昨日は雨の予報が出ていなかったので傘も持たずに吉祥寺まで出かけ、ちょうど大学についた頃に「ゲリラ豪雨」に出くわした。昔からこうした雨は「時雨」とか「通り雨」とか呼ばれてあったのだが、降る雨量が違っているので「ゲリラ豪雨」というなんとも味気ない名前がつけられたのかもしれない。「時雨」や「通り雨」が、はるかに情緒があるが、雨の降り方の呼び名一つにも、質ではなく量の世界に移行してしまった世相が反映されているのかもしれないと思ったりもする。
今日は朝から雨模様である。今日の雨はしとしとと降っている。このところ疲れを覚え続けているので、雨を理由に何もするまいとは思うが、なかなかそうもいかない。生活をするだけでもなかなか大変なのだから。
閑話休題。藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風、会津の花』(2010年 中央公論新社 2012年 中公文庫)の続きであるが、薩摩や長州に比べてみても会津の軍政改革ははるかに遅れていた。新進の知識を持つ山本覚馬はそのことで悶々としていくが、ようやく、会津藩は砲銃の重要性を認識して改革の道を取ろうとする。覚馬を後押しするのは家老の梶原平馬らであったが、時すでに遅しで、将軍となった徳川慶喜の幕府再建策などで会津は翻弄されていき、ついに大政奉還を迎えてしまう。それから怒涛のように情勢は流れ、慶応3年、4月に長州の高杉晋作が病死し、10月に大政奉還が行われ、11月に坂本龍馬が暗殺され、12月に王政復古の大号令が出されてしまう。そして、翌、慶応4年1月に、ついに鳥羽伏見の戦いとなり、会津は賊軍となってしまう。
徳川慶喜は京都から大阪城へ逃げ、さらに、鳥羽伏見の戦いで敗戦が濃厚となるや船で江戸へ逃げる。会津藩主松平容保もその慶喜と同行をさせられる。この時、八重の弟で、まだ若干の少年に過ぎなかった三郎は大阪城警護の時に負傷し、江戸に運ばれるが死去してしまうし、覚馬は鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕らえられ、斬首された伝えられる。
会津の山本家ではその知らせを受けて悲痛な思いに沈んでいくが、会津藩主松平容保は会津に帰ってきて、どこまでも徳川家に従順であることを決める。藩祖以来の伝統を守ろうとする。だが、その肝心の徳川将軍の慶喜は恭順の意を表し、江戸城を明け渡して、上野へ、そして水戸へと去っていく。
京都守護職時代に展開されたことや倒幕の最大の障がいとみなされていた会津は、新政府に恭順の意を表すが、認められずに、ついに、新政府軍との間の戊辰戦争となり、会津は奥羽列藩同盟や奥羽越列藩同盟を形成して抵抗するが、新政府軍の軍事力の前で次々と破れ、ついに籠城戦を取らざるを得なくなる。覚馬が長崎で購入を手配した新式銃も新政府軍の手によって越後で押収されてしまい、武力の準備が整わないままで、新政府軍に取り囲まれていく。こうして、鶴ヶ城での悲惨な籠城戦が展開される。
この時の会津藩士の姿は、戦術や戦略的には問題はあったが、個々の人々の姿は胸を打つものがある。八重の父の権八も徴用されていく。そして、女ばかりになった山本家も鶴ヶ城へと入り、籠城する。この時、八重は、藩内で銃や砲を最もよく扱えるのは自分であることを自覚して、縦横無尽の働きを展開する。彼女の銃の腕前は天下一品だった。そして、逃げたと思っていた夫の尚之助も城内にいて、八重は尚之助を見直したりしていく。
だが、奮闘も虚しく、玉は尽き、物資はなくなり、鶴ヶ城は新政府軍の集中砲火を浴びていく。多くの死者が横たわる中、ついに、松平容保は降伏を決意し、白旗が掲げられていく。松平容保とその養子は他藩預かりで山川大蔵らがつきそうだけとなり、藩士も他藩預かり、城内の女子と子ともは解き放ちとなる。八重の夫の川崎尚之助は、元々が他藩の者であるから会津から去ることになり、八重は残された女ばかりの家族を守りながら、女中をしていた美代のところに身を寄せていく。この時、山本八重、23歳であった。
そして、最後に、鳥羽伏見の戦いの時に薩摩藩に斬首されたと伝えられていた山本覚馬は、彼が文久三年に書いた『守四門両戸之策』を読んでいた薩摩藩士の助命嘆願があって助けられ、盲目ながらも、自分は教育によってこの国の人々のために働くと新しい決意をして京都で暮らしていることが明らかにされる。覚馬は会津にいた山本家の家族を京都に呼び寄せる。
本書は、そこで終わり、維新後に山本八重が新島襄と再婚して同志社を設立していく姿を描いた続編も出されているが、文章も描写も、人物像も優れている。たとえば、裁縫もうまくなくて女らしいところが少しもなく、腕力だけが自慢という風変わりな自分に八重が絶望しかけていく時、「目眩がしそうなほど、孤独だった」(文庫 108ページ)と綴られている。この一言で、誰からも理解されずに、自分で自分が嫌になっていく八重の哀しみと心情が十分感じられる。「目眩がしそうなほどの孤独」、これは研ぎ澄まされた表現である。こういう表現はそう簡単にできるものではない。
また、作者はこの時代を生きた会津藩の藩士たちの心を、籠城戦の中で家老として指揮をとる梶原平馬の口を借りてこう言う。
「我が藩の藩士は皆、心身を擲って幕府につくし、帝につくしてきた。それが突然に朝敵とされ、嘆願も認められず、新政府を名乗る軍隊に一方的に攻められている。こんな馬鹿なことがあるか。この運命に対して、戦いもせずに切腹してどうする。成仏してどうするんだ。私は断固、戦うぞ。こんな運命に従ってたまるか。最後まで戦う。たとえ負けて死んでも、悪鬼となって地獄の底から舞い戻り、永遠に戦い続ける。我らの正義を訴え、誇りを守るためにだ」(文庫 372ページ)。
壮絶な鶴ヶ城の籠城戦を戦った会津藩士の思いを、まことによく表しているのではないかと思う。
しかし、作者が本書の中で語ろうとするのは、その戦いではない。むしろ、戦いのない世界を大事にすることを語ろうとするのである。戦いの最中で、ふとした静けさが訪れたとき、ぼろぼろになって籠城している城中に一輪の野菊が回されたことを作者は挿入する。
「八重も胸を打たれた。あざやかな黄色が目に染み入るようだった。その静かさと、凛とした不動のたたずまいが心を潤していく。毎日の生活の中でなにげなく見過ごしていた野の花が、これほどまでに皆や自分を癒すとは思ってもみないことだった」(文庫 410ページ)と記される。
そして、八重は自分が本当に望んでいたことが何かに気づくと作者は言う。「それは、あの菊の花のように静かで、変わらない生活だった。同じことを毎日繰り返すような平凡な暮らしや、季節の行事を楽しむ落ち着いた家庭、誰に向かっても隠しだてせずにすむ関係の中で、安心して生きていきたい。この戦が終わり、もし命があったら、これからの人生をそのようにして過ごしたかった」(文庫 412ページ)と八重は思う。
あるいはまた、八重が大蔵の妻の登勢の最後を看取る場面で、登勢の最期の言葉として「いつか戦いが終わり、皆が自分の納得のいくように生きられるといいですね」(文庫 419ページ)と語り残した言葉を記す。
もちろん、こういう言葉は、作者の思いの反映ではあるだろうが、それが激戦の最中で語られるだけに胸に響くのである。
また、「勝負は時の運です。戦っている時に、ちらりとでもそんなことを考えてはいけない。そんなことを考えると、昔の私のように、逃げ出さずにはいられなくなります。負けることは、負けた時に考えましょう」(文庫 414ページ)という八重の夫の川崎尚之助、「人間が生きるのに必要なものは、食べ物と寝る場所だけではない。自分を信じる力、誇れる力がなければ、人は健やかに生きていけないのだ。その力を育てるのは、教育だと信じていた」(文庫 431ページ)と考えて、新しい歩みをはじめようとする山本覚馬、こういう人物の姿も、なかなかのものである。
本書では、佐久間象山が少し立派すぎる姿で描かれていたり、会津藩家老の西郷頼母の佐川官兵衛の描き方が少し一面的すぎる気もしないでもないが、山本覚馬という、穏やかで落ち着いて聡明であった人物と、自分の生き方をしかり見据えようとした山本八重という女性の姿が、生き生きと蘇ってくるようで、おそらく、彼女の姿を描いた作品としては最高の部類に属するのではないかと思う。
続編は、また、機会があれば読んで、ここに記したいと思っている。本書も続編も作詞家のT氏がわたしに持ってきてくれた書物で、幸い手元にある。