2013年6月26日水曜日

藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風 会津の花』(2)

 昨日は雨の予報が出ていなかったので傘も持たずに吉祥寺まで出かけ、ちょうど大学についた頃に「ゲリラ豪雨」に出くわした。昔からこうした雨は「時雨」とか「通り雨」とか呼ばれてあったのだが、降る雨量が違っているので「ゲリラ豪雨」というなんとも味気ない名前がつけられたのかもしれない。「時雨」や「通り雨」が、はるかに情緒があるが、雨の降り方の呼び名一つにも、質ではなく量の世界に移行してしまった世相が反映されているのかもしれないと思ったりもする。

 今日は朝から雨模様である。今日の雨はしとしとと降っている。このところ疲れを覚え続けているので、雨を理由に何もするまいとは思うが、なかなかそうもいかない。生活をするだけでもなかなか大変なのだから。

 閑話休題。藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風、会津の花』(2010年 中央公論新社 2012年 中公文庫)の続きであるが、薩摩や長州に比べてみても会津の軍政改革ははるかに遅れていた。新進の知識を持つ山本覚馬はそのことで悶々としていくが、ようやく、会津藩は砲銃の重要性を認識して改革の道を取ろうとする。覚馬を後押しするのは家老の梶原平馬らであったが、時すでに遅しで、将軍となった徳川慶喜の幕府再建策などで会津は翻弄されていき、ついに大政奉還を迎えてしまう。それから怒涛のように情勢は流れ、慶応3年、4月に長州の高杉晋作が病死し、10月に大政奉還が行われ、11月に坂本龍馬が暗殺され、12月に王政復古の大号令が出されてしまう。そして、翌、慶応4年1月に、ついに鳥羽伏見の戦いとなり、会津は賊軍となってしまう。

 徳川慶喜は京都から大阪城へ逃げ、さらに、鳥羽伏見の戦いで敗戦が濃厚となるや船で江戸へ逃げる。会津藩主松平容保もその慶喜と同行をさせられる。この時、八重の弟で、まだ若干の少年に過ぎなかった三郎は大阪城警護の時に負傷し、江戸に運ばれるが死去してしまうし、覚馬は鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕らえられ、斬首された伝えられる。

 会津の山本家ではその知らせを受けて悲痛な思いに沈んでいくが、会津藩主松平容保は会津に帰ってきて、どこまでも徳川家に従順であることを決める。藩祖以来の伝統を守ろうとする。だが、その肝心の徳川将軍の慶喜は恭順の意を表し、江戸城を明け渡して、上野へ、そして水戸へと去っていく。

 京都守護職時代に展開されたことや倒幕の最大の障がいとみなされていた会津は、新政府に恭順の意を表すが、認められずに、ついに、新政府軍との間の戊辰戦争となり、会津は奥羽列藩同盟や奥羽越列藩同盟を形成して抵抗するが、新政府軍の軍事力の前で次々と破れ、ついに籠城戦を取らざるを得なくなる。覚馬が長崎で購入を手配した新式銃も新政府軍の手によって越後で押収されてしまい、武力の準備が整わないままで、新政府軍に取り囲まれていく。こうして、鶴ヶ城での悲惨な籠城戦が展開される。

 この時の会津藩士の姿は、戦術や戦略的には問題はあったが、個々の人々の姿は胸を打つものがある。八重の父の権八も徴用されていく。そして、女ばかりになった山本家も鶴ヶ城へと入り、籠城する。この時、八重は、藩内で銃や砲を最もよく扱えるのは自分であることを自覚して、縦横無尽の働きを展開する。彼女の銃の腕前は天下一品だった。そして、逃げたと思っていた夫の尚之助も城内にいて、八重は尚之助を見直したりしていく。

 だが、奮闘も虚しく、玉は尽き、物資はなくなり、鶴ヶ城は新政府軍の集中砲火を浴びていく。多くの死者が横たわる中、ついに、松平容保は降伏を決意し、白旗が掲げられていく。松平容保とその養子は他藩預かりで山川大蔵らがつきそうだけとなり、藩士も他藩預かり、城内の女子と子ともは解き放ちとなる。八重の夫の川崎尚之助は、元々が他藩の者であるから会津から去ることになり、八重は残された女ばかりの家族を守りながら、女中をしていた美代のところに身を寄せていく。この時、山本八重、23歳であった。

 そして、最後に、鳥羽伏見の戦いの時に薩摩藩に斬首されたと伝えられていた山本覚馬は、彼が文久三年に書いた『守四門両戸之策』を読んでいた薩摩藩士の助命嘆願があって助けられ、盲目ながらも、自分は教育によってこの国の人々のために働くと新しい決意をして京都で暮らしていることが明らかにされる。覚馬は会津にいた山本家の家族を京都に呼び寄せる。

 本書は、そこで終わり、維新後に山本八重が新島襄と再婚して同志社を設立していく姿を描いた続編も出されているが、文章も描写も、人物像も優れている。たとえば、裁縫もうまくなくて女らしいところが少しもなく、腕力だけが自慢という風変わりな自分に八重が絶望しかけていく時、「目眩がしそうなほど、孤独だった」(文庫 108ページ)と綴られている。この一言で、誰からも理解されずに、自分で自分が嫌になっていく八重の哀しみと心情が十分感じられる。「目眩がしそうなほどの孤独」、これは研ぎ澄まされた表現である。こういう表現はそう簡単にできるものではない。

 また、作者はこの時代を生きた会津藩の藩士たちの心を、籠城戦の中で家老として指揮をとる梶原平馬の口を借りてこう言う。
 「我が藩の藩士は皆、心身を擲って幕府につくし、帝につくしてきた。それが突然に朝敵とされ、嘆願も認められず、新政府を名乗る軍隊に一方的に攻められている。こんな馬鹿なことがあるか。この運命に対して、戦いもせずに切腹してどうする。成仏してどうするんだ。私は断固、戦うぞ。こんな運命に従ってたまるか。最後まで戦う。たとえ負けて死んでも、悪鬼となって地獄の底から舞い戻り、永遠に戦い続ける。我らの正義を訴え、誇りを守るためにだ」(文庫 372ページ)。
 壮絶な鶴ヶ城の籠城戦を戦った会津藩士の思いを、まことによく表しているのではないかと思う。

 しかし、作者が本書の中で語ろうとするのは、その戦いではない。むしろ、戦いのない世界を大事にすることを語ろうとするのである。戦いの最中で、ふとした静けさが訪れたとき、ぼろぼろになって籠城している城中に一輪の野菊が回されたことを作者は挿入する。
 「八重も胸を打たれた。あざやかな黄色が目に染み入るようだった。その静かさと、凛とした不動のたたずまいが心を潤していく。毎日の生活の中でなにげなく見過ごしていた野の花が、これほどまでに皆や自分を癒すとは思ってもみないことだった」(文庫 410ページ)と記される。

 そして、八重は自分が本当に望んでいたことが何かに気づくと作者は言う。「それは、あの菊の花のように静かで、変わらない生活だった。同じことを毎日繰り返すような平凡な暮らしや、季節の行事を楽しむ落ち着いた家庭、誰に向かっても隠しだてせずにすむ関係の中で、安心して生きていきたい。この戦が終わり、もし命があったら、これからの人生をそのようにして過ごしたかった」(文庫 412ページ)と八重は思う。

 あるいはまた、八重が大蔵の妻の登勢の最後を看取る場面で、登勢の最期の言葉として「いつか戦いが終わり、皆が自分の納得のいくように生きられるといいですね」(文庫 419ページ)と語り残した言葉を記す。

 もちろん、こういう言葉は、作者の思いの反映ではあるだろうが、それが激戦の最中で語られるだけに胸に響くのである。

 また、「勝負は時の運です。戦っている時に、ちらりとでもそんなことを考えてはいけない。そんなことを考えると、昔の私のように、逃げ出さずにはいられなくなります。負けることは、負けた時に考えましょう」(文庫 414ページ)という八重の夫の川崎尚之助、「人間が生きるのに必要なものは、食べ物と寝る場所だけではない。自分を信じる力、誇れる力がなければ、人は健やかに生きていけないのだ。その力を育てるのは、教育だと信じていた」(文庫 431ページ)と考えて、新しい歩みをはじめようとする山本覚馬、こういう人物の姿も、なかなかのものである。

 本書では、佐久間象山が少し立派すぎる姿で描かれていたり、会津藩家老の西郷頼母の佐川官兵衛の描き方が少し一面的すぎる気もしないでもないが、山本覚馬という、穏やかで落ち着いて聡明であった人物と、自分の生き方をしかり見据えようとした山本八重という女性の姿が、生き生きと蘇ってくるようで、おそらく、彼女の姿を描いた作品としては最高の部類に属するのではないかと思う。

 続編は、また、機会があれば読んで、ここに記したいと思っている。本書も続編も作詞家のT氏がわたしに持ってきてくれた書物で、幸い手元にある。

2013年6月24日月曜日

藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風会津の花』(1)

 梅雨の合間のつかの間の晴れ間という感じで、朝は晴れていたのだが、夕方にかけて重い雲が広がってきた。「今のうちに」と思って、寝具を替えたり、掃除をしたりして、ようやく一段落してこれを記している。仕事も少し溜まっているので、少しがんばってみようかとは思うが、このところわたしの脳みそは停滞したままである。

 先週末から昨日にかけて、藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風、会津の花』(2010年 中央公論新社 2012年 中公文庫)を感慨深く読んでいた。これは、幕末から明治にかけて悲劇の渦中に落とされた会津藩の山本八重とその兄の山本覚馬を中心に、銃の名手として会津鶴ヶ城の籠城戦を戦い抜き、後に「ハンサムウーマン」と呼ばれ、同志社を設立した新島譲の妻となる山本八重(新島八重)の姿を描いた物語である。ちょうど昨夜、現在NHKの大河ドラマとして放映されている「八重の桜」を見て、いよいよ前半のクライマックスとも言える会津鶴ヶ城での籠城戦が始まろうとするところで、来週は主人公の山本八重役の綾瀬はるかの真迫の演技が展開されるだろう。

 NHkの大河ドラマ「八重の桜」は山本むつみのオリジナル脚本ということであるが、本書は、またそれとは少し異なった人物像が掘り下げられている。

 会津藩砲術師範役の山本権八の娘として生まれた八重は、裁縫も下手で腕力だけが自慢という娘で(米俵を楽々と担ぎ上げたという伝説も残っている)、器量もよくなく、ほかの武家の娘たちのように華やいだところもなく、鈍で気働きができないと陰口を言われたりするような娘だった。彼女自身も、自分が男ではなく女に生まれてきたことを恨めしく思うほどの自己嫌悪をもち、自分の人生に絶望しかけていた。

 そんな頃に、江戸から三年ぶりに敬慕する16歳年上の兄の覚馬が帰ってきた。覚馬は文武に優れて、将来を見込まれて藩の家老らに後押しされて江戸遊学を果たしてきたのである。遊学中に黒船騒動を経験し、佐久間象山に師事し、そこで勝海舟や吉田松陰、橋本左内や後に越後長岡藩の家老として独立路線を取った河井継之助らと親交して、当時の最先端の知識を身につけていた。覚馬は会津武士として真面目で勤勉、真っ直ぐな気質を持つ青年であり、八重もその血筋を受け継いでいたが、八重は、いかんせん、女であった。会津の武家の家風には収まることができない自分を感じて悶々としていたのである。

 だが、その八重に覚馬は、もし学ぶ気があるなら自分が教えると言って新しい道を開いてあげるのである。八重は覚馬の下で、砲や銃、兵法を学んでいくのである。また、時流への眼も開かれていく。だが、その八重を理解するものはいない。唯一、同年輩で競争相手のような因縁があった山川大蔵(後に会津藩家老となる)が八重を好意的に包んでいく。大蔵と八重は、お互いに淡い恋心を抱いていくようになる。

 江戸から帰藩した覚馬は、時流を見極めて藩の軍政改革を提案するが、旧来の武士たることに固着した藩の重臣たちからは退けられるようになっていく。家格を重んじられる会津では彼の意見は取り上げられないが、覚馬は、やはり、会津藩士として礼を重んじる青年であり、忍従の日々を過ごしていく。

 そういう中で、会津藩主の松平容保に京都守護職の命が下される。家老の西郷頼母は藩の財政難からこの命を受けることを反対するが、会津藩の伝統は幕命が絶対であり、容保は京都守護職を引き受け、兵を連れて上京する。山川大蔵も上京するが、その際、家のことを思って他の女性と祝言をあげる。大蔵と八重は互いに心を残したまま、別れていく。

京都は尊王攘夷の狂乱の嵐が吹き荒れており、会津藩は新撰組を用いて市中取締を行ったりしていく。京都守護職の任を全うするために莫大な金がかかり、会津の財政はますます逼迫し、生活が苦しくなっていくが、会津の人々は忍従していく。覚馬もまた藩命によって上京し、そこで再び、幕命によって蟄居を解かれて松代から出てきていた佐久間象山と出会う。だが、彼が師とした佐久間象山が彼の目の前で長州藩士によって暗殺されてしまう。京の町は暗雲が垂れこめたままで、こうして長州藩によって禁門の変(蛤御門の変)が起きる。会津は御所の護衛に駆り出され、覚馬は砲を用いて護衛する。その時の働きが認められて、覚馬は公用方(藩の正式な外交を行う役)に取り立てられるが、逼迫した時局の変動の中で、覚馬は会津の行く末を案じ続ける。

会津は公武合体策を推し進め、藩主の松平容保は孝明天皇の信任も厚く、覚馬もまた公武合体策を進めようとするが、徳川家茂が死去し、続いて孝明天皇が死去して、事態は一変していく。覚馬の苦闘は続くが、そうするうちに失明の危機を迎えるようになっていく。もはや、砲も銃も撃つことができない自分に何ができるだろうかと悩む。だが、覚馬を師と仰ぐような人物も出てきて、彼は教育が自分に残された道だと思うようになっていく。新撰組の斎藤一(後の山口二郎)もそのひとりであった。彼は覚馬によって自分の新しい道が開かれたことを心底覚えていき、やがて、戊辰戦争の時に、覚馬の会津を守るために籠城戦に参加するようになる。

他方、八重は大蔵への恋心を抱いたまま、兄の覚馬を慕って出石藩からやってきて山本家の居候になっていた川崎尚之助と結婚する。尚之助は覚馬の意を組んで会津藩の軍政改革に取り組もうとし、銃の改良にも手がけていた。彼は、本書では、鷹揚に八重を見守るところがあるかと思えば、危機に際してはどこか逃げ腰のあるところの人物として描かれている。

本書については、やはり、内容が豊かなだけに、まだ書き記しておきたいところがあるが、今日は時間もなくなってしまったので、続きは次回に記すことにする。

2013年6月19日水曜日

葉室麟『この君なくば』

 梅雨前線の南下や台風の接近もあって、どんよりとした蒸し暑い日になっている。窓を少し開ければ、時折強い風がもがり笛のような音を鳴らす。

 「この君なくば、一日もあらじ」という強い愛の姿を幕末の動乱期を背景にして描いた葉室麟『この君なくば』(2012年 朝日新聞出版)を感慨深く読んだ。葉室麟らしく、純化された人の愛情が描かれているだけでなく、実は、時世の判断を誤れば滅亡の危機に瀕する小藩の中でどうすれば筋を曲げずに生き抜いていけるのかを中心にして、時代の波に翻弄される小藩とその人々の側から見たもうひとつの幕末史が展開されている。

 舞台は、幕末を突き動かした薩摩と長州の間に挟まれた九州の日向にある七万石の伍代藩という架空の藩で(読んでいると日向よりも豊後のほうがいいような気がしたが)、その軽格の武士の次男として生まれた楠瀬譲と彼に想いを寄せた二人の女性の生き様が展開されていく。

 主人公のひとりの楠瀬譲は、束脩(授業料)も払えない貧しい家に生まれたが、少年の頃に「此君堂(しくんどう)」と称する私塾で国学を講じていた檜垣鉄齊の庭で鉄齊の講義を聴き続け、それによって入門を許されて学問を収めていく。その真摯な姿は、彼の生涯を通じて変わらず、やがて17歳の時に大阪で緒方洪庵が開いていた蘭学熟である「適熟」で欄学を学び、帰国後は蘭医として召し出されるが、藩主である忠継に信頼されて藩の産業を宰る殖産方として用いられるようになる。

 檜垣鉄齊の娘の栞(しおり)は、少年の楠瀬譲を初めて見た時から次第に譲に想いを寄せていくようになり、父親の鉄齊も、やがては譲と栞を結婚させて自分のあとを継ぐように望み、譲もまた栞に深い想いを寄せていたが、譲は、帰国後に藩主に召し出された時に、やがては藩の重責を担ってもらいたいという藩主の要望で藩の上格の武家の娘と結婚するように命じられてしまう。栞は譲との結婚を諦めるが、その想いは断ち切り難くあった。

 だが、譲の妻は、娘の志穂を産んでまもなく病死してしまい、譲は藩の行く末を案じながら、娘の志穂と母の弥生と暮らしている。そういう譲に妻の妹である五十鈴との婚儀の話も持ち上がっている。五十鈴は、凛としたところのある美貌の魅力的な女性で、五十鈴もまた譲に一途な想いをもっている。

 そんな中で、鉄齊亡き後、「此君堂」で和歌を教えるようになっていた栞のところに、月に一度和歌を習いに譲が通ってくるようになり、栞はそれを密かに待ちわびるような思いでいた。栞と五十鈴のそれぞれの心情が綾をなして描かれていく。

 時は幕末で、勤王か佐幕か、攘夷か開国かで揺れ動く時代であり、藩主の忠継は新進の気性をもつ洋学への関心の深い開国派であったが、藩内には熱烈な尊皇攘夷主義者もあり、京都では開国反対の尊皇攘夷派による天誅騒ぎも起こっていた。江戸幕府の権威は失墜していき、長州藩と薩摩藩の動向が案じられるし、小藩の行く末はあお混迷を深めていく。

 藩主は譲を京に派遣して情勢を見極めさせようとする。情勢はめまぐるしく変わり、やがて禁門の変(蛤御門の変)が起こり、幕府による第一次長州征伐、第二次長州征伐が起こっていく。そんな中で、譲は、貿易をすることで藩を豊かにし、情勢に翻弄されない独立路線を考えるようになり、同じような考えをもつの久留米藩の今井栄(義敬)と親交をもつようになり、今井栄が上海に船の買いつけに出かけるときには(これは史実)同行して、海外事情を見聞する(このあたりは、今井栄の『秋夜の夢談』、『上海雑事』が材料となって描かれている)。久留米藩には熱烈な尊皇攘夷論者であった真木和泉守がおり、当然、彼にも言及されていく。

 その間に、藩主の忠継は、讓がいっそう藩政の重責を担いやすいように五十鈴との婚儀を進めようとするが、讓に「この君なくば」の「君」がいるかと聞いて、讓が栞の名を挙げたことから、五十鈴を傷つけまいと五十鈴を側室として召し出し、やがて五十鈴を正室とする。もちろん、藩主はひと目で五十鈴の凛とした姿が気に入り、五十鈴もまた、讓への想いがかなえられないことを悟ると同時に、藩主の忠継の人柄が気に入ったから、その話を受けたのである。そして、譲と栞は長年温めてきた想いを果たして結婚する。栞と五十鈴は、お互いの存在を強く認め合い、信頼を寄せる関係になっていく。五十鈴も栞も、共に自分の想いと生き方を貫く女性なのである。

 だが、時代と社会は激動し、大政奉還から鳥羽伏見の戦いへと移り、かつて強烈な尊皇攘夷論者であり、強く我執的に栞に言い寄っていた男が、薩長軍より藩政の参与のような形で帰ってきて、譲は、戊辰戦争で薩長軍と戦って敗れた大鳥圭介と親交があったということで捕縛されてしまう。讓は牢の中で榎本武揚と会ったりして、自分の行く末を見定めていくようになっていく。栞は、その間、志穂や弥生と讓の無実を信じて待ち続けるし、五十鈴もまた、新しい凛とした生き方をとっていく。

 そして、やがて讓は恩赦の形で許されて帰国し、栞や家族と共に北海道の開拓使として新しい天と地を求めて旅立とうとするところで終わる。

 本書には栞と五十鈴という魅力的な二人の女性が登場する。この二人は、形は違っても、いずれも己の一途な思いを貫いていこうとする女性で、「世の動きと自らの生き方は、おのずと違いましょう。世の流れに自らの生き方を合わせては、自身の大本を見失うかと存じます」(115ページ)という言葉や、「今より先、この国を動かすのは、藩を離れ身分を離れても、なお、おのが信義の道を行く者たちであろう」という五十鈴の言葉によく表されているような女性である。

 「此君堂」の由来である『晋書』王徽之伝の「此の君」が竹を表すことが記されているが、竹のようにしなやかで、しかし、しっかりと根を張り、サワサワと爽やかな風の音をさせる人間たちの姿が描かれていく。幕末の違った視点もあって、なるほどあの時期の小藩が置かれた立場はこういうものかもしれないと思うところもあり、様々な観点で味わいのある作品だった。

2013年6月17日月曜日

百田尚樹『海賊と呼ばれた男』

 このところパソコンの設定や新しいソフトの習熟などで妙に時間をとってしまい、なかなかこれをまとめる時間がなかったのだが、一区切りつけて、これを記している。最近のパソコンは急激に使いやすくはなっているが、これを一から自分で設定しようとするとなかなかややこしい。技術だからある程度の専門用語の使用はやむを得ないとしても、それを多用したがる人もいるし、日本語がめちゃくちゃで、単なる略記に過ぎないのだが、途中で、「ん?この言葉は何を意味しているのだ」と思ったりする。

 それはともかく、2013年の第10回本屋大賞になった百田尚樹『海賊と呼ばれた男』(2012年 講談社)を面白く読んだ。これは世界の企業の中でも独自の社風をもつ出光興産の創業者であった出光佐三(18851951年)の生涯と彼の経営哲学を非常に率直に、また、感動的に描き出した作品である。

 ここで記してきている歴史・時代小説ではないが、市ヶ尾に住まれているNさんが、「面白いですよ」と貸してくださったもので、読み進めていくうちに、「ああ、これは出光興産の話だ」とわかり、出光佐三という人の「すごさ」のようなものを改めて感じた。

 個人的に、まだ化学の学生だった頃、出光興産の徳山製油所と石油コンビナートを見学したことがあり、その頃は出光佐三のことをほとんど知らずにいたが、出勤簿なし、定年なし、労働組合なし、という社是にすごく感動したことを覚えている。出光興産が徳山と瀬戸内海沿岸地方を形成してきたことを、もう少しじっくり考えてみればよかったと今になって思うが、その頃はまだ青二才で、どこかに企業の一員になってしまうことに抵抗があって、無知のままに過ごしてしまったことを残念に思う。

 改めて、この本で出光佐三という人の姿を知り、もちろん、たくさん考えさせられることがあった。その意味でも、これはいい本だと思う。この本の大まかな展開は出光興産の社史に沿って展開されているように思うが、描き方がストレートであるだけに感動も大きい。

 本書は、第二次世界大戦後、一面の焼け野原となった東京で、財産も仕事も、その一切を失い、海外に派遣していた社員を抱えたまま、60歳になった出光佐三が再出発をしようとする場面から始まる。本書の中では、出光興産は国岡商店、出光佐三は国岡鐵造(てつぞう)となっているが、記されているのは史実である。

 国岡鐵造(出光佐三)は、戦後に多くの企業が仕事もなく壊滅状態であった中で業務の縮小や社員の解雇、あるいはアメリカ資本の導入を行っていく姿をよそに、1000名あまりの社員のひとりの首を切ることもなく、あらゆる困難な仕事を引き受け、財産を処分して社員を守りつつける決断をする。「社員は家族」、それが国岡商店(出光興産)の柱であることを強く打ち出すのである。

 こういうエピソードが残されている。出光興産の社員であった青年が徴兵され、やがて敗戦で復員してきたが、気力を失い、郷里に引きこもっていた時に、もはや働く気もなく、出光興産に辞職願を提出しようとした。しかし、その時に彼の父親が烈火の如く怒って、「お前が兵隊に行っている6年間、出光さんは給料を送り続けてくれたんだ。それが辞めるとは何事か。すぐ、出光さんに奉公しろ。6年間、ただで働いて、それから帰ってこい。」彼は、そのことを聞いて思い直し、焼け野原となっていた東京へ出て、出光を支えていく人間のひとりになっていく。

 こういう企業が他にあっただろうかと思う。人間を「義務-権利」で位置づけ、功利を追求し、合理的な判断をする組織の中で、私財をはたいて人を養い、育み、その人間の人生そのものを尊重し続ける。出光佐三という人はそれを徹底させた人である。「人間を尊重し、これを優先させる」ということを具体的に実践した。

 出光佐三(本書の国岡鐵造)が生きた時代は、明治、大正、昭和の時代であり、第一次世界大戦、第二次世界大戦、オイルショックといった社会が根底から覆る激動の時代である。彼は、その中をひとりの人間として、また、企業人として、決して筋を曲げることなく生き抜いていくのである。

 本書は、やがて、1953年(昭和28年)に、イギリスから独立しようとしていたイランから石油を直接輸入するという、いわゆる「日章丸事件」と呼ばれる出光興産が果たした快挙を中心に展開されていくが、出光佐三が残したエピソードや経営哲学がありのままに描かれている。

 出光佐三は、1981年に95歳で人生の旅路を終えるが、生涯を「一店主」として自分を位置づけた人であった。本書で、戦後からずっと出光佐三の片腕として働き、三代目の社長となった東雲忠司(おそらく天坊照彦氏のことだろうと思う)が「世の人々は国岡鐵造を一代で財をなした大立者と見倣すが、それは違う。店主の生涯はむしろ行者の一生だった。その生き方は修行に励む禅僧に似ている」(下巻 357ページ)と思うところが描かれている。そこにある「修行者としての生涯」、それが本書で作者が描きたかった生涯だろうと思う。

 本書には、生き方の感動が感動を呼び、それが事業の発展につながっていくという場面がたくさん出てくる。出光佐三の姿に信頼を寄せて多額の出資をする銀行家、資本家、そして官僚、そういう「心がわかる人間」が実に率直に描かれるのである。

 出光興産自体は、今日では2006年に株式を上場し、出勤簿やタイムカードも導入されているが、会社の基本方針は出光佐三の方針をきちんと踏襲したものになっている。

 この作品は、戦中戦後、とくに戦後の日本の経済や社会とそうした中での石油産業の姿などがきちんと記されて、その中で「魂を持って、心がわかる人間たち」が描かれ、「筋を曲げない」ということの苦闘が描かれて現代の人間のあり方に鉄槌を下ろすようなところがあり、「人とはこう生きることができる」ということ示している点で感動的な作品となっている。

 それにしても、出光佐三という人は、人との出会いをもたらすような何かをもっていたひとだとつくづく思う。

2013年6月10日月曜日

葉室麟『風渡る』

 昨日は、これまで社会学的な分析を少ししてきた「現代社会と宗教」と題する講座を行って、ほぼ立ちっぱなしの状態だったので、足が棒のようになり、その後はぼんやりすごしてしまった。だいたいいつもぼんやりしているのにさらに拍車がかかった感じで夜を過ごしていた。今日は重い梅雨空で、今週、台風の接近が報じられている。

 週末、これまでの作品とは若干の相違を感じながら、戦国時代に到来したキリスト教の姿とそれを受け入れたキリシタンたちやキリシタン大名たち、特にキリシタンとしての黒田官兵衛(高孝・如水)の姿を描いた葉室麟『風渡る』(2008年 講談社 2012年 講談社文庫)を読んだ。激動した戦国時代、信長、秀吉、家康という稀代の傑出した戦国武将と共に生きて、ことに知略の雄とされ、最も優れた軍師とも言われる黒田官兵衛がキリスト教の洗礼を受けたのは、フロイスの『日本史』によれば、1585年(天正1213年)である。この時、官兵衛は、信長の跡を継いで天下を掌握しようとする秀吉の軍師として活躍していた。

 黒田官兵衛がキリシタンとなったのは、通説では、すでにキリシタン大名であった高山右近や蒲生氏郷、堺の豪商の息子であった小西行長の影響によるとされるが、本書では、彼が若い頃からキリシタンの教えに関心をもっていたという設定で話が進められていく。

 私見ではあるが、戦国時代に日本に到来したキリスト教が、当時「戦う教会」を標榜していたイエズス会によるものであり、主に植民地主義を推進させていたスペインとポルトガルの宣教師たちによるものであったところに、日本のキリスト教の難しい歴史があるような気がしている。高山右近や蒲生氏郷は優れた武将であると同時に一流の教養人でもあり、黒田官兵衛がこうした教養ある人々に接する中で大きな影響を受けたことは間違いないことであろう。

 しかし、本書では黒田官兵衛が若い頃に既にキリスト教に大きく影響を受けたものとして、純粋で高貴な魂をもつジョアン・デ・トルレスという日本人イルマン(修道士)を登場させ(この人物の名はフロイスの『日本史』に記載されているが、詳細は不明で、それを作者が本作のもうひとりの主人公として肉づけして創作)、ジョアンの目から見た当時の日本の社会と宣教師たちや大名たちの姿を描きつつ、キリシタンとしての黒田官兵衛の姿を浮き彫りにしようとするのである。

 ジョアンは、青い目と異国風の風貌をもち、ポルトガル語に堪能で、通訳としての働きとともにヴィオラの名手でもあり、純粋な信仰と魂をもち、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた敬虔な修道士となるアリョーシャを彷彿させるものがある。彼は、後に明らかにされるが九州の雄であり、キリシタン大名であった大友宗麟と異国人との間に生まれた子とされている。その関連で、大友宗麟の生涯や彼の正室であった奈多方の悲しみや苦悩も描かれていく。

 物語は、激動する時代の中での人間の悲しみや苦悩というものが盛り込まれ、それが作者らしい視点で綴られていくが、この作品は次のような多くの歴史的仮説で描かれ、それが難点といえば難点になっており、取られている仮説があまり成功してはいないようにも思われる。

 1)黒田官兵衛が早くからキリシタンの教えに心を打たれて、キリスト教信仰をもっているように描かれていること。
官兵衛が妻を娶った時に、側室はもたないと語ったことを、キリスト教が伝えた「アモール(愛)」と関連させたり、黒田官兵衛が荒木村重によって地下牢に監禁されたときの苦境を耐え忍んだ力にキリスト教信仰の力があったかのように描かれたりすること。
 2)織田信長か、やがて、海洋王国の建設を目指し、ヨーロッパへの侵攻を考えていたこと。
 3)「本能寺の変」を秀吉の策略とし、その影に竹中半兵衛とその意を受けた黒田官兵衛の思惑があったことや官兵衛がキリシタンを守ろうとしたこと。
 4)秀吉の朝鮮出兵を商人としての利潤から豪商であった小西行長の父が献策したこと。

 その他にも、本書で採用されている歴史的仮説はたくさんあり、こうした仮説に基づいて人物像が描かれていくので、どこかしっくりしないところがあるのである。黒田官兵衛その人についても、キリシタンとしてあまりにも純化されすぎている気がしないでもない。

 黒田官兵衛は極めて優れた人物であり、知、情、胆において傑出した人物であるし、本書もこれまで描かれなかったようなキリシタン大名としての面を描いて斬新で、葉室麟の文体や文章も素晴らしいのだが、少なくとも私には、彼が描く黒田官兵衛像として物足りなく感じた。もちろん、本書は表題の『風渡る』が示すように、その主題は戦国時代に海を渡ってきたキリスト教とそれに影響を受けた人々の姿を描こうとしているのではあるが。

2013年6月5日水曜日

志水辰夫『夜去り川』

 昨日、今日と、日中は暑い陽射しが差して、暑くなっている。梅雨入りは宣言されたが、それ以降、こちらではまだ雨が降らない。昨夜は、吉祥寺までの往復で少し疲れを覚えながらぼんやりとサッカーのワールドカップの出場を決めるオーストラリア戦を眺めていた。勝敗に関心があるわけではなく、人間の動きというものやマスコミと解説者の反応に面白いものがある。

 それはともかく、志水辰夫『夜去り川』(2011年 文藝春秋社)を読んでいた。このところこの作家の作品を続けて読んでいる。これもいい作品ではあるが、読むのに少し忍耐がいった作品だった。

 これは、秩父の商家に入った押し込み強盗に、たまたまその商家に居合わせた剣術指南役の父親を殺され、侍ならば父親の仇を討ち、汚名を注ぐのが当然と言われて、その強盗の行くへを探り出すために桐生(現;群馬県)にやってきた武士の物語である。

 ただ、その武士、檜山喜平次の背景はずっと伏せられたまま、物語は彼が渡良瀬川の渡し守となったいきさつから始まっていく。喜平次は父親の仇を討つという目的を持ってそこへやって来たのだが、その時に、柿の木に登って柿を取ろうとした少年が木から崖下に落ち、それを助けようとした渡良瀬川の川渡し守をしていた船守の弥平も落ちて、二人共大怪我をし、剣術道場で打ち身や骨つぎなどについてはよく知っていた彼が応急の手当をしたのである。そして、動けなくなった弥平の代わりに渡し舟の船守をしながら、時を待っているのである。

 喜平次はそこでの生活の中で、貧しい中で懸命に生きている人々と出会う。彼が手当をしてやった少年が桐生で一番大きな呉服問屋の息子であったことから、その問屋を女手一つで見事に切り盛りしている「いち」という女性や、その娘で少年の母である「すみえ」と出会うし、機織りをして生計を立てている人々とも出会っていく。

 桐生は山間部で田畑が少なく、足尾銅山が盛んな頃は一時栄えたが、銅山が衰退するとともに衰退し始めていたが、養蚕による絹織物で息を吹き返したところであった。その絹織物を、多くの織子を使って取り扱う「春日屋」を、「いち」は見事に切り盛りしている女性だった。「すみえ」は、早くに夫を亡くし、息子の正之助を育てながら、その「いち」の跡を継ぐ「いち」の娘であった。「春日屋」は、元は作り酒屋であったが、「いち」の時代を見る目と才覚によって呉服問屋として成功したのである。

 この二人の女性が素晴らしい。礼に厚く、働く者を大切にしながら、商人としての厳しさも、毅然とした態度も身につけ、自分の分もよくわきまえているし、器が大きい。「すみえ」はやがて喜平次に想いを寄せていくようになるが、本書にはもう一人素晴らしい女性が登場してくる。

 それは、喜平次の幼馴染で、自由で闊達な気質を持つ娘で、喜平次は士分の差から彼女と添い遂げることは諦めていたが、そんなことはものともせずに、喜平次が侍をやめて町人になるなら自分も町人になると平然ということができる女性だった。彼女は、喜平次が桐生にいることを知ってそこまで会いに来るが、喜平次の意図を知って、待つ道を選んでいくのである。

 渡し守の生活の中で、喜平次は侍であることに疑問を感じ、むしろ人間として日々を懸命に生きていくほうが尊いのではないかと実感していくのである。そして、これまでの自分の生き方に決着をつける意味で、父親を殺した強盗団との対決を待ち続けるのである。作品の時代設定が黒船到来の後の激動が始まろうとする時代で、武士だけでなく意識ある者のだれでもが自分の行き方を問われるという社会状況であるのが、喜平次の思いにリアリティを与えている。

 「ここら辺の百姓はな、ほとんど米なんか作っていないんだ。米は買って食えばいいものになっている。その金は、蚕を飼ったり、糸を染めたり、紡いだり、機を織ったり、反物を運んだりすることで得ている。金を稼げる百姓くらい強いものはないぞ。黒船が来ようがオロシアの軍艦がやって来ようが、そんなことはどうだっていいんだ。自分たちの商売や稼ぎが大きくなってくれたらいい。世の中がひっくり返り、ご公儀に代わるものがあらたに登場してきたとしても、やつらは平気だ。上のほうがどう変わろうが、下の暮らしには関わりがない。自分たちの商売や暮らしはこのまま続けられると、知ってしまったからだ。わかるか。世の中が変わろうがひっくり返ろうが、しぶとく生き残るのはおれたち侍じゃない。そういう連中なんだ」(128ページ)と彼は言う。こうした目覚めを檜山喜平次は感じていくのである。

 物語は、後半になって一気に展開されていき、喜平次が睨んだとおり、村の祭りを利用して喜平次の父親を殺した強盗団が、今度は「春日屋」を狙っていることが分かり、喜平次は、ひとり、「春日屋」に泊まり込み、彼らと必死の攻防を繰り返して、決着をつけるのである。しかし、そうした展開以上に、ひとりひとりの人間のあり方などが日常の姿を通して描かれているのである。

 こうした展開の他に、本書には優れた文章がたくさん綴られている。たとえば、「いち」が亡くなった時のことで、「葬儀の前日からは雪が降り始めた。宵のうちはちらつくくらいだったが、夜にはいってから粉雪になり、切れ目なく降りつのって明け方までつづいた。風のない清冷な夜だった。すべての物音を思惟の中に閉じ込め、雪はしんしんと降りつづけた」(211ページ)という一文である。情景と主人公の思い、そして、死を迎えた「いち」の姿が重なるような一文である。「清冷な夜」というのは作者の言葉であるだろうが、懸命に生きた「いち」という女性の最後にふさわしい言葉である。

 物語の構成として、主人公の檜山喜平次の目的がずっと伏せられたままなのは、ミステリーの手法ではあるだろうが、作品の山場が後半に偏ることになり、「読ませる」という点からすれば、老人の忍耐がいるようなところがある気がする。しかし、主題や文章は味わい深い。