2009年11月30日月曜日

佐藤雅美『啓順地獄旅』(1)

 先週までの温かさとは打って変わって、昨夜からしのつく雨が降り、寒さが戻ってきた。今は、雨は止んでいるが灰色の雲に覆われた冬空が広がっている。今日で霜月も終わり、明日から師走なのだから、当然の気候と言えば言えるが、やはり寒いのは苦手である。

 昨日、夕闇が迫る頃に、コートを着込んでマフラーをして、一時間ほど散策に出かけ、近所の家々で飾られているクリスマス・イルミネーションを眺めたりした。途中で雨が降り出したのだが、濡れながらゆっくり歩いた。

 クリスマスのイルミネーションは、厳密に言えば、アドベントが始まる昨日の日曜日から飾りつけるのが本当だが、今では季節の風物詩になっているイルミネーションも、ずいぶん前に飾られるようになり、商魂のたくましさというか、なんでも先へ先へと進みたがる現代人の気質のようなものを感じさせられるものになってしまった。

 ただ、去年あたりからひどい不況のために、派手さがなくなっていて、少しささやかで、それがいい感じでもある。個人的な好みを言えば、闇の中に小さく光を放つ姿の方が好きだ。ただ、省エネで増えているLEDの明かりは、光のもつ温かさがなく、寒々としている。現代の科学技術の光は冷たい。

 一昨日、「あざみ野」の山内図書館に出かけて、新しい本を6冊借りてきた。少し凝り性のわたしの性癖が読書にも如実に表れていて、どうも、これはと思う作家にめぐりあったら、その作家の作品を続けて読むようで、この「独り読む書の記」も、これまでのものを振り返ってみれば、宇江佐真理の後で読み始めた諸田玲子や北原亞以子、そして最近の佐藤雅美の作品が多い。一昨日に借りてきた6冊も、これらの作家の作品である。時代小説の中では、特に、市井物と呼ばれるものが気に入っている。欧米ものに凝ったのは、もうずいぶん昔の話で、10代の後半の頃、カフカやドストエフスキーに熱中したこともあった。その頃のことを、わたしは「思想の季節」と呼んだことがあるが、手当たり次第に読んで、自分の思想形成に大きな影響を与えたものであった。今は、できる限り、気楽に読める物をたくさん選んでいるような気がする。

 そして、一昨日の夜から、佐藤雅美『啓順地獄旅』(2003年 講談社 2006年 講談社文庫)を読んでいる。面白くて読み進めたいのだが、ぼうーと過ごす無為の時間が多くなって、まだ半分ほどである。

 これは、『啓順凶状旅』という作品に続くもので、前作からの物語の流れがあるのだが、本書にも主人公である「啓順」の状況が述べられているので、その物語の展開がわかるようになっている。

 主人公の「啓順」は、かつて多紀安長(これは実在の人物で、1755-1810年に江戸で名医として活躍した人物)の弟子であり、奥医師(将軍家に仕える医師)の大八木長庵(これは創作人物だろう)のもとで漢方医を学んだ医者であるが、ふとしたことから渡世人の世界に入り、江戸町火消しの顔役に息子を殺した犯人と思われ、逃走し、お尋ね者となって、網の目のように張り巡らされた町火消しの顔役の手から逃げ回りながらも、その真相にたどりつくが、その時には真犯人も死んでしまい、逃亡を続けるしかなくなっている人物である。

 その逃亡の先々で、困窮に陥っている者や病める者を見捨てることもできずにいる「心やさしい医師」である啓順が、そのためにまた追手に迫られる緊張感をもつ渡世人であるという、その二律背反性と緊張が物語を面白くする基調となっている。

 この『啓順地獄旅』では、「いつかはいいいえに住んできれいな女房をもらって暮らしたい」と夢見たが、凶状もちの逃亡者となっている啓順が、追手の手を逃れつつ、師の大八木安長から平安期の医師丹波康頼(912-995年)が著した日本最古の医学書である『医心方』の探索を依頼されて京へ向かう姿が描かれたもので、「旅から旅への艱難辛苦の救いのない地獄」が続く中で、自ら窮地に陥りながらも出会った人々の救済を行い続ける出来事をとおして、彼が運命的な転換を遂げていくという話である。

 今はまだ途中なので、それがどういう転換として描き出されていっているのかは、また、読了後にまとめたいと思う。

 今日はこれから、少しというよりだいぶ、仕事をしなければならない。限りのない山積みのものではあるが、『愛することと信じること』のデジタル化も進んでいないのだから、そろそろ、次に取りかからなければならないだろう。明日の用意もしなければ。「はあー」という気分ではあるが。

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