郎も、冷ややかだが苦心するし、彼はまた与一郎の護衛の密命も帯びていた。藩内での抗争は裏で続いていたからである。

 そういう中で、彼は正体不明の三人の武士に襲われる。与一郎は甲源一刀流の遣い手であったが酒毒に犯されていたために危険にさらされる。だが、奥山左十郎が護衛役としてつけていた滝沢染之丞によって助けられ、加えて、以前、着任したばかりの藩主と旧来の家老職との間の対立で殺さねばならなかった公儀隠密と目される男の息子である向坂兵馬によって父の敵として狙われたりする。

 危機の脱出のためには、酒毒は何としても抜かなければならない。そのために友人の奥山左十郎は苦心していく。そして、ようやく治りかけるころ、与一郎の表向きの役目である藩主の側室候補者に会うための花見の宴席が前将軍の母である随陽院の手によって開かれ、与一郎はその宴席に出る(もちろんこの随陽院も作者の創作だろう)。与一郎の藩主が茶席で随陽院に仕える加寿江という女性に一目惚れし、その女性を見定めるのが与一郎の役目であった。

 だが、この花見の席で、随陽院はなぜか冷たく与一郎をあしらい、その反動もあって、勧められた酒を飲んでしまい、彼は一気に酒毒患者特有の状態に陥ってしまうのである。側にいた加寿江の膝に突っ伏して前後不覚になってしまい、表向きの役目は失敗する。しかし、そこには随陽院自身が抱えていた彼の父親の弥次郎衛門と関わる事情があったのである。そして、前後不覚に陥った与一郎を乗せた駕籠での帰路、彼は再び正体不明の七、八人の武士団に襲われるのである。

 襲われた与一郎を奥山左十郎は芝の日蔭町にあった隠れ家に匿い、国元から連絡のために出てきていたきていた以蔵の世話を受けながら本格的な酒毒(アルコール依存症)の治療を始める。酒毒から抜け出るために酒断ちをしていた与一郎は、花見の席でつい酒を飲んでしまい、自己嫌悪のどん底まで墜ちて、もはや無理やり酒から遠ざける必要があった。以蔵は与一郎の母の兄であり、叔父であったためにその辺りの信頼は深いものがあった。与一郎は酒欲しさに暴れるが左十郎は無理やり彼を押さえ込む日々が続いた。そうしているうちに、奥山左十郎の一子で、藩の剣術指南役を勤めたことがある野川十左衛門の元に残してきた小次郎が剣術修行のために江戸に出てくるという話が伝えられたり、与一郎の弟で藩の重職の斎藤家に養子にいった弥三郎も江戸藩邸に出てくるということが伝えられたりするが、与一郎を襲った武士団の正体はまだ釈然としなかった。

 与一郎を襲った武士集団について、奥山左十郎は藩内の派閥の一つである伊勢党ではないかと思っている。もともと伊勢の豪族であった藩祖が連れてきた譜代の家臣が伊勢党で、藩祖が東三河に領地をもらったときに雇った家臣団が三河衆と呼ばれ、関ヶ原の合戦の後に北関東に移封されたときに、在地の領主であった榎戸家を家老就任の条件で招いた最新参の家臣団が関東衆と呼ばれ、藩内には三つの家臣団があったのである。そして、榎戸家は代々が家老に就任する家柄家老であったのである。しかし、そこに新藩主が養子に入った際に「直仕置き(藩主が直接藩政を行うこと)」のために実家から呼び寄せた家臣団があり、酒井衆と呼ばれ、そのことで藩内にごたごたが起こっていたのである(この辺りは前作で記されているのだろうと思う)。つまり、榎戸家は藩内では特別の存在で、譜代の伊勢党にとっては目障りなものであったのである。こうした事情の中で、与一郎の存在をなきものにしようとする動きが起こっていると左十郎は見ていたのである。

 だが、そこに突然、自分の膝の上で前後不覚に陥り、襲撃された与一郎を案じて、随陽院に仕えていた加寿江が訪ねてくる。加寿江は藩主が側女にしたいと思っていた女性ではあったが、一心に与一郎の看護に当たり始める。与一郎を襲ったのも、伊勢党の領軸である鵜殿采女の三男で、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎ではないかととの推測ができるようになる。与一郎は加寿江の看護と医者の適切な処置で酒毒から抜け始め、体力の回復を待つばかりとなっていく。加寿江の願いを入れて与一郎のもとに行くことを許した随陽院も密かに加寿江や与一郎を守らせている気配がある。藩主の側女の判定にきた与一郎を冷たくあしらった随陽院が、なぜ与一郎を警護するのかの謎は、次ぎに明らかになっていくが、謎だらけの状態で与一郎は回復に努め始めていくのである。

 かつて与一郎の父である弥次郎衛門が江戸で放蕩三昧の生活をしていたころ恋仲となった娘が随陽院であった。随陽院は経師屋の娘であったが大奥の最下級の半下としてお湯殿で奉公していたときに将軍のお手つきとなったのである。このあたりは八代将軍の徳川吉宗の母の実例がある。他方、弥次郎衛門の方も、父親が急死したために急遽、強引に藩に連れ戻され、二人はそのまま別れていたのである。こういう経過が与一郎の父と随陽院の間にはあり、それが随陽院の一連の態度に関連していたのである。

 加寿江は、そういう事情は知らなかったが、藩主の側女になることを断り、次第に与一郎に想いを寄せていくようになる。だが、加寿江の正式な断りを藩の江戸屋敷は藩主に伝えずに、与一郎は藩主の怒りをかっていくことになっていく。藩主石見守は直仕置きを行おうとするほどの自意識と英邁さをもっていたが、底意地の悪いところがある人物で、自分に反抗するものは決して許すことのない激しい性格の持ち主であった。

 与一郎の酒毒も次第に抜け始め、加寿江を護衛していたのが公儀お庭番の倉地由之助であることがわかる中で、与一郎の世話をしていた以蔵が、可愛がっていた姪の七重が死んだときの藩医であった村田雪庵を見かけ、その後を追う。七重は万年青の根の毒で死に、その万年青は鵜殿采女の屋敷にあり、雪庵が一枚噛んでいたのではないかと疑っていたからである。雪庵は七重が倒れたときに急に江戸へ行き、その後焼死したと伝えられていたが、火傷で顔を変えて身を隠していたのである。雪庵は音羽町の香具師の元締めで地回りの大物と繋がり、その香具師の大物の用心棒が与一郎を仇と狙う向坂兵馬であった。だが、以蔵は、その香具師が営む賭場で雪庵を見張っていたところを捕まってしまう。そして、加寿江もまた何者かに呼び出されて地回りに捕縛されてしまう。与一郎と加寿江が話しているのを向坂兵馬が見つけ、地回りに加寿江の後とつけさせていたのである。

 その中で、随陽院に命じられて加寿江を護衛していた倉地由之助の祖母が、鈴木春信が美人画で描いた美女の「笠森お仙」であることや、加寿江がその血筋であり、倉地由之助と腹違いの姉であることなども記されていく。評判の美女であった「笠森お仙」が公儀お庭番家の倉地家に嫁いだことはよく知られている事実である。

 与一郎たちと公儀お庭番は加寿江と以蔵を懸命に探し出そうとし、ようやく地回りに監禁されている場所を見つけて奪還に走るが、すんでの所で再び連れ去られてしまう。どうやら、その一件には藩内の伊勢党が絡んでおり、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎が出てくる。鵜殿忠三郎一味は加寿江を無理やり国元に連れて行くつもりらしいと推測される。

 そこで与一郎たちも加寿江の救出に向かうことにする。その途中で、与一郎を仇と狙う向坂兵馬と出会うが、与一郎は飄々と向坂兵馬に近づき、鵜殿忠三郎に裏切られた兵馬に、立ち会いを条件に鵜殿を探す手伝いをしないかと相談するのである。その話に納得した兵馬も一同に加わることにして、鵜殿一味に連れ去られた加寿江と以蔵を救い出す旅に出るのである。

 その途上で、鵜殿一味は口封じのために七重の殺害に関係があった雪庵を殺し、また正体を知った以蔵を殺してしまう。だが、与一郎たちは、藩内に入る直前に、鵜殿一味に追いつき、死闘を繰り返す。そして、この戦いで向坂兵馬は傷つき、加寿江の腹違いの弟で公儀お庭番の倉地由之助は斬られてしまうが、ようやく加寿江を救出することができたのである。しかし、藩内には入らずに近くで待つようにとの父親からの知らせを受ける。与一郎に、自分が側女にしようとした加寿江を連れて逃げたということで、藩主から上意討ちの命令が下されていたからである。与一郎を討つ命令は、奥山左十郎の子で与一郎も弟のようにして可愛がっていた小次郎だという。藩主の底意地の悪さが光る上意討ちの命令だった。

 だが、小十郎自身が与一郎の弟の弥三郎と共にやってきて、自分は幕臣である野川家に養子に入ったから、藩主の家臣ではなく上意討ちの命令には従わないと断り、代わりに与一郎を上意討ちにくるのは、与一郎らを江戸で世話をした滝沢染之丞であった。藩主の石見守は、どこまでもしつこい嫌がらせをするのである。その滝沢染之丞が来る前に、病身を押して与一郎の父親の弥次郎衛門がやってきて、すべての藩籍を返上して新しい藩を作ると言い出すのである。驚く人々を前に、実は、榎戸家には神君家康から与えられた「お墨付」があり、少なくとも一万石を賜ることができると言い出すのである。

 新しい藩を作る方向へ彼らは向かっていく。だが、上意討ちを命じられた滝沢染之丞がやって来て、与一郎に変わり奥山左十郎の子の小次郎が彼と剣の勝負を挑むことになって、見事にこれを討ち、また、七重を毒殺した真の犯人が同じ関東衆であった家老が筆頭家老の地位を狙って伊勢党と組んでいることがわかり、弥次郎衛門は奥山左十郎に仇を討つことを最後の頼みとして依頼するのである。そして、弥次郎衛門は娘の七重殺しの犯人を討って、病死する。

 榎戸与一郎らの新藩創設は、神君家康の「お墨付」もあり、幕府も認め、随陽院もその力を貸す。七千五百石が認められ、新田開発などもあり、九千石になるという。随陽院は加寿江と与一郎の婚儀の祝いとして自分の化粧領を差し出すとまでいうのである。だが、与一郎はそれを遠慮して、九千石の交代寄合(一万石以上の大名ではないが、大名と同じ資格で、江戸住まいだが領地に帰ることが許されている大身の旗本)として新しい藩ができるのである。

 そこへ隣藩となる旧藩主の石見守がやってくる。のっけから与一郎に皮肉を言い、加寿江のことも皮肉る。そして、七重が生んだ娘を養子にやってもよいと言い出す。石見守の腹の内はわかっているが、子どもが産めないことで自分との結婚を躊躇していた加寿江のこともあり、また、姉の七重のこともあって、与一郎はその話を受けることにする。ところが、石見守はさらに、与一郎を仇と狙っていた向坂兵馬のことを聞いたこともあって、兵馬に向かって脱藩の罪をゆるし、召し抱えることにするから仇討ちができるとそそのかすのである。だが、兵馬は、自分はここに来る途中で一度榎戸家の家来となったので、もはや仇討ちができないと明瞭に断るのである。

 与一郎は加寿江と共にオオムラサキの蝶が飛び交う榎戸郷に向かって歩み出していく。そこで、この物語は爽快さを残して終わるのである。

 本書の中で、すべてが落ち着こうとするときに、与一郎の弟である弥三郎が掛軸の揮毫を依頼する場面が描かれ、その言葉が「行不由径(行くに径-こみち-に由らす)」という言葉であることが記されている(356ページ)。論語に記されている孔子の言葉であるが、これが本書のすべてを表す言葉でもあるだろう。藩内や様々なところで、様々な駆け引きと画策が行われるが、主人公は「大道」を同道と悪びれなく生きていくのであり、その姿が描かれているのである。

 「行くに径に由らず」まさにそれこそが、人がいつも自分らしく胸を張って生きていく姿だろう。余の策略家はいつも「径(小道)」を践み迷う。素直であること、素朴であること、「径(小道)に由らず」なのであり、その姿を作者が描こうとしていることがよく伝わる物語であった。

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