2012年2月18日土曜日

庄司圭太『沈丁花 観相師南龍覚え書き』

昨夜は雪がちらつき、今日はひどく冷え込んで寒さの厳しい日になっている。

 寒い冬の夜はこたつでのんびりするのがいいと思いつつ、庄司圭太『沈丁花 観相師南龍覚え書き』(1998年 集英社文庫)を読んだので記しておこう。

 作者は、文庫本のカバーに記載されている著者略歴では、1940年に横浜で生まれ、いくつかのテレビ番組の脚本を手がけた後に、本書で作家デビューをされたらしい。従って、これは著者の最初の作品ということになっている。

 本書は、四国松山の武家の三男坊に生まれた主人公が、父親が望んだ学問の道をそれて無頼の徒になり、喧嘩に巻き込まれて斬られ、死線を彷徨っていたときに観相師の吹石龍安に助けられた後で、龍安に弟子入りして「南龍」と名前を変えて観相師をするようになり、懇意にしている北町奉行所の老同心である堀井勘蔵とともに、観相を用いて事件の真相を探っていくという筋立てである。

 観相とは、平たく言えば人相見のことで、顔の造作や目や眉、鼻や口などの配置などで人を判断しようとするもので、いわば類型的人格判断のことである。起源は中国だろうが、日本では江戸時代の中期頃に確立したといわれている。現代の心理学などでも、体型による性格判断などがあって、発想そのものは似たようなものであるし、手相などとあわせて、何故か今でも日本人に好まれるところがある。

 だれもが自分の将来は不安で、少しでも手がかりになることを探したり、関わる人間についての判断は難しいので、その手がかりを求めたくなったりする心情はわからないでもない。しかし、心理学的類型論や人類学的類型論などのようなステレオタイプ的判断は、大きな危険性をもっているとも思っている。

 ともあれ、本書は、主人公南龍の、その観相術によって事件の取りかかりが起こり、南龍と老同心の堀井勘蔵が地道に真相を探っていくというものである。本書には「沈丁花」、「蝉衣」、「雨しずく」の三話が収められて、最初からシリーズ化することが試みられている。

 第一話「沈丁花」は、油商の番頭の水死体が発見され、奉行所の役人の見解は酔って足を滑らせた事故ということだったが、実は、南龍がその二日前に死んだ番頭の観相を見ており、そこには死相がなかったので、これは殺人、しかも金銭の絡んだ殺人ではないかと思うところから始まる。そして、それから次々と同じような死体があがるのである。

 南龍は懇意にしている老同心の堀井勘蔵に相談し、その事件の裏に京極藩の勘定方と廻船問屋が結託した無尽講(金を出し合って、籤でその金を使うものを決めていく)の企みがあることを突きとめていくのである。表題の「沈丁花」は、弟の仕官を餌に、自分に気のある油商の番頭を無尽講に誘うように言われ、その無尽が潰れてしまうことを案じて番頭に真実を打ち明けた女性の姿をなぞらえたものであるだろう。

 第二話「蝉衣」は、正体不明の姫君の観相を依頼された帰りに何者かに襲われた難龍が、自分が観相を見た姫君の正体と何故自分が襲われたのかを探っていく過程で、徳川家斉なきあと、頭角を現して天保の改革を推し進める水野忠邦と、勢力を盛り返そうとする旧幕閣による争いに巻き込まれていくという話である。彼が観相を見たのは、家斉とお伝の方の間にできた娘徳姫で、徳姫の大名家への輿入れによって勢力を取り返そうとした母親であるお伝の方が大きく関係していたのである。

 ただ、普通、「お伝の方」といえば、五代将軍徳川綱吉の側室(瑞春院)で、家斉には多数の側室がいたとは言え、「お伝」という名は見あたらず、また、「徳姫」も見あたらない。これがもし、作者の創作によるなら、天保年間の政争が絡んでいるだけに、「お伝」や「徳姫」という名称には、混同を避けるための工夫がほしいところではある。

 第三話「雨しずく」は、旧知の岡っ引きから他殺死体の身元を割り出すための観相を依頼された南龍が、殺された男が飾り職人で仲間割れの相が出ていたところから始まる。南龍は、自分の観相があたっていることを探るために殺された男の身元を探っていたが、御金蔵破りの口実で大捕物が行われたりして、南龍の昔の遊び仲間が殺されたり、彼自身が捕らわれたりする。南龍は自分を守るためにも、それらの真相を明らかにしようとし、ついに、金座御金改役の後藤三右衛門による貨幣改鋳につながる後藤三右衛門の弟の宗三郎による偽小判作りの事件に行き当たるのである。

 実際には、水野忠邦は、幕府財政の立て直しのために、1835年(天保6年)に銅銭である天保通宝を改鋳している。しかし、含有する金や銀の質を落として、そこから莫大な差益を得ようとする貨幣の改悪が、やがて経済の混乱を招いたのは周知の事実である。本書では、貨幣改鋳に一役買っていた鳥居耀蔵が証拠隠滅のために後藤宗三郎家に火を放って、宗三郎を贋金作りで捕縛したことになっている。

 本書は、いわば捕物帳仕立てである。事件の真相に迫るのが観相師である南龍という人物であるが、謎が政治に絡んだりしているだけに社会現象と関連し、奥深さを見せている。だが、謎そのものが複雑ではなく、比較的あっさり謎解きに進んで行ったりしているきらいがないでもない。それぞれの登場人物たちの深みなどはこれから記されていくのだろうが、本書ではまだそこまでは至っていないような気がする。

 テレビの脚本を書かれていただけに、物語の展開や文章はこなれていて、娯楽時代小説としての筋立ての面白さがある。観相という独自の人間観で人を見ていくというのも、味のある設定だと思っているし、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という姿勢があるのも、あるいは「人を見た目で判断する」のも現代的であるだろうと思う。ただ、こういう小説は書くのに難しいだろうと察したりもする。

 それにしても、今日は寒い。「2・26事件」の時も東京は大雪だったそうだが、今日の寒さは格別のような気がしないでもない。「春よ、来い」そう願う。

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