2012年2月29日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集6 鬼麿斬人剣』

目覚めたら一面真っ白な雪景色が広がり、街並みが白く煙って、今もしんしんと雪が舞い落ちている。積雪もかなりあって、横浜では今年いちばんの大雪だろう。車も人通りも少ない。こんな日は、炬燵で雪見酒でも静かに飲むのがいいかもしれないと思いつつ、朝から仕事にせいを出していた。

昨夕、隆慶一郎『隆慶一郎全集6 鬼麿斬人剣』(2009年 新潮社)を面白く読み終わった。先に、この全集の第一巻『吉原御免状』を読んで、「山の民(山窩―さんか)」を自由の民として描き出したり、徳川の幕閣と、独自の形態をもった遊郭である吉原の攻防を自由のための闘いとしてエンターテイメントの要素も加えて描き出したりして、味わい深く読んでいたので、この全集を読むことにしていたが、第二巻から第五巻までは『影武者徳川家康』で、読むのに少し時間がかかりそうなので、先に、この第六巻『鬼麿斬人剣』を読むことにした。

本書には、表題の『鬼麿斬人剣』と『狼の眼』、『異説 猿ヶ辻の変』、『死出の雪』の三編の短編が収められている。

最初の長編『鬼麿斬人剣』は、四谷正宗と呼ばれた江戸時代の不世出の名刀鍛冶であった山浦清麿の弟子の鬼麿という人物を主人公にした冒険活劇譚である。1986年(昭和61年)の「小説新潮」3月号から3ヵ月ごとに1987年(昭和62年)4月号まで掲載されたもので、巻末の縄田一男の「解題」に、作者自身が1986年(昭和61年)の雑誌「波」2月号で本書の構想を次のように語っているのが紹介されている。少し長くなるが、本書の内容もよく表していると思われるので抜き書きしておく。

「四谷正宗と謳われた不世出の刀鍛冶がいまして、これが水もしたたる美男子で剣術もかなり強かった。彼は、天保十三年の春に突然江戸を出奔して、その年の春には長州萩に現れている。出奔の理由も、どこをどう旅したのかも判らない。しかも、嘉永七年、ペリー来航の翌年に、便所の中で腹をかき切って四十二歳で死んでいる。
この清麿のことを一番最初に書いたのは吉川英治さんだったと思いますが、吉川さんの書いたのは全くのフィクションで、清麿研究家が怒ってしまったということがあるんです。余り清麿人気が高いものだから、彼をストレートに書くとまた抵抗が生じると思って、その弟子を主人公にしたんです。
弟子の鬼麿は巨漢で、三尺二寸五分という異例に長い刀を持っている。試し斬りの達人で、これがまためっぽう強い。この鬼麿が清麿の遺志で、中山道、野麦街道、丹波路、山陰道と師の足跡をたどりながら、清麿が路銀のために打った出来の悪い刀を、数打ちというんですが、それを一本、一本、折っていくという話です」(本書428-429ページ)

そして、縄田一男は、この作品の「解題」として、清麿を扱った吉川英治の作品『山浦清麿』が昭和13年という当時の時局を反映したもので、隆慶一郎は、この作品で清麿の江戸出奔の理由として、清麿の家が四谷北伊賀町の伊賀者組屋敷の側にあったことから発想して、将軍家斉の側室となった伊賀者組頭の娘との不義密通というところに求めたのではないかと記している。こういうところは、本書の「解題」として非常に優れている。隆慶一郎は、清麿の自死が、酒毒のために手が使えなくなり、そのため満足のいく刀を打つことができなくなって、刀鍛冶としての誇りから自分の姿に耐えきれなくなったとしている。実際、山浦清麿は、誇り高い人間で、刀工としても相当の自負があった人である。

清麿は美男子で、行く先々で酒と女がつきまとうが、本書での弟子の鬼麿は、その名の通りの巨漢でいかつい男として設定されている。また、彼は、幼児の時に厳寒の山中に捨てられ、備わった生命力のたくましさで生きのび、山窩の一族に助けられて育てられ、自由人として生きのびる術や知識を身につけ、通常の倫理観やしきたりなどに捕らわれない自由人の気質を全面的に押し出していくような人物として設定されている。

山窩の一族のもとを出た鬼麿が、盗みなどをして生きのびていた少年のころに、山陰道を放浪していた清麿と出会い、彼の弟子となり、刀鍛冶として修業していく中で、試し斬りの腕も磨き、背中を後ろにそらす奇妙な格好ながらも剣術の抜群の達人となっていたという設定で、その鬼麿が便所で腹を切った師の清麿の最後に立ち会って、路銀のために数打ちしてしまった駄作の刀が残っていては恥だから、これを探し出して折ってくれという遺言を聞き、その遺志を果たすために江戸を出るところから始まっていく。

他方、清麿が不義密通をした家斉の側室の父親である伊賀者の組頭は、自分の娘の不義を隠すために清麿を殺そうと狙っていたが、清麿にことごとくはね除けられ、その清麿自身が死に、次に「四谷正宗」と呼ばれるほどの名刀工となった清麿の名を辱めるために彼が数打ちした駄作の刀を探し出して、これを公にすることへと恨みを変えていく。

かくして、清麿の駄作を求めて、鬼麿と伊賀者との争いが始まっていくのである。こうして舞台は中山道、野麦街道、丹波路へと移っていき、その場所それぞれで、清麿の駄作を探し出そうとする鬼麿の姿や、それを奪い取ろうとする伊賀者との闘いが展開されていき、途中で拾った山窩の子どもや彼を追いかけてきた伊賀者組頭の娘「おりん」との出会いや、「おりん」が鬼麿のとりこになっていくことなどがエンターテイメントの要素たっぷりに描かれていく。

最後の舞台となるのは、朝廷と繋がりをもつことで幕府の統制外に置かれた「かやの里」と呼ばれる一種の桃源郷であるが、これは、第一巻で記された自由の民の砦としての吉原に繋がるものであろう。こうした理想郷のような世界は他の作品でも現れるが、こうした世界を作者が理想としてもっていたこと、それが作品をさらに面白いものにしていることを改めて思ったりした。なにせ、面白い。つくづくそう思う。

『狼の眼』は、1988年(昭和63年)に「小説新潮臨時増刊号」1月号に発表された作品で、ふとしたことで刃傷沙汰を起こしたために放逐の身となった秋山要助という剣客が、次第に身を持ち崩して放浪生活をする中で多くの人間を斬り、やくざなどから「人斬り要助」と恐れられるようになって、獲物を狙う「狼の眼」のような眼をするようになり、やがて、自分が放逐される原因となったのが、兄弟子の謀略であったことを知り、自分を嵌めた兄弟子に復讐をする話である。

『異説 猿ヶ辻の変』は、同じ1988年(昭和63年)「別冊歴史読本・時代小説特集号」に発表された作品で、幕末の暗殺事件でも大きな影響を与えた姉小路公知(あねがこうじ きんとも)の暗殺事件を取り扱ったものである。

姉小路公知(1840-1863年)は、幕末の公家の中で三条実美とともに攘夷派の急先鋒であったが、1863年(文久3年)に京都禁裏朔平門外の猿ヶ辻で何者かに襲われて死去した人である。その事件は、残された証拠から薩摩藩の「人斬り新兵衛」と言われた田中新兵衛が捕らえられるが、新兵衛が自害したために真相が不明のままになっている事件である。

本書では、そこに土佐藩の攘夷論者で土佐勤王党を組織した武市半平太瑞山と三条実美の策謀があり、田中新兵衛は自死したのではなく、武市半平太の意を受けた岡田以蔵が殺したのではないかとの説をとっている。いずれにしても、この事件が幕末と維新の姿を大きく変えたのは事実で、当時、政治的な策謀が渦巻き、醜い争いが繰り返されていた。こういう事件を考えると、策謀に走る人間の愚かさと哀れさを感じるだけだが、作者も同じように感じた気がしないでもない。

『死出の雪』は、1989年(平成元年)「別冊歴史読本・時代小説特集号7」に発表された作品で、「崇禅寺馬場の仇討ち事件」を描いたものである。「崇禅寺馬場の仇討ち事件」というのは、浄瑠璃などでもよく上演されるが、1715年(正徳5年)11月に摂津国西成郡(現:大阪府)の崇禅寺の松林の中で起こった仇討ち事件で、大和国(現:奈良県)郡山藩の槍術師範であった遠城治郞左衛門の子である治左衛門と安藤喜八郎の兄弟が、弟宗左衛門の仇である生田伝八郎を討とうとして、反対に返り討ちにあった事件である。

この作品の中で、最初に生田伝八郎に殺された宗左衛門を鼻持ちならない傲慢な若者として描き、怖いもの知らずで無思慮、暴力を笠に着るようなつまらない人間として描き、その母親の単なる溺愛が子に事件を招き、生田伝八郎も返り討ちにあった遠城治左衛門も安藤喜八郎も、共に、どうにもならない現状を黙って受けて、武士としてその「儀」を果たして死んでいったものとして描き出されている。この視点も、作者ならではの視点だろうと思う。

しかし、これらの短編よりも、やはり長編の方が作者の力量がもっとも発揮されているように感じた。もちろん、短編も優れているし、その歴史解釈も面白い。だが、作者は、やはり、本質的に物語作家ではないだろうか。まだ数作品しか読んでいないが、そんな気がする。

2012年2月27日月曜日

山本周五郎『新潮記』

再び寒さが戻ってきて、今週は水曜日頃まで寒いらしい。雲が薄く広がっている。植物に水をやり、いくつか片づけなければならない物をぼんやり眺めたりしていた。

 週末から日曜日の夜にかけて、山本周五郎『新潮記』(1985年 新潮文庫)を読んだので記しておく。本書の巻末に収められている奥野健夫の「解説」によれば、本書は、昭和18年(1943年)に北海タイムス(現:北海道新聞)に連載された小説で、作者40歳の時の作品となる。太平洋戦争の末期で、戦後も作者は生前にこの作品の刊行を許可しなかったそうで、奥野健夫はその理由を文学上の問題としてあげているが、わたしはむしろ、この作品の中に描かれている勤王思想と皇国思想に、戦後の山本周五郎が自戒的なものを感じていたのではないかと思っている。

 本書は、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた藤田東湖が水戸に在住しているところが描かれているので、嘉永3年(1850年)頃の時代を背景として、その中で自らの生き方を求めていく青年武士の姿を描いたものである。ちょうど、古いものと新しいものが相克している時代で、その意味で、新しい流れとして『新潮記』という表題がつけられているのだろう。

 本書の主人公は、水戸の徳川家と姻戚関係などで親密であった讃岐の高松藩松平家の藩士で、高松藩の中で尊皇攘夷思想の中心的人物である校川宗兵衛の妾腹の子である早水秀之進という青年である。彼は、学業も優秀で、剣の腕も藩内で並ぶ者がないほど優れていたが、自分が庶子(妾腹の子)で、父親からも捨てられたのではないかと思い、何事にも冷ややかで、人を突き放してしまうようなところのある青年だった。

 だが、その彼の優れたところを見抜き、行動を共にするのが、藩内尊王攘夷派を経済的に支えた豪商「太橋家」の次男の太橋大助で、大助自身も優秀であり、また、困った人を助けずにはおれないような人情家であった。この二人がそれぞれに自分の人生を模索していく姿が描き出されているのである。

 水戸徳川家と高松藩松平家は、養子を交換するなどしてきて特別に親密であったが、高松藩松平家の頼胤(よりたね)が幕府の重臣となり、叔父であった水戸の徳川斉昭の引退を計らねばならなくなり(「申辰の事」と呼ばれる)、両家に齟齬が生じてしまったのである。水戸の徳川斉昭に信服し、国許で隠棲している頼胤の兄の頼該(よりかね)は、高松藩松平家と弟の頼胤のことを思いやってなんとか水戸藩と高松藩の間を取りもとうと斉昭のもとに書を送りたいと願い、その密使として早水秀之進を選んで送り出すのである。

 早水秀之進と太橋大助は水戸に向かう途中で、突然、山開き前の嵐の富士山に登ることにし、そこで尊皇攘夷思想を持って脱藩し、瀕死の状態になった兄と彼を看病している藤尾という娘と出会うところから物語が始まっていくのである。厳寒の富士への登山というのが、いわば、主人公たちのこれからの歩みの象徴でもあるだろう。冷徹な早水秀之進は登山の後もさっさと下山していくが、人情家の太橋大助は、その兄妹が気になり、結局、瀕死だった兄の死を看取り、妹を連れて江戸まで向かう。そして、知り合いの人情本作家である竹亭寒笑や彼が引き取っている元名妓の梅八などに彼女を託して世話をしていくのである。

 だが、早水秀之進は、江戸で実父の校川宗兵衛と会うが、激烈な尊皇攘夷思想の持ち主である校川宗兵衛と親子の情を交わすこともできずに、迷いの中に置かれ、校川宗兵衛の手紙をもらって水戸の藤田東湖を尋ねるのである。ただ、江戸屋敷に泊まった夜、深夜に「ゆるせ」という校川宗兵衛の言葉を部屋越しに聞くのである。

 途中で、頼該の意を阻止しようとする刺客との死闘などもあったが、水戸で藤田東湖に出会った早水秀之進は、東湖の人柄に深く感銘を受ける。思想よりもむしろその人柄に感銘を受け、水戸の時代は終わり、新しい時代の潮流の中に身を置いていくことを決心していくのである。そして、身寄りのない藤尾と結婚し、ひとりの無名の人間として新しい時代の幕開けを志そうとする。

 本書の大筋は、こんなところである。ただ、皇国思想を真正面から取り上げているだけに、主人公や東湖などの登場人物たちの思想(考え)が長饒舌で述べられたり、純粋さということではうなずけるのだが、その思想もいささか「青臭い」ところがあったりして、必ずしも物語の展開が十分な形で昇華されていないところも感じた。

 しかし、描写は抜群で、いくつか抜き書きしておこう。

 まず、主人公が北浦の海岸で海を望んだとき、「この大洋のかなたに亜米利加あり」を実感した時の海の描写が次のように記されている。

 「吹きわたって来る風は海の青に染まっているかと思われ、むせるほども潮の香に満ちていた。眼もとどかぬ沖のかなたで盛りあがる波は、運命のようにじりじりと、高く低くたゆたいつつ寄せて来る。そして磯の近くまで来るとにわかに逞しく肩を揺りあげ、まるで蹲(しゃが)んでいたものが起ちあがりでもするようにぐっと頭を擡(もた)げるとみるや、颯(さっ)と白い飛沫(しぶき)をあげて崩れたち、右へ左へとその飛沫の線を延ばしながら歓声をあげて水面を叩き、揺れあい押しあいつつ眩しいほど雪白の泡となって汀を掩(おお)う・・・これらはすべて或る諧調をもっていた。旋律のない壮大な音楽ともいえよう、いや旋律さえ無いとはいえない。耳でこそ聞きわけられないが感覚には訴えてくる。ただその音色が現実的に説明しがたいだけだ。・・・」(本書 85ページ)

 この海の表現は、激動していく時代の波をかぶる青年の心情でもあるだろう。擬人法の表現は、それを示唆する。かすかに感じ取られる波の旋律。それを主人公が聞いていくということがこの描写には込められていて、こういう情景描写は驚嘆に値する。

 次に、藤田東湖が詠んだ「瓢兮歌(ひさごのうた)」という詩が次のように記されて、藤田東湖という人間の人物像を浮かび上がらせるものになっている。

 「瓢兮瓢兮吾れ汝を愛す/汝能く酒を愛して天に愧(は)ぢず/消息盈虚(えいきょ)時と与(とも)に移る/酒ある時跪座(きざ)し酒なき時顚(ころ)ぶ/汝の跪座(きざ)する時吾れ未だ酔はず/汝まさに顚(ころ)ばんとする時吾れ眠らんと欲す/一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」(114ページ)

 そして、「一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」におおらかに生きる東湖の姿を見るのである。

 また、江戸の「粋」といわれる文化に触れて、かつて名妓といわれた梅八の姿を借りて、次のように語られている。

 「梅八は江戸文化の爛熟末期から衰退期にかけて、その文化がもっとも端的に集約される世界で生きてきた。現実を無視することを誇り、ものごとの正常さを蔑み、虚栄と衒気(げんき)と詠嘆とを命としてきた。はかなさ、脆さ、弱さ、そういうものにもっとも美を感じ、風流洒落のほかに生活はないと思ってきた」(本書122ページ)

 そして、この梅八が自らの命さえかけて生き抜こうとする藤尾の姿に打たれて、実のある生活へと向かおうとするのである。名妓と言われて浮世を生きてきた梅八もまた、時代の潮の中で自ら考える女性となっていくのである。こういう明確な文化理解には、もちろん、異論もあるが、作品の中ではこれが生きている。そういう表現の巧みさを、わたしはここに感じた。

 あと一箇所、山本周五郎が作家として自らの足場を固めたと思われる箇所が、主人公の新しい潮流を生きようとする姿勢で語られている場面がある。早水秀之進が親友の太橋大助に自らの考えを語る場面である。

 「歴史の変転は少なくなかったが、概して最大多数の国民とは無関係なところで行われた。平氏が天下を取ろうと、源氏が政権を握ろうと、農夫町民に及ぼす影響はいつも極めて些少だった。云ってみれば、平氏になっても衣食住が豊かになる訳ではないし、源氏になったから飢えるということもない。合戦は常に武士と武士との問題だし、城郭の攻防になれば土着の民は立退いてしまう。戦火が収まれば帰って来てああこんどは源氏の大将かといった具合なんだ。・・・いいか、この二つの上に豊富な自然の美がある。春の花、秋の紅葉、、雪見や、枯野や、蛍狩り、時雨、霧や霞、四季それぞれの美しい変化、山なみの幽遠なすがた。水の清さ、これらは貧富の差別なく誰にでも観賞することができる。夏の暑さも冬の寒気も、木と泥と竹や紙で造った簡易な住居で充分に凌げる・・・こういう経済地理と政治条件の下では、どうしても宗教に救いを求めなければならないという状態は有り得ないんだ」(221-222ページ)

 という一文である。ここで使われている「最大多数の国民」とか「経済地理」、「政治条件」という概念などは、もちろん、江戸期の概念ではないし、論理も「青臭さ」が残るものであるが、言い回しの妙がある。そして、貧富の差なく豊かさを感じることができるものというところに作者の視点は向かっていく。そして、おそらくこれが当時の作者のむき出しの考えだったのだろうと思われるのである。わたしは、ここで語られている思想の内容とは別に、自分の心情を素朴に露吐する作者の姿勢を感じるわけで、こうした素朴さが、後に市井の人々を描き出す重要な視点になっているだろうと思えたのである。

 また、小説の作法として、主人公を実際の歴史の中で動かしていくという方法が採られて、これもまた、昭和18年(1843年)の時点での画期的な方法だったのではないだろうか。個人的な考えを述べれば、わたしは日本には国家論は似合わない気がしているので、国家論が語られるときは政治や社会に歪みが生じたときのように思う。その意味では、これは歪んだ時代の中で書かれた小説ではあると思う。

2012年2月24日金曜日

宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』

ようやく寒さがゆるみ始め、近所の花屋さんの店先では花を咲かせたチューリップが売られていた。また寒さがぶり返したりして、今の季節はどことなく中途半端なところがあるが、それでも早春を感じられるのは嬉しいことである。梅がほころび始めるだろう。

 宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』(2008年 角川書店)を読んでいたので記しておくことにする。

 「百物語」というのは、もともと、江戸時代に一種のブームともなった怪談話をする集まりでなされた話で、集まった人たちがそれぞれに不思議な体験や因縁話をし、百話が話し終えられると本物の「ものの怪」が現れるとされ、肝試しのようなものとしても行われていたもので、それを集めたものを「百物語」と称したりしていた。

 本書は、こうした怪談会の趣向とは異なって、身辺に起こったある事件のために傷心を受け、叔父である江戸神田の袋物屋「三島屋」に引き取られた「おちか」という娘が、叔父の計らいで他の人の因縁話を聞くことで、自分が関わった事件の姿や自分自身を、それぞれの因縁話の解決と共に解き放ち、自分の姿を取り戻していくというものである。

 個人的な所感を最初に言えば、こうした設定の仕方に、いささか無理があるし、「ものの怪」によって事柄が解決していくという出来事は、わたしのような人間にとってはいささか読むのに忍耐がいる。しかし、「現代の語り部」としての宮部みゆきの本領はよく発揮され、人間の回復というものが結局は自分自身で納得することによって行われていくものであることを改めて感じたりした。

 「おちか」のもとを訪れた最初の人間は、兄を見捨てたことに悩む弟である。兄弟思いで親代わりとなって育ててくれた兄が、喧嘩でかっとなって人を殺めてしまい、遠島となる。そして、赦免されて帰ってくる。しかし、幼い頃から兄に育てられ、兄を慕っていたはずの弟は、世間体を考えて帰ってきた兄とも会おうともしない。むしろ身内の犯罪者として疎ましく思い始めるのである。そして、そのことを知った兄が自ら首をくくって自死してしまうのである。その自責の念にかられた人物が自分の心情を「おちか」に露吐する(第一話「曼珠沙華」)。

 次に「おちか」を訪れた人間は、家族が不思議な家に魅了され、それに取り込まれてしまい、自分の魂もそこに閉じ込められてしまった女性である。貧しいながらも助け合って暮らしていた錠前直しの一家が、あるとき不思議な家の蔵の錠前直しを依頼されたところ、その家に住めば百両の金を出すといわれ、なにかの因縁があると思いつつもその家に住むようになり、ついにはその家に取り込まれてしまうのである。「おちか」のもとを訪れた女性は、錠前直しの父親の師匠からかろうじて助け出されるが、魂はその家に置きっぱなしであった。この不思議な家は、人間の魂を喰う家で、やがて物語の関係者がすべてこの家に集められることとなる。(こういう展開に、わたしはちょっと無理を感じるが。)

 第三話「邪恋」は、主人公である「おちか」自身に起こった出来事で、「おちか」は他の人の不幸話を聞く中で、自分の身に起こった事件を徐々に整理していくのだが、「おちか」をめぐって男同士の殺人事件が起こったことが記されている。

 「おちか」は川崎の老舗の宿の娘であった。彼女がまだ幼い頃、雪混じりの雨が降る寒いよるにひとりの男の子が街道沿いの斜面に捨てられて死にかけているのを父親が助け、父親は彼を引き取り、一緒に育てあげていた。家族同様と言いながらも奉公人として使っており、都合のよいときには家族として、都合の悪いときには捨て子の奉公人として扱っていたのである。彼は次第に「おちか」に思慕を抱くようになっていたし、「おちか」の心にも彼があった。だが、自分が捨て子であることで、彼はひたすら「おちか」の幸せを願っていた。やがて「おちか」に縁談が持ち込まれ、その縁談相手に「おちか」を頼むと言い、「おちか」の縁談相手は「おまえのような人間に言われたくない」と争い、ついに彼は「おちか」の縁談相手を鉈で殺してしまい、自らも死んでしまうのである。

 「おちか」もまた、その争いの瞬間に、彼を余所者として見捨ててしまい、以後、自責の念に駆られて閉じこもりの生活をしていたのである。「おちか」は自分のために二人の人間が死んでしまったという自責に縛りつけられて、叔父の家に引き取られていたのである。そういう「おちか」自身の事情がここで語られるのである。

 こうした「おちか」自身の話の後で、次に「おちか」のもとを訪れたのは、病身のために離れて育っていた姉が健康を取り戻して帰り、美男の兄と美女の姉が、相思相愛の仲となってしまって、互いに自死した妹である(第四話「魔鏡」)。

 そして、百の物語ではないが、「おちか」自身のことを含めて四つの出来事が、一つになって大演壇を結んでいくのが「最終話 家鳴り」で、第二話で語られた不思議な家が、これまでの登場人物たちの魂をすべて集め、なお「おちか」自身を欲するようになり、「おちか」は、多くの人たちの力を借りながらその家と対決し、すべての集められた魂を解放し、それによって自分自身も解放していくというものである。

 これまでも宮部みゆきは「ものの怪」を扱った作品を書いているが、本書は少し違った毛色の作品で、なにかの事件が解決されることよりも、過去に縛りつけられ身動きの取れなくなった女性が、他者の不幸と因縁の話を聞き、自分自身の問題を直面し、それと真正面から対峙していくことで自らを回復させていくことに重点が置かれている気がする。

 しかし、私見ではあるが、彼女の時代小説の最高峰は『孤宿の人』で、本書は、これといった特色には少し欠けているような気がしないでもない。だが、物語作家としての本領はあって、面白く読めた一冊ではあった。

2012年2月22日水曜日

鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』

今日は少し曇っているが、このところ寒さが緩み、嬉しい限りである。青年のころに『若者たち』という映画を見て、その中で田中邦衛さんだったかが「春になると嬉しくって仕方がない。もう寒さに震えなくてすむから」というような台詞を語られていたのが妙に頭に残っていて、日々の生活に追われる中で、今頃の季節によく思い出す。

 1970年代、多くの青年たちが「自立」を求めていた時代だった。だが、この国は、いつから至極当たり前のように「他人のふんどしで相撲を取る」ような貧しい発想をするようになってきたのだろうかと、今の政府の動きを見ながら思ったりする。全体的に寄生虫のような発想しかしなくなり、「自立の思想」の影さえ見えなくなった気がする。貧しいけれども自分の足で凜と立つ姿勢をとることを思い知ったのではないか。

 そんなことをぼんやり考えながら、他方では鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』(2009年 朝日新聞出版朝日文庫)を気楽に面白く読んだ。「ももんじや」というのは、江戸時代に猪や鹿、あるいは鳥や兎といった獣肉を食べさせた小料理屋で、そこを人助けの商売の拠点として集う御助人たちの活躍を描いたものである。

 御助宿でもある「ももんじや」を営むのは、元は深川州崎で地回り(やくざ)をしていたといわれる還暦を過ぎた茂十で、茂十は十五歳になる孫娘の「おはる」と「ももんじや」を切り盛りしながら、御助宿の元締めとして御助商売に携わっているのである。

 この「ももんじや」に居候し、御助人の中心になっているのは、百地十四郎という二十五歳の若侍である。百地十四郎は、元は二百石の旗本家の三男だったが、妾腹で、子どものころから家臣のような扱いを受けてきていた。だが、不憫に思った父親が剣道だけは習わせ、剣の才能もあり、北辰一刀流の遣い手として剣名をあげるほどの腕前になった。しかし、兄弟子に誘われて賭け試合をし、打ち負かした相手に恨まれて襲われ、はずみで斬り殺してしまい、破門されて自堕落な生活を続け、「ももんじや」に入り浸るようになって、ついには居候のようになってしまったのである。

 物語は、この「ももんじや」の前の通りで、年端もいかない十五、六の少年と妹と見られる十三、四の少女が四人の武士に取り囲まれて斬り合いをしているところから始まる。「ももんじや」に出入りし、膏薬売りをしながら御助人の仕事もしている助八がその斬り合いを知らせに百地十四郎のもとに駆け込み、十四郎が武士に取り囲まれていた少年と少女を助けるところから始まっていくのである。

 少年は出羽国滝園藩(作者の創作だろう)の井川泉之助と名乗り、少女はその妹の「ゆき」と名乗る。二人は殺された父親の仇を討つために江戸に出てきたのである。だが、そこには滝園藩における権力争いが絡んでいて、藩の大規模な普請工事に絡んで豪商と結託して私腹を肥やそうとしていた国許の次席家老の権力掌握の野望が渦巻いていたのである。

 井川兄妹が江戸で身を寄せた叔父は、彼らを助けたのが御助人であることを知り、御助宿である「ももんじや」に二人の仇討ちの助力を願い出る。「ももんじや」では、その依頼を受けて、百地十四郎や同じ御助人である牢人の波野平八郎、助八や廻り髪結いをしている佐吉、元は修験者だったという坊主頭の伝海、女掏摸であった簪を使う「お京」らによって、二人の仇を捜し出していくのである。

 百地十四郎は二人に仇を討たせるために、二人に剣を教え、二人は「ももんじや」の御助人によって見事に仇を果たし、それによって内紛していた藩の騒動も収まっていくという結末となる。

 物語の展開そのものや登場人物たちの設定などは、数多の時代小説のどこでも見かけるものであるが、鳥羽亮のこなれた文章と兄妹の修行や剣を交えての争いの場面などは、なるほど剣道を知る者の作だと思わせられ、娯楽小説として気楽に読めるものとなっている。

2012年2月20日月曜日

葉室麟『乾山晩愁』

昨日、都内での会議に出たりして、いささか疲れを覚えていたが、寒さが少し緩んで、碧空が広がっていたので、朝から掃除や洗濯などの家事に勤しんでいた。家事をすると、生きるということはこういうことなのだな、とつくづく思う。

 昨日、葉室麟『乾山晩愁』(2005年 新人物往来社 2008年 角川文庫)を読んだ。葉室麟の作品には歴史時代小説の新しい境地のようなものを感じるが、本書は、おそらく、葉室麟の作家としてのデビュー作とも言えるだろう。本書に収録されている表題作の「乾山晩愁」で、第29回歴史文学賞を受賞し、やがて、『いのちなりけり』や『蜩ノ記』の直木賞へと繋がっている。

 本書には、江戸中期を代表する画家であった尾形光琳(1658-1716年)の弟で、陶芸家で絵師でもあった尾形乾山(1663-1743年)の姿を描いた表題作の「乾山晩愁」、室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心であった狩野派の中でも卓越した才能を発揮した安土・桃山時代の狩野永徳(1543-1590年)描いた「永徳翔天」、その狩野永徳と並ぶ画家であった長谷川等伯を描いた「等伯慕影」、狩野探幽に学び狩野派随一の女流画家ともいわれた清原雪信(生没不詳)を描いた「雪信花匂」、数奇な生涯を生きた元禄時代の画家英一蝶(はなぶさ いっちょう 1652-1724年)を描いた「一蝶幻景」の五編が収められている。つまり、江戸時代の画家たちの姿を描き出したものである。

 本書に収められている作者自身の「文庫版あとがき」に「尾形乾山を主人公にした小説を書きたいと思った。兄、尾形光琳のはなやかな存在感に比べれば、弟の乾山は、はるかにくすんだ印象がある。そこに魅かれた。光り輝くものだけが、この世に存在するわけではない。光があれば、必ず、影がある。影だけではない。光のまわりに、やわらかな色彩で温かみとふくらみのある存在があって、光を支えているのではないだろうか」(333ページ)と記され、作者がどういう人間に対して魅かれていくのかという人間に対してもつ姿勢をうかがい知ることができる。

 本書は、その姿勢で、江戸期の五人の画家たちの姿を描き出すのである。ここには、後に見られるような透き通ったような文章はないが、たとえば、派手好きな兄の光琳とは異なり、書物を好み、隠遁生活のようにして参禅する地味な生活の中で、京焼色絵陶器を完成したといわれる野々村仁清(生没不詳)から陶芸を学び、乾山が焼き光琳が絵付けをするといった合作の陶芸品など制作するなどしていた尾形乾山に魅かれていくという地道で誠実な人間を描き出そうとする卓越した人間観があるのである。

 「乾山晩愁」は、尾形光琳が絵師として大成し、名声を得て亡くなった後、弟の尾形乾山が、陶工としての限界を感じつつ、しかもそれまで与えられていた関白の二条家(二条綱平 1672-1732年)の窯を廃止する旨の通知を受け取り、兄の光琳の過去に触れながら葛藤していく姿を描いたものである。

 光琳が亡くなった後、江戸から光琳の子を産んだという女性が子どもを連れて訪ねて来た。光琳は、京のお大尽とまでいわれた実家であった豪商の呉服商「雁金屋」からの莫大な相続を使い潰すほどの派手好きの遊び人で、五年ほど滞在した江戸で女や子どもがいても不思議ではなかったのである。

 女の名は「ちえ」といい、光琳の子を身ごもった後、光琳が京へさっさと引き上げたために、松倉という元福井藩士と結婚したと言う。松倉は光琳が「ちえ」のために残した金が目当てで、結婚すると酒に溺れて暴力を振るうようになり、そこから逃げて京に来たと語るのである。乾山は兄のためにもその母子のめんどうを見ることにする。

 他方、光琳を偲ぶ茶会で、光琳と京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助 (1669–1730) との親交が話題として出て、京の公家の代表でもあった近衞基熙(このえ もとひろ 1648-1722年)が光琳の支持者であった二条家を通じて、光琳に赤穂浪士討ち入りの資金の調達を依頼したのではないか、そして、光琳が中村内蔵助に頼んで京の銀座から討ち入り資金を出してもらったのではないか、赤穂浪士討ち入りの衣装を光琳が考えたのではないか、という話が出るのである。

 そして、それまで支持してくれていた二条家から二条家の庭にある窯を廃する旨の通知が届き、乾山はやむを得ずに粟田口に窯を作り製作に励んでいくことになる。二条家が突然の支持の中止を申し出た理由は、わからない。もしかしたら光琳が赤穂浪士に肩入れしていたことが原因かもしれなかったが、詳細は伏されたままだった。

 そうして月日が流れ、光琳の江戸での女であった「ちえ」とその子は、乾山の計らいで、大阪で古着商を営み、商売も順調そうに見えた。だが、そこに「ちえ」の元亭主の倉松が訪ねて来て、「ちえ」を刺し殺してしまうのである。乾山と「ちえ」は、歳は離れていたが心が通い始めていた矢先であった。

 それから六年後、「ちえ」の子も成人し、江戸の三井呉服店に気に入られて江戸に行くと言う。それを聞いて、乾山も兄の光琳に倣って江戸に行きたいと思うようになる。そして、江戸行きを前にして、なぜ以前二条家が乾山の窯を廃したかの理由に、幕府の機関である京都所司代の公家への弾圧があったことを知るのである。そして、乾山は江戸へ行き、81歳で亡くなる。

 その最後のところで、「結局は人の情や。人の情をしのぶのが物語や絵なんや」という乾山の姿勢を示す言葉が語られ(作者の姿勢でもあるだろう)、「兄さん(光琳)にとって絵を描くことは苦行やった。この世の愁いと闘ったのや。そうしてできたのが、はなやかで厳しい光琳画や。わしは、愁いを忘れて脱け出ることにした。それが乾山の絵や」(60-61ページ)という言葉が記されている。

 作者が本書で描きたかったのが、この二つの言葉で集約されているように思える。ここでは、後に『花や散るらん』で展開されている「赤穂浪士異聞」のようなものの原型もあり、それが面白いが、物語全体が十分な展開をまつ萌芽のような気がしないでもない。しかし、葉室麟という優れた作家の姿勢のようなものが明確に現れた作品だと思っている。

 本書のほかの作品については、ここでは詳細を記さないが、「永徳翔天」は、天下布武を果たそうとして、安土城を築こうとする織田信長によって、天下城としてふさわしい安土城に「天を飛翔する絵」を画くように依頼された狩野永徳が、自らも飛翔させるような絵を描いていく姿を、彼の苦悩や長谷川等伯との争い、そして、本能寺の変や豊臣秀吉による天下統一などの激動していく時代の中で描いたものである。焼失してしまったが、「信長公記」から彼が描いた安土城の絵についてなどの詳細も記されている。

 「等伯慕影」は、当時の日本画の巨匠として上り詰めていた狩野永徳や狩野派との争いを行い、野心と情念をもって画壇に登場した長谷川等伯を描いたもので、彼が上り詰めるために捨てたものや悔恨の中での苦悩などが描き出されている。

 また、「雪信花匂」は、狩野探幽から可愛がられて育った雪信が、女流の画家として生きる以上に、自らの愛に生涯をかけ、そこから女流画家としての新しい歩みをはじめる姿を、井原西鶴を絡ませながら描いたものである。

 「一蝶幻景」は、先述したように元禄時代に活躍した英一蝶の姿を描いたもので、英一蝶は、江戸で狩野派に入門するが、画風があわずに破門され、多賀朝湖という名で町絵師として、また、暁雲という名で俳諧に親しみ、松尾芭蕉などとも親交をもち、風俗画などを描きながらも、吉原通いをして自らも幇間として活動した人である。

 1698年(元禄11年)、47歳の時に「生類憐れみの令」に対する違反として三宅島に流罪された。彼が流罪となった理由として、時の権力者である柳沢吉保が出世するときに自分の側室を将軍である綱吉に差し出したことを一蝶が風刺画にしたことや、町人に禁止されていた釣りをおこなったこと、「馬がもの言う」という歌を広め、動物をつかって社会を風刺したこと、旗本をそそのかして吉原で巨額の浪費をさせたことなどがある。だが、流罪中も三宅島で創作活動を続け、12年後の58歳の時に、将軍代替わりで赦免され、江戸に帰って、英一蝶と名乗り、風俗画を描き続けたのである。

 本書は、こうした英一蝶の姿を幕閣内の勢力争いや赤穂浪士の討ち入り事件と絡ませながら描き出したものである。赤穂浪士の討ち入り事件の裏に、朝廷と江戸幕府の確執、大奥内における桂昌院(綱吉の母)と公家方の女中たちの争いがあったという視点が盛り込まれ、これもまた、後の『花や散るらん』で物語として描き出される源流となっている。

 本書は、後に著される『いのちなりけり』やその続編の『花や散るらん』の源流ともいえるものが随所に見られ、詳細な歴史的検証のひとつの滴のような作品だろうと思う。その意味では、これは江戸時代の画家として活躍した人物たちの歴史小説である。「等伯慕影」のような自らの弱さに悩む長谷川等伯の理解は頭抜けたところがある気がする。

 まだ、後に書かれていく作品で表される葉室麟らしさが隠れてはいるが、おそらく、これから葉室麟が論じられるときには、必ず言及される作品だろう。硬派の文体はわたしのような人間には好ましく思える。

2012年2月18日土曜日

庄司圭太『沈丁花 観相師南龍覚え書き』

昨夜は雪がちらつき、今日はひどく冷え込んで寒さの厳しい日になっている。

 寒い冬の夜はこたつでのんびりするのがいいと思いつつ、庄司圭太『沈丁花 観相師南龍覚え書き』(1998年 集英社文庫)を読んだので記しておこう。

 作者は、文庫本のカバーに記載されている著者略歴では、1940年に横浜で生まれ、いくつかのテレビ番組の脚本を手がけた後に、本書で作家デビューをされたらしい。従って、これは著者の最初の作品ということになっている。

 本書は、四国松山の武家の三男坊に生まれた主人公が、父親が望んだ学問の道をそれて無頼の徒になり、喧嘩に巻き込まれて斬られ、死線を彷徨っていたときに観相師の吹石龍安に助けられた後で、龍安に弟子入りして「南龍」と名前を変えて観相師をするようになり、懇意にしている北町奉行所の老同心である堀井勘蔵とともに、観相を用いて事件の真相を探っていくという筋立てである。

 観相とは、平たく言えば人相見のことで、顔の造作や目や眉、鼻や口などの配置などで人を判断しようとするもので、いわば類型的人格判断のことである。起源は中国だろうが、日本では江戸時代の中期頃に確立したといわれている。現代の心理学などでも、体型による性格判断などがあって、発想そのものは似たようなものであるし、手相などとあわせて、何故か今でも日本人に好まれるところがある。

 だれもが自分の将来は不安で、少しでも手がかりになることを探したり、関わる人間についての判断は難しいので、その手がかりを求めたくなったりする心情はわからないでもない。しかし、心理学的類型論や人類学的類型論などのようなステレオタイプ的判断は、大きな危険性をもっているとも思っている。

 ともあれ、本書は、主人公南龍の、その観相術によって事件の取りかかりが起こり、南龍と老同心の堀井勘蔵が地道に真相を探っていくというものである。本書には「沈丁花」、「蝉衣」、「雨しずく」の三話が収められて、最初からシリーズ化することが試みられている。

 第一話「沈丁花」は、油商の番頭の水死体が発見され、奉行所の役人の見解は酔って足を滑らせた事故ということだったが、実は、南龍がその二日前に死んだ番頭の観相を見ており、そこには死相がなかったので、これは殺人、しかも金銭の絡んだ殺人ではないかと思うところから始まる。そして、それから次々と同じような死体があがるのである。

 南龍は懇意にしている老同心の堀井勘蔵に相談し、その事件の裏に京極藩の勘定方と廻船問屋が結託した無尽講(金を出し合って、籤でその金を使うものを決めていく)の企みがあることを突きとめていくのである。表題の「沈丁花」は、弟の仕官を餌に、自分に気のある油商の番頭を無尽講に誘うように言われ、その無尽が潰れてしまうことを案じて番頭に真実を打ち明けた女性の姿をなぞらえたものであるだろう。

 第二話「蝉衣」は、正体不明の姫君の観相を依頼された帰りに何者かに襲われた難龍が、自分が観相を見た姫君の正体と何故自分が襲われたのかを探っていく過程で、徳川家斉なきあと、頭角を現して天保の改革を推し進める水野忠邦と、勢力を盛り返そうとする旧幕閣による争いに巻き込まれていくという話である。彼が観相を見たのは、家斉とお伝の方の間にできた娘徳姫で、徳姫の大名家への輿入れによって勢力を取り返そうとした母親であるお伝の方が大きく関係していたのである。

 ただ、普通、「お伝の方」といえば、五代将軍徳川綱吉の側室(瑞春院)で、家斉には多数の側室がいたとは言え、「お伝」という名は見あたらず、また、「徳姫」も見あたらない。これがもし、作者の創作によるなら、天保年間の政争が絡んでいるだけに、「お伝」や「徳姫」という名称には、混同を避けるための工夫がほしいところではある。

 第三話「雨しずく」は、旧知の岡っ引きから他殺死体の身元を割り出すための観相を依頼された南龍が、殺された男が飾り職人で仲間割れの相が出ていたところから始まる。南龍は、自分の観相があたっていることを探るために殺された男の身元を探っていたが、御金蔵破りの口実で大捕物が行われたりして、南龍の昔の遊び仲間が殺されたり、彼自身が捕らわれたりする。南龍は自分を守るためにも、それらの真相を明らかにしようとし、ついに、金座御金改役の後藤三右衛門による貨幣改鋳につながる後藤三右衛門の弟の宗三郎による偽小判作りの事件に行き当たるのである。

 実際には、水野忠邦は、幕府財政の立て直しのために、1835年(天保6年)に銅銭である天保通宝を改鋳している。しかし、含有する金や銀の質を落として、そこから莫大な差益を得ようとする貨幣の改悪が、やがて経済の混乱を招いたのは周知の事実である。本書では、貨幣改鋳に一役買っていた鳥居耀蔵が証拠隠滅のために後藤宗三郎家に火を放って、宗三郎を贋金作りで捕縛したことになっている。

 本書は、いわば捕物帳仕立てである。事件の真相に迫るのが観相師である南龍という人物であるが、謎が政治に絡んだりしているだけに社会現象と関連し、奥深さを見せている。だが、謎そのものが複雑ではなく、比較的あっさり謎解きに進んで行ったりしているきらいがないでもない。それぞれの登場人物たちの深みなどはこれから記されていくのだろうが、本書ではまだそこまでは至っていないような気がする。

 テレビの脚本を書かれていただけに、物語の展開や文章はこなれていて、娯楽時代小説としての筋立ての面白さがある。観相という独自の人間観で人を見ていくというのも、味のある設定だと思っているし、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という姿勢があるのも、あるいは「人を見た目で判断する」のも現代的であるだろうと思う。ただ、こういう小説は書くのに難しいだろうと察したりもする。

 それにしても、今日は寒い。「2・26事件」の時も東京は大雪だったそうだが、今日の寒さは格別のような気がしないでもない。「春よ、来い」そう願う。

2012年2月16日木曜日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 福来』

昨日は所用が重なってこれを記すことができなかったが、今日は、仕事も比較的のんびりと始めた。今日は、寒さがぶり返し、気温の低い曇天が広がっている。三寒四温ではなく、六寒一温ぐらいだろうか、まだまだ、春は遠い。

 昨夜、いささか疲れを覚えていたが、坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 福来』(2009年 双葉文庫)を気楽に読む。何とはなしにこのシリーズを読んでいるのだが、これはこのシリーズの十三作目。本作は、このシリーズの中心的人物である「照れ降れ長屋」に住むうらぶれた中年浪人の浅間三左衛門やその妻で十分の一屋(仲人業)をしている「おまつ」ではなく、浅間三左衛門をひとかどの人物と見込んでいる若い町奉行所同心である八尾半四郎である。この八尾半四郎を中心にした「鳥落としの娘」、「紅猪口」、「福来」の三話がここに収められている。

 八尾半四郎は、町奉行の隠密をしている弓の名手である雪乃に惚れているが、なかなかうまくいかない。この雪乃の物語が、第一話「鳥落としの娘」で、牢破りをした強盗の仁平次を捕らえる密命を帯びて、得意の矢で見事にこれを捕らえるが、その仁平次が江戸送りになるときに何者かに殺されるのである。仁平次は、尾張藩上屋敷から三万両もの大金を奪ったひとりだと言われていた。

 だが、そこには尾張藩勘定奉行の公金流用が絡んでいて、流用した公金を糊塗するために盗まれたことにして誤魔化そうとする企てがあったのである。

 雪乃は単身でそれを暴いていくし、八尾半四郎は仁平次の殺害からその真相に近づいていく。仁平次は見事な矢で射殺されていた。尾張藩には矢の名人と言われる人物がいたのである。奇しくもその時、将軍の命で矢の通し比べをすることとなり、鳥落とし名人と言われた父親の代わりに雪乃が出場することになり、仁平次を射殺した尾張藩士と矢の射かけ比べをすることになる。

 雪乃は半四郎の自分に対する気持ちを知っていたし、その気持ちにこたえようかどうかを迷っていたが、矢の通し比べに見事に勝利し、結婚を諦めて武者修行の旅にでるのである。八尾半四郎には縁談の話が持ち上がっていた。

 第二話「紅猪口」は、浅間三左衛門の妻「おまつ」の連れ子で、日本橋呉服町の大店に奉公に出ていた「おすず」が、大店の娘と間違えられて拐かされる事件を扱ったものである。大店の娘は芝居の役者に入れあげていて、琴の稽古のときに「おすず」と入れ替わって自由を楽しんでいたのである。

 だが、その娘ではなく、入れ替わっていた「おすず」が拐かされて身代金が要求される。八尾半四郎は「おすず」を救うために奔走し、結局、大店の主が男色気を起こしたのがもとで、地回りに強請られ、男色相手であった芝居の役者ともどもに拐かして金を奪う計画を立てていたことがわかっていくというものである。「おすず」は無事に釈放されて戻って来て、拐かしを計画した者たちを八尾半四郎が捕らえるのある。

 第三話「福来」は、かつて裏店の住人たちからも慕われていた岡っ引きであった彦蔵が勤める池之端七軒町の自身番が襲われ、彦蔵が殺されるという事件が起こり、その事件の裏に、私腹を肥やそうとする町奉行所の同心と、彼が操るどうしようもない大名家の家臣の息子たちの欲望が渦巻いていたという真相を八尾半四郎が暴き、死闘を繰り返して、これを討つというものである。そして、八尾半四郎は雪乃ではなく、縁談のあった奈美という娘と結婚することになるという落ちが、最後に語られる。

 物語そのものはどうということもないが、物語の展開にどこにも無理がなく、書き慣れた作品であるとの印象を受ける。凝った文書もなく、気楽に書かれた作品のようで、気楽に読める。何となく、ただそれだけのような気もしないではないし、こういう気楽な作品ばかりだと時代小説という分野は飽きられていく気がしないでもないが。