2012年12月15日土曜日

滝口康彦『一命』(1)


 久しぶりに篠つく雨の寒い日になった。車の水しぶきを上げる音が、どこか切ない。もはや騒音としか思えないようなお題目ばかりを叫ぶ選挙カーが行き交っていく。生きることのつらさや切なさを政治家は感じているだろうか。そんな思いを、ふともった。

 昨夜は、滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)を同級生で作詞家のT氏が、わざわざ届けてくれて、これが珠玉の作品集であることを痛感しながら読んた。

 滝口康彦(1924-2004年)は、生涯のほとんどを佐賀で過ごした優れた作家で、下級武士の悲劇などを鮮烈に描ききった人である。先ごろ(2011年)、この人の『異聞浪人記』を原作とした『一命』が、三池崇史監督、市川海老蔵の主演で映画化されている。彼は直木賞を受賞しなかったが、6回も候補としてノミネートされている。しかし、作品のキレということでは極上の作品を書いている。

 本書には、彼の作品の中から、映画の原作ともなった「異聞浪人記」、「貞女の櫛」、「謀殺」、「上意討ち心得」、「高柳父子」、「拝領妻始末」の5編の短編が収められ、いずれも作家の真髄を示すものとなっている。これは映画化されたことで新たに編まれた文庫本である。

 「異聞浪人記」は、短編時代小説の傑作中の傑作で、1958年にサンデー毎日大衆文芸賞を受賞した作品で、既に1962年に小林正樹監督、仲代達矢主演の『切腹』という表題で映画化されており、2011年のものはそのリメイクであるが、1963年に光風社から出され、1982年に講談社で文庫化された『拝領妻始末』に収録されている。

 時は、三代将軍徳川家光の時代である寛永年間で、前将軍徳川秀忠によって改易・取り潰された安芸・備後五十万石の福島正則の家臣で、江戸で浪人生活を送っていた津雲半四郎という55~56歳頃の武士が、老中井伊掃部守直孝の屋敷に現れ、呻吟して生活をするよりも、いっそ武士らしく腹を切りたいから玄関先を貸してくれと願うところから物語が始まる。戦国勇壮の武将の一人であった福島正則は、関ヶ原の戦いで反石田三成側として徳川家につき、安芸・備後五十万石の大名となるが、広島城の改築に絡んで、みだりに城を改築したという言いがかりをつけられて改易されたのである。改易された家臣の浪人生活は辛苦を極めた。

 その頃、生活苦に喘ぐ浪人たちが、屋敷の庭先を借りて切腹をしたいと申し出て、相手を困らせて金を脅し取るという狂言切腹するということが時折起こっていた。津雲半四郎が「赤備え(武具をすべて赤く染めた)」の武門で鳴らした井伊家を訪れた時も、屋敷の家老をはじめとする用人たちは、津雲半四郎もまたそのような狂言切腹ではないかと思っていた。彼らは、狂言をゆるさずに、なぶって腹を切らせるように仕向けるのである。

 ところが、津雲半四郎はひるむことなく堂々と切腹に臨み、介錯人を指名する。しかし、彼が指名した介錯人はいずれも出仕していなかった。そして、彼の口から言魂がほとばしり出る。

 津雲半四郎には一人の寵愛の娘がいた。名を「美穂」と言う。妻亡きあとで半四郎は「美穂」を育て、浪々の貧しい生活ながらも「美穂」は美しく育った。そして、半四郎の無二の親友の忘れ形見であり、後事を託された千々岩求女と相愛となり、結婚し、男子が生まれた。貧しくささやかながらも幸せな生活が織りなされてきた。しかし、男子が三歳になった時に、「美穂」が血を吐いて倒れてしまったのである。カツカツの生活では薬代を出すこともできない状態に陥ったのである。そして、彼らの子どもも発熱してしまったのである。求女は医者を呼ぶ金を作ると言って出て行った。

 そして、窮した千々岩求女が向かった先が井伊家であり、彼はやむにやまれずに狂言切腹を行うのである。井伊家は、求女が狂言切腹であることを十分承知の上で、よってたかって彼に腹を切らせる。求女は覚悟して、せめて数日待ってくれというが、井伊家の家老をはじめとする用人たちは聞き入れずに、無理やりそう仕向けたのである。その時、求女が差していた脇差は竹光であった。求女は脇差までも売り払って生活を支えていたのである。井伊家は、それが竹光であることを承知の上で、その竹光で彼に腹を切らせたのである。彼らは求女をなぶり殺しにした。「以後のみせしめ」、それが井伊家の言い分であった。

 そして、発熱した男の子は高熱に苛まれて死んでしまい、それから三日後には「美穂」も亡くなってしまった。

 津雲半四郎は、狂言切腹もあさましい所業ではあるが、井伊家の人々の仕打ちも酷い、と言う。「武士たるものが死のどたん場で、恥も外聞もなく、一両日がほどの御猶予を願いたいと訴えたは、よくよくの事情があればこそ、せめて、一言なりとも、いかなる理由あってのことか、問いただすほどの思いやり、方々にはなかったものか」(本書33ページ)と激憤の中で語る。

 半四郎は、求女に竹光で腹を切らせようとよってたかって責め立てた用人たちの髷を切り落として、それから飄然と井伊家に現れたのであった。そして、彼は、それだけを告げると家中の者たちと斬り結び、切り刻まれて死を迎えるのである。それは、あまりにも壮絶である。是も非もない。ただ、武士の一分で一矢報いるだけであるが、わたしには津雲半四郎の口惜しさがよくわかる気がする。

 「貞女の櫛」は、1983年に講談社文庫で出された『葉隠無残』に収められている作品で、『葉隠』の巻九に記載されている田代利右衛門女房という女性に関するエピソードから題材が取られているもので、『葉隠』が貞女の鏡のようにして記している事柄を、不義密通の罪で無礼討ちされた奉公人の純愛として描き出したものである。

 物語は、田代家に奉公人として仕え、機転の利く働き者として重宝されていた巳之吉の遺体が、戸板に乗せられて無残な姿で金立村の実家に運び込まれるところから始まる。無礼討ちをされて首と胴が切り離されたという。田代家に気に入られていた優しい兄が何故こうなったのか。妹の「おくみ」はその理由を知りたいと思った。

 藩内で様々な噂が飛び交う。巳之吉が主人の妻である「夏」に懸想して、主人の留守中に不義密通を迫り、「夏」の機転で物置小屋に閉じ込められ、帰ってきた主人に首をはねられたというのである(『葉隠』巻九はそのように記している)。しかし、兄の巳之吉が不義を働こうとしたことがどうしても信じられない「おくみ」は、田代家を訪れて、「夏」と会い、その真相を聞くのである。「夏」は、藩内でも評判の美人で、溢れるような色気がある女性だった。「夏」は、巳之吉が下男の矩を越えて懸想したと言い張るが、首を切られた巳之吉の顔には満ち足りた安らぎが漂っていた。「おくみ」はその理由を聞く。

 「夏」は、あくまでも奉公人としてではあるが、巳之吉には優しく接していた。その優しさが巳之吉には響いて、一心に「夏」を想うようになっていったのである。そして、巳之吉は、確かに主人の利右衛門が留守の時に、その想いを遂げようとした。そして、「夏」は、貞女として機転を利かせて物置小屋に閉じ込めたのである。だが、閉じ込められた巳之吉は、想いを打ち明け、命を捨てていたのだから、と言い張って、穏便に済ませようとする「夏」の申し出も断り、平然と利右衛門の刀の下に首をさらしたのである。巳之吉は、ただ自分の一途な想いに殉じた。「おくみ」はそのことを知る。不義密通を働こうとした男として噂される巳之吉が、実は、純愛を貫こうとしたことが行間に漂うような作品である。

 短編とは言いながら、ここに収められているのは内容も濃く、また優れた余韻を響かせる作品であり、どれにも切なくてやるせない情景が描かれているので、「謀殺」以降については、また次回に記すことにする。

2012年12月13日木曜日

真野ひろみ『裏葉菊』


 冬晴れの寒い日々が続いている。このところ若干慌ただしい日々になっているが、気分はゆるやかである。ほとんどゆっくりと仕事に向かっているということもあるかもしれない。寒いこともあって机に向かっている時間が長い。

そんな中で、真野ひろみ『裏葉菊』(2001年 講談社)を、ある種の感動を持って読み終えた。この作者の作品は初めてで、奥付によれば、1971年に愛知で生まれて、名古屋大学を卒業後、会社勤務の傍らに小説を書き始められて、講談社が設けていた時代小説大賞の最後の年(1999年)の最終候補となるも、2000年に『雨に紛う』(講談社)で作家デビューされた方らしい。文章は読みやすくて洗練されている。

 『雨に紛う』は、幕末の頃に箱根で散った伊庭八郎の姿を描いたものであるが、『裏葉菊』は、美濃(岐阜県)の郡上藩の「凌霜隊(りょうそうたい)」の姿を背景にして、ひとりの人間の姿を描いたものである。

 「凌霜隊」は、長い間、歴史にその名すら記されることがなかったか、あるいは消されたかしてきた人々で、大正11年(1922年)に発行されている『郡上郡史』には、ただ「佐幕に与する士卒は遂に藩を脱走して他藩の叛徒に党するに至る」とだけしか記されておらず、明治維新の際の反朝廷行動をとった一派としてしか位置づけられていなかった。彼らが転戦した塩原や会津にもその名は記されることがなかったのである。しかし、徐々にその実相が明らかになって、そこには幕末期に置かれた郡上藩四万八千石という小藩の悲劇があったことがわかってきたのである。

 郡上藩(八幡藩ともいう)の最後の藩主青山幸宣(1854-1930年)が父の幸哉の死去に伴って家督を継いだのは9歳の時で、藩政は国家老の鈴木平左衛門や江戸家老の朝比奈藤兵衛によって行われていた。青山家はもともと徳川幕府の譜代大名で、藩も最初は徳川幕府を支持する佐幕派であったが、大政奉還(1867年 慶応3年)、北辰戦争(1868年)と続く政治の激変の中で、藩内は佐幕か勤王かで二分され、地理的にも京都に近いことから国元では尊王派に傾き、2月には新政府への恭順を示した。藩主の幸宣はまだ14歳に過ぎなかった。しかし、江戸藩邸では徳川家への恩顧を唱える勢力が圧倒的に強かった。ちなみに、現在の東京の青山は、この青山家の上屋敷があったことからこの地名になったのである。

 鳥羽伏見の戦いで薩摩・長州連合軍に錦の御旗が下されたとはいえ、情勢は不鮮明で、小藩に過ぎなかった郡上藩青山家は、生き残りをかけて、表向きは新政府軍への忠誠を示しながらも、幕府が復興したときのために、江戸詰めの藩士たちを脱藩という形で密かに会津へと送って、いわば二股政策を行ったのである。脱藩と会津支援は、いわば藩命であったのであり、この時に会津に向かったのは四十数名で、江戸家老朝比奈藤兵衛の息子の朝比奈茂吉を隊長にして、青山家の家紋が葉菊であることから、葉菊が霜を凌いで花を咲かせるという意味で、隊名を「凌霜隊」としたのである。これは、言うまでもなく苦境の中を忍耐していくという彼らの強い意志を示す隊名である。この時、隊長となった朝比奈茂吉は若干17歳の少年であった。

 本書の表題が「裏葉菊」とされているのは、郡上藩の藩命でありながらも表に出すことができないという「凌霜隊」の存在そのものを適切に表すものだと思われる。

 「凌霜隊」一行は江戸湾から船で海路を北上しようとするが嵐のために千葉の行徳に上陸し、前橋に行き、そこから陸路を辿って会津に向かった。途中、小山で戦い、宇都宮では元幕府歩兵隊長であった大鳥圭介の下で激戦を繰り広げた。大鳥圭介のまずい指揮もあり、苦境に陥ることもしばしばあったが、激戦を繰り返して日光街道から塩原に向かう。そこで会津軍と合流し、塩原温泉守備を行うが、次第に新政府軍に押されて、横川、田島、大内峠で新政府軍と激戦を展開した。

 「凌霜隊」は、弱冠17歳の朝比奈茂吉の下でよく統率され、乱暴や略奪を働くこともなく、特に塩原温泉守備の時は、土地の人たちにも慕われて、祭りの時などは郡上八幡の盆踊りなども披露したりして、町の多くの人々から尊敬もされていたという。しかし、新政府軍は迫り、その塩原温泉も引き払わなければなくなり、会津藩は塩原温泉の家々が新政府軍に使われないために全ての家の焼き討ちをして撤退することを命じるのである。

 しかし、朝比奈茂吉以下の「凌霜隊」は、世話になった塩原温泉の家屋を焼き払うにしのびなく、せめて彼らが滞在した和泉屋と丸屋だけは残したいと、後に再建できるように丁寧に解体し、また妙雲寺は塩原の人々が雨露を凌ぐ場所として、この妙雲寺にあった天井板の菊の紋章に×印をつけただけで、近くの畑に薪を積んで焼いて会津藩の目を盗んで残した。この和泉屋と丸屋は後に再建され旅館として現存しているし、この時に妙雲寺を焼かなかったことが、後に彼らの命を救うことにつながっている。

 「凌霜隊」は、その後、激戦を繰り返しながら会津に撤退し、篭城戦に入っていた会津若松鶴ヶ城に入り、白虎隊とともに防戦したが、ついに会津降伏となり、彼らは捕縛されて江戸に送られ、罪人として旧郡上藩に預けられ投獄され、郡上八幡に罪人として護送される。その時、隊長であった17歳の朝比奈茂吉が入れられた唐丸篭には「朝敵之首謀者・朝比奈茂吉」と大書された札がつけられていたという。その時は既に二十数名になっていた。

 郡上八幡に送られた彼らは、罪人同様の厳しい環境の「揚げ屋(牢獄)」に入れられ、やがて全員に死罪の判決が出る。元々、密かにではあったが藩命として会津に転戦したのだが、元国家老で新政府の大参事となっていた鈴木平左衛門は、新政府におもねるために「凌霜隊」が藩意であったのをひた隠して、その罪を江戸家老の朝比奈藤兵衛に負わせ、「凌霜隊」の抹殺を図ったのである。江戸を出て2年に渡る厳しい牢獄での生活が続いた。

 その頃、塩原妙雲寺の住職の塩渓が「凌霜隊」が寺を焼失から守ってくれたことを京都の本山である妙心寺に伝え、妙心寺は隊士たちに礼を言うように郡上八幡の末寺である慈恩寺に伝えた、慈恩寺の住職の淅炊(せきすい)は、「凌霜隊」の隊士たちが罪人として禁錮されていることを知り、本山の妙心寺に後押しを受けて、郡上内の寺に呼びかけ助命嘆願の動きを始め、宗派を越えた支援の輪が広がっていった。藩庁に出向いた淅炊は、鈴木平左衛門の処置を東京の政府にまで言いに行くとまで言う。こうして、明治2年秋に「凌霜隊」の禁錮が解けて自宅謹慎となり、翌明治3年春に彼らは赦免となったのである。

 「凌霜隊」は、郡上藩存続のための犠牲部隊であり、本書ではそれを「人柱」として展開していくが、作者は、この「凌霜隊」の歴史を見事に掘り起こし、それぞれの場での「人柱」となった人間の姿を展開する。作中の主人公森嶋胖之助(もりしま はんのすけ)と彼が手を着けてしまって孕ませた女中の「おつる」以外はすべて実名で登場する。

 物語は、森嶋家の次男としての少年胖之助の中途半端に置かれたやりきれなさから始まる。家督を継いだ兄は、大政奉還後の揺れ動く藩内で勤王派としての活動を始めていたが、胖之助は、徳川家の譜代大名としての郡上藩青山家の「忠」を心に抱いていた。勤王派と佐幕派の幕末を揺るがした対立は、森嶋家の兄と弟の対立でもあった。

 加えて、森嶋家の中で唯一自分を認めてくれていた兄嫁が長女の出産と共に死に、兄は生まれた長女を抱く事もなく冷たい仕打ちをしているように思われた。胖之助はやり場のない憤りを感じて自暴自棄となり、学問所も剣術の修行も途中でやめ、誰にも認められない「鼻つまみ者」としての日々を過ごし、その鬱憤を、女中の「おつる」を無理やり犯すことで晴らしていた。

 時代は大きく揺れ動き、藩内における国元の勤王派と江戸藩邸の佐幕派の対立も激化していく。そして、彼の友人で江戸詰めをしていた山脇鍬橘(くわきち)が国元に帰ってきた。大阪城にいた前将軍の徳川慶喜からの郡上藩青山家への援軍要請に応えるために江戸詰めの藩士と国元の人数を加えて大阪城に向かうためであった。ところが、大阪城の徳川慶喜自身が大阪城から逃げのびたので、彼らは出陣することなく、勤王派の多い国元に宙に浮いた形で留まらざるを得なくなるのである。江戸詰めであった藩士たちは、徳川家への恩顧の「忠義」を唱える熱烈な佐幕派だったのである。

 彼らは国家老の鈴木平左衛門から密かに呼び出されて、脱藩し、江戸に向かう。その時、主人公の森嶋胖之助は、鬱憤晴らしに手篭めにしていた女中の「おつる」から妊娠を告げられ、堕ろしてしまえと言い捨てていた。そして、脱藩組と共に彼も脱藩し、江戸で「凌霜隊」の一員となっていくのである。彼だけが脱藩と「凌霜隊」の結成が藩命によるものとは知らずにいた。こうして、「凌霜隊」での各地ので激戦を経験していくのである。

 そして、この経験によって、森嶋胖之助は自分がいかに「おつる」に対してひどいことをしたのかに気づき、死地の中で「凌霜隊」の仲間たちを失いながら人間としての成長をしていくのである。彼は人間としての柔らかみを取り戻していく。「凌霜隊」の各地での転戦が丁寧に語られ、そして敗れ、彼らは罪人として国元に返されて、過酷な「揚屋(牢獄)」での日々が続く。藩の手のひらを返したような仕打ちの中で、森崎胖之助は、これが判明に由ったことを知らされ、自分たちが「人柱」であったことを知らされていくのである。彼らは獄中死をするように仕向けられていた。

 作品では、森嶋家が胖之助の脱藩と朝敵となったことで減俸され、実家に返されていた「おつる」が野菜売となって彼らが入れられている「揚屋」に来ていることが分かり、事実を記した書面を「おつる」の手を経て密かに慈恩寺の住職の淅炊(せきすい)に届け、そこから彼らの赦免につながっていったことになっている。「おつる」は自分をひどい目に合わせた胖之助のために郡上内の寺々を回り、彼らの赦免のために懸命に動いたのである。

 こうして、彼らは赦免され、胖之助は「おつる」に詫びを入れて、夫婦になろうと言い出すが、「おつる」は一人で生きていく決心をするのである。「おつる」が身篭った子は、胖之助の母親の機転で無事に生まれていた。物語は、自由になった朝比奈茂吉が椋原義彦と名を変えて彦根に向かうところで終わる。

 物語の中で、郡上八幡の日本一美しい山城と言われる八幡城の築城の際に「人柱」が建てられたことが触れられ、森嶋胖之助の「人柱」になった「おつる」、郡上藩の「人柱」になった「凌霜隊」が重ねられていく。しかし、「おつる」も「凌霜隊」も「ただ一筋の道」を歩んでいくのである。

 物語の中で、「凌霜隊」の一員であった岡本文造が自分たちを助けてくれた「おつる」に贈った誌が記され、「梅は白雪を凌ぎて 十分に香し」の言葉が記されている。この言葉が全てを物語っていると思う。

 ちなみに、この言葉で北宋の詩人であった王安石の梅を歌った「寒を凌ぎて独り自ら開く」を思い起こした。この歌は、長く心に留めていたいと思っている。『裏葉菊』は、その文学性以上に優れた作品だと思う。

2012年12月10日月曜日

千野隆司『菊月の香 蕎麦売り平次郎人情帖』


 晴れてはいるが寒い。日本海や北日本では大荒れで、昨日は近畿地方も雪が降ったと伝えられたが、北風が吹いて、街路樹の銀杏もほとんどが散ってしまった。

 昨夜は、ほとんど眠りながらではあったが、千野隆司『菊月の香 蕎麦売り平次郎人情帖』(2011年 角川春樹事務所 ハルキ(時代小説)文庫)を一息に読んだ。文庫本のカバーや巻末の広告によれば、これがシリーズ化されたものの第二作目で、主人公の菊園平次郎は、元南町奉行所定町廻り同心だったが、逆恨みした罪人の息子から妻と娘を殺され、同心をやめて、貧乏裏店に住みながら屋台の蕎麦売りをしている五十一歳の男である。第一作は読んでいないが、第一作ではおそらくあのあたりの事情が展開されているのだろうと思う。本シリーズは、その蕎麦売りの平次郎が数々の事件に関わりながら人々の人情の機微を描き出したものである。本作には、「おん富一番」、「月の岬」、「菊月の香」の三編が収められている。

 「おん富一番」は、表題のとおり富くじにまつわる話で、平次郎と同じ貧乏長屋に住む付け木売りの老婆「お舟」が仲間内で集まって買った芝明神宮の富くじで三等を当て、六両一分という大金を手にした後の顛末を描いたものだが、身寄りもなく老いた「お舟」の心意気のようなものが描かれていく。

 「お舟」は、火事で亭主と息子を同時に亡くしていた。彼女の息子には「お篠」という夫婦約束をした娘がいたが、「お舟」の甥の須磨吉というのが「お篠」に手を出し、そのために二人は別れたのである。しかし、火事の夜に、その「お篠」の身を案じて助けに行った「お舟」の息子は、火事場にいた「お篠」を助けたが自分は火に巻かれて死んでしまったのである。「お舟」は、「お篠」が息子を死に追いやったことで「お篠」を恨んでいた。

 「お舟」が富くじを当てたという評判を聞きつけて、その須磨吉が金を目当てに「お舟」のところにやてくる。そして、あの「お篠」が、今は岡場所で労咳を病んで死ぬばかりになっていることを告げる。「お篠」は身を持ち崩していた。

 「お舟」の様子を案じた平次郎は、「お篠」の行くへを探し出し、「お舟」が当てた富くじの金額で「お篠」を身請けするようにしていくのである。「お舟」は、自分の息子が命がけで助けた女として、「お篠」を引き受け、その最後を看取っていくのである。

 第二話「月の岬」は、平次郎の屋台にときおり汗まみれの銭を握りしめて蕎麦を喰いに来る「丑」という物貰いの男の話である。「丑」は、あちこちの神社や寺の床下で寝起きしながら物貰いをして生きている男だが、素性はさっぱりわからなかった。

 その「丑」が、あるとき腹痛を起こして蹲って死にかけているところを呉服屋の若旦那の宗太郎が通りかかり、彼を助ける。宗太郎は商売にも身が入らずに遊びまわり、土地の高利貸しから大金を借りて吉原の遊女を見受けして妾として囲っていたりする男であったが、なぜか「丑」を助けるのである。

 その宗太郎に金を貸していた高利貸しの女房は、やがて借金が膨らんで呉服屋がもっていた別邸を奪い取ろうとしていたのである。

 そういう背景の中で、一人のヤクザ者のような男が平次郎の屋台に蕎麦を食べに来て、「丑」のことを探るということが起こる。気になった平次郎はその男の素性を探るうちに、それが宗太郎を罠にはめて別荘を奪い取ろうとしている金貸しの女房から遣わされたものであることを突き止め、その金貸しの女房の素性を探っていくことになる。

 彼女は、流行りの料理屋の娘であったが、彼女が嫁に出た後、彼女の父親が店の造りに金をかけ、その金を借金し、その借金相手が店を奪い取ろうと手を回したために店が潰れてしまい、父親は首をくくり、母親は心労で死んでしまっていた。彼女には弟がいたが、その弟は、母親が死んだ後に店を奪い取った男を刺して行くへをくらましていた。そして、今の亭主と再婚した後で弟を探していたのである。

 そして、その探していた弟が、物貰いをしている「丑」であった。彼女は弟の「丑」を探し出し、世話をしようとする。だが、「丑」は、姉が自分の命を助けた宗太郎を嵌めて別荘を奪い取ろうとしていることを知り、宗太郎に真実を告げて、彼を罠から助け出すのである。怒った姉は「丑」を追い出し、「丑」は元の物貰いになってしまうが、そこは姉と弟、やがてうまくいくに違いないというところで話が落ち着いていく。

 第三話「菊月の香」は、自分の友人の罪をかぶっていく飾り職人の話で、嘉吉は、愚鈍だが真面目一筋で、兄弟子たちのいじめにも耐えて飾り職人としての修行を積み、ようやく独り立ちできるようになっていた。ところが、仕事帰りの時に、かつて同じ飾り職人の弟子であり兄弟子と喧嘩したためにやめてぐれていた宇三郎を見かけ、彼が綿問屋の主人を殺すところに出くわすのである。宇三郎は逃げ、嘉吉は綿問屋主人殺害の犯人として捕まってしまう。そして、自分が犯人だと自供し、言い張るのである。

 事件の探索に当たった南町奉行所定町廻り同心北原佐之助は、犯人だと自供した嘉吉の人柄や生活ぶりから、どうしても彼が犯人だとは思えずに、先輩であった平次郎に相談に来る。北原佐之助は平次郎の娘と言い交わした仲であったが、娘が殺され、平次郎が奉行所同心を辞めたあとも、時折、平次郎の屋台に蕎麦を食べにきたりして、繋がりを持ち続けていた。

 平次郎は嘉吉の身辺を探索すると同時に、彼が弟子時代に唯一友人であったという宇三郎に行き当たり、宇三郎の身辺を探る。宇三郎の女房は彼らが弟子時代を過ごした飾り職人に親方の家の女中であった女性で、愚鈍だということで兄弟子たちからいじめられる吉吉を宇三郎と共にかばったりしていた女性であった。そして、宇三郎が兄弟子と喧嘩をしたのも、実は、嘉吉がひどくいじめられ、宇三郎がそれに腹を立てたからであった。宇三郎は腕がよく、将来を嘱望されていたのだが、それだけに嘉吉は宇三郎に恩義を感じていたし、宇三郎の女房になった女中にも密かな想いを抱いていた。宇三郎が殺人犯として捕まれば、その女房も不幸になることを怖れて、嘉吉は宇三郎をかばっていたのである。

 平次郎が調べていくうちに、綿問屋殺害に使われた匕首の持ち主が次第にわかっていく。それは宇三郎のものではなく、宇三郎の兄貴分の男のものであったのである。その裏には地回り(ヤクザ者)どうしの争いが絡んでいたのであり、殺された綿問屋は地回りの金主だったのである。

 てっきり宇三郎が殺したものと思って、彼をかばっていた嘉吉は、そのことを知らされて、真実が明白となり、宇三郎の女房への幸せを密そかに願いながら生きていくようになるということで結末を迎えていく。

 このシリーズには、平次郎や彼を慕っている揚げ物やをしている元下っぴき、同人の北原佐之助、平次郎が蕎麦を仕入れる五郎作とその娘「繍」などが登場し、特に「繍」は平次郎が微かに想いを抱き始めている女性で、蕎麦打ちに精を出していたりする。

 ここに収録されている物語のそれぞれの事件で取り扱われる人物たちは、第一話の「お舟」にしろ、第二話の「丑」や第三話の嘉吉にしろ、いずれも市井の片隅で生きている人間であるが、その展開があまりにストレートすぎる、あるいは「純」すぎるきらいがないでもない。作者は、作中人物を縦横に動かせ、江戸の町を詳細に描き、その描写も巧みであり、詳細な展開や日常の描写も優れて描き出す技量をもっているが、全体の筋があまりにも「きれい」すぎる気がしないでもないのである。「美しすぎると人間の真実を見失う」という思いを、つい抱いてしまうほどであった。

 とはいえ、書き慣れた作品であり、一息に読めるほどの展開を見せる面白い作品であると思っている。

2012年12月7日金曜日

吉川英治『神変麝香猫』


 冬の晴れた寒い日になった。冬の太平洋沿岸らしい天気で、少し強い北風に黄金色の銀杏の葉が舞い落ち続けている。

 『剣難女難』に続いて、全集の第1巻に収められている吉川英治『神変麝香猫』(1967年 吉川英治全集1 講談社)を読んだ。

『神変麝香猫』は、1926年(大正15年)に『講談倶楽部』に発表された作品で、島原の乱後の江戸を舞台にし、島原の乱と由井正雪の乱を絡ませて、徳川幕府に反旗を翻していく者たちと、彼らが反旗を翻さねければならなかった心情を理解しながらもそれを阻止していく者たちとの闘いを中心に据えながら、伝奇的ロマンを要素にして活劇譚として描き出したものである。

 もちろん、島原の乱(1637-1638 寛永14-15年)と由井正雪の乱(慶安の変-1651年 慶安4年)は歴史的事件であるから、当然、実在した人物たちが出てくるが、中心となるのはキリシタン大名であった高山右近(1552-1615年 1614年-慶長19年に国外追放)の娘で美貌の「お林」と柳生兵庫助(作中では兵庫、尾張柳生の祖となった柳生利巌 1579-1650年)の子で、夢想小天治と名乗る柳生道之助である。「お林」も柳生道之助も作者の創作した人物である。

 「お林」は、キリシタンであることを嫌って父親の高山右近が国外追放にあった時に、国内に残って、密かに長崎で育てられ、キリシタンではなかったがキリシタン弾圧の手を逃れ山中で生活し、その間に武芸を取得したが、島原の乱の時に兄と慕った天草四郎時貞を殺されて多くのキリシタンが殺されていくのを経験した女性で、自らも一度は捕縛されて背中に十字架の焼印を押された娘として設定されている。多くの無辜の民が殺されたことへの復讐に燃えている美貌の女性である。彼女は猫を自由に扱うことができ、麝香の香りを漂わせていることから「麝香猫」と呼ばれている。

 柳生道之助は、腕利きの剣士であるが、素行が悪くて勘当され、「夢想小天治」と名乗って浅草の侠客「矢大臣の双兵衛」の家に引き取られている若侍で、無聊を囲っていた彼が「お林」の復讐劇に巻き込まれていくのである。

 物語は、島原の乱で天草四郎時貞の首を取ったと言われる細川家の足軽だった陣佐左衛門への「お林」の復讐劇から始まっていく。陣佐左衛門はその武功により三百石を賜るようになったが、その陣佐左衛門を「お林」が湯女となって女の色香で篭絡していくのである。その湯屋にたまたまいたのが夢想小天治こと柳生道之助で、彼はその不思議な女性の正体に興味を惹かれて、事件に入り込んでいく。

 「お林」のもとには、兵学者であり武芸の熟達者である「画猫道人」を名乗る会津宗因と、親がキリシタンであったために殺されて天涯孤児となった身の軽い「むささび小僧」がいて、島原の乱の残党たちも集まっていた。「画猫道人」は「お林」の育ての親であり、また優れた軍師でもあった。

 「お林」はその素性を初めから夢想小天治に明らかにし、堂々と渡り合っていく。「お林」が使った銀の簪にマリア像が彫られていたことで、キリシタンと関連があることがわかっていたからである。マリア像が彫られた「お林」の銀簪を手にした小天治は、事柄が大きいことをかんがみて、島原の乱で軍目付として働いた牧野伝蔵成純に相談し、牧野伝蔵は蟄居中であったにもかかわらず、松平伊豆守信綱に密かに相談に行く。

 ちなみに、牧野成純は島原の乱の時にエラスムス像を持ち帰ったと言われる。そのエラスムスの像は、現在、重要文化財として国立博物館に収められている。そのように、彼は今後のためにキリシタンの資料を集めたが、それがあまりに多かったために幕府からキリシタンに傾いているのではないかと疑われて蟄居を命じられたのである。

 物語では、その牧野伝蔵(成純)から話を聞いた松平伊豆守信綱は、夢想小天治こと柳生道之助に今後の探索を依頼し、小天治と「お林」は互いに敵味方になっていく。

 やがて、「お林」は色香で虜にした陣佐左衛門の首をはね、将軍家光の気鬱を紛らすために江戸城で行われる能舞台の舞手に化けて、江戸城内に入る。このあたりの方法も詳細に展開されていくが、それを察した老中松平伊豆守信綱がこれを密かに阻止しようと小天治に防御を依頼する。だが、「お林」ら一派は、江戸城に作られていた抜け穴を利用して、江戸城のご金蔵からまんまと軍資金として一万両を奪い取り、しかも江戸城の抜け穴の詳細を記した秘図である「黒縄巻」を奪い取っていくのである。

 「黒縄巻」は、「お林」の手から「むささび小僧」に渡されるが、「むささび小僧」が逃げる途中で、小天治が厄介になっている「矢大臣の双兵衛」の手に渡り、「矢大臣の双兵衛」は、それとは知らずに「黒縄巻」をもったまま富士講に出かけていく。

 ここで、幕府転覆を企む由井正雪が登場する。由井正雪は、「お林」が「黒縄巻」を手に入れたことを知っており、江戸城の抜け穴を記した「黒縄巻」を狙っていたのである。こうして、「黒縄巻」を巡って、「お林」たち、夢想小天治たち、そして由井正雪たちの三つ巴の戦いが始まっていくのである。由井正雪と共に行動した槍の丸橋忠弥は、浪人者として「画猫道人」の隣で槍術を見世物にして糊口をしのいでいたが、いつの間にか「お林」の一派となっていた。彼は由井正雪の手先として潜り込んだのでいたのであった。

 「矢大臣の双兵衛」の手元にあった「黒縄巻」は、それから持ち主が変転していく。物語は、この「黒縄巻」を巡って展開されていくが、「矢大臣の双兵衛」は、富士講に出かけて彼を追ってきた由井正雪の手によって殺され、「黒縄巻」は由井正雪の手に渡る。しかし、夢想小天治はそれを激闘の末に再び取り戻すのである。こうして「黒縄巻」は再び江戸へ運ばれるが、その途中で摺りに取られてしまい、それが再び麝香猫の「お林」の手に渡るのである。

 他方、島原の乱以後精神の均衡を欠いてきた徳川家光は、能舞台が行われた日に「お林」に脅されてさらにキリシタンを恐るようになり、禁教の令をさらに厳しくして取締に当たらせていたが、彼の精神は一層壊れかけていく。そして、それは「精神が剛」ではないからという理由で側近たちが手はずを整えた辻斬りへと進んでいくのである。辻斬りのつの味をしめた家光は夜な夜な辻斬りを繰り返す。そこを麝香猫の「お林」につけこまれ、ついに辻斬りの現場で麝香猫の「お林」に捕らえられてしまう。

 家光の行くへはようとして知れない。小天治も別方面からの探索に出たたま行くへがしれなくなっていた。松平伊豆守信綱は家光を探すために江戸城からの抜け道の一つである武蔵野に出、また、小天治を案じた柳生飛騨守宗冬も蟄居中でキリシタンに詳しい牧野伝蔵成純を訪ねて相談し、武蔵野の一角に不思議な屋敷が建てられたことを知り、それを探して武蔵野へ出る。こうして、舞台は武蔵野(荻窪あたり)に移る。麝香猫の「お林」が画猫道人の知恵で建てた仕掛け屋敷がそこにあったのである。

 家光はその屋敷の中で囚われ、小天治もまたその仕掛けに落ちて捕らえられていた。松平伊豆守はそこで出会った牧野伝蔵と共に小天治を助け出していくが、以前から自分が行ったことによってさらにキリシタンたちが苦しめられていることを知った麝香猫の「お林」は、事ここに至って覚悟を決め、家光、松平伊豆守にキリシタン政策を改めることを約させて。一党を解散し、家光を開放して自ら縛につく。

 松平伊豆守は、麝香猫の「お林」に約した通り、牧野伝蔵の手を借りてキリシタン政策を次々と改め、ここに「お林」の目的は達成された。「お林」や画猫道人は死罪を覚悟していたが、事柄を公にすることを避けたかった松平伊豆守は、家光の内意を受けて彼らを解放し、やがて、「お林」、画猫道人、「むささび小僧」は、「お林」の父親であった高山右近が最後を迎えたマカオへと船出していくのである。いつしか、「お林」に想いを寄せるようになっていた小天治が見送りに来る。「お林」も小天治への想いを抱くようになっていたが、二人は今生の別れをして物語が閉じる。

 冒険譚あり、活劇あり、政治の抗争あり、人情も恋もある。そして、苦しめられる者の悲しみや欲で動く者がある。島原の乱後という政治的、社会的状況が物語のリアリティを醸しだし、次々と波乱の展開がなされて、誠に絶妙な物語である。もちろん、作品として欲を言えばきりがないが、松平伊豆守などを苦慮する人間として描き出すあたりはさすがである。歴史に対する観点がしっかりしているのでなおのことである。読んで、「あ~、面白かった」というのが先に来る。そして、面白いだけでは意味がないが、面白くない作品は小説とは言えないのだから、小説の真髄がここにあると言える気がする。

2012年12月5日水曜日

吉川英治『剣難女難』(2)


 午後から曇の予報も出ていたが、よく晴れ渡っている。冬眠の季節に入ったのか、このところすこぶる眠い。昨日、ミスタードーナツが配布している来年の手帳を頂いたので、来年はこれでいこうと、少し決定している来年の予定を書き込んでいた。もちろん、命があればの話ではある。

 さて、吉川英治『剣難女難』(1967年 吉川英治全集1 講談社)の続きであるが、福知山の城主松平忠房は、捕らえた大月玄蕃を春日重蔵と「千浪」に引き渡して、見事に仇討ちを果たさせると約束するが、そこで再び隣国の大藩である京極家との争いが起こってしまう。大月玄蕃は京極家に再仕官を許された身であり、これを引き渡せと幕府老中に手を回して要求してきたのである。仇討ちはまたしても不可能となった。松平忠房は止むなく大月玄蕃を京極家に返すが、しかし、それを知った新九郎が、身を持ち崩していたとは言え、単身で京極家江戸家老の屋敷に忍び込んで、見事に大月玄蕃の首をはね、その首をもって松平家下屋敷に行く。

 だが、狼藉を働かれたとして京極家は新九郎の切腹を要求してくる。新九郎は切腹も覚悟するが、その時に、兄の重蔵が身代わりとなって切腹し、新九郎に立ち直ることを願うのである。兄の死は、新九郎にとって衝撃となり、新九郎は立ち直ることを約束して、酒と女に溺れた日々を断ち切って、再び山篭りの荒修行へと出かけていく。

 そして、その修行の中で、老神官と出会い、彼から秘剣を習うのである。その老神官こそ、鐘巻自斎が長年探し求めていた師であり、新九郎は自斎を上回る剣技を身につけていく。

 かつて新九郎を虜にした「光子の御方」も、こうした新九郎の姿にうたれ、自分の思いを断ち切って、将軍の側室となっている妹を通じて、将軍鷹狩りの場での新九郎と鐘巻自斎の試合を整えていくのである。新九郎は松平家、鐘巻自斎は京極家のそれぞれの剣客として試合に望む。そして、堂々とした試合の中で、新九郎はついに鐘巻自斎に勝利する。

 試合後、敗れた京極家は、負けたことに我慢がならずに新九郎を闇討ちしようとするが、自分が求めていた秘剣によって敗れた鐘巻自斎も新九郎に助勢し、新九郎に成長して欲しいと願っていたと心情を露吐し、新九郎は自斎の真の姿を知って、彼を師と仰ぐようになっていく。

 こうして、春日新九郎は、ひとりの優れた武士となり、「千浪」と共に郷里に向かい、様々なことを画策した京極家はお取り潰しになるのである。そして、「光子の御方」も尼となり、新九郎と「千浪」を祝福して。、物語が終わる。

 こうした息をもつかせぬ波乱の展開の中で、活劇譚として、ひとりの人間が、堕落から立ち直って成長していく姿が描かれているのだが、ここには大名家同士の争いや侠客同士の争い、そして男と女の愛情などがふんだんに盛り込まれて、ひとつの時代小説の典型を築いていると言えるだろう。

 御前試合などを含めて多くは作者の創作で、たとえば丹後宮津藩の京極家が取り潰されたのは3代藩主であった京極高国(1616-1676年)が、隠居した父の高広の藩政への口出しに我慢がならずに激しく対立し、また、年貢が収められない村を取り潰すなどの悪政を強いたことが理由である。ただ、この時宮津城の受け取り役を務めたのが、当時丹波福知山藩主であった松平忠房(1619-1700年)であった。京極家との争いがあったのは、それより前の宮津藩2代目藩主の京極高広と寛永元年(1624年)に福知山藩主となった稲葉紀通(1603-1648年・・彼は悪政をしき、後に鉄砲自殺する)である。

したがって、時代背景が歴史的事象とは異なっているのだが、創作された事柄が「ありうる」設定になっているために無理なく面白く読めるのである。面白さの点では頭抜けており、吉川英治の「すごさ」のようなものを感じながら楽しく読めた一冊である。

2012年12月3日月曜日

吉川英治『剣難女難』(1)


 師走の声を聞くようになってしまった。昨日からひどく寒い。今も冷たい雨が落ちそうである。アドベントの季節に入ったので、普段よりも一層心を鎮めて一歩一歩の日々を過ごしたいと思う。

先日、あざみ野の山内図書館に行った折に、1967年に講談社から発行された吉川英治全集があるのを見かけ、その第1巻目を借りてきた。この全集には解題もなにもなくて、その作品がいつごろ書かれてどこに発表されたのかもわからないが、二段組で全集としての読み応えはあり、作品を愉しむには十分だろうと思う。

 その全集の第1巻に収められている『剣難女難』(1967年 吉川英治全集1 講談社)を、物語手法の巧さを感じながら面白く読んだ。吉川英治の作品は、事柄が無駄なく連続して展開の妙は卓越している。そして、人間の描き方がストレートだから、楽しみながら読むには優れていいと改めて思う。

 『剣難女難』は、吉川英治が初めてこの名を使い、1925年(大正14年)に創刊された『キング』に連載されて、本格的な作家の道を歩み始めた作品で、1926年に講談社からまとめられて出版されたものである。この翌年に、先に読んだ『鳴門秘帖』が連載され、気鋭の作家としての人気を博していくのである。吉川英治33歳の時の作品である。

 『剣難女難』は、軟弱に育った武士の成長物語である。表題通り、剣難と女難が次々と襲いかかっていくというもので、時に発奮したり、時に堕落したりしながら、紆余曲折を経てひとりの人間になっていく物語と言えるだろう。

 主人公の春日新九郎は、幼い頃に母が辻占で「剣難女難の相」があると見立てられ、一切の剣技から遠ざかって、剣を見るだけでも身震いがするほどの軟弱な青年に育っていったが、町道場を開く兄の重蔵は優れた剣技の持ち主だった。あるとき、大津の京極家の剣術指南役である大月玄蕃という男に襲われていた正木千浪という娘を兄の重蔵が助けたことから新九郎と千浪は恋仲となっていくが、京極家との剣術試合で兄の重蔵の足が京極家の助太刀として雇われた剣の名手であった鐘巻自斎に打ち砕かれ、仇を果たすほどの腕もない新九郎は千浪と心中しようとする。彼はそれほどの軟弱な精神の持ち主だった。

 だが、そこに千浪を狙う大月玄蕃が現れ、彼らを襲ったために二人は激流に飛び込んでしまうのである。春日新九郎は、川の中から助けられ、そこで養生するうちに、悄然と自らを省みて、兄を負かした鐘巻自斎を打ち負かして無念を晴らす決意をし、剣の道を進もうとする。これまで竹刀を握ったこともなかったが、決意だけはあり、しかも天分が彼にはあったのである。

 武者修行の旅の途中で、野伏(山賊)のような振る舞いをして娘を拐かそうとする一団に果敢に戦いを挑むが投槍の名手である西塔小六に敗れ、山中に捕らえられてしまう。ところが、その一団の頭の愛妾であった「お延」に一目で惚れられてしまい、それが彼の女難の始めとなる。しかし、「お延」の手引きでそこを逃れることができたが、「お延」に邪な想いをもっていた西塔小六に襲われ、新九郎はまたしても崖下に転落し、「お延」は小六の女になって山を下る。

 崖下に転落した新九郎は、村落の百姓に助けられ、再び武者修行をするが、剣の腕はなかなか上達しない。試合を挑んで散々な目に合う。しかし、心中を企てた時に死んだと思っていた「千浪」も助けられ、遊郭に売り飛ばされようとしていたところに行き合って彼女を助け、郷里から出てきていた任侠の親分とも会い、江戸で修行を積む道が開かれていくのである。「千浪」は任侠の親分と共に郷里に帰り、新九郎の大願成就を待つことにする。

 江戸で任侠の親分の家に厄介になりながら、そこにいた用心棒の金井一角に体術を習いながら日々を過ごすが、実は、その金井一角は対立する別の任侠から送り込まれた人物で、新九郎は任侠どうしの縄張り争いに巻き込まれていくのである。彼は大川の船上で金井一角と組合い、そのまま大川に流されてしまう。まさに流転の人生である。

 そのころ福井に戻っていた大月玄蕃は、「千浪」の父親を闇討にかけて殺し、「千浪」と新九郎の兄の春日重蔵はその仇討ちに出ることになり、大月玄蕃の後を追う。しかし、碓氷峠で待ち受けていた大月玄蕃によって返り討ちにあいそうになる。だが、そこに居合わせた鐘巻自斎によって助けられ、重蔵は自斎が一流の剣客であり、また武士の心根を正しく持った人物であるっことを知り、鐘巻自斎もまた、新九郎が立ち直っていたことを喜んで、新九郎が修練を積むまで待つと語り、「千浪」と重蔵は江戸に向かうことにするのである。

 他方、大川に落ちた新九郎は、船遊びをしていた下冷泉家の娘「光子(てるこ)の御方」に助けられる。これが彼の第二の女難の始まりで、「光子の御方」は、妹が四代将軍家綱の愛妾となったことから江戸に出てきて御船手屋敷を拝領し、好き勝手に暮らしていたのである。「光子の御方」は、助けた新九郎に惚れ、手練手管を使って彼を篭絡していくのである。
 しかし、鐘巻自斎に一手を打ち込み無念を晴らすという大願成就を抱いた新九郎は、御船手屋敷を出て、小野派一刀流の道場に入門して剣を習うことにする。そこで水汲みから床掃除までの下働きをしながら精進していくが、いっこうに腕が上がらず、そうしているうちに道場主の客人として鐘巻自斎がやってきて、彼に試合を望む。道場主でさえ自斎には一歩譲らねばならぬ程の腕を持つ自斎に新九郎がかなうはずもなく、彼は敗れ、道場の規則を破った不届き者ということで破門されてしまうのである。

 彼は自斎にはとうていかなわないと萎縮してしまうが、そこに江戸に出てきた時に厄介になっていた任侠の子分たちが行き合わせる。彼が世話になった任侠の親分は、敵対していた他の任侠のもとに転がり込んでいた金井一角、槍投げの小六、大月玄蕃によって東海道の山中で殺され、子分たちはその仇を討とうと江戸に出てきたところだった。その話をしているところを金井一角らに襲われる。しかし、いくばくかでも小野道場で修行を積んだ新九郎は見事に金井一角を討ち取ることができた。だが、彼が金井一角を追い詰めた先にいた武家侠客に捕らえられてしまう。

 ところが、新九郎に惚れていた「光子の御方」が彼を奪い返し、彼は再び彼女の御船手屋敷で暮らすことになるのである。そして、「光子の御方」は妖艶で、彼はついにその陶酔の酒に溺れていくのである。金も酒も女もある。しかも、目的とした鐘巻自斎にはとうていかなわない。彼はその中で自堕落にふけり、身を持ち崩していく。彼はそこで、かつて山中で彼を逃した「お延」とも会い、自堕落に自堕落を重ねていく。世話になった任侠の親分の仇討ち騒ぎで投槍の小六を仕留めることはできたが、彼の自堕落な酒浸りの生活は続いていく。

 江戸に出てきた虚無僧姿の「千浪」と兄の重蔵が武家侠客に言いがかりをつけられ、襲われているところを新九郎は助けたが、名乗りを上げることができず、自分の不甲斐なさを恥じて詫び状をしたためただけであった。「千浪」と重蔵は、新九郎が堕落してしまったことを知り、悲嘆にくれるが、新九郎は「光子の御方」の甘美さから逃れることができないでいた。しかし、体面を壊された武家侠客が御船手屋敷を襲い、焼け落ちる屋敷の中から新九郎は逃げのび、「光子の御方」も、嫉妬心で「お延」を殺してからその場を逃げる。

 他方、大月玄蕃の行くへを探していた「千浪」と重蔵は、大月玄蕃が元の京極家の江戸家老の家に入っていくのを見かけ、彼を討とうとする。だが、重蔵の足は悪く、「千浪」は女で、とうてい大月玄蕃の敵てはない。だが、大月玄蕃はそのころ元の京極家への士官の話が進んでおり、騒動を起こすことができないから逃げる。しかし、逃げる途中で大名の行列と行き会ってしまい、その大名に捕らえられる。その大名が、なんと、郷里福知山の城主松平忠房であった。忠房は、二人をあっぱれと認めて仇討ち免状を出した人物であり、新九郎の大願も知っていた。大月玄蕃は、松平家の下屋敷に捕らえられることになるのである。

 はてさて、波乱万丈の展開。文章の歯切れの良さと展開の絶妙さが相まって、物語が進み、いいよ佳境へと向かっていく。自堕落に陥ってしまった春日新九郎はどうなるのか、そういう興味に引き込まれていくような展開になり、任侠どうしの争い、大名の争い、男と女、そうしたことが絡みながら進んでいくのである。面白いの一言に尽き、物語小説、かくありなんとも思う。人間の成長の記録が本筋として記されていくのもしっかりした構成を思わせる。長くなるので、物語の続きは次回に記すことにする。