午後から曇の予報も出ていたが、よく晴れ渡っている。冬眠の季節に入ったのか、このところすこぶる眠い。昨日、ミスタードーナツが配布している来年の手帳を頂いたので、来年はこれでいこうと、少し決定している来年の予定を書き込んでいた。もちろん、命があればの話ではある。
さて、吉川英治『剣難女難』(1967年 吉川英治全集1 講談社)の続きであるが、福知山の城主松平忠房は、捕らえた大月玄蕃を春日重蔵と「千浪」に引き渡して、見事に仇討ちを果たさせると約束するが、そこで再び隣国の大藩である京極家との争いが起こってしまう。大月玄蕃は京極家に再仕官を許された身であり、これを引き渡せと幕府老中に手を回して要求してきたのである。仇討ちはまたしても不可能となった。松平忠房は止むなく大月玄蕃を京極家に返すが、しかし、それを知った新九郎が、身を持ち崩していたとは言え、単身で京極家江戸家老の屋敷に忍び込んで、見事に大月玄蕃の首をはね、その首をもって松平家下屋敷に行く。
だが、狼藉を働かれたとして京極家は新九郎の切腹を要求してくる。新九郎は切腹も覚悟するが、その時に、兄の重蔵が身代わりとなって切腹し、新九郎に立ち直ることを願うのである。兄の死は、新九郎にとって衝撃となり、新九郎は立ち直ることを約束して、酒と女に溺れた日々を断ち切って、再び山篭りの荒修行へと出かけていく。
そして、その修行の中で、老神官と出会い、彼から秘剣を習うのである。その老神官こそ、鐘巻自斎が長年探し求めていた師であり、新九郎は自斎を上回る剣技を身につけていく。
かつて新九郎を虜にした「光子の御方」も、こうした新九郎の姿にうたれ、自分の思いを断ち切って、将軍の側室となっている妹を通じて、将軍鷹狩りの場での新九郎と鐘巻自斎の試合を整えていくのである。新九郎は松平家、鐘巻自斎は京極家のそれぞれの剣客として試合に望む。そして、堂々とした試合の中で、新九郎はついに鐘巻自斎に勝利する。
試合後、敗れた京極家は、負けたことに我慢がならずに新九郎を闇討ちしようとするが、自分が求めていた秘剣によって敗れた鐘巻自斎も新九郎に助勢し、新九郎に成長して欲しいと願っていたと心情を露吐し、新九郎は自斎の真の姿を知って、彼を師と仰ぐようになっていく。
こうして、春日新九郎は、ひとりの優れた武士となり、「千浪」と共に郷里に向かい、様々なことを画策した京極家はお取り潰しになるのである。そして、「光子の御方」も尼となり、新九郎と「千浪」を祝福して。、物語が終わる。
こうした息をもつかせぬ波乱の展開の中で、活劇譚として、ひとりの人間が、堕落から立ち直って成長していく姿が描かれているのだが、ここには大名家同士の争いや侠客同士の争い、そして男と女の愛情などがふんだんに盛り込まれて、ひとつの時代小説の典型を築いていると言えるだろう。
御前試合などを含めて多くは作者の創作で、たとえば丹後宮津藩の京極家が取り潰されたのは3代藩主であった京極高国(1616-1676年)が、隠居した父の高広の藩政への口出しに我慢がならずに激しく対立し、また、年貢が収められない村を取り潰すなどの悪政を強いたことが理由である。ただ、この時宮津城の受け取り役を務めたのが、当時丹波福知山藩主であった松平忠房(1619-1700年)であった。京極家との争いがあったのは、それより前の宮津藩2代目藩主の京極高広と寛永元年(1624年)に福知山藩主となった稲葉紀通(1603-1648年・・彼は悪政をしき、後に鉄砲自殺する)である。
したがって、時代背景が歴史的事象とは異なっているのだが、創作された事柄が「ありうる」設定になっているために無理なく面白く読めるのである。面白さの点では頭抜けており、吉川英治の「すごさ」のようなものを感じながら楽しく読めた一冊である。
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