2012年12月21日金曜日

滝口康彦『一命』(3)

 寒い日々になっている。いよいよクリスマスや年末が近づき、流石に少し慌ただしくなっているのだが、この忙しなさも、あと一週間ほどだろう。

 滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)について3回目になるが、作者が作家デビューした「高柳親子」が書かれた1957年頃は、ちょうど、日本が敗戦の混乱から抜け出そうとした時で、朝鮮戦争によってもたらされた経済成長が始まりかけた頃であった。世を上げて上昇志向が席巻していった時代で、状況に合わせて考え方や生き方をころころと変えていく人々も幅を利かせ始めていた。

 おそらく、滝口康彦は佐賀の炭鉱労働者として働きながら、この作品の執筆に取り掛かっていたのではないかと思うが、炭鉱労働者という過酷な生活の中でこれだけの質の高い作品を書いたことに、わたしは、まず深い敬意を表したいと思っている。

 物語は、第二代小城藩主であった鍋島直能(なおよし 16231689年)の臨終の場面から始まる。小城藩は、初代佐賀藩主鍋島勝茂(勝茂は戦国武将として著名な鍋島直茂の長男)の長男であった鍋島元茂が肥前領内の佐嘉郡・小城郡・松浦郡の七万三千石を与えられたことから始まる佐賀藩の支藩であった。元茂の母親が女中であったことから、彼は、長男でありながらも佐賀藩を継げずに、祖父の直茂の領地を分けられ、分家となったのである。

 その元茂の長男であった直能は、文人肌の人物で、和歌などにも堪能であり、京都の公家たちとも親交があった人であるが、本藩である佐賀藩の干渉を受けて、1679年(延宝7年)に次男の元武に家督を譲って隠居させられた。そして、1681年(天和元年)に出家している。

 その直能の臨終に際して、高柳外記が追腹を切って殉死すると主張するのである。江戸時代の初期頃まで、武家社会の「忠」の証として主君の死に殉死するということが、まるで当たり前にようにして、異常にもてはやされていた。大名間で殉死者の数を誇ったりすることも起こったし、殉死した家は加増されて生活が保証されていたので、特に主君の側近たちは「忠義」の証の殉死を重んじたのである。殉死が強要される風潮があり、有為な若者が死んでいくことも度々起こった。殉死は武家の美徳としてもてはやされたのである。

 しかし、こういう風潮を一掃したかった江戸幕府は、まず、1663年に禁止し、五代将軍綱吉の時代に武家諸法度を改訂した「天和令」によって正式に文書として殉死の禁止を発令した。佐賀藩では、これに先駆けて初代藩主の鍋島勝茂が殉死の禁止を打ち出して、江戸幕府の殉死禁止令に影響を与えたと言われているが、それだけに、小城藩では殉死は忌避すべきことであったのである。殉死者を出すことは藩の取り潰しにも繋がることであった。

 だが、鍋島直能の死に際して、高柳外記は殉死することを主張し、臨終の間に詰めるのである。そこには、高柳外記の壮烈な思いがあった。

 外記の父の高柳織部は、初代小城藩主鍋島元茂に仕え、島原の乱にも出陣し、才色兼備の気骨のある者として元茂に高く評価され、元茂の寵愛を受けていた。柳生宗矩に剣を学んでいた鍋島元茂は、高柳織部にその兵法を教えたりもしていた。織部は「剛の者」だったのである。そして、その元茂が死去した際、追腹を切っての殉死はまだ美徳とされており、側近の数名が割腹して殉死した。だが、もっとも篤く藩主の覚えが目出度かった高柳織部は殉死の道を選ばずに生きていた。織部三十歳である。織部は、まだ若い頃に「追腹を喜ばれるような殿ならば、ご奉仕はご免こうむる」と豪語していた。

 高柳織部は、殉死を考えなかったわけではない。否、むしろ、元茂に殉じることは自然のことだと思っていた。しかし、高柳織部が殉死しないことを騒ぎ出している連中がいることを知り、その軽挙妄動が有為の人間を殺していることに腹を立てて、あえて殉死の道を選ばなかったのである。

 しかし、考えもなしに世の風潮に踊らされて殉死を強要する人々は、高柳織部を激しく非難し、ついには夜襲をかけてきた。そこには藩の老臣たちの意向も働いており、彼は言っても仕方がないことだと悟って、塀にもたれて立ったまま「これは殉死ではない」と語って腹を切るのである。しかし、夜襲をかけてその壮絶な最後を見たはずの者たちは、なお、主君の厚恩を忘れ、武士道を踏みはずして、詰め腹を切らされた不覚者として、織部に汚名を着せたのである。織部の子高柳外記は「不覚者の子」として蔑まれた。織部を襲った者の中には、妻の兄も含まれていたし、後の藩の重臣となった者もいた。

 その彼らが、藩主鍋島直能の死に際して追腹を切って殉死すると言い張る高柳外記を、今度は、殉死は武家諸法度の中で禁じられていると主張して彼の殉死を止めようとするのである。父織部への行為を「時世がそうさせた」と言い放つのである。

 外記には妻もなく、母と二人暮らしであり、自ら胸を病んでいた。彼の脳裏に老いた母の不安げな顔が思い浮かぶが、いよいよ直能が死去した時に、隣室に詰めて見事に腹を切るのである。藩の体裁上、彼の死は乱心として取り扱われた。「外記の死骸は、乱心として下げ渡された」(本書184ページ)の一文で終わる。

 この作品は、戦争体験をした作者の戦後の変節ぶりに対する痛烈な批判でもある。しかし、それだけではなく、時流に流され、あたかも時代や社会状況を分析して、それに応じて生きることを是とするような在り方に対する深い反省を促すものでもある。転身が意味を持つのは、ただ悔い改めが行われた場合だけであって、それは変節とは異なる。しかし、今も「時流を読む、状況を判断する」という美名のもとで安々と変節を行うような変節漢が多いのも事実であろう。

 「拝領妻始末」は、美しい物語である。本作も『上意討ち 拝領妻始末』と題して、小林正樹監督、橋本忍脚本、三船敏郎主演で映画化された作品で、会津藩保科松平家の第3代藩主の松平正容(まさかた 16691731年)の側室であった「いち」を巡る物語である。

 ちなみに、松平正容は、第3代将軍徳川家光の異母弟で、最も優れた人物であった保科正之の六男であったが、長男、次男、三男と早世したために第2代藩主となった四男の保科正経に子がなく、正経の養嗣子となり、第3代藩主となり、徳川家から松平姓の永代使用を許された。

 その正容の側室「いち」は、容貞(かたさだ 17241750年 第4代藩主)を生むが、正容の寵愛が他の新しい側室に移ったために、家臣の笹原与五郎に下げ渡される。主君の側室が家臣の妻として下げ渡されるということは度々起こっていた。権力者はそれを横暴なこととか非人間的なこととかは思わなかったのである。下げ渡された妻は「拝領妻」と呼ばれたが、たいていは主君の側室であったという見高な思いをもっていたために、家臣の家でも同じように振舞ってしまい、夫婦仲というものさえなかったのが普通であった。

 正容は「いち」の以前にも側室を「拝領妻」として家臣に下げ渡し、その下げ渡された妻がことあるごとに夫を軽蔑して罵り、ついには破綻したということが起こっていた。それゆえ、笹原家ではそれを固く辞退しようとしたが、藩命であり、しかも与五郎自身が「いち」を妻として迎えることを承諾した。

 「いち」は与五郎の妻となり、笹原家の予想に反して慎ましやかであり、謙虚であった。しかし、与五郎の母は、それが気に入らずに陰湿な嫁いびりを繰り返した。「いち」はそれにも文句ひとつ言わずに耐えた。

「いち」は、十六歳の時に、突然、五十を過ぎた藩主の正容がその美貌に執心し、男の子をもうけるために無理やり側室に上げられたのである。「いち」には許嫁がいたが、許嫁は加増されるために「いち」を捨て、また、「いち」の父親も出世のために「いち」が側室になることを望み、それ以外の道を塞がれて側室となった。そして、悲しみを胸に秘めたたま一子を生んだ。だが、正容に新しい側室ができ、彼女はお払い箱となったのである。

 しかし、与五郎は妻となった「いち」に「そなたが殿にあいそづかしをされたおかげで、、わたしはよい女房がもらえた」と言う(本書197ページ)。「いち」は、そんな与五郎の妻となって、初めて深い愛情に包まれるのである。与五郎との間に一女が与えられ、幸せが続いた。

 だが、正容の世子が夭折し、「いち」が生んだ容貞が保科松平家の嗣子となった。「いち」は世子の母となるわけで、次期藩主の母が家臣の妻であるのは具合が悪いことになる。藩主の用人たちや家老などが、「いち」を返上するように笹原家に迫る。与五郎の母は、相変わらず嫁いびりをするが、与五郎の父は、「いち」に味方し、与五郎もまた、その藩の意向を拒否し、たとえ家が潰されようとも「いち」を守ると言う。

 藩から笹原家へ圧力がかかり、与五郎の母も弟も、与五郎にはやく「いち」を返上するように言う。親戚一同も、「いち」の父親も、「いち」の返上を強く求めるが、与五郎と与五郎の父は家を取り潰しても「いち」を守ろうとする。「いち」もまた行く気はない。

 しかし、与五郎の弟が「いち」を騙して連れ出し、「いち」はそのまま家老の家の奥座敷に監禁されるのである。そして、与五郎の元に戻るならば、与五郎を切腹させると脅す。「いち」は泣く泣く戻ることを承諾する。そして、家老の申しつけで与五郎に「いち」の返上願いを書くように与五郎に迫る。それがすべてを丸く収める道だという。だが、与五郎は断固としてこれを断る。

 これを聞いて藩主の正容は、「君命に従わなかった」ということで、与五郎と父に対して、知行召しあげ、永押し込め(監禁)の刑を下すのである。そしてまた、世子の母として奥に引き戻されたが、「いち」は、そのような扱いを受けず、母子の名乗りをすることもなく、老女(奥女中)として扱われる。正容が世子の母としての扱いをゆるさなかったのである。

 やがて、その正容が死に、「いち」も血を吐いて奥づとめから身を引き、ついに死を迎えたのである。そして、彼女の黒髪が押し込められている与五郎のもとに届けられたのである。

 こういう内容をもつ「拝領妻始末」は、政治的、あるいは社会的なことで振り回される中で、人としての意地を貫き通し、そしてそのことによって愛を高めた人間の物語なのである。与五郎と「いち」は、ほんの短い間しか一緒にいることができなかったが、彼らは決して不幸ではなかった。与五郎の父もそうである。彼らが受けた処遇は酷かったが、彼らには命を充実させるものがずっとあったからである。人は、それがあれば「生きた」と言えるのである。

 本書に収められている短編は、いずれも、政治や社会や周囲の人々に翻弄される状況の中で人として失ってはならない矜持を貫き、一瞬の光を放っていった人の姿である。短編がその「一瞬の光」を描ききっているとき、それを優れた短編と言う。本作はその優れた短編集である。

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