2012年7月4日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集19 柳生非情剣』(1)


晴れの日と雨の日が交互に訪れて梅雨の終わりを感じさせる暑い日になっている。こういう日は、黄昏時にぶらりと歩くのが気持ちいいだろうな、と思う。

 このところ、2010年に新潮社から出された『隆慶一郎全集』の最後の巻になる隆慶一郎『隆慶一郎全集第19巻 柳生非情剣』(2010年 新潮社)を読みすすめている。これで2-5巻の4冊にわたって収められている『影武者徳川家康』を除いては、この全集本のすべてを読んだことになるが、『第19巻 柳生非情剣』には、「柳生刺客状」、「慶安御前試合」、「柳枝の剣」、「ぼうふらの剣」、「柳生の鬼」、「跛行(あしなえ)の剣」、「逆風の太刀」、「心の一方」、「銚子湊慕情」、「時代小説の愉しみ」、のほかに、池田一朗としての「ポール・ヴァレリイに関するノート」、シナリオ「にあんちゃん」と対談、年譜などが収められている。

 個人的に、わたし自身は闘いや争いが大嫌いで、どうしても闘わなければならなくなったとしたら、ただ己の死を覚悟しておればいいと思っているだけで、死を覚悟することと死を賭して闘うことは全く異なっているから、ただ死を覚悟してその場にいるだけを選ぶので、基本的には闘いの手段である「剣」というものを己の生涯にしてきた柳生一族にも、また、剣技を禅の思想に近づけようとした柳生新陰流にも全く関心がない。

 しかし、「人の姿」としてこれを見るとき、そこに悲哀があるのは事実で、柳生一族という「生き難さ」を生きなければならなかった人間たちが抱えていた悲哀を知ることは意味のあることかもしれない。

 そう思って、この本を読み始めたら、作者自身が、1988年に講談社から出された『柳生非情剣』の中の「あとがき」で次のように述べられていて、なるほど、と思った。

 作者は、剣は人を斬るための人殺しの術で、剣の達者とは人殺しの達者であり、「人でなし」であると語った後で、「『ひとでなし』だからこそ、人がはっきりと見えるのである。『人でなし』だからこそ、冷厳な世のからくりに涙することが出来るのである。そして『人でなし』だからこそ、時として『覚者』になることもできるのではないか」(本書 607608ページ)と語る。

 その視点で、柳生一族が肉親相克の中で生きてきた姿をそれぞれの人物に焦点を当てて描いたのが本書である。もちろん、ここには作者一流の歴史解釈があって、歴史物語として面白く読めるものになっている。

 「柳生刺客状」は、1986年の『オール読物』8月号に発表され、死後の1990年に講談社から出された作品集『柳生刺客状』に収録されたもので、徳川将軍家剣術指南役として、また、大名として柳生家を再興させた柳生宗矩(15711646年)と、宗矩の甥にあたり祖父の石舟斎や父親の柳生厳勝から直接剣の指導を受けて柳生新陰流の正当な後継者となり、尾張柳生の祖となった柳生利厳(15791650年)の姿を作者らしい歴史の裏側から描いたものである。

 柳生宗矩は、新陰流の祖である上州の上泉伊勢守信綱(1508?-1577年)から新陰流を伝授された柳生宗厳(むねよし-石舟斎-15271606年)の五男として生まれ、柳生新陰流(江戸柳生)を確立していた人物であるが、彼ほど歴史の評価を二分する人物はいないかもしれない。あるときは、優れた剣客として、また有能な官吏として三代将軍徳川家光を支え、江戸幕府の幕藩体制を盤石なものとしていった人物として描かれ、ほかの場合には「腹黒い陰謀家」、あるいは「影の暗殺集団の首魁」として描かれる。

 隆慶一郎は、どちらかと言えば後者の評価を柳生宗矩に対して行なっているが、本書では、それが父親であった柳生石舟斎への恨みと、自身で身を立てなければならなかった境遇、特に彼が仕えた二代将軍の徳川秀忠の陰湿な残酷さの片棒を担がなければならなかった立場にあったと展開するのである。そして、三代将軍徳川家光が彼を頼ったというのではなく、彼を恐れたと語る。

 後に宗矩が将軍家剣術流儀として確立した江戸柳生と新陰流正統を誇る利厳が設立した尾張柳生は、互いに相克の関係になるが、ここで作者は、宗矩が利厳との剣の試合に敗れた代わりに、徳川家康、そして徳川秀忠の意を受けた影の暗殺を引き受けることによって世俗的な地位を確立していった取物語を展開する。その際に、家康が既に影武者であることを秀忠に注進して、秀忠の陰湿な陰謀を手助けするようになっていったと語るのである(もちろん、こうした展開は史実と創作が入り混じっている)。

 この中で、柳生利厳が、戦場で自分が殺した夥しい死骸に自失し、自らを失っていく姿が描かれ、その時に、父親の柳生厳勝が、「修羅の中にいる」と語る息子の利厳に「おれはね、まさしく仏たちの中にいたよ」と語る場面がある(4748ページ)。やがて、累々と屍が横たわるようなどんな死であれ、それを仏としていくことに利厳が気づいていき、それによって宗矩との試合に勝っていくという筋立てが取られている。こういうところが、作者が言う「覚者の姿」であるかもしれないと思ったりする。

 「慶安御前試合」は、尾張柳生の開祖となった柳生利厳の三男で、新陰流五世となった柳生厳包(としかね-連也斉-16251964年)と、江戸柳生の確立者である柳生宗矩の三男で、やがては柳生家の家督を継いで四代将軍徳川家綱の剣術兵法師範となった柳生宗冬の慶安4年(1651年)に三代将軍徳川家光の前で行われた「慶安御前試合」をきっかけにして、尾張柳生の柳生厳包(連也斉)の姿を描いたものである。

 本書では、天才的な剣技をもつ柳生厳包の姿が、彼の恋とともに描かれていくが、将軍家指南役としてどうしても負けることをゆるされなかった江戸柳生の柳生宗冬は、弟の義仙(芳徳寺の開基者-烈堂-)が率いる暗殺集団である裏柳生に依頼して、柳生厳包を襲うのである。厳包(連也斉)は江戸に向かう途中の道中で義仙の手のものに襲われ、なんとかこれを退けるが、その時に睾丸を二つとも失うという手傷を受けてしまう。だが、「御前試合」では、柳生厳包が柳生宗冬が置かれていた苦境を悟り、肋の一寸を斬らせて、宗冬の手の甲を砕いたという結果に終わり、宗冬は家光後の家綱に忠勤を励むことによって十七年後に大名となり、厳包は、睾丸を失ったことから生涯を独身で通して七十歳で没したという展開になっている。本書が、柳生厳包が「人の悲しみを知る人」として描かれるのは大変興味深い。

 柳生宗矩の次男で、宗冬の兄(異母)であり、三代将軍徳川家光との衆道(同性愛)の関係にあったと言われる柳生友矩(16131639年)の姿を描いた「柳枝の剣」については、次回に記すことにする。

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