2014年3月6日木曜日

梶よう子『一朝の夢』

 3日(月)から昨日まで、T大学のE先生らと越後(新潟県)の国上山にある良寛の五合庵を訪ねる小さな旅に出ていた。雪に埋もれた五合庵を期待していたが、雨になった。山深い地の粗末な小屋のような五合庵で約20年間近く暮らした良寛の内奥の覚悟のようなものを強く感じたし、抱えた孤独をひしひしと感じてきた。子どもたちと遊んだ良寛像はよく知られているが、実は深い学びの日常であったことも改めて思い知った。そして、書の迫力というものも感じ、わたしはただ深く首を垂れて山道を歩いてきた。感慨深い良寛を訪ねる数日となった。

 それはともかく、梶よう子『柿のへた』(2011年 集英社)が素晴らしい作品だったので、2008年に松本清張賞を受賞されたという作品『一朝の夢』(2008年 文藝春秋社)を読んでみた、これも賞にふさわしい優れた作品だったし、物語の頂点では、よく知られている歴史的な出来事を「人間」の側で、しかもそれを側面から掘り下げるというよく考え抜かれたことが巧みに取り入れられ、それが清楚な文章で綴られるという秀作だった。

 本書の主人公の中根興三郎は、身長は六尺(約180㎝)近くもあるが、痩せてひょろひょろとして、引っ込み思案で、剣術で身を立てるなどとんでもなく、幼い頃は植物学者になりたいと思っていたが、兄の急死によって奉行所同心の家督を継いでいた。奉行所同心といっても、事件探索などとは全く無縁の両御組姓名係という、いわば奉行所の人員の名簿を作成するという閑職である。三十歳半ばであるが、三十俵二人扶持の薄給で、嫁の来てもなく、老いた下男の藤吉とわびしい日々を送っていた。彼の唯一の楽しみは朝顔栽培であった。出世とか金とかには無縁であるが、彼は自分の役目に不満もなく、趣味の朝顔造りに没頭する日々で、「朝顔同心」と揶揄されても平気であった。彼は、「美しく、堂々とした花ではなく、蔓だけ伸び、人目に触れずにそっと咲いて萎んでしまうような、突然咲いた変種朝顔」(21ページ)に自分を重ねて、その朝顔の栽培に情熱を傾けていたのである。彼は、朝顔を慈しんだ者だけが「朝顔からの褒美」のようにして咲くと言われている黄色の朝顔を作ることを夢にしていた。それだけが彼の望みだったのである。

実際に、文化・文政や嘉永から安政にかけて江戸を中心にして朝顔ブームとも呼ばれるほど朝顔栽培が盛んに行われて、珍しい変種の朝顔が高値で取引されたりもしたが、中根興三郎は、朝に咲いて夕べには萎むという朝顔のもつはかなさと美しさに魅了されていただけで、長い間、朝顔の栽培に熱中してきたのである。歴史的に、この頃の朝顔栽培をブームとしたのは、植木職人の成田屋留次郎という人物と佐賀鍋島藩の藩主であった鍋島直孝だと言われているが、作者は主人公の中根興三郎が成田屋留次郎から朝顔栽培を教えられ、今では、その成田屋留次郎が一目を置くほどの朝顔栽培者になっていると設定しているし、それを通じて鍋島直孝(号を杏葉館という)との交流が生まれていく過程を描き出し、さらにそこから物語を展開させている。

 こういう主人公の設定や展開の仕方は、いわば、文学としての歴史時代小説の本道ともいうべきもので、作者はこの主人公を通して堂々とその道を骨太に、そして繊細に歩むのである。

 その主人公がふと立ち寄った下町の「めし処」で、幼馴染みの里江と出会う。里江は、元は奉行所同心の娘であったが、父親の些細なしくじりで、父親が自死して後に母親と家を追われ、その後は行方不明であった。そして、その店の雇われ女将として、幼い息子を育てながら暮らしていたのである。その店の持ち主は質屋の富田屋徳兵衛で、里江は借金のかたに徳兵衛のいいなりになっていたし、借金の返済も迫られていた。

 そのことを伺い知った中根興三郎は、徳兵衛が日本橋の雑穀問屋で豪商の「鈴や」の縁戚であることを知り、朝顔の収集家として名が通っている「鈴や」なら大金を出しても欲しがるに違いないと思われる変種の朝顔を里江に贈り、それで借金を返済させようとする。そして、それは成功して、里江は自由の身になるが、それと同時に住んでいた長屋から立ち退きを迫られることになる。興三郎は里江と息子が自分の家に住んだどうかと言い、やがて里江と息子は興三郎の家に移ってくる。興三郎と里江は、幼馴染みであり、昔、興三郎は秘かに里江に想いを寄せていたのであった。下男の藤吉はまるで新しい家族ができたように喜ぶ。だが、それもつかの間のこととなる。

 そのころ、絶命していたはずの武家の死体が忽然と消えるような出来事が起こっていた。状勢は、彦根藩主だった伊井直弼が大老となったころで、将軍継嗣問題をめぐっての水戸藩、薩摩藩などの思惑が渦巻いていた時代であった。井伊直弼が日米修好通商条約を結んだばかりの頃である。

 そうした上層部の動きとは全く無縁に朝顔栽培に没頭していた興三郎は、だが、里江にやった変種の朝顔の縁で、「鈴や」と知り合いになるし、鍋島藩主の鍋島直孝と知り合いになっていき、その縁でまた、「宗観」と名乗る人物にも出会っていく。そして、鍋島直孝から「宗観」のために変種朝顔を造って欲しいと依頼されたりするのである。「宗観」と興三郎の問答は、両者の立場を越えた真理に向かうような味わい深い問答になっている。「宗観」もまた大輪の黄色花を望んでいるという。「宗観」は、その後、ちょくちょく気楽に興三郎の家を訪ねて来たりするようになる。上品で風雅、味わい深い禅問答のような会話が二人の間でなされるようになる。

 他方、興三郎のところには、彼が通っていた学問塾で知り合った三好貫一郎と名乗る人物が時折顔を見せていた。三好は引き締まった顔立ちと豊富な知識、爽やかな弁舌をする浪人で、興三郎が朝顔にかける一途な思いを気に入り、親しくしていたのである。この人物もまた、後の大きな歴史的事件に関わりのある人物として描かれる。

 また、興三郎の妹が嫁いだ高木惣左衛門は奉行所与力で、彼は与力として市中で起こっていた辻斬り事件の探索をしていた。殺されたのはいずれも彦根藩に関係があり、先に死体が忽然と消えた武士も彦根藩の武士ではないかと思われた。惣左衞門は、殺された武士の遺体が消えたのが鍋島藩上屋敷の前であったことで、藩主の鍋島直孝と朝顔を通じて交誼のある興三郎に手づるを求めてきた。そして、いわゆる「安政の大獄」と呼ばれる攘夷派に対する弾圧がおこることをそれとなく知らせる。興三郎が通っていた学問塾も取締りの対象になっているというのである。そこの塾生が造った集まりに過激な動向が見られるというのである。

 さらに、引退を前にした同僚の村上伝次郎が出仕しなくなり、突然、彼が息子と息子の仲間を斬り殺して出奔したという事件が起こる。興三郎は心を痛めていく。村上伝次郎の息子は、学問塾の過激なグループに入っていたという。そのグループに過激な言動を繰り返していた男がいた。だが、その正体はわからなかった。また、里江を借金のかたにいいなりにさせていた成田屋徳次郎が火事で焼け死んだりすることが起こる。

 その事件の謎は、ゆっくりと紐解かれていく。それと合わせて「安政の大獄」が始まっていく。井伊直弼の罷免や条約の撤回などを記した朝廷からの勅書が水戸藩に届けられ、その勅書に携わったと思われる人間の処分が行われることが発端となった。水戸藩主徳川斉昭には永蟄居が命じられ、それ行った井伊直弼への水戸藩士たちの怒りも頂点に達しようとしていた。

 そうしているうちに、不忍池の弁天島あたりに里江の死骸が見つかった。里江はなぜ死んだのか、誰に殺されたのか。興三郎はその深い闇の中で絶望を味わっていく。その正体が明らかになっていくのが事件の山場となっている。

 やがて、「桜田門外の変」が起こる。ここでは、その真相には触れないが、興三郎が関係した人物たちがこの事件に関わっていた。、こうして、この物語の結末を迎えていくことになるが、興三郎は、彼が夢に見ていた大輪の黄色花朝顔を咲かせた。そして、彼は何処ともしれずに旅立ったという。里江の子が成長し、植木屋となり、彼もまた黄色の朝顔を咲かせたいと願っていた。そこに、老いた興三郎らしき人物が来て、また去っていくというところで終わる。最後は、「明治二十九年、熊本で中輪咲の黄色花が咲き、大きな話題となったという記録が残されている。だが、その作者は不明である」という一文が加えられている。

 歴史と社会の流れを大枠に見ながら、繊細に人の機敏を描き、正義や価値判断を振りかざすことなく、人間の深みを描いていく。歴史の問題を扱うときもその姿勢は崩れることがなく、非常にバランスの取れた深みのある作品だと思う。使われる言葉が生きている。そんな感じがする。

0 件のコメント:

コメントを投稿