2014年3月20日木曜日

葉室麟『潮鳴り』

 今日は、春雨と言うには少し冷たい雨が降っている。あと5日ほどでここを離れて熊本に転居することになっているため、机の中のガラクタ類を整理したりしていた。学生時代を含めて、これまで生涯に渡って何度も転居したために、必要なものしか残っていないが、それでもかなりのガラクタがたまっている。身一つでもいいがなあ、と思いつつの日々を過ごしている。

 そんな中で、好きな作家のひとりである葉室麟の『潮鳴り』(2013年 祥伝社)を読む。これは、再生の物語である。「落ちた花は二度と咲かない」という繰り返される言葉が象徴するように、それぞれの事情で堕落してぼろぼろになった人たちが、自分の矜持を取り戻して、それを貫きながらそのどん底から立ち直っていく物語であるが、再生のあり方は決して単純ではない。そこが作者らしいところでもあるだろう。

 物語は、『蜩ノ記』(2011年 祥伝社)で作者が創作した豊後羽根藩(うねはん)である。今回描き出される羽根藩そのものは、これといって『蜩ノ記』で描かれたような美しい光景はないが、羽根藩を舞台にした作品が書き続けられて、藤沢周平の「海坂藩」のようになればいいと期待はしている。情景描写の情緒は、作者は本当に豊かである。今回も「潮鳴り」が再生のひとつのリズムのように響いていく。

 物語の中心は、若い頃は俊英を謳われていたが、融通の利かない剛直な性格で、藩に金を出している商家の接待の席でその剛直さを発揮してしまい、そのために上役や同僚と上手くいかず、お役御免となり、家督を父の後妻の子である弟に譲って、放蕩のあげく家族の者ともしっくりいかず、家に帰ることもできなくなり、漁村の漁師小屋で寝起きし、金があれば酒に浸って溺れ、やくざが開く賭場にも出入りし、周囲から「襤褸蔵(ぼろぞう)」と揶揄されている伊吹櫂蔵である。「武士としての矜持を失い、ただ地を這いずりまわって虫のように生きている」(15ページ)。

 もう一人は、その櫂蔵が通う飲み屋の「お芳」である。「お芳」は、足軽の娘であったが、父親が病に倒れて料理屋で働かなければならなくなり、その店で働いているときに若い見栄えの良い藩士に惚れて、つい身を任せてしまったが、何人もの女を慰み者にしていたその藩士に捨てられたことから、遂に身を持ち崩してしまった女性であった。彼女は顔立ちがほどよく整い、気が利いてさばけた女性で、金さえ払えば一夜を共にするような女であったが、だれに対しても心の内側に立ち入らせることはなかった。潮風に吹かれて物憂げな様子をしていると、いつか身投げをするのではないかと危ぶまれるようなところもあった。

 そして、三人目は、もとは江戸の呉服問屋の三井越後屋の大番頭を務めていたが、突然、駆け落ちまでして一緒になった妻と子を捨てて、店を辞めて旅の俳諧師として放浪し、「お芳」の店で櫂蔵と出会った「咲庵」こと佳右衛門である。捨てられた女房は実家に帰ることもできず、同じ三井越後屋の手代として働いていた息子は、父親が突然に店を辞めたために店を辞めさせられ、生活に苦労していると聞いていた。彼もまた忸怩たる想いを抱いて生きていたのである。

 その他にも、上役を恐れ、日々をことなかれ主義で過ごしてしまっている羽根藩の藩士たちが登場する。

 これらの人たちの日常はそれぞれに倦んでいる。だが、櫂蔵の後の家督を継いだ弟が、親の財産を処分したという金の残りをもって櫂蔵を訪ねてくる。弟の新五郎は、藩の物産方から新田開発の奉行並に取り立てられていたが、事情があって金が必要となり、家財を処分したと語り、3両の金を持ってきたのである。物乞い同然に暮らしていた櫂蔵は、その仔細も聞かずに、その金を博打で一晩のうちにすってしまい惨めな気持ちを抱えたまま倦んだ日々を過ごしていた。だが、その弟が切腹したという知らせが届く。ここから事態は一変していくのである。

 櫂蔵は、切腹した弟から何故自死をしなければならなかったのかを記した手紙を受け取り、懸命に生きようとした弟に対して、自分が何もわからずにいたことを嘆き、自分の無力さに打ちのめされて絶望し、海に入って死のうとする。だが、「お芳」がそれと気づいて必死になって止める。そして、弟に代わって新田開発奉行並として出仕するように藩命が下る。その藩命をもってきたのは櫂蔵の上司となる勘定奉行の伊形清左衞門であったが、伊形清左衞門は、かつて「お芳」を弄んで捨てた男だった。

 櫂蔵の義母は、櫂蔵が屋敷に立ち入ることも毛嫌いし、まして切腹した弟の代わりに出仕ることにも、藩の裏の思惑があると言って大反対するが、櫂蔵は、一大決心をして、「お芳」を説得し、「咲庵」を説得して、三人で伊吹家に帰り、弟の切腹の真相を探るのである。

 弟は、藩の財政救済と藩政改革、新田開発のために、天領で大名貸しを行う日田の豪商の「日田金」をやっとの思いで借りることができていたが、金は江戸に運ばれて、江戸屋敷の出費のために使われてしまった。新田の開発ができなければ借金を返すことができず、しかも「日田金」は公金だから、返済ができなければ切腹せざるをえず、初めから謝金を踏み倒すための切腹役として自分が使われたと手紙に記していた。櫂蔵は、その弟がしようとしていたことをし、弟の無念を晴らすために、あらゆる侮蔑を耐え忍んでいくことを決心していくのである。

 しかし、一度落ちた花が再び咲く道は厳しい。櫂蔵から妻にと望まれた「お芳」も、自分は汚れた女であると自覚しているし、櫂蔵の義母からも、汚れた女として蔑まれる。「お芳」は、自分は女中として櫂蔵の側でその行く末を見守りたいと申し出て、下働きを懸命にしていくのである。

 やがて、弟の自死の真相が次第に明らかになっていく。弟が藩内で生産されていた明礬(みょうばん)のために日田金を借りていたことを知るし、その弟を慕いながらも遊女になっていく娘の「さと」のことも聞いていく。弟は、心底、貧しい者や困窮にあえぐ者に手を差し伸べようとしていたことがわかっていく。そして、無為に事なかれ主義で暮らし、最初は櫂蔵に辛く当たっていた新田開発奉行所の同心たちも、再び櫂蔵を中心にしてまとまっていく。日田金の着服には、藩の御用商人である博多の豪商と藩主の吉原通いの借金、そして、勘定奉行の伊形清左衞門の画策が絡んでいたのである。

 こうして、それぞれの再生の道が始まっていく。櫂蔵は、生き恥をさらしても弟がなそうとしていたことを成し遂げる決心をし、「生きる」ということを背負って藩を利用して私腹を肥やしていた悪徳商人と戦い、櫂蔵に頼まれて藩の金の出入りを調べていた「咲庵」は、捨ててしまった息子が恨みをもって訪ねて来たときに、自分の過ちを悔い、親子の関係が回復していくし、「お芳」もまた、その陰日向のない働きぶりや自分を偽らない生き方が次第に櫂蔵の義母の染子の心を溶かしていく。染子は、ようやく「お芳」を認め、事柄の裏には藩主の乱費があったことを知って、以前に奥女中をしていた関係から藩主の母親に処遇を依頼したりする。「二度目に咲く花は、苦しみや悲しみを乗り越えた分だけ、きっと美しい。」櫂蔵はそう思うのである。

 だが、櫂蔵の真相への肉薄を辞めさせようとした伊形清左衞門は、櫂蔵の弱点である「お芳」を騙し、「お芳」を手籠めにしようとする。しかし、清左衞門に襲われる前に、「お芳」は、櫂蔵にも染子にも迷惑をかけないために、自ら命を立つ。しかし、清左衞門の悪もそこまでだった。

 櫂蔵は、日田の豪商や郡代官の信用を得て、すべてを明らかにして、弟が詰め腹を切らされて秘匿されていた「日田金」を取り戻し、すべてを明らかにして、藩を利用して私腹を肥やそうとしていた博多の悪徳商人は金繰りがつかなくなって崩れおれ、藩主は隠居して交代させられた。そして、勘定奉行となった櫂蔵は、弟がなそうとした明礬を使った藩財政の改革に取り組んでいく。「お芳」は櫂蔵の心の中で彼女の二度目の花を咲かせたのである。

 この物語の中で、具体的な再生を果たすことができなかった女性が、あと一人登場する。それは櫂蔵の弟に秘かに想いを寄せていた村の娘の「さと」で、彼女は家族の身を救うために博多の遊女に売られていく。櫂蔵や彼女に想いを寄せる櫂蔵の若い部下が、なんとか彼女を遊女の身から救い出そうとするが、自らそれを否む。そして、自分が櫂蔵の弟に想いを寄せていたということを胸に刻んで、苦界を生きていこうとするのである。それもまた、自分で自分の状況を変えることができない人間の再生かもしれないとは思うが。

 この物語は、人間の再生という非常に大きなテーマを取り扱い、その姿が極めてはっきりした形で描かれているが、清冽さとか覚悟という点では、それが直説法で書かれているだけに薄い気がする。藩主と商人の傲慢さや悪徳ぶりとそれを暴いていく展開は面白く読めるが、作者がこれまで示してきた人間の深みということでは主人公やその弟が信用をかち取っていく過程に若干の甘さを感じた。どうしようもない境遇の中を、歯を食いしばりながら矜持をもって生きていき、一筋に愛を貫くような壮烈さが今ひとつ伝わらない気がした。そういうことは間接的に描くことで初めて意味をもつからである。物語の筋があまりに直線的で、一読者として、作者には本当に深みのある作品を書いてもらいたいという思いがあるからかもしれない。それでも、これは優れた佳作であることに変わりはない。

2014年3月17日月曜日

梶よう子『夢の花、咲く』

 ようやく春めいて、本当に嬉しい。青年の頃は凛とした晩秋が好きだったが、今は春が嬉しい。こんな日は何にもせずにぼんやり空でも眺めていたいが、なかなかそうもいかない日常がある。引越しも間近に迫ってしまった。いくつかの委員会のデーターも後任者に渡す必要があり、その作業もあるなあと、ぼんやり思っている。

 そんな中で、梶よう子『夢の花、咲く』(2011年 文藝春秋社)を、これもまた感慨深く読んだ。これは前作『一朝の夢』(2008年 文藝春秋社)の後に書かれているが、内容は、『一朝の夢』の3年前の出来事に遡るもので、『一朝の夢』が安政5年(1858年)の井伊直弼の「安政の大獄」から安政7年(1860年)の井伊直弼暗殺事件である「桜田門外の変」を物語の歴史的頂点に置いていたが、本作は、安政2年(1855年)の「安政の江戸大地震」を歴史的事件の頂点に置いたものとなっている。

 出版年が、ちょうど東日本大震災(2011年)の年であっただけに、「安政の大地震」の中で生きる主人公たちの姿が、東日本大震災の悲惨さをつぶさに経験した者の心を打つ作品にもなっている。

 主人公の中根興三郎は、家督を継いだ兄の病死によって、やむなく植物学者になる夢を断念して北町奉行所同心の役を継いだが、ひょろひょろとした長身をもてあますほど、争い事が嫌いで、剣術などもってのほか、ただ朝顔を育てることが唯一の楽しみという一見軟弱そうな27歳ののんびりした性格の持ち主である。奉行所同心といっても閑職の両御組姓名係という名簿作成の仕事をしているだけである。彼の夢は、ただただ、朝顔を慈しんだ者だけに褒美として咲いてくれる黄色の朝顔を咲かせることである。彼は見合いをしても、つい朝顔の話に熱中しすぎて相手から断られるという朝顔一途の人間である。

 そんな彼のところに定町廻り同心の岡崎六郎太が、山谷掘りで上がった遺体を見てくれと言って来る。爪の汚れなどからどうやら植木職人ではないかと言うのである。興三郎は斬殺されて堀に浮いていた遺体を前に怖れおののくが、その手の鋏だこなどから、遺体が植木職人であることを明言する。なぜ殺されたのか。謎は深まる。

 他方、興三郎が朝顔栽培の手ほどきを受けた成田屋留次郎(実在の人物)の隣の朝顔栽培植木職人の吉蔵が育てた変種の朝顔が、花合わせ(花の競い合い)で最高位の「天」を取る。吉蔵の娘「お京」と同心の岡崎六郎太は、興三郎の家で出会ったのが縁で、許嫁の関係で、周囲の者たちはみな喜び祝う。

 だが、吉蔵と山谷掘りで死んでいた男とが繋がりがあるらしいことを岡崎六郎太は探り出し、興三郎もそのことを察していた。朝顔を使った博打が絡んでいるようで、吉蔵もその博打に関係しているようである。岡崎六郎太は奉行所同心としてそのことで悩み、ついには「お京」との婚約も解消していく。岡崎六郎太は、鋭い洞察力もあり、気性もまっすぐで、興三郎は岡崎六郎太と「お京」のことで気をもんでいくが何もできないでいた。

そんなおり、大地震(安政の大地震)が起きる。悲惨な状況が展開されて、多くの死者も出た。中根興三郎は幕府が設置したお救い小屋で被災者のために働くが、何もできない自分に忸怩たる思いを持っていたし、事件で知り合った絵師の河合曉齋(周三郎 実在の人物)から「夢でもねえ、将来でもねえ。今、この眼に映るものをいっさい描いてやろうとね。それが絵師としてのおれのできることだ」(145ページ)と言われ、今、目の前にいる被災者に対して何もできない自分に絶望を感じたりする。

そのお救い小屋に、死んだ兄の元許嫁であった志保が手助けに現れる。志保とは兄の死で縁が切れたが、一時は、興三郎の嫁にという話まであった女性だが、母親の病気から材木問屋の後妻になり、お救い小屋に援助を申し出てきたのである。震災後の復興で羽振りが良くなった大工などの職人もおれば、それでひと儲けを企む材木商もいたが、志保の夫の材木商は、私財を投げうって無償で復興のための材木を提供したり、お救い小屋を援助したりしていた。

 この辺りから、物語は、他者を踏みにじって儲けを企む悪徳商人と、それを利用して自分の遠来の恨みを晴らそうとする大身の旗本、それらとの対決となる。悪徳商人は、同じ材木商で人望のある志保の亭主を排除するために様々な画策をし、悪事の根源となっていた。大身の旗本はその悪事に加担し、「お京」の父親の吉蔵も金のために利用されていたのである。興三郎は、それらの悪事を明察していく。だが、心優しい彼は、「お京」が罪に問われないようにと願っていく。そして、すべてが一気に片づいていくとき、興三郎は自分ができることをしていく決心をするし、それによって再び朝顔栽培に取り組むようになっていくのである。

 この作品の中で、被災した者たちに対して何もできないと悩んでいた興三郎が、いよいよお救い小屋が閉鎖される時に、そこを追い出される不安を抱える人々に、朝顔の種を配る場面が描かれている。

 「天災はさまざまなものを奪った。ですが、未来まで失ったわけではありません。人は生き、町は必ず再生します。こたび、命を長らえた私たちが、すべてを背負い、繋げていかなければいけない。花が咲くころには、もっと町は復興しているでしょう。でも、それを果たすためには各々の力や、強さがいつもよりも必要だと思うのです」と言って、朝顔の種を配り、「恥ずかしながら私が思いついたのはこんなていどです。花を咲かせたいと思ってくれるだけでいい。夏を思ってくれるだけでもいい。少しでも先を考えることが希望になります。長屋の軒下で、通りの端で、朝顔を見かけたら、皆が元気だと分かる。私はそれを楽しみにしております」(233ページ)と言うのである。

 人は、ほんの少しでも希望があれば生きていける。興三郎が配った小さな朝顔の種は、その希望の種である。作者が、東日本大震災の後でこれを記した時、それは作者なりの生き方の言葉でもあるだろう。作者が小説を書くのはそのためであるという筋を見る思いのする光景と言葉だった。「悲しい記憶は風化することはない。だが、新たな喜びの記憶を重ねることができる」(285ページ)。本当にその通りだと思う。

 興三郎は興三郎なりの在り方で、肩肘張ることも正義を振り回すこともなく、柔らかく、しかし、きちんと足を踏みしめながら生きていく。そんな姿が本書で余すところなく描かれ、感動を呼ぶ。そんな彼と彼の理解者たちとの関係も素晴らしい。彼だからこそ築き上げることができる関係である。

2014年3月13日木曜日

高田郁『花散らしの雨 みをつくし料理帖』

 昨日は春の陽気だったが、今日は朝から雨模様で次第に風雨共に強くなってきた。朝からT大学に出かけていたが、帰りは傘を斜めにさして歩くような状態になった。春の嵐で、この嵐の後に一気に春めくかもしれないとも思う。

 さて、高田郁『花散らしの雨 みをつくし料理帖』(2009年 角川春樹事務所 ハルキ文庫)を、前作『八朔の雪』に続いて読んでみた。最初の感想は、前作よりもずいぶんと文章にしろ、構成にしろ、あるいは描写にしろ、優れているという思いだった。『みをつくし料理帖』は長いシリーズものになっているが、本作あたりから、このシリーズが、単なる成功譚を少し越えたものになっているところが感じられた。

 主人公「澪」は、災害で両親を亡くした天涯孤独の身であるが、大阪一の料理屋で育てられて料理の腕を磨いていたが、その料理屋も火事で焼け、江戸に出てきて、彼女を育ててくれた料理屋の主人は心労のためになくなるが、女将を母とも慕い、やがて、ふとしたきっかけで、「つる屋」という蕎麦屋で働くことになり、料理の腕を発揮していくことになる。だが、その「つる屋」も、一流料理店「登龍楼」の板長の妬みのために火事で失ってしまう。「澪」は、どこまでも苦労の多い運命に翻弄されて生きる女性であるが、しかし、明るく、健気に、そしてできることを一所懸命にしていこうとする女性である。

 本作は、九段坂の下で再建された「つる屋」に店主の種市を助けるために下足番として雇うことになった「ふき」という少女の登場から始まっていく。「ふき」は、両親を亡くし、前の奉公先の煮売り屋が潰れて、路頭に迷う寸前で、口入れ屋を通して雇うことになった十三歳の少女だが、骨惜しみせずによく働く女の子だった。「澪」は、「ふき」の境遇に自分の境遇を重ね合わせて、「ふき」のことを可愛がっていく。

 季節は春で、「澪」は、どこにでも芽吹いている蓬や雪の下を使った天ぷらを考案し、これが評判をとっていく。ところが、「登龍楼」でも同じ料理が出されているという。次に「三つ葉」を使った料理も工夫する。だが、これも「登龍楼」で出されているという。「つる屋」の客となった戯作者の清右衛門が「澪」の料理や「つる屋」にそれを手厳しく指摘する。「ふき」の下足番の仕事ぶりが「登龍楼」のものと同じであるところから、「澪」は、「ふき」のことを口入れ屋に聞きに行く。

 「ふき」は、煮売り屋で働く料理人の娘で、その煮売り屋は繁盛し、日本橋に店をかまえるまでになったが、人に騙されて莫大な借金を背負わされ、それを返そうと無理を重ねて「ふき」の父親が亡くなり、母親までもが一年もたたないうちに亡くなって、幼い弟と二人残され、父親の借金を返済するまで日本橋の店に奉公することになっていたことがわかっていく。その日本橋の店は「登龍楼」だった。その板長が、弟が奉公できる年齢になったので、「ふき」を「つる屋」に出すように頼まれたのだという。

 だが、「澪」は、そのことを心にしまうことにする。自分も大阪で料理屋の女将だった「芳」に愛情をかけてもらって生きることができた。血の繋がりがなくても「幼子を見守り、愛情をかけてくれる存在があれば、きっと生きていける」(57ページ)と、「ふき」に愛情深く接することを決める。「芳」もそれを察知して、「ふき」が「澪」の料理を「登龍楼」に密告していることを伏せて、「澪」が考えた料理は誰でもが思いつくものだから、料理の内容と味で勝負するのが本道であると説くのである。「澪」は、天ぷらに使う油をこれまでの胡麻油から菜種油に変えることを思いつく。「芳」は「ふき」のために前掛けを作ってやったりする。「澪」は蕗ご飯を作ることにする。そして、その手伝いを「ふき」に頼みながら、「蕗には無駄なところがひとつもないのよ。とても偉い野菜だわ」(69ページ)と語ったりする。

 「ふき」は、そうした「澪」や「芳」、「つる屋」の人々の温かさに触れ、「登龍楼」の板長の所に行って、これ以上は「澪」の料理を教えられないと言い切る。板長は「ふき」を殴りつけるが、「澪」はその場に駆けつけ、「登龍楼」の主人と真っ向から対決する。「登龍楼」の主の采女宗馬は、奉公人がしたことだからと板長を辞めさせて、「澪」の言い分を閉じさせる。「ふき」の弟の「健坊」はそのまま「登龍楼」で借金返済のために奉公することになり、「澪」は「ふき」を連れて「つる屋」に戻る。

 運命に翻弄されて生きなければならない幼い姉弟の心情、それに手を差し伸べる「澪」、その姿が九段下の俎橋の上で描かれる。「春の日差しの溢れる中、飯田川をゆっくりと船が行き交っていた」(79ページ)の一文で、第一話「俎橋から―ほろにが蕗ご飯」が閉じられる。余韻の残る閉じられ方だと思う。

 こうして話しが展開され、苦労して作った味醂を商う者との出会(第二話「花散らしの雨―こぼれ梅」)や「澪」が住む長屋の「太一」がはしかを患う話し(第三話「一粒符―なめらか葛饅頭」)、胡瓜にまつわる話し(第四話「銀菊―忍び瓜」)が展開されていく中で、「澪」の幼馴染みで吉原の太夫となっている「あさひ太夫」の病を知って、吉原にまで出かけていったり、「芳」や「太一」の病の手当をしてくれた医者の源斉の縁談話で、相手の娘が、源斎が縁談を断ったのが「澪」のせいだと思って、対抗してくるが、その娘を優しく包んでいくような「澪」の姿が描かれていく。

 そして、「澪」が秘かに想いを寄せている「小松原」がようやく再建した「つる屋」に来てくれて、一緒に花火を見ながら、「私の恋は決して相手に悟られてはならない」という健気な決心をしていくというところで終わる。

 本作には、一話一話に味と深みが増しているように思えるところが随所にある。どこまでも人間を包み込む、そうした姿が登場人物たちのひとつの姿勢として、それぞれに貫かれているようで、作者の作家としての人間を描く姿勢がこれで固まったのではないかと思えた。表題作よりも第一話や第三話の方が作品としての深みを感じられた。

2014年3月10日月曜日

和田竜『小太郎の左腕』

 「名のみ春」が続いて、気温が低くて寒い。ここでの生活も残すところ2週間ほどとなり、いくばくかの感慨がないわけではないが、予定が詰まってきて、手続きや片づけなどの面倒なことをする間もなく日々が過ぎていく。身一つなのでどうにでもなるが、本の整理だけはしておこうと思ったりもする。

 閑話休題。和田竜『小太郎の左腕』(2009年 小学館 2011年 小学館文庫)を大変面白く、また作品としても優れていると思いながら読んだ。『のぼうの城』、『忍びの国』に続く、作者の三作目の作品であるが、一番深みのある作品になっている。

 作品の時代背景は戦国時代、それも1556年(弘治2年)で、この年、美濃の斎藤道三が骨肉を争う長良川の戦いで死に、その戦いで織田信長が台頭してくるようになった時代で、本作では、全くの架空の西国の小豪族戸沢家と児玉家の争いが舞台となっている。地方の小豪族は周辺の武士たちの支持による同盟関係で結ばれたもので、後の戦国大名などとは異なった主従関係で結ばれており、その同盟は盟主が無能であったり、家臣となった武士に対して利を呈さなかったりしたら簡単に破られるもので、主従といっても微妙なバランスの上で成り立っていたものであるから、そうした歴史的考証が踏まえられた上で、当時の質実剛健で明朗闊達な武士の姿を中心に据えて物語が展開されている。

 本書の主人公として描かれるのは、戸沢家の中でも豪傑であり、政治的陰謀などは全く嫌いな質実剛健の武(もののふ)で、直線的で明朗、文字通り「好漢」である林半右衛門という猛将である。彼は、ほかの者たちからは「功名漁りの半右衛門」と揶揄されるほどの手柄を立てることに奔走していくが、軍略にも優れ、六尺(およそ190㎝ほど)を超す巨体を駆使し、胆力も武力もある勇士である。彼を名武将として育て上げた爺(養育係)の藤田三十郎との互いの思いやりの深い関係も描かれる。三十郎が半右衛門を「ほめあげて育てた」というのもユーモアに富んでいる。

 他方、敵対する児玉家にも「好漢」の花房喜兵衛という名将がおり、半右衛門とは好敵手で、互いに認め合い、それだけに戦いの後の事後を託すほどの信頼も深い。そして、深い信頼を持ちながらも好敵手として戦う。二人の軍略と戦いぶり、そして互いに認め合う存在であることが繰り返し描かれている。

 こうした人物が織りなすのは「信」である。それが物語として描かれているところに、本書の明るさと深さもある。

 また、盟主の後継ぎで才能もないのに権力を振るいたがり、半右衛門に対抗意識を燃やしてことごとく失敗していく戸沢図書という人物も描かれる。その対抗意識の現れとして、半右衛門と相愛の仲といわれた「鈴」という娘を図書は奪うようにして妻にしている。だが、半右衛門は「鈴」をいつまでも想っていたし、「鈴」も半右衛門への想いを変えなかった。この辺りに図書の苦悩もあったことが記されたりもする。

 物語は、戸沢家と児玉家の戦闘で、愚かな図書の作戦で半右衛門が負傷し、深手を負った彼を山の猟師が助けるところから展開されていく。彼を助けたのは、要藏という偏屈な老人と十一歳になる小太郎という少年であった。

 小太郎は、同世代の子どもたちから「阿呆」呼ばわりされ、仲間のイジメを受けるような少年だが、小太郎はそれを平然と受け止めるような子どもで、怒ることも憎むこともしないで、ただただ「優しさ」を体いっぱいに詰めたような少年だった。だが、小太郎は、なんとかして「人並み」になりたいという願いをもっていた。

 小太郎を虐めていた筆頭の玄太という子どもは、戸沢家が催す鉄炮試合で優勝するほどの鉄炮の名人であったし、彼の父親は百姓ではなく武士になることを強く望んでいた。そこに玄太という少年の悲哀もあり、彼が抱えている悲哀も、切なくなるくらいに描かれていく。

 そして、鉄炮試合が再び行われ、玄太の腕も見事に披露されるが、自分を助けてくれたお礼に鉄炮試合に出してやるといった半右衛門の言葉を信じて、小太郎も出る。小太郎は、人を疑ったりいぶかしんだりすることを知らない純粋な少年で、土産がいるといわれれば風車を土産に買って半右衛門に差し出すような少年であったが、鉄炮試合に出て、見事に的を外してしまう。しかし、その鉄炮の玉のはずれ方がいつも決まっていることに気づいた半右衛門が左利き用の鉄炮を渡して撃たせてみると、百発百中の天才的能力を発揮したのである。彼は、実は、鉄炮による狙撃に長けた雑賀衆の中でも天才と見なされた雑賀小太郎で、彼を育てていた要藏は、小太郎が無類の優しさを本姓とする少年であり、その鉄炮の腕が権力者によって利用されることを恐れた要藏が、秘かに猟師をしながら暮らしていたことが分かっていくのである。

 やがて、農繁期も終わり(多くの兵は農民であったために農繁期にはあまり戦は行われなかった)、いよいよ戸沢家と児玉家が激突するようになる。戸沢家は、圧倒的多数の児玉家の勢力に押され、ついに籠城作戦に出る。半右衛門は、籠城作戦が愚かな作戦であることを知りつつも、戸沢図書の愚策と図書におもねる家臣たちによって、やむなく籠城する。だが、敵の花房喜兵衛も名将で、籠城戦の決め手となる食糧を焼き払い、籠城した戸沢家の兵は辛苦を舐めていく。

 そして、見るに見かねた半右衛門は、起死回生のために小太郎の鉄炮の腕を用いて、敵将を狙撃する作戦を立てるのである。純粋で優しさに溢れた小太郎をその気にさせるために、要藏を自らの手で殺し、これは敵がやったことだと小太郎を騙して用い、起死回生を図るのである。小太郎の鉄炮の腕は神業で、戸沢家は児玉家との戦に勝利して領土を守ることができた。だが、半右衛門は小太郎を騙したことに良心の呵責を覚えていく。

 そして、小太郎の腕をめぐる争いが展開され、人よりも優れた能力を持つが故に、他者から利用され、また排除されていく小太郎の悲しい運命が小太郎を襲う。その状態をなんとか挽回して、小太郎を自由の身とするために、半右衛門は、ひとり、死地となる戦場に出て行くのである。

 優れた作品というものは、いくつものテーマが重層的に織りなされているが、本書も、先述したような「信」ということ、あるいは戦いの悲哀や無意味さ、あるいはまた男女の愛情や友情、思いやり、「人並み以上の者が「人並み」であろうとすることの悲しい運命、黙って重荷を背負っていくことなどがいくつもテーマとして複合している。豪快な人物を主人公に据えて、繊細に描く。それが本書で、思想の深みもあるいい作品だと思った。

2014年3月6日木曜日

梶よう子『一朝の夢』

 3日(月)から昨日まで、T大学のE先生らと越後(新潟県)の国上山にある良寛の五合庵を訪ねる小さな旅に出ていた。雪に埋もれた五合庵を期待していたが、雨になった。山深い地の粗末な小屋のような五合庵で約20年間近く暮らした良寛の内奥の覚悟のようなものを強く感じたし、抱えた孤独をひしひしと感じてきた。子どもたちと遊んだ良寛像はよく知られているが、実は深い学びの日常であったことも改めて思い知った。そして、書の迫力というものも感じ、わたしはただ深く首を垂れて山道を歩いてきた。感慨深い良寛を訪ねる数日となった。

 それはともかく、梶よう子『柿のへた』(2011年 集英社)が素晴らしい作品だったので、2008年に松本清張賞を受賞されたという作品『一朝の夢』(2008年 文藝春秋社)を読んでみた、これも賞にふさわしい優れた作品だったし、物語の頂点では、よく知られている歴史的な出来事を「人間」の側で、しかもそれを側面から掘り下げるというよく考え抜かれたことが巧みに取り入れられ、それが清楚な文章で綴られるという秀作だった。

 本書の主人公の中根興三郎は、身長は六尺(約180㎝)近くもあるが、痩せてひょろひょろとして、引っ込み思案で、剣術で身を立てるなどとんでもなく、幼い頃は植物学者になりたいと思っていたが、兄の急死によって奉行所同心の家督を継いでいた。奉行所同心といっても、事件探索などとは全く無縁の両御組姓名係という、いわば奉行所の人員の名簿を作成するという閑職である。三十歳半ばであるが、三十俵二人扶持の薄給で、嫁の来てもなく、老いた下男の藤吉とわびしい日々を送っていた。彼の唯一の楽しみは朝顔栽培であった。出世とか金とかには無縁であるが、彼は自分の役目に不満もなく、趣味の朝顔造りに没頭する日々で、「朝顔同心」と揶揄されても平気であった。彼は、「美しく、堂々とした花ではなく、蔓だけ伸び、人目に触れずにそっと咲いて萎んでしまうような、突然咲いた変種朝顔」(21ページ)に自分を重ねて、その朝顔の栽培に情熱を傾けていたのである。彼は、朝顔を慈しんだ者だけが「朝顔からの褒美」のようにして咲くと言われている黄色の朝顔を作ることを夢にしていた。それだけが彼の望みだったのである。

実際に、文化・文政や嘉永から安政にかけて江戸を中心にして朝顔ブームとも呼ばれるほど朝顔栽培が盛んに行われて、珍しい変種の朝顔が高値で取引されたりもしたが、中根興三郎は、朝に咲いて夕べには萎むという朝顔のもつはかなさと美しさに魅了されていただけで、長い間、朝顔の栽培に熱中してきたのである。歴史的に、この頃の朝顔栽培をブームとしたのは、植木職人の成田屋留次郎という人物と佐賀鍋島藩の藩主であった鍋島直孝だと言われているが、作者は主人公の中根興三郎が成田屋留次郎から朝顔栽培を教えられ、今では、その成田屋留次郎が一目を置くほどの朝顔栽培者になっていると設定しているし、それを通じて鍋島直孝(号を杏葉館という)との交流が生まれていく過程を描き出し、さらにそこから物語を展開させている。

 こういう主人公の設定や展開の仕方は、いわば、文学としての歴史時代小説の本道ともいうべきもので、作者はこの主人公を通して堂々とその道を骨太に、そして繊細に歩むのである。

 その主人公がふと立ち寄った下町の「めし処」で、幼馴染みの里江と出会う。里江は、元は奉行所同心の娘であったが、父親の些細なしくじりで、父親が自死して後に母親と家を追われ、その後は行方不明であった。そして、その店の雇われ女将として、幼い息子を育てながら暮らしていたのである。その店の持ち主は質屋の富田屋徳兵衛で、里江は借金のかたに徳兵衛のいいなりになっていたし、借金の返済も迫られていた。

 そのことを伺い知った中根興三郎は、徳兵衛が日本橋の雑穀問屋で豪商の「鈴や」の縁戚であることを知り、朝顔の収集家として名が通っている「鈴や」なら大金を出しても欲しがるに違いないと思われる変種の朝顔を里江に贈り、それで借金を返済させようとする。そして、それは成功して、里江は自由の身になるが、それと同時に住んでいた長屋から立ち退きを迫られることになる。興三郎は里江と息子が自分の家に住んだどうかと言い、やがて里江と息子は興三郎の家に移ってくる。興三郎と里江は、幼馴染みであり、昔、興三郎は秘かに里江に想いを寄せていたのであった。下男の藤吉はまるで新しい家族ができたように喜ぶ。だが、それもつかの間のこととなる。

 そのころ、絶命していたはずの武家の死体が忽然と消えるような出来事が起こっていた。状勢は、彦根藩主だった伊井直弼が大老となったころで、将軍継嗣問題をめぐっての水戸藩、薩摩藩などの思惑が渦巻いていた時代であった。井伊直弼が日米修好通商条約を結んだばかりの頃である。

 そうした上層部の動きとは全く無縁に朝顔栽培に没頭していた興三郎は、だが、里江にやった変種の朝顔の縁で、「鈴や」と知り合いになるし、鍋島藩主の鍋島直孝と知り合いになっていき、その縁でまた、「宗観」と名乗る人物にも出会っていく。そして、鍋島直孝から「宗観」のために変種朝顔を造って欲しいと依頼されたりするのである。「宗観」と興三郎の問答は、両者の立場を越えた真理に向かうような味わい深い問答になっている。「宗観」もまた大輪の黄色花を望んでいるという。「宗観」は、その後、ちょくちょく気楽に興三郎の家を訪ねて来たりするようになる。上品で風雅、味わい深い禅問答のような会話が二人の間でなされるようになる。

 他方、興三郎のところには、彼が通っていた学問塾で知り合った三好貫一郎と名乗る人物が時折顔を見せていた。三好は引き締まった顔立ちと豊富な知識、爽やかな弁舌をする浪人で、興三郎が朝顔にかける一途な思いを気に入り、親しくしていたのである。この人物もまた、後の大きな歴史的事件に関わりのある人物として描かれる。

 また、興三郎の妹が嫁いだ高木惣左衛門は奉行所与力で、彼は与力として市中で起こっていた辻斬り事件の探索をしていた。殺されたのはいずれも彦根藩に関係があり、先に死体が忽然と消えた武士も彦根藩の武士ではないかと思われた。惣左衞門は、殺された武士の遺体が消えたのが鍋島藩上屋敷の前であったことで、藩主の鍋島直孝と朝顔を通じて交誼のある興三郎に手づるを求めてきた。そして、いわゆる「安政の大獄」と呼ばれる攘夷派に対する弾圧がおこることをそれとなく知らせる。興三郎が通っていた学問塾も取締りの対象になっているというのである。そこの塾生が造った集まりに過激な動向が見られるというのである。

 さらに、引退を前にした同僚の村上伝次郎が出仕しなくなり、突然、彼が息子と息子の仲間を斬り殺して出奔したという事件が起こる。興三郎は心を痛めていく。村上伝次郎の息子は、学問塾の過激なグループに入っていたという。そのグループに過激な言動を繰り返していた男がいた。だが、その正体はわからなかった。また、里江を借金のかたにいいなりにさせていた成田屋徳次郎が火事で焼け死んだりすることが起こる。

 その事件の謎は、ゆっくりと紐解かれていく。それと合わせて「安政の大獄」が始まっていく。井伊直弼の罷免や条約の撤回などを記した朝廷からの勅書が水戸藩に届けられ、その勅書に携わったと思われる人間の処分が行われることが発端となった。水戸藩主徳川斉昭には永蟄居が命じられ、それ行った井伊直弼への水戸藩士たちの怒りも頂点に達しようとしていた。

 そうしているうちに、不忍池の弁天島あたりに里江の死骸が見つかった。里江はなぜ死んだのか、誰に殺されたのか。興三郎はその深い闇の中で絶望を味わっていく。その正体が明らかになっていくのが事件の山場となっている。

 やがて、「桜田門外の変」が起こる。ここでは、その真相には触れないが、興三郎が関係した人物たちがこの事件に関わっていた。、こうして、この物語の結末を迎えていくことになるが、興三郎は、彼が夢に見ていた大輪の黄色花朝顔を咲かせた。そして、彼は何処ともしれずに旅立ったという。里江の子が成長し、植木屋となり、彼もまた黄色の朝顔を咲かせたいと願っていた。そこに、老いた興三郎らしき人物が来て、また去っていくというところで終わる。最後は、「明治二十九年、熊本で中輪咲の黄色花が咲き、大きな話題となったという記録が残されている。だが、その作者は不明である」という一文が加えられている。

 歴史と社会の流れを大枠に見ながら、繊細に人の機敏を描き、正義や価値判断を振りかざすことなく、人間の深みを描いていく。歴史の問題を扱うときもその姿勢は崩れることがなく、非常にバランスの取れた深みのある作品だと思う。使われる言葉が生きている。そんな感じがする。