2012年12月10日月曜日

千野隆司『菊月の香 蕎麦売り平次郎人情帖』


 晴れてはいるが寒い。日本海や北日本では大荒れで、昨日は近畿地方も雪が降ったと伝えられたが、北風が吹いて、街路樹の銀杏もほとんどが散ってしまった。

 昨夜は、ほとんど眠りながらではあったが、千野隆司『菊月の香 蕎麦売り平次郎人情帖』(2011年 角川春樹事務所 ハルキ(時代小説)文庫)を一息に読んだ。文庫本のカバーや巻末の広告によれば、これがシリーズ化されたものの第二作目で、主人公の菊園平次郎は、元南町奉行所定町廻り同心だったが、逆恨みした罪人の息子から妻と娘を殺され、同心をやめて、貧乏裏店に住みながら屋台の蕎麦売りをしている五十一歳の男である。第一作は読んでいないが、第一作ではおそらくあのあたりの事情が展開されているのだろうと思う。本シリーズは、その蕎麦売りの平次郎が数々の事件に関わりながら人々の人情の機微を描き出したものである。本作には、「おん富一番」、「月の岬」、「菊月の香」の三編が収められている。

 「おん富一番」は、表題のとおり富くじにまつわる話で、平次郎と同じ貧乏長屋に住む付け木売りの老婆「お舟」が仲間内で集まって買った芝明神宮の富くじで三等を当て、六両一分という大金を手にした後の顛末を描いたものだが、身寄りもなく老いた「お舟」の心意気のようなものが描かれていく。

 「お舟」は、火事で亭主と息子を同時に亡くしていた。彼女の息子には「お篠」という夫婦約束をした娘がいたが、「お舟」の甥の須磨吉というのが「お篠」に手を出し、そのために二人は別れたのである。しかし、火事の夜に、その「お篠」の身を案じて助けに行った「お舟」の息子は、火事場にいた「お篠」を助けたが自分は火に巻かれて死んでしまったのである。「お舟」は、「お篠」が息子を死に追いやったことで「お篠」を恨んでいた。

 「お舟」が富くじを当てたという評判を聞きつけて、その須磨吉が金を目当てに「お舟」のところにやてくる。そして、あの「お篠」が、今は岡場所で労咳を病んで死ぬばかりになっていることを告げる。「お篠」は身を持ち崩していた。

 「お舟」の様子を案じた平次郎は、「お篠」の行くへを探し出し、「お舟」が当てた富くじの金額で「お篠」を身請けするようにしていくのである。「お舟」は、自分の息子が命がけで助けた女として、「お篠」を引き受け、その最後を看取っていくのである。

 第二話「月の岬」は、平次郎の屋台にときおり汗まみれの銭を握りしめて蕎麦を喰いに来る「丑」という物貰いの男の話である。「丑」は、あちこちの神社や寺の床下で寝起きしながら物貰いをして生きている男だが、素性はさっぱりわからなかった。

 その「丑」が、あるとき腹痛を起こして蹲って死にかけているところを呉服屋の若旦那の宗太郎が通りかかり、彼を助ける。宗太郎は商売にも身が入らずに遊びまわり、土地の高利貸しから大金を借りて吉原の遊女を見受けして妾として囲っていたりする男であったが、なぜか「丑」を助けるのである。

 その宗太郎に金を貸していた高利貸しの女房は、やがて借金が膨らんで呉服屋がもっていた別邸を奪い取ろうとしていたのである。

 そういう背景の中で、一人のヤクザ者のような男が平次郎の屋台に蕎麦を食べに来て、「丑」のことを探るということが起こる。気になった平次郎はその男の素性を探るうちに、それが宗太郎を罠にはめて別荘を奪い取ろうとしている金貸しの女房から遣わされたものであることを突き止め、その金貸しの女房の素性を探っていくことになる。

 彼女は、流行りの料理屋の娘であったが、彼女が嫁に出た後、彼女の父親が店の造りに金をかけ、その金を借金し、その借金相手が店を奪い取ろうと手を回したために店が潰れてしまい、父親は首をくくり、母親は心労で死んでしまっていた。彼女には弟がいたが、その弟は、母親が死んだ後に店を奪い取った男を刺して行くへをくらましていた。そして、今の亭主と再婚した後で弟を探していたのである。

 そして、その探していた弟が、物貰いをしている「丑」であった。彼女は弟の「丑」を探し出し、世話をしようとする。だが、「丑」は、姉が自分の命を助けた宗太郎を嵌めて別荘を奪い取ろうとしていることを知り、宗太郎に真実を告げて、彼を罠から助け出すのである。怒った姉は「丑」を追い出し、「丑」は元の物貰いになってしまうが、そこは姉と弟、やがてうまくいくに違いないというところで話が落ち着いていく。

 第三話「菊月の香」は、自分の友人の罪をかぶっていく飾り職人の話で、嘉吉は、愚鈍だが真面目一筋で、兄弟子たちのいじめにも耐えて飾り職人としての修行を積み、ようやく独り立ちできるようになっていた。ところが、仕事帰りの時に、かつて同じ飾り職人の弟子であり兄弟子と喧嘩したためにやめてぐれていた宇三郎を見かけ、彼が綿問屋の主人を殺すところに出くわすのである。宇三郎は逃げ、嘉吉は綿問屋主人殺害の犯人として捕まってしまう。そして、自分が犯人だと自供し、言い張るのである。

 事件の探索に当たった南町奉行所定町廻り同心北原佐之助は、犯人だと自供した嘉吉の人柄や生活ぶりから、どうしても彼が犯人だとは思えずに、先輩であった平次郎に相談に来る。北原佐之助は平次郎の娘と言い交わした仲であったが、娘が殺され、平次郎が奉行所同心を辞めたあとも、時折、平次郎の屋台に蕎麦を食べにきたりして、繋がりを持ち続けていた。

 平次郎は嘉吉の身辺を探索すると同時に、彼が弟子時代に唯一友人であったという宇三郎に行き当たり、宇三郎の身辺を探る。宇三郎の女房は彼らが弟子時代を過ごした飾り職人に親方の家の女中であった女性で、愚鈍だということで兄弟子たちからいじめられる吉吉を宇三郎と共にかばったりしていた女性であった。そして、宇三郎が兄弟子と喧嘩をしたのも、実は、嘉吉がひどくいじめられ、宇三郎がそれに腹を立てたからであった。宇三郎は腕がよく、将来を嘱望されていたのだが、それだけに嘉吉は宇三郎に恩義を感じていたし、宇三郎の女房になった女中にも密かな想いを抱いていた。宇三郎が殺人犯として捕まれば、その女房も不幸になることを怖れて、嘉吉は宇三郎をかばっていたのである。

 平次郎が調べていくうちに、綿問屋殺害に使われた匕首の持ち主が次第にわかっていく。それは宇三郎のものではなく、宇三郎の兄貴分の男のものであったのである。その裏には地回り(ヤクザ者)どうしの争いが絡んでいたのであり、殺された綿問屋は地回りの金主だったのである。

 てっきり宇三郎が殺したものと思って、彼をかばっていた嘉吉は、そのことを知らされて、真実が明白となり、宇三郎の女房への幸せを密そかに願いながら生きていくようになるということで結末を迎えていく。

 このシリーズには、平次郎や彼を慕っている揚げ物やをしている元下っぴき、同人の北原佐之助、平次郎が蕎麦を仕入れる五郎作とその娘「繍」などが登場し、特に「繍」は平次郎が微かに想いを抱き始めている女性で、蕎麦打ちに精を出していたりする。

 ここに収録されている物語のそれぞれの事件で取り扱われる人物たちは、第一話の「お舟」にしろ、第二話の「丑」や第三話の嘉吉にしろ、いずれも市井の片隅で生きている人間であるが、その展開があまりにストレートすぎる、あるいは「純」すぎるきらいがないでもない。作者は、作中人物を縦横に動かせ、江戸の町を詳細に描き、その描写も巧みであり、詳細な展開や日常の描写も優れて描き出す技量をもっているが、全体の筋があまりにも「きれい」すぎる気がしないでもないのである。「美しすぎると人間の真実を見失う」という思いを、つい抱いてしまうほどであった。

 とはいえ、書き慣れた作品であり、一息に読めるほどの展開を見せる面白い作品であると思っている。

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