2012年7月27日金曜日

池端洋介『養子侍ため息日記 たそがれ橋』


 今週は晴れ間が続くということで、火曜日から部屋の壁を塗り替え、4日間ほどかけてようやく終了した。かなりの筋肉痛にもなっているのだが、仕上がりがなかなか良くて自分でも満足しているので、汗を流した甲斐があったと思っている。家具を動かしたついでに床のワックスがけもして、これでしばらくは快適だろう。それにしても、異常なくらいに暑い。

 そういう中で、夜は池端洋介『養子侍ため息日記 たそがれ橋』(2007年 学研M文庫)を面白く読んでいた。前作の『養子侍ため息日記 さすらい雲』(2006年 学研M文庫)が素晴らしく面白かったので、続編となる本書を読んだ次第である。

 前作で、越後里村藩の藩政を巡る争いに巻き込まれ、養父である平木弥太郎ともども密命をおびて脱藩した形で江戸の長屋住まいとなった主人公の平木又右衛門は、無一文ではあるが楽天的な性格もあって次第に長屋住まいにも慣れてきてところであるが、里村藩の跡目争いに巻き込まれていく。

 里村藩奥祐筆で、かつて平木又右衛門が野犬から助けたこともある五十嵐掃部(かもん)と息子が、国元からやってきて、彼の息子が書院番をしているときに、藩主の日記が何者かに盗まれ、その日記には江戸幕府に対する批判も書かれていて、それが発覚すると里村藩が取り潰しにあう危険があるという。それを盗んだのは、藩主の弟で、藩政に欲を出そうとして、日記を材料に脅しをかけてきて、藩主を隠居させて嫡男の貢献にせよと言い出したというのである。

 養父の平木弥太郎は又右衛門に、「お紋」たち隠密を使ってその日記を取り戻すことを命じ、日記をもっていると思われる武士の隠れ家の探索を命じるのである。職にあぶれた浪人者の姿になり、養父の弥太郎と住んでいた長屋よりもはるかにひどい怪しげな長屋に移り住んで、様子を探れと言われ、やむなく、みすぼらしい格好の浪人となり、意味も分からぬままに長屋での生活を始めるのである。

 しかし、金はないし、無聊を囲う日々が続き、又右衛門はその日の糧を得るために釣り竿をかついで、小魚を釣りに出かけたりする。このあたりの描写が、主人公の人柄をよく表しているので、少し抜書しておこう。

 「当初は臭くてかなわぬと思った海の臭いであったが、こうして大海原を眺めながら竿を振っていると、何だかとても良い臭いのように思われてきた。石組みの上から下をのぞくと、小さな黒い魚影が、糸の周りにたくさん集まってきているのが見える。――これで今日も食いっぱぐれ無しだの。
 又右衛門はほくそ笑んだ。家主の家で七輪を借り、塩焼きにして持って帰るのだ。朝から粥しか食っていない又衛門は、思わず涎が出そうになるのを堪えた」(3839ページ)

 主人公の楽天性をこういうふうに表わされると、それが天性のものであることがよく伝わり、何とも言えない面白みが醸し出されてくる。こういう箇所は随所にあって、隠密である「お紋」から「お役目を、忘れてはおられませんね」と叱責され、「忘れてなどおらぬ」と答えたりする(54ページ)。あるいは、「最初はあれほど嫌がっていたはずの又右衛門だったが、何だか最近、この浪人生活が気に入り始めている。まるで昔の自分にもどったような、いわば双六の振り出しに戻ったような気分なのである」(62ページ)と語られて、主人公が、なんの欲得もなく自由で気ままな生活をいかに望んでいるかが巧みに記されている。

 彼は、人が人を騙し、術策を練って、いかに自分が有利な立場になるかを考えている人間が多すぎると思い、自ら「ずるい人間」になろうとするが(135136ページ)、結局はできずに、「――結局俺は、ずるくもなれず、したたかにもなれず、ただ悶々として生を終えるのかも知らんの」(138ページ)と思ったりするのである。

 だが、彼が置かれている境遇は物語の展開とともに厳しいものになっていき、藩政を奪取しようとする藩主の弟と私腹を肥やす家老が手を結んで、藩主や彼の養父の平木弥太郎は厳しい状況に置かれていくし、又右衛門もどうすることもできなくなっていく。しかし、養父の平木弥太郎も能天気で、長屋の隣に住む女性を懇ろになったりし、加えて、元許嫁であった国元の「香苗」が突然訪ねてきて、又右衛門は、「お紋」と「香苗」の板挟みになったりもする。又右衛門は用心棒家業をしながら、なんとか藩主の日記を取り戻そうとするがうまくいかないのである。

 こうして、藩主は病気を理由に隠居させられ、嫡男は適性に欠けるということで廃嫡され、まだ幼い次男が藩主となり、後見人として藩主の弟、家老として私腹を肥やしていた家老が就任し、反対派には厳しい処分が加えられ、平木家も改易のままに置かれることになったのである。又右衛門の境遇は、正真正銘の浪人の境遇となる。

 だが、天網恢恢疎にして漏らさずで、ある日、藩主の後見人になって藩政をほしいままにしていた藩主の弟が何者かに殺されるという事態が起こるのである。それによって、隠居した藩主が後見人となり、形勢は一気に逆転して、私腹を肥やしていた家老は蟄居、日記も又右衛門のところに届けられ、全てが明らかになっていく、そして、後見人となった藩主は、又右衛門を家老に引き立てていくのである。

 こうして物語が終わるが、一つ一つの場面が主人公の人柄と合わさって山場を持ち、展開の妙が感じられるし、何よりもまず、主人公の人格が物語の展開と重なって、とにかく面白いのである。

 この物語は、主人公が家老になるところで終わるのだが、二冊だけではもったいないような設定とだと思う。作者の筆運びは、実にうまい。『養子侍ため息日記』の「さすらい雲」と「たそがれ橋」は、読んで楽しくなる二冊だった。

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