2012年2月20日月曜日

葉室麟『乾山晩愁』

昨日、都内での会議に出たりして、いささか疲れを覚えていたが、寒さが少し緩んで、碧空が広がっていたので、朝から掃除や洗濯などの家事に勤しんでいた。家事をすると、生きるということはこういうことなのだな、とつくづく思う。

 昨日、葉室麟『乾山晩愁』(2005年 新人物往来社 2008年 角川文庫)を読んだ。葉室麟の作品には歴史時代小説の新しい境地のようなものを感じるが、本書は、おそらく、葉室麟の作家としてのデビュー作とも言えるだろう。本書に収録されている表題作の「乾山晩愁」で、第29回歴史文学賞を受賞し、やがて、『いのちなりけり』や『蜩ノ記』の直木賞へと繋がっている。

 本書には、江戸中期を代表する画家であった尾形光琳(1658-1716年)の弟で、陶芸家で絵師でもあった尾形乾山(1663-1743年)の姿を描いた表題作の「乾山晩愁」、室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心であった狩野派の中でも卓越した才能を発揮した安土・桃山時代の狩野永徳(1543-1590年)描いた「永徳翔天」、その狩野永徳と並ぶ画家であった長谷川等伯を描いた「等伯慕影」、狩野探幽に学び狩野派随一の女流画家ともいわれた清原雪信(生没不詳)を描いた「雪信花匂」、数奇な生涯を生きた元禄時代の画家英一蝶(はなぶさ いっちょう 1652-1724年)を描いた「一蝶幻景」の五編が収められている。つまり、江戸時代の画家たちの姿を描き出したものである。

 本書に収められている作者自身の「文庫版あとがき」に「尾形乾山を主人公にした小説を書きたいと思った。兄、尾形光琳のはなやかな存在感に比べれば、弟の乾山は、はるかにくすんだ印象がある。そこに魅かれた。光り輝くものだけが、この世に存在するわけではない。光があれば、必ず、影がある。影だけではない。光のまわりに、やわらかな色彩で温かみとふくらみのある存在があって、光を支えているのではないだろうか」(333ページ)と記され、作者がどういう人間に対して魅かれていくのかという人間に対してもつ姿勢をうかがい知ることができる。

 本書は、その姿勢で、江戸期の五人の画家たちの姿を描き出すのである。ここには、後に見られるような透き通ったような文章はないが、たとえば、派手好きな兄の光琳とは異なり、書物を好み、隠遁生活のようにして参禅する地味な生活の中で、京焼色絵陶器を完成したといわれる野々村仁清(生没不詳)から陶芸を学び、乾山が焼き光琳が絵付けをするといった合作の陶芸品など制作するなどしていた尾形乾山に魅かれていくという地道で誠実な人間を描き出そうとする卓越した人間観があるのである。

 「乾山晩愁」は、尾形光琳が絵師として大成し、名声を得て亡くなった後、弟の尾形乾山が、陶工としての限界を感じつつ、しかもそれまで与えられていた関白の二条家(二条綱平 1672-1732年)の窯を廃止する旨の通知を受け取り、兄の光琳の過去に触れながら葛藤していく姿を描いたものである。

 光琳が亡くなった後、江戸から光琳の子を産んだという女性が子どもを連れて訪ねて来た。光琳は、京のお大尽とまでいわれた実家であった豪商の呉服商「雁金屋」からの莫大な相続を使い潰すほどの派手好きの遊び人で、五年ほど滞在した江戸で女や子どもがいても不思議ではなかったのである。

 女の名は「ちえ」といい、光琳の子を身ごもった後、光琳が京へさっさと引き上げたために、松倉という元福井藩士と結婚したと言う。松倉は光琳が「ちえ」のために残した金が目当てで、結婚すると酒に溺れて暴力を振るうようになり、そこから逃げて京に来たと語るのである。乾山は兄のためにもその母子のめんどうを見ることにする。

 他方、光琳を偲ぶ茶会で、光琳と京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助 (1669–1730) との親交が話題として出て、京の公家の代表でもあった近衞基熙(このえ もとひろ 1648-1722年)が光琳の支持者であった二条家を通じて、光琳に赤穂浪士討ち入りの資金の調達を依頼したのではないか、そして、光琳が中村内蔵助に頼んで京の銀座から討ち入り資金を出してもらったのではないか、赤穂浪士討ち入りの衣装を光琳が考えたのではないか、という話が出るのである。

 そして、それまで支持してくれていた二条家から二条家の庭にある窯を廃する旨の通知が届き、乾山はやむを得ずに粟田口に窯を作り製作に励んでいくことになる。二条家が突然の支持の中止を申し出た理由は、わからない。もしかしたら光琳が赤穂浪士に肩入れしていたことが原因かもしれなかったが、詳細は伏されたままだった。

 そうして月日が流れ、光琳の江戸での女であった「ちえ」とその子は、乾山の計らいで、大阪で古着商を営み、商売も順調そうに見えた。だが、そこに「ちえ」の元亭主の倉松が訪ねて来て、「ちえ」を刺し殺してしまうのである。乾山と「ちえ」は、歳は離れていたが心が通い始めていた矢先であった。

 それから六年後、「ちえ」の子も成人し、江戸の三井呉服店に気に入られて江戸に行くと言う。それを聞いて、乾山も兄の光琳に倣って江戸に行きたいと思うようになる。そして、江戸行きを前にして、なぜ以前二条家が乾山の窯を廃したかの理由に、幕府の機関である京都所司代の公家への弾圧があったことを知るのである。そして、乾山は江戸へ行き、81歳で亡くなる。

 その最後のところで、「結局は人の情や。人の情をしのぶのが物語や絵なんや」という乾山の姿勢を示す言葉が語られ(作者の姿勢でもあるだろう)、「兄さん(光琳)にとって絵を描くことは苦行やった。この世の愁いと闘ったのや。そうしてできたのが、はなやかで厳しい光琳画や。わしは、愁いを忘れて脱け出ることにした。それが乾山の絵や」(60-61ページ)という言葉が記されている。

 作者が本書で描きたかったのが、この二つの言葉で集約されているように思える。ここでは、後に『花や散るらん』で展開されている「赤穂浪士異聞」のようなものの原型もあり、それが面白いが、物語全体が十分な展開をまつ萌芽のような気がしないでもない。しかし、葉室麟という優れた作家の姿勢のようなものが明確に現れた作品だと思っている。

 本書のほかの作品については、ここでは詳細を記さないが、「永徳翔天」は、天下布武を果たそうとして、安土城を築こうとする織田信長によって、天下城としてふさわしい安土城に「天を飛翔する絵」を画くように依頼された狩野永徳が、自らも飛翔させるような絵を描いていく姿を、彼の苦悩や長谷川等伯との争い、そして、本能寺の変や豊臣秀吉による天下統一などの激動していく時代の中で描いたものである。焼失してしまったが、「信長公記」から彼が描いた安土城の絵についてなどの詳細も記されている。

 「等伯慕影」は、当時の日本画の巨匠として上り詰めていた狩野永徳や狩野派との争いを行い、野心と情念をもって画壇に登場した長谷川等伯を描いたもので、彼が上り詰めるために捨てたものや悔恨の中での苦悩などが描き出されている。

 また、「雪信花匂」は、狩野探幽から可愛がられて育った雪信が、女流の画家として生きる以上に、自らの愛に生涯をかけ、そこから女流画家としての新しい歩みをはじめる姿を、井原西鶴を絡ませながら描いたものである。

 「一蝶幻景」は、先述したように元禄時代に活躍した英一蝶の姿を描いたもので、英一蝶は、江戸で狩野派に入門するが、画風があわずに破門され、多賀朝湖という名で町絵師として、また、暁雲という名で俳諧に親しみ、松尾芭蕉などとも親交をもち、風俗画などを描きながらも、吉原通いをして自らも幇間として活動した人である。

 1698年(元禄11年)、47歳の時に「生類憐れみの令」に対する違反として三宅島に流罪された。彼が流罪となった理由として、時の権力者である柳沢吉保が出世するときに自分の側室を将軍である綱吉に差し出したことを一蝶が風刺画にしたことや、町人に禁止されていた釣りをおこなったこと、「馬がもの言う」という歌を広め、動物をつかって社会を風刺したこと、旗本をそそのかして吉原で巨額の浪費をさせたことなどがある。だが、流罪中も三宅島で創作活動を続け、12年後の58歳の時に、将軍代替わりで赦免され、江戸に帰って、英一蝶と名乗り、風俗画を描き続けたのである。

 本書は、こうした英一蝶の姿を幕閣内の勢力争いや赤穂浪士の討ち入り事件と絡ませながら描き出したものである。赤穂浪士の討ち入り事件の裏に、朝廷と江戸幕府の確執、大奥内における桂昌院(綱吉の母)と公家方の女中たちの争いがあったという視点が盛り込まれ、これもまた、後の『花や散るらん』で物語として描き出される源流となっている。

 本書は、後に著される『いのちなりけり』やその続編の『花や散るらん』の源流ともいえるものが随所に見られ、詳細な歴史的検証のひとつの滴のような作品だろうと思う。その意味では、これは江戸時代の画家として活躍した人物たちの歴史小説である。「等伯慕影」のような自らの弱さに悩む長谷川等伯の理解は頭抜けたところがある気がする。

 まだ、後に書かれていく作品で表される葉室麟らしさが隠れてはいるが、おそらく、これから葉室麟が論じられるときには、必ず言及される作品だろう。硬派の文体はわたしのような人間には好ましく思える。

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