2012年2月8日水曜日

葉室麟『蜩ノ記』(6)

寒冷前線が通過して緩んだ冬型の気圧配置が戻って来て、寒い日になっている。ヨーロッパでも今年は異常な寒波の襲来になっているが、寒いと、やはり、身も心も縮む気がする。

 さて、葉室麟『蜩ノ記』の最後であるが、やがて、檀野庄三郎と薫は結婚する。それは、次世代の新しい出発であり、本書が希望で終わることの象徴でもある。源吉の父万治も戻って来て、心を入れ替えて働くと言う。村を守るために播磨屋の番頭と郡方役人の矢野啓四郎を手にかけた源兵衛は、亡くなった者を弔うために頭を丸めて長久寺に入ると言う。そして、郁太郎の元服も終わり、十年の歳月をかけて家譜が完成する。秋谷は完成した家譜の原本を長久寺に預けるために慶仙和尚を訪ね、そこで和尚の計らいで「お由の方」と再会する。終わるものと始まるもの、それが圧巻の姿で描かれていく。

 「お由の方」は、秋谷のために茶を点て、二人は静かに昔語りをする。そこには、互いに想いを秘めながらそれぞれ違った道を歩んできた者だけがもつ再会と別れの哀しさが漂う。そして、八月八日の朝、秋谷は普段と変わらずに起き出し、妻の織江に「われらはよき夫婦であったとわたしは思うが、そなたはいかがじゃ」と問いかける。織江は「決して悔いはございませぬ」と言い、秋谷も「わたしもだ」と言い、「ともに眺める景色をいとおしむかのように、ふたりは庭を眺め続けた」(323ページ)のである。そうして秋谷は黙々と切腹に赴いていくのである。

 一方、戸田秋谷に殴られた家老の中根兵右衛門も、こうした秋谷の姿で変わっていく。中根兵右衛門は訪ねてきた水上信吾に「そなたは、秋谷がなにゆえ切腹の命を、何も言わずに受け入れたかわかるか」と尋ね、「われらは源吉なる向山村の百姓の子を死なせてしもうた。本来ならば、わしが責めを負わねばならぬところを、秋谷はわしに代わって源吉に詫びるために切腹をいたすのだ。なればこそ、向山村の百姓たちも秋谷の心を慮り、一揆を思い止まったのであろう」、「それが武士というものだ、と秋谷はわしをなぐって諭しおった。わしは秋谷に大きな借りが出来てしもうた」(324ページ)と言うのである。そして、秋谷の子の成長を待つと語る。

 秋谷の切腹が長久寺の境内で行われた。蜩が一斉に鳴き始めた。秋谷の命が絶たれたことを察した郁太郎は、顔を空に向けて泣くのをこらえ、「父上も源吉も立派に行きました。ふたりに恥じぬよう生きねば、泣くことはゆるされぬと思います」と声を振り絞って語る。「蜩の鳴く声が空から降るように聞こえる」(327ページ)の一文をもって、物語の幕が閉じられている。

 疑うことによってではなく、ただひたすら信じることによって、愚直なまでに愛する者のために限られた年月の中を変わらず坦々と生きていく。この物語はそういう物語である。そして、それを見事なまでに直截に描きだした物語である。

 本書の中程に(186-187ページ)、主人公戸田秋谷の姿を示すものとして、千利休が参禅の師であった古渓和尚から贈られた言葉が用いられている。

 「心空及第して等閑に看れば、風露新たに香る隠逸の花」

 という言葉である。すべてのこだわりを捨ててみれば、世に隠れてはいるが孤高で優れた花の香りがわかる、というほどの意味であろう。物語の中では、長久寺の和尚である慶仙が訪ねて来た郁太郎と薫に父親の秋谷の姿を示すものとして使われているのである。慶仙は、秋谷こそが「隠逸の花」だという。

 だが、これは作者が「かくありたい」と思う姿でもあるだろうし、この作品に託した姿でもあるだろう。世の中に認められても、認められなくても、そんなことには関わりなく、坦々と自分の歩みを続けていく。そういう姿勢がここにはあって胸を打つ。なぜなら、読者であるわたし自身も、たぶんこのまま枯れるようにして生を終えるし、それでいいと思っているが、自分の歩みを坦々と続けることができれば、と願うばかりだからである。

 その意味でも、この作品は誠実に、正直に生きようとしている人たちへの応援の作品でもあるだろう。もちろん、わたし自身は誠実さにも正直さにも欠ける者ではあるが。

 この作品が、2011年3月11日の東北大震災の後で出たことも大きな意味があるかもしれない。未曾有の破壊と福島の原子力発電所の事故で、ただ茫然と佇むしかない中で、「ひたすらに自分の道を歩むこと」を最後まで貫いた主人公の姿に、凛とした生き方があることを覚えることができるからである。「時が良くても悪くても」、うまくいってもいかなくても、世間の評価がどうであれ、そんなことに関わりなく、自分の心に誠実に歩み続けること、そういう姿がこの作品には醸し出されている。

 ともあれ、深い感動をもって読み終えた。完成度の高い名作で、こういう作品が歴史・時代小説の中で出てきたことを心底嬉しく思っている。

5 件のコメント:

  1. 葉室麟さんって知りませんでした。驚きでした。福岡・久留米在住の作家さんだそうですね。地方いればこそ分かることがあると言われてました。そうかもしれません。頑張れ葉室さん、泣かせてください。

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    1. コメント、ありがとうございました。

      昨夜、友人が葉室麟氏の新刊本を知らせてくれました。この人の作品はちょっと買いそろえたいと思っています。NHKの「ブックレビュー」という番組でも出演されていて、素晴らしい人だなあ、と改めて思いましたね。

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  2. 「無双の花」で戦国武将の生きざま、「散り椿」で夫婦の情愛でホロリとさせます。葉室麟さんは私の中で今もっとも輝いている作家です。「蜩ノ記」がラジオドラマで放送されます。NHKFM青春アドベンチャー6月18日から全10話。

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  3. コメント、ありがとうございます。わたしも群を抜いた作家だとつくづく思います。NHKラジオでドラマ化されること、知りませんでした。ラジオはなかなか聴く機会がないのですが、教えてくださりありがとうございました。

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  4. 映画「蜩ノ記」のチラシを入手しました。
    10月の公開なのに東宝も力を入れているようで映画館にもう置いてありました。
    日本の美しい四季を背景に物語が展開されるようで期待が持てそうです。

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