2012年2月1日水曜日

葉室麟『蜩ノ記』(3)

晴れて、寒さの中日とも言おうか、最高気温は10度を超えるそうだが、風が強い。ドアがガタガタと音を立て、風が空を鳴り渡っている音が聞こえる。今日から如月で、如月は人の精神のバイオリズムが低くなる月でもあり、どこか気持ちが批判的になってしまう。だが、梅の便りも聞こえ始めるだろう。

 さて、葉室麟『蜩ノ記』の続きをさらに記そう。

 不作のために年貢に耐えきれなくなり、百姓一揆や強訴を起こそうと近隣の村々と談合しているのではないかと案じた戸田秋谷は、その談合が行われている場所におもむいていく。かつて秋谷が郡奉行をしているときに農民の生活救済のために「青筵」の生産を奨励したが、それがいつのまにか博多の播磨屋という商人によって独占され、買い叩かれたために百姓たちの不満も高まっていた。秋谷は、その不満を抑えてきた責任もあるという。そして、村方の騒動に関わったことで咎めを受けるかも知れないが、檀野庄三郎も意を決して同行することにする。

 秋谷は談合が行われている小屋の外から声をかけて農民たちを説得する。だが、納得がいかない者たちもあり、鎖分銅の音をさせながら夜道をつけたりする。

 そういう大人たちの動きの中で、郁太郎と源吉の姿が挿入されている。源吉は郁太郎に「おれは早くおとなになって一所懸命働いて、田圃を増やしてえ、と思うちょる。そしたら、藺草も作れるようになる。安く買われるって言うけんど、藺草は銭になる。そうすりゃ、おかあに楽をさせてやれるし、お春にいい着物も買うてやれる。おれはそげんしてえから、不作だの年貢が重いだの言ってる暇はねえんだ」(100ページ)と言う。大人たちの騒動をよそに、源吉と郁太郎は人間としてまっすぐ歩く道を見つめていくのである。そして、秋谷の説得が功をそうしたのか、その年の秋は村での騒動はおこらなかった。

 そうしているうちに、年が明けた春、檀野庄三郎は、突然、家老の中根兵右衛門から呼びつけられ、監督不行届を叱責される。そして、思わず、秋谷が「松吟尼」と名を変えている「お由の方」に会ったことがあるという「蜩ノ記」の日記の記述を話たことから、戸田秋谷が七年前の事件を家譜にどう記すのかを知るために「松吟尼」に会うことになる。中根兵右衛門の思いとは別に、檀野庄三郎はなんとかして戸田秋谷を救う方法がないかを探すために事件の当事者である「松吟尼」に会うのである。

 「松吟尼」は、前藩主三浦兼通が死ぬ前に自分をゆるしたとき、戸田秋谷にもゆるしが出た、と言う。秋谷と「松吟尼(お由の方)」が一夜を過ごした夜は、だれに話しても何の不都合もなく何事もなかったのであり、兼通も赦免する内意があったのだ、と語るのである。だが、藩内では誰もそれを知らず、しかも秋谷は何も語らずに自ら死を選んでいるのである。それはなぜか。

 「松吟尼」は、自分と秋谷との関わりを静かに話す。「お由(松吟尼)」は秋谷が生まれた柳井家の下働きをし、戸田家に養子にいった秋谷は勘定奉行所に勤めていた。そして、「お由(松吟尼)」が使いに出た折り、偶然、同役の者たちに囲まれて折檻をされようとする秋谷と遭遇するのである。「お由」がそこにいることを知って三人の同役たちは秋谷への折檻を断念するが、同僚たちは私利私欲のない秋谷を煙たく思っていたのである。そのとき、「お由」と秋谷は、はじめて会話したという。

 だが、「お由」も秋谷も、共に相手への思いがあったのである。事件の折り、刺客に襲われた「お由」を呉服屋に匿って、一晩中護衛をしていたとき、なぜ、功もないかもしれぬのに自分を守ってくれるのかという問に、秋谷は「それがしの想いでやっていることもございますれば」と答え、「若かったころの自分をいとおしむ想いかもしれませぬ」と言うのである。そして、「お由」もまた、「あのころのわたくしをいとおしく思います」と答えるのである(119ページ)。二人の間にあったのは、ただそれだけである。そして、それは心の内奥に秘められたものに過ぎなかった。

 檀野庄三郎は、「松吟尼」の話を聞き、なぜ秋谷が死を選んでいるのか、まだ理解できないでいた。そして、その帰りに、かつて秋谷が事件の折に斬った赤座弥五郎の縁者の者たちに襲われているのを目撃する。武芸に秀でた秋谷はこれを難なく退けるが、その後で、秋谷はなぜ自分が弁明をして兼通の誤解を解こうとしなかったかを語る。

 秋谷は言う。疑いをかけてきたのが、自分を信じてくれているはずの相手でも、弁明をしようとするか、と。「忠義とは、主君が家臣を信じればこそ尽くせるものだ。主君が疑心を持っておられれば、家臣は忠節を尽くしようがない。」「疑いは疑う心があって生じるものだ。弁明しても心を変えることはできぬ。心を変えることができるのは、心をもってだけだ」(125-126ページ)と語るのである。そして、戸田家の人々には、疑うという気持ちをもった者がいないから、家の中に清々しい気が満ちている、と感じていくのである。

 この姿勢こそが、本書の鍵である。おそらく、作者がいちばん描きたかったことだろう。力をもち、権力を持って疑心暗鬼に策を弄するものと、疑う気持ちなど初めからなくて信じるこことで生きて行こうとする者の対比、それが切腹という命のぎりぎりのところで演じられていく。改めて、この物語は、そういう物語ではないかと思う。

 そして、事件の裏にあった赤座与兵衛の陰謀が明らかにされる。赤座与兵衛は、秋谷が斬った小姓の赤座弥五郎の父である。赤座与兵衛は馬廻役であったが、当時出入りの商人から賄賂をもらって私腹を肥やしたいた勘定奉行所の役人たちなどのまとめ役をしており、そうした風習を払拭しようとした戸田秋谷に脅しと警告をかけていた。そして、勘定方の役人たちに折檻をされそうになったときに秋谷と「お由の方」が行き会って話しているのを見て、その間柄を邪推し、嫌がらせをするために「お由の方」を藩主の兼通の側室として勧めたのである。そして、藩内の形勢が不利になったときに、現藩主を産んだ「お美代の方」側につくための証しとして息子の弥五郎に「お由の方」の暗殺を命じたのである。

 だが、その暗殺が秋谷によって失敗し、息子の弥五郎まで斬られたので、「お美代の方」派からも否まれた。「お美代の方」派を率いていたのは、国許では現家老の中根兵右衛門であり、江戸では江戸家老の宇津木頼母で、赤座与兵衛は二人にそそのかされて陰謀を企てたのである。赤座与兵衛は、前藩主兼通が亡くなった後で切腹していた。たいていの事件の裏には、いつでもあまり上等でない人の欲に絡んだ短慮があるが、赤座与兵衛は、そういう人物であった。

 こういう形で、戸田秋谷の事件の裏に、藩の実権を巡る争いが色濃く渦巻いていたことが徐々に明らかにされていく。だが、物語はこうした権力を巡る深刻な話の後で、秋谷の娘薫と檀野庄三郎とのそこはかとない交流が描かれていく。心憎い構成といえる。

 源吉の父が酒を飲んで怠けているのを案じて見舞いに行く薫の共をして源吉の家まで行き、瓦岳の寺まで使いに行くのである。その途中で、村の娘たちと薫との会話があったりして華やぎ、村の祭りの話が出てくる。その中で、戸田家のためにいろいろと下働きを引き受け、薫に想いもある市松が、村の青筵を独占している博多の商人である播磨屋が、村人に金を貸しつけ、返済できない者の田畑を買いあさり、小作人として儲けを企んでいることが告げたりする。この播磨屋のことが後に大きな展開の鍵となっていく。こうした構成の無駄のない見事さが、本書には随所にあるのである。薫は、播磨屋が祭りで村人に酒を振る舞い、それを市松が嫌っているので、祭りの日に何事か起こるのではないかと案じている。

 播磨屋は家老の中根兵右衛門にもかなりの金を使い、自分の妹を妾として差し出すなどして癒着し、山間部の田畑を買いあさり、藩内でも有数の大地主になていた。そして、もし、百姓たちが騒動を起こせば、賞罰されて田が買いやすくなるので、百姓たちが騒動を起こすことを望んだりしていた。播磨屋を嫌う市松の動向が案じられる。

 向山村の祭りは、若い男女が乱れる「暗闇祭り」であり、薫は檀野庄三郎に同行を依頼し、郁太郎、源吉とお春の兄妹たちと出かけていく。祭りが行われる神社では、播磨屋の番頭や手代たちが高張り提灯をかざして酒を振る舞っていた。祭りで太鼓をたたくことになっている市松はそれを見て、祭りは篝火だけで行うことに決まっているから高張り提灯を消すように言い、播磨屋の番頭と口論になる。その場は檀野庄三郎の仲立ちで収まるのだが、その夜、播磨屋の番頭が鎖分銅を使ったと思われる鎌で何者かに殺されてしまうのである。市松は鎖分銅を使う。そして、役人は市松を殺人犯として捕らえ、城下に引き立てていった。市松は、自分はずっと太鼓をたたいていたので殺していないと主張する。

 太鼓の音を証拠に秋谷は市松の無罪を証しし、市松は放免されるが拷問を受け、藩に対して恨みを抱くようになっていた。秋谷はこの恨みが一揆に繋がることを案じたりしていた。日常は変わらずに流れ、遂に秋谷の切腹まで一年半を切るようになる。秋谷を助ける術はまだ何もない。そうした慚愧の念を抱き続ける檀野庄三郎のところに、慶仙和尚から「松吟尼」が来るので、寺に来るようにとの手紙が届く。そのことを知った薫も「松吟尼」に会いたいので、自分も寺に行くと言う。

 こういう形で、父親が切腹を申しつけられていることを知る娘が、そのことをどう思っているのかが記されていくのである。展開の妙がここにもある。以後、物語は波瀾を含みながら展開されていくが、今日はここまでとし、そのことについては、また次に記すことにする。まことに筆力に恐れ入る。

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