昨日、今日と、日中は暑い陽射しが差して、暑くなっている。梅雨入りは宣言されたが、それ以降、こちらではまだ雨が降らない。昨夜は、吉祥寺までの往復で少し疲れを覚えながらぼんやりとサッカーのワールドカップの出場を決めるオーストラリア戦を眺めていた。勝敗に関心があるわけではなく、人間の動きというものやマスコミと解説者の反応に面白いものがある。
それはともかく、志水辰夫『夜去り川』(2011年 文藝春秋社)を読んでいた。このところこの作家の作品を続けて読んでいる。これもいい作品ではあるが、読むのに少し忍耐がいった作品だった。
これは、秩父の商家に入った押し込み強盗に、たまたまその商家に居合わせた剣術指南役の父親を殺され、侍ならば父親の仇を討ち、汚名を注ぐのが当然と言われて、その強盗の行くへを探り出すために桐生(現;群馬県)にやってきた武士の物語である。
ただ、その武士、檜山喜平次の背景はずっと伏せられたまま、物語は彼が渡良瀬川の渡し守となったいきさつから始まっていく。喜平次は父親の仇を討つという目的を持ってそこへやって来たのだが、その時に、柿の木に登って柿を取ろうとした少年が木から崖下に落ち、それを助けようとした渡良瀬川の川渡し守をしていた船守の弥平も落ちて、二人共大怪我をし、剣術道場で打ち身や骨つぎなどについてはよく知っていた彼が応急の手当をしたのである。そして、動けなくなった弥平の代わりに渡し舟の船守をしながら、時を待っているのである。
喜平次はそこでの生活の中で、貧しい中で懸命に生きている人々と出会う。彼が手当をしてやった少年が桐生で一番大きな呉服問屋の息子であったことから、その問屋を女手一つで見事に切り盛りしている「いち」という女性や、その娘で少年の母である「すみえ」と出会うし、機織りをして生計を立てている人々とも出会っていく。
桐生は山間部で田畑が少なく、足尾銅山が盛んな頃は一時栄えたが、銅山が衰退するとともに衰退し始めていたが、養蚕による絹織物で息を吹き返したところであった。その絹織物を、多くの織子を使って取り扱う「春日屋」を、「いち」は見事に切り盛りしている女性だった。「すみえ」は、早くに夫を亡くし、息子の正之助を育てながら、その「いち」の跡を継ぐ「いち」の娘であった。「春日屋」は、元は作り酒屋であったが、「いち」の時代を見る目と才覚によって呉服問屋として成功したのである。
この二人の女性が素晴らしい。礼に厚く、働く者を大切にしながら、商人としての厳しさも、毅然とした態度も身につけ、自分の分もよくわきまえているし、器が大きい。「すみえ」はやがて喜平次に想いを寄せていくようになるが、本書にはもう一人素晴らしい女性が登場してくる。
それは、喜平次の幼馴染で、自由で闊達な気質を持つ娘で、喜平次は士分の差から彼女と添い遂げることは諦めていたが、そんなことはものともせずに、喜平次が侍をやめて町人になるなら自分も町人になると平然ということができる女性だった。彼女は、喜平次が桐生にいることを知ってそこまで会いに来るが、喜平次の意図を知って、待つ道を選んでいくのである。
渡し守の生活の中で、喜平次は侍であることに疑問を感じ、むしろ人間として日々を懸命に生きていくほうが尊いのではないかと実感していくのである。そして、これまでの自分の生き方に決着をつける意味で、父親を殺した強盗団との対決を待ち続けるのである。作品の時代設定が黒船到来の後の激動が始まろうとする時代で、武士だけでなく意識ある者のだれでもが自分の行き方を問われるという社会状況であるのが、喜平次の思いにリアリティを与えている。
「ここら辺の百姓はな、ほとんど米なんか作っていないんだ。米は買って食えばいいものになっている。その金は、蚕を飼ったり、糸を染めたり、紡いだり、機を織ったり、反物を運んだりすることで得ている。金を稼げる百姓くらい強いものはないぞ。黒船が来ようがオロシアの軍艦がやって来ようが、そんなことはどうだっていいんだ。自分たちの商売や稼ぎが大きくなってくれたらいい。世の中がひっくり返り、ご公儀に代わるものがあらたに登場してきたとしても、やつらは平気だ。上のほうがどう変わろうが、下の暮らしには関わりがない。自分たちの商売や暮らしはこのまま続けられると、知ってしまったからだ。わかるか。世の中が変わろうがひっくり返ろうが、しぶとく生き残るのはおれたち侍じゃない。そういう連中なんだ」(128ページ)と彼は言う。こうした目覚めを檜山喜平次は感じていくのである。
物語は、後半になって一気に展開されていき、喜平次が睨んだとおり、村の祭りを利用して喜平次の父親を殺した強盗団が、今度は「春日屋」を狙っていることが分かり、喜平次は、ひとり、「春日屋」に泊まり込み、彼らと必死の攻防を繰り返して、決着をつけるのである。しかし、そうした展開以上に、ひとりひとりの人間のあり方などが日常の姿を通して描かれているのである。
こうした展開の他に、本書には優れた文章がたくさん綴られている。たとえば、「いち」が亡くなった時のことで、「葬儀の前日からは雪が降り始めた。宵のうちはちらつくくらいだったが、夜にはいってから粉雪になり、切れ目なく降りつのって明け方までつづいた。風のない清冷な夜だった。すべての物音を思惟の中に閉じ込め、雪はしんしんと降りつづけた」(211ページ)という一文である。情景と主人公の思い、そして、死を迎えた「いち」の姿が重なるような一文である。「清冷な夜」というのは作者の言葉であるだろうが、懸命に生きた「いち」という女性の最後にふさわしい言葉である。
物語の構成として、主人公の檜山喜平次の目的がずっと伏せられたままなのは、ミステリーの手法ではあるだろうが、作品の山場が後半に偏ることになり、「読ませる」という点からすれば、老人の忍耐がいるようなところがある気がする。しかし、主題や文章は味わい深い。
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