2009年11月7日土曜日

北原亞以子『その夜の雪』

 目覚めた時は雲が薄く広がって、少し肌寒く感じたが、午後からは秋空が広がるのだろう。予報では、晴天であった。

 今日は立冬で、これからは初冬というのがふさわしいのかもしれない。人間の気持ちが重くなる季節の始まりではある。

 昨夜、「焼きサバを上にのせたお寿司」という珍しいお寿司をいただいた。生の新鮮なサバかシメサバが上に乗っている「サバ寿司」は、何度も食べたことはあるが、これは初めてだったのでとても美味しくいただくことができた。戴き物で、東急の袋に入っていたので、東急青葉台店で売っているものだろう。今度自分で買いに行ってみようと思う。

 昨夜、北原亞以子『その夜の雪』(1994年 新潮社 1997年 新潮文庫)を読んだ。ここには、「うさぎ」、「その夜の雪」、「吹きだまり」、「橋を渡って」、「夜鷹蕎麦十六文」、「侘助」、「束の間の話」と題する短編が七編おさめられている。このうちの表題作ともなっている「その夜の雪」は、『慶次郎縁側日記』としてシリーズ化されるものの最初のくだりで、「仏の慶次郎」と呼ばれた人情同心慶次郎が、その愛娘の三千代を失ってしまう時の話である。三千代はふとしたことで暴漢に襲われ、自ら死を遂げ、親ひとり子ひとりで暮らし、ようやく婚約も整って引退を控えていた慶次郎はその犯人を追い、これを探しだすが、ついに、その振り上げた刀をおとすことができなかった。そんな慶次郎の姿を見事な構成と文体で描き出したものである。このシリーズは、以前、ほとんど読んでいたが、改めて北原亞以子の構成の巧みさと飾らないが、しかしじんわりと人間を感じさせる文章を感じた。『その夜の雪』に収められている作品には無理がない。無理がないくらいに何度も練られたものであるだろう。

 「うさぎ」は、男を作って乳飲み子を捨てた元の女房が江戸へ戻って来て、独りで苦労して育てた愛娘が、その母親と会い、母親の方へ気持ちを傾けていくことを知って、孤独を感じ続ける摺り師の峯吉が、ふとしたことで子どもを産めずに離縁されて孤独を噛みしめている縄暖簾(居酒屋で、時には売春もした)で働いている女「お俊」と出会い(「お俊」は、孤独に耐えきれずに子どもをかどわかそうとした)、その「お俊」がうさぎを飼い始めることを知る、という話である。

 何の変哲もない話であるが、孤独を噛みしめて生きなければならない人間の心情が、「うさぎを飼う」ことに巧みに表わされている。「うさぎ」は、淋しさで死ぬこともあると聞いたことがある。本当かどうかは別にして、わたしにも、それがよくわかる。

 「吹きだまり」は、左官の日傭取り(日雇人足)の貧しい暮らしをしている作蔵が爪に火を灯すようにして貯めた金をもって、温泉宿で有名な「春江亭」という料理屋に古金問屋の若旦那と称して行き、そこで働いている女中の「おみち」の窮状を知って、そのためた金を差し出す、という話である。この話の終わりが次のように結んである。

 「俺も二十五か」
 呟いた言葉が部屋に響いた。
 作蔵は、両手で自分の肩を抱いた。寒くてならなかった。
 「お待たせしました」
 酒を持ってきたらしいおみちの声が、ひっそりと聞こえた。(文庫版 139ページ)

 こういう結末は、本当に泣かせる。そして、再び元の貧乏暮らしに戻らなければならない作蔵の姿が目に浮かぶ。ひっそりと、寒さに肩を震わせながら、人は生きていかなければならない。北原亞以子は、そういう人間を慈しむのだろう。市井ものの時代小説の良さが、ここに凝縮されている。
 
 「橋を渡って」は、深川佐賀町の干鰯問屋の妻「おりき」が、夫の浮気を知り、忍耐して耐えようとするが、「お前のことは有難いと思っているよ。でも、女にかまけていたら、わたしが駄目になっちまう・・・」(文庫版 161-162ページ)という言葉を聞き、自分がとるに足りないものとして扱われていることを実感して、その家を密かに出て、口入れ屋(仕事斡旋所)に向かう、という話である。この作品は構成が巧みで、「おりき」の弟夫婦の浮気事件と「おりき」夫の浮気が対比的に語られることによって、いっそう「おりき」の孤独が浮かび上がる。

 人は、自らの孤独を自ら噛みしめながら生きていかなければならない。それは当り前のことかもしれないが、その当り前のことが「とてつもなく淋しくつらく」感じられる時がある。ここに収められている短編は、その淋しさとつらさを謳ったものである。

 「夜鷹蕎麦十六文」は、噺家で、初代志ん生(もっとも、文末の作者注で、初代志ん生は設定されている時代には他界していたが、あえて、登場させたとある)の前座を務める「かん生」が、自ら真打ちにはなれないことを自覚しながら、一時は、自分の芸も粋を心ざす思いも理解せずに、ねんねこ袢纏を着こんで赤ん坊を背負い、がっしりした大きな軀をした野暮を絵にかいたような女房「おちか」ではなく、粋な深川芸者で彼を贔屓にしている「染八」に魅かれていき、初代志ん生の芸には到底及ばないことを知って、慰めを求めて染八のところにも行ったりするが、「おちか」の思いに打たれていくという話である。

 粋な生活を求めて勝手気ままな暮らしをして留守をしている間に、女房の「おちか」は、生活のために茶飯屋で働かなければならなくなり、大家の喜右衛門に口説かれる。「あの亭主は何だね。まともな噺は喋れやしない。生涯、前座で終わっちまうよ」(文庫版 196ページ)と喜右衛門は「おちか」に言い、「あんな男にひっついていたら苦労するばかりだよ。わたしは、それを心配しているんだ」(文庫版 197ページ)と言う。しかし、「おちか」は、本当に貧乏して水ばかり飲まなければならなかった時に、「亭主は、草履を質に入れて、そのお金でわたしに夜鷹蕎麦を食べさせてくれたんだ」「女房に十六文の夜鷹蕎麦を二杯食べさせて、自分は空き腹を抱えて寄席へ行って、高座に上がったとたん、目をまわすばかがどこにいます。裸足で寄席へ出かけて、足に霜焼けをこしらえてくるとんまが、どこにいます」「これはりくつじゃありませんよ。大家さん、わたしゃ、あのとんまが好きでしょうがないんです」と言う(文庫版 198-199ページ)

 これを聞いて、「かん生」は、「あたしも、色が黒くって、男みたような軀つきの、野暮な女が好きだったんだ。ええ、あたしゃ野暮が大好きだよ。粋が何だってんだ、人情噺がどうしたってんだ」(文庫版 199ページ)と思う。そして、「かん生は、用水桶の陰りからそっと立ち上がった。空き腹のまま家に戻り、おちかの帰りを待つつもりだった」(文庫版 199ページ)で物語がくくられる。

 これは、読めば読むほど優れた短編だと思う。主人公の「かん生」と初代志ん生の対比も見事で、「かん生」という二流で終わらなければならない人間の悲哀がにじみ出ているし、粋だが功利的な深川芸者の染八と生活に追われている野暮な「おちか」の対比も見事で、そして、苦労を共にすることができる男女の思いも見事に描かれている。

 そして、「かん生」のような人間にはたくさん出会うし、自分自身もそうかもしれないと思ったりする。しかし、わたし自身は、残念ながら、本当に残念ながら、「おちか」のような女性には出会ったことはない。「おちか」は、自分の子どものおしめを代えるために平然と大店の店先を借りたりもする。彼女の内情の豊かさが、彼女を一所懸命な素直な女として現わされている。だから、この短編がよけいに身にしみる。以前、「自分が好きな人が世界で一番美しい人ですよ」と言われたことがあるが、本当にそうだと思う。

 こういう男と女の姿を、飾らない、しかしよく練られた文体で、しかも構成の見事さで描き出すこの作品は、真に優れた市井物の小説である、とつくづく思う。

 「侘助」の主人公杢助は、以前は日本橋の呉服問屋の手代としてまじめに一所懸命陰日向なく働いていたが、札付きの遊び人で他の男の子を身ごもっている「おそめ」を、古着屋を出してもらえるという条件でもらい、なんとか頑張ってきたが、その「おそめ」が以前の男と駆け落ちをし、自分の店でも存在感をなくし、すべてを捨てて、死んだようになって「物もらい」として生活をしている。その杢助のところに、以前の自分の店で働いていた「おげん」という女がころがりこんでくる。「おげん」は、自分は娘夫婦に世話になって幸せに暮らしていると言うが、実は親戚や知り合いの家に泊まっては、その家から金銭を盗んで暮らしていた孤独でさびしい境遇だった。杢助は、自分の「物もらい」としての生活もたちゆかなくなることを知りつつも、そして、「おげん」が自分のなけなしで貯めた小金を取ろうとしたことも知りつつ、その「おげん」と共に暮らすことにする。

 「おげんが池のほとりを指さした。見ると、松にかこまれた小さな椿が薄赤い花を咲かせている。
 杢助は、ひっそりと咲く花を眺め、泣いているらしいおげんの肩を眺めた。丸くて、厚みのある肩だった」(文庫版 233ページ)

 と描かれている光景がたまらない。こういう感性が、本当にすごいなぁ、と思う。

 「束の間の話」は、鼈甲細工の職人である息子夫婦と暮らしていた「おしま」が、その息子夫婦が嫁の実家ばかりを大切にするのに嫌気がさして、その家を出て、ひとり暮らしを始め、ついに高熱を出して寝込んだ時、同じように息子から馬鹿にされて一文の金もなくなった源七が盗みに入って、その「おしま」を看病し、人と人とが触れ合って生きることのありがたさと喜びを知っていく、という話である。

 この短編も構成がすばらしく、ひとりぼっちになった「おしま」の後悔や、息子に頼ろうとする母親の心情やわがまま、そして、ひとり暮らしで病んだ時のわびしさが描かれ、同じ貧乏長屋に住む隣の夫婦の喧嘩が挿入され、その姿が見事に描き出されている。

 この『その夜の雪』に収録されている短編は、その構成が見事である。無理のない仕方でそれぞれの人物の生活と生きる姿が描き出されている。「ゲラ刷りが真っ赤になる」と言われたそうだが、真に納得である。

 なんだかんだと気ぜわしい日常が続いているが、寂寞感が大きくなるとともに、怠け心が大きくなってきているのを覚えてしまう。自分を叱咤しなければ動けないのかもしれない。

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