2011年10月5日水曜日

宇江佐真理『なでしこ御用帖』

 朝から冷たい雨が降って寒い。気象庁によると11月下旬の気温だそうで、暖房が恋しくさえある。片づけなければならない仕事が溜まってきているのだが、気力が今ひとつで、自分に甘いわたしとしてはすぐに安易な方に流されがちになる。

 昨夜、宇江佐真理『なでしこ御用帖』(2009年 集英社)を、やはり、疲れた時などはこの人の作品は格別にいい、などと思いながら読んでいた。読み始めてすぐに、これが『斬られ権佐』(2002年 集英社)の主人公「権佐」の孫に当たる人たちの物語であることを知って、「斬られ権佐」の身を捨てて愛する者を守っていく姿が彷彿とし、妙に嬉しくなった。

 父親である「斬られ権佐」の命と引き替えに助けられた娘の「お蘭」は、父親が小者(探索のための手先)として働いていた同心の家に養子となった麦倉洞雄と結婚し、三人の子どもを設けている。洞雄は、「お蘭」の母親で「権佐」がこの上もなく愛した女医の後を受けて町医者をしている。物語は、その三人の子どもたちを中心にして、特に「権佐」の孫娘であり、人々から「なでしこちゃん」と呼ばれて慕われている「お紺」の活躍を描いたものである。

 長男の助一郎は、祖母や父親と同じく医者の道を進み、小石川養生所で見習いとして働いている。次男の流吉は、自分が医者に向かないことを知って手先が器用だったこともあり、祖父の「権佐」と同じように仕立屋の道を進んでいる。母親の「お蘭」がかなり腕のいい仕立屋をしていることもあり、母親から着物の仕立て方を習ったのである。十七歳の娘の「お紺」は、父親の医業の手伝いをしながら、祖父の「権佐」が抜群の探索方であった血筋を受けて、好奇心旺盛に捕り物などの事件に関心をもっている。「お紺」は、表向きはおとなしく楚々とした風情があって器量よしで、「なでしこちゃん」と呼ばれて親しまれているが、気丈で、酒がめっぽう好きな気っぷのいい娘である。麦倉家は、この「お紺」の気丈さや、気っぷの良さ、爽やかな明るさで救われているところがあり、それが作品の随所でよく表されている。お紺は「なにいってんだい」とか「なにやってんだい」というのが口癖である。

 物語は、次男の流吉が借りている家の大家である老婆が殺されるところから始まり、流吉に嫌疑がかけられて番屋に引っ張られるところから始まる。流吉は第一発見者で、疑われて大番屋にまでしょっ引かれる。それを知った「お紺」が、流吉を助けるために、「お紺」を娘のように可愛がっている岡っ引き(目明かし)の金蔵とともに、事件現場に行き、殺された老婆の指に紺色の染料が付着していることを発見して、犯人が、商売が傾いたために老婆に与えていた家作(家と土地)を奪い取ろうとした染物屋の若主人であることをつきとめていくのである。この事件で、流吉は勤めていた呉服屋を首になり、麦倉家に戻ってきて、母親と一緒に仕立物をして暮らしていく道を歩むことになる(第一話「八丁堀のなでしこ」)。

 取り扱われている事件の概要を記していくと、第二話「養生所の桜草」は、長男の助一郎が勤める小石川養生所で自死事件が相次ぎ、女看護人が暴行を受けるという事件が発生したことを受けて、「お紺」が女看護人として養生所に潜り込み、事件の真相を暴いて、養生所を覆っていた不穏な空気を一掃させていく話である。

 養生所の看護人の立場を笠にしての横暴さに頭を痛めていた助一郎の話を聞き、「お紺」が探索してみると、看護人の立場を利用して病人に無理な借金をさせたり、女を暴行したり、非道な振る舞いをしていた男がいて、「お紺」は奉行所の同心の手を借りてこの男の悪事を暴いていくのである。

 第三話「路地のあじさい」は、麦倉医院の患者で死病を患っている居酒屋の女将にまつわる殺人事件が起き、小料理屋の女将にかけられた嫌疑を事件現場の丹念な捜索から「お紺」が晴らしていく話である。そして、第四話「吾亦紅さみし」は、麦倉医院の患者としてやってきた南町奉行所の書物同心で絵を内職にしていた男が、町奉行から頼まれた祝いの絵を妻から切り刻まれて、お役を退いて突然疾走した出来事の顛末を「お紺」が探っていくというものである。

 第五話「寒夜のつわぶき」は、猫を利用して盗みを働いていた盗賊の話である。麦倉家の勝手口に大きな猫がやってくるようになり、その背後には猫を目当ての家に行かせて、その猫を可愛がる振りをしながら家の内情を探り、盗みを働いていた男がいることを知り、麦倉家が狙われるのである。「お紺」はその男を見かけ不審に思うが、夜、薬の仕分けをしているときに、ついに強盗が麦倉家に入ってきて、麦倉家の一同でその男を取り押さえるのである。この事件で、麦倉家で医者見習いをしていた要之助が刺されて、それをきっかけに「お紺」が自分の結婚相手を決めるのである。そのことについては後述する。

 第六話「花咲き小町」は、長男の助一郎が勤める小石川養生所から、助一郎が結婚したいと思っている女性と養生所で下男として働いている男を連れてきて、しばらく麦倉家で過ごすことになり、口がきけない下男の隠された過去を探し出して、元の旗本家に送り出していくという話と、「お紺」の結婚の話である。

 これらの事件そのものは、特別に深い謎があるわけではなく、複雑なものでは決してないが、「お紺」を中心にした麦倉家の温かさがあり、特に後半で「お紺」が自分の結婚相手にだれを選ぶのかということで、人間の値というものがしみじみと語られているのが、作者らしい人間観だと思った。

 第二話の小石川養生所の事件から登場した定町廻り同心の有賀勝興は、「お紺」に惚れ、南町奉行所吟味方与力をしている「お紺」の叔父を介して結婚を申し出る。「お紺」は、この叔父を頼りにしているところもあったし、叔父は有賀勝興の人となりを承知していたから「お紺」の伴侶としてよいと思ったのである。有賀勝興は自信にあふれた男であるが、その分、自尊心が強い。「お紺」は、昔、幼馴染みで医者となった男に想いを寄せていたが、彼は長崎に修行に行き、そこで結婚しているし、この縁談を断れば、もう後がないかも知れないという不安もあって、気持ちが揺れる。

 他方、麦倉家で医者の見習いをしている要之助は、みんなから「ぼんくら」と言われ、頼りがいがなく、どこの医者も弟子として取ることを嫌ったのを父親の縁で麦倉家で引き受けているような男であったが、「お紺」に密かに想いを寄せ、ついに「お紺」に思いを打ち明けるが、「しっかりしなさいよ」といわれて落胆している。要之助は、「お紺」が一緒にいれば、自分は医者としてやっていけそうだと言って、「お紺」に、そんなに情けないことでどうすると言われたのだった。要之助はとことん優しい性格をしていて、「お紺」を心底想っている。

 「お紺」は迷い続けるが、有賀勝興の厳しい人柄に触れ、「二六時中、あんなふうに叱られたんじゃ、身がもたないよ。あたしは、もっと優しくされたい」(218ページ)ということに気がついていくのである。そして、第五話で、襲ってきた強盗に立ち向かったが呆気なく刺されてしまった要之助を見て、祖母が祖父の「斬られ権佐」と結婚したときのように、要之助と結婚する決心をするのである。

 自尊心を傷つけられた有賀勝興は、「お紺」を手籠めにしたりしようと暴挙を働いたりするが、要之助はひたすら「お紺」の身を案じていく。こういう二人の男が描かれ、人が何によって幸せになるのかがさりげなく語られていくのである。

 押し出しも立派で、生活もまあ安定し、奥様として生きることができる男と、見習いで先行きが不安定で、頼りないが、心底「お紺」を大切にしようとする男、この二人の対比はなかなか味のある書き方になている。こうして、麦倉家は、医者の父親と仕立物をする母親、養生所で見習い意志をする長男の助一郎とその許嫁、母親と仕立物をする次男の流吉、「お紺」と要之助のすべてが、互いに思いやりをもち、深い愛情で繋がって、温かく明るい人たちで満たされている。これを幸いと言わずして、何を幸いと言うだろう。

 この作品は、そういう人の幸いを描いた作品であると思う。愛する者のために命さえ捨てる「斬られ権佐」の血が流れている家庭なのである。彼らには、人を除け者にしたり、非難したり、人を陥れたりする所はみじんもない。ただ、よさを受け入れていく人々なのである。

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