2010年10月25日月曜日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 盗賊かもめ』

 晴れたのは土曜日だけで、昨日は朝から曇り空が垂れ込め、夜は雨になり、少し肌寒い日となり、今日も午後は少し陽が差したりもしたが、朝から雲が垂れ込めていた。雨のひとしずくごとに秋が深まっていくのだろう、街路樹の銀杏も色づき始めている。日曜日のの新聞には紅葉した日光の中禅寺湖の写真が掲載されていた。「日光に行くまではけっこうと言うなかれ」と言われている日光にはいつか行ってみたいと思っている。

 土曜日の夜、早く休みすぎて夜中に目が覚め、坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 盗賊かもめ』(2008年 双葉文庫)を読んだ。坂岡真という作家の作品は初めて読むが、文庫本のカバーの表紙裏によれば、1961年生まれで、大学卒業後に会社勤務をされ、その後作家活動に入られたようで、このシリーズの他に『うっぽぽ同心十手綴り』や『夜鷹人情剣』、『鬼役矢背蔵人介』といったシリーズを書き下ろして書かれているらしい。本作は、このシリーズの11作目とあるので、シリーズ物として息の長い作品の一つだと言えるだろう。

 『照れ降れ長屋風聞帖』は、江戸切り絵図で見れば、江戸の江戸橋北から親爺橋に向かう堀江町3丁目と四丁目の間の道に履物屋と傘屋が並び、通称「照降丁」と呼ばれる横町があり、そこの裏店の長屋で浪人暮らしをしている中年の浅間三左衛門を中心にした物語で、彼と交わりをもち、元会津藩士で剣の修行をしながら浪人となっている若い天童虎之介、正義感の強い八丁堀同心の八尾半四郎といった、いずれも剣の相当な遣い手たちが諸悪と闘っていく物語である。近年、こうした類の作品は、本当にたくさん出されていて、特に、優れた能力を持ちながら貧乏暮らしをしなければならず、普段はそういう能力があることすら見せないが、いざとなったときに力を発揮していくという構造を、いずれもがもっている。

 こういう主人公の姿が、なぜ今の日本の多くのサラリーマンに読まれるのかという社会考察も多く目にすることができるほど、こうした作品が出されているのである。奉行所同心が主人公になった作品もたくさんあり、その多くが、出世と言うところとは無縁のところに置かれていた奉行所の同心の地位が、閉鎖的な色合いを濃くしてきている今の日本社会の反映と言えるかも知れない。

 それはともかく、『照れ降れ長屋風聞帖』の主人公である浅間三左衛門は、小太刀の遣い手であり、知恵も機転も利き、洞察力もあるが、「おまつ」という十分の一屋(結婚仲介業)を営む女性の亭主として養われ、普段は「ぼさぼさの頭髪に無精髭、よれよれの着流しを纏い、暢気そうな顔つき」(27ページ)の痩せ浪人である。彼は家事もこなせば子守もし、およそ侍らしからぬ子持ちの中年男なのである。くたびれた中年の代表選手と言っても良いかも知れず、その意味では、この類の時代小説の一つの類型化された主人公のひとりである。

 『照れ降れ長屋風聞帖 盗賊かもめ』は、表題作の他に「ぼたもち」、「枯露柿」の三話からなる連作短編集だが、物語そのものは、それぞれ中心となって活躍する人物も事件の内容も異なったものとなっている。

 第一話の「盗賊かもめ」は、主人公の浅間三左衛門を師と仰いでいる元会津藩士の青年剣士である天童虎之介が、思いを寄せる裏長屋の隣の娘「おそで」を連れて千駄木の菊人形を見に出かけたときに、子どもの拐かし(誘拐)現場に出くわし、それを未然に防いだことから、子どもの父親である仏具屋の主にいたく感謝され、歓待されるところから始まる。

 仏具屋の主は、町の世話をする町役人もつとめ、将軍が見ることから「天下祭」とも呼ばれていた「神田祭」の世話もしており、天童虎之介一行を観覧席に誘ったりするが、実は、盗っ人の上前をはねる「盗賊かもめ」と呼ばれる人物であり、その蓄えた金を狙って盗賊たちが子どもの誘拐や夜襲などを企んでいたのである。

 仏具屋の主の金を狙っていたのは、籐八と呼ばれる盗っ人を頭とする一味で、彼らは神田祭を利用して、将軍上欄で右往左往する江戸城の御金蔵から大胆不敵にも金を盗むことを計画していたのである。そして、そのことを知った天童虎之介や浅間三左衛門、奉行所同心の八尾半四郎らがその企てを粉砕していくというものである。

 第二話の「ぼたもち」は、野菜売りで「変な顔のぼたもち」と呼ばれて馬鹿にされていた娘が商家の主殺しの罪で大番屋(牢)に入れられるところに出くわした同心の八尾半四郎が、その事件の真相をさぐり、権力を持つ目付(武士を取り締まる役人)が多額の借金を商家からしており、その借金を消すために商家の主を謀殺したことを明白にしていく話である。目付は奉行所内与力(奉行の家臣)とも結託し、権力による圧力をかけるが、半四郎は物ともせずに、彼が密かに思いを寄せている隠密の雪乃の助けで真相を明らかにしていく。

 第三話の「枯露柿」は、ふとした誤解で夜鷹(娼婦)の亭主から嫉妬を被り、腹を刺された浅野三左衛門であったが、その夜鷹が何者かに殺されたことを知り、その事件の裏に、将軍お目見えの格をもつ強欲で好色な検校(盲人の高官位者で、金貸し業が公認されていた)がいることを探り出し、その検校と対決していく話である。彼は検校の策略にはまり水井戸に閉じ込められるが、かろうじて脱出し、天童虎之介、八尾半四郎らの助けで検校一味を一網打尽にしていくのである。

 こうした事件の顛末が物語られているのだが、主人公の設定はともかく、わたしには事件の顛末や解決がどうも安易すぎるし、理に適わないところが多すぎる気がしてならなかった。たとえば、第一話「盗賊かもめ」では、江戸城の御金蔵破りが取り扱われるが、描かれている籐八という小悪党では、そのような大きな事件を起こすことは不可能ではないかと思ってしまうのである。また、事件の真相を浅間三左衛門が解いていくのだが、御金蔵破りという巧妙に仕組まれたはずの事件の真相が、そんなに簡単にわかっていいのだろうか、「盗賊かもめ」と呼ばれる仏具屋の主が誘拐されかけた子どもの実父ではなく、ただ演じていただけで、実母が金遣いの荒い派手な女房であるのも、どこかちぐはぐな気がした。

 確かに、歴史上、江戸城の御金蔵は何度か破られているし、神田祭にかこつけてそれが行われたという話も、正確には覚えていないが池波正太郎か誰かの小説にあったように思うが、そこには相当の資金力と人力がいるのであり、御金蔵の鍵番が一味の女の色香で御金蔵の鍵を開けていたというのも安直なような気がした。

 また、第三話の「枯露柿」で主人公の浅間三左衛門が検校の屋敷の水牢に落とされるが、畳の部屋の真下に水牢を作り、これを引き上げるのに滑車を使ったというのは、物理的に考えて荒唐無稽のような気がしたし、助けに来た八尾半四郎が担ぎ込まれた鐘の中に身を隠しているのだが、ひとりの人間を隠すことができるような大きな鐘が半鐘のような高い音を出すことができるとも思われない。また、正義漢が策略にはまって暗い水牢に落とされるという話も、どこかで読んだような気がする。

 読み進むに従い、どこか安価に作られた話のような気がしてしまったのである。文章表現も、江戸切り絵図をなぞっていくようなところがあって、どこかごつごつした感じさえした。言葉が事柄の羅列であれば、言外の言がなくなる。書き下ろしという執筆手段では、推敲はじゅぶんではないだろう。ただ、主人公が仲人仲介業(十分の一屋)を営む女房に養われ、子煩悩で、人がいいという設定は魅力的ではある。

 もちろん、この作品一つでこのシリーズの全部を語ることはできないし、作者についても語ることはできないだろう。
 
 今日、メールを書こうと思っていた熊本のSさんからメールが届いた。嬉しい限りである。

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