2014年3月17日月曜日

梶よう子『夢の花、咲く』

 ようやく春めいて、本当に嬉しい。青年の頃は凛とした晩秋が好きだったが、今は春が嬉しい。こんな日は何にもせずにぼんやり空でも眺めていたいが、なかなかそうもいかない日常がある。引越しも間近に迫ってしまった。いくつかの委員会のデーターも後任者に渡す必要があり、その作業もあるなあと、ぼんやり思っている。

 そんな中で、梶よう子『夢の花、咲く』(2011年 文藝春秋社)を、これもまた感慨深く読んだ。これは前作『一朝の夢』(2008年 文藝春秋社)の後に書かれているが、内容は、『一朝の夢』の3年前の出来事に遡るもので、『一朝の夢』が安政5年(1858年)の井伊直弼の「安政の大獄」から安政7年(1860年)の井伊直弼暗殺事件である「桜田門外の変」を物語の歴史的頂点に置いていたが、本作は、安政2年(1855年)の「安政の江戸大地震」を歴史的事件の頂点に置いたものとなっている。

 出版年が、ちょうど東日本大震災(2011年)の年であっただけに、「安政の大地震」の中で生きる主人公たちの姿が、東日本大震災の悲惨さをつぶさに経験した者の心を打つ作品にもなっている。

 主人公の中根興三郎は、家督を継いだ兄の病死によって、やむなく植物学者になる夢を断念して北町奉行所同心の役を継いだが、ひょろひょろとした長身をもてあますほど、争い事が嫌いで、剣術などもってのほか、ただ朝顔を育てることが唯一の楽しみという一見軟弱そうな27歳ののんびりした性格の持ち主である。奉行所同心といっても閑職の両御組姓名係という名簿作成の仕事をしているだけである。彼の夢は、ただただ、朝顔を慈しんだ者だけに褒美として咲いてくれる黄色の朝顔を咲かせることである。彼は見合いをしても、つい朝顔の話に熱中しすぎて相手から断られるという朝顔一途の人間である。

 そんな彼のところに定町廻り同心の岡崎六郎太が、山谷掘りで上がった遺体を見てくれと言って来る。爪の汚れなどからどうやら植木職人ではないかと言うのである。興三郎は斬殺されて堀に浮いていた遺体を前に怖れおののくが、その手の鋏だこなどから、遺体が植木職人であることを明言する。なぜ殺されたのか。謎は深まる。

 他方、興三郎が朝顔栽培の手ほどきを受けた成田屋留次郎(実在の人物)の隣の朝顔栽培植木職人の吉蔵が育てた変種の朝顔が、花合わせ(花の競い合い)で最高位の「天」を取る。吉蔵の娘「お京」と同心の岡崎六郎太は、興三郎の家で出会ったのが縁で、許嫁の関係で、周囲の者たちはみな喜び祝う。

 だが、吉蔵と山谷掘りで死んでいた男とが繋がりがあるらしいことを岡崎六郎太は探り出し、興三郎もそのことを察していた。朝顔を使った博打が絡んでいるようで、吉蔵もその博打に関係しているようである。岡崎六郎太は奉行所同心としてそのことで悩み、ついには「お京」との婚約も解消していく。岡崎六郎太は、鋭い洞察力もあり、気性もまっすぐで、興三郎は岡崎六郎太と「お京」のことで気をもんでいくが何もできないでいた。

そんなおり、大地震(安政の大地震)が起きる。悲惨な状況が展開されて、多くの死者も出た。中根興三郎は幕府が設置したお救い小屋で被災者のために働くが、何もできない自分に忸怩たる思いを持っていたし、事件で知り合った絵師の河合曉齋(周三郎 実在の人物)から「夢でもねえ、将来でもねえ。今、この眼に映るものをいっさい描いてやろうとね。それが絵師としてのおれのできることだ」(145ページ)と言われ、今、目の前にいる被災者に対して何もできない自分に絶望を感じたりする。

そのお救い小屋に、死んだ兄の元許嫁であった志保が手助けに現れる。志保とは兄の死で縁が切れたが、一時は、興三郎の嫁にという話まであった女性だが、母親の病気から材木問屋の後妻になり、お救い小屋に援助を申し出てきたのである。震災後の復興で羽振りが良くなった大工などの職人もおれば、それでひと儲けを企む材木商もいたが、志保の夫の材木商は、私財を投げうって無償で復興のための材木を提供したり、お救い小屋を援助したりしていた。

 この辺りから、物語は、他者を踏みにじって儲けを企む悪徳商人と、それを利用して自分の遠来の恨みを晴らそうとする大身の旗本、それらとの対決となる。悪徳商人は、同じ材木商で人望のある志保の亭主を排除するために様々な画策をし、悪事の根源となっていた。大身の旗本はその悪事に加担し、「お京」の父親の吉蔵も金のために利用されていたのである。興三郎は、それらの悪事を明察していく。だが、心優しい彼は、「お京」が罪に問われないようにと願っていく。そして、すべてが一気に片づいていくとき、興三郎は自分ができることをしていく決心をするし、それによって再び朝顔栽培に取り組むようになっていくのである。

 この作品の中で、被災した者たちに対して何もできないと悩んでいた興三郎が、いよいよお救い小屋が閉鎖される時に、そこを追い出される不安を抱える人々に、朝顔の種を配る場面が描かれている。

 「天災はさまざまなものを奪った。ですが、未来まで失ったわけではありません。人は生き、町は必ず再生します。こたび、命を長らえた私たちが、すべてを背負い、繋げていかなければいけない。花が咲くころには、もっと町は復興しているでしょう。でも、それを果たすためには各々の力や、強さがいつもよりも必要だと思うのです」と言って、朝顔の種を配り、「恥ずかしながら私が思いついたのはこんなていどです。花を咲かせたいと思ってくれるだけでいい。夏を思ってくれるだけでもいい。少しでも先を考えることが希望になります。長屋の軒下で、通りの端で、朝顔を見かけたら、皆が元気だと分かる。私はそれを楽しみにしております」(233ページ)と言うのである。

 人は、ほんの少しでも希望があれば生きていける。興三郎が配った小さな朝顔の種は、その希望の種である。作者が、東日本大震災の後でこれを記した時、それは作者なりの生き方の言葉でもあるだろう。作者が小説を書くのはそのためであるという筋を見る思いのする光景と言葉だった。「悲しい記憶は風化することはない。だが、新たな喜びの記憶を重ねることができる」(285ページ)。本当にその通りだと思う。

 興三郎は興三郎なりの在り方で、肩肘張ることも正義を振り回すこともなく、柔らかく、しかし、きちんと足を踏みしめながら生きていく。そんな姿が本書で余すところなく描かれ、感動を呼ぶ。そんな彼と彼の理解者たちとの関係も素晴らしい。彼だからこそ築き上げることができる関係である。

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