2013年12月16日月曜日

千野隆司『寺侍 市之丞』

 冬晴れの寒い日々が続いている。つい先ごろ、この5日に死去された南アフリカの元大統領であったネルソン・マンデラ氏のことを考えていて、その自伝に「憎むことではなく、愛することを学ぶ」という言葉があり、また、8日に放映されたNHK大河ドラマの『八重の桜』で、新島襄の後を受けて同志社の総長代理を務めた山本覚馬が同志社の卒業生を前にしての最後のメッセージとして、旧約聖書の『イザヤ書』を引用して、「もはや戦うことを学ばない」と語る場面があった。日清戦争が始まろうとしていた直前のことである。もちろん、NHKの大河ドラマの方は少し脚色があるだろう。

 しかし、この二つを重ね合わせて、「もう争うことや戦うことを学ぶのではなく、愛することを学んで生きる」ということがいたく心に残った。真実の愛というものは、愛以外の手段を取らないのだから、「愛するために戦う」というのは詭弁に過ぎないが、それでも、人は生存のための様々な戦いに遭遇する。争いや戦いを強いられることもあるだろう。だが、「もう戦うことを学ばない」で、自分の人生を「愛することを学ぶ人生」にしていく。そんなことを少し考えていた。そこでの「愛」は、やはり「忍耐」となる。真に「愛は忍耐」なのである。人の自由を認めることは、忍耐のいる仕事である。

 そんなことを考えながら、千野隆司『寺侍 市之丞』(2011年 光文社文庫)を気楽に読んだ。千野隆司の作風は、初期の『札差市三郎の女房』(2000年 角川春樹事務所)から同心物を経て若干変わってきているように思うが、このところは彼の筆力の豊かさが発揮されてスラスラと流れるような展開でシリーズ化される作品が多い気がする。

 本書も、おそらくはシリーズ化が前提になったような作品であるが、寺に雇われる「寺侍」という変わった境遇の主人公の話で、どちらかといえば成功譚のような展開になっている。

 主人公の棚橋市之丞は、400石の旗本の次男で、両親と兄夫婦と同居する部屋住みの身分であるが、彼の母親が寺社奉行をしている福山藩主の阿部正精(あべ まさきよ)に奉公に上がっていたことがある関係で、阿部正精の依頼で下谷山伏町の青柳山大恩寺の再建に手を貸すようになる、という展開である。

 ちなみに、阿部正精は江戸時代後期の実在の人物で、1775年に生まれ、1826年に死去し、松平定信が行った寛政の改革の厳しさを嫌った徳川家斉によって幕府老中を務めた人で、彼が寺社奉行であったのは奏者番との兼務の形で1806年(文化3年)からで、その後病のために一時辞任するが、再任されて、1817年(文化14年)に老中となるまでの時期である。彼は、寛政の改革で冷え切った江戸の経済の再建のために尽力したと言われている。

 本書は、その阿部正精の経済再建策の一つとして、うらぶれかけている大恩寺を盛り立て、それによって門前町などの経済復興を棚橋市之丞が秘仏開帳などの興行を行って成し遂げようとするもので、現代の疲弊した地方経済の立て直しに奔走する姿に重なるようなものとしても描かれている。主人公の棚橋市之丞は、剣の免許皆伝の腕を持つ達人であるが、世の仕組みとしての経済に強く関心もあり、およそ武士らしくないところのあるどこかのんびりしたとぼけた性格の持ち主として描かれている。

 物語は、大恩寺の門前茶屋の娘で、長谷川国豊(歌川国豊をもじったものであろう)という絵師が錦絵に描いた美女(笠森お仙をもじったものであろう)が何者かに殺されるところから始まる。その美女のおかげで、大恩寺は人があふれるほどだったが、彼女の死後はさっぱりさびれていくのである。

 そこで、寺社奉行阿部正精の依頼を受けて棚橋市之丞が寺の再建に乗り出すことになるのだが、御開帳をして成功した寺と失敗した寺を調べ、成功に必要な策を講じていくのだが、その復興を妨げる者たちが現れてくる。茶屋の看板娘を殺した者で、巧妙に権力を用いたり、刺客を放ったりしていく。復興策と殺人事件の解決が交錯していく。また、そこには阿部正精の台頭を喜ばない幕閣が加わって行ったりする。

 物語の結論から言えば、大恩寺の御開帳事業は見事に成功して、殺人事件も解決されていくのだが、本書が、たとえば山本一力などが描く事業成功譚と異なっているのは、主人公に力みがないように、その恋を間に挟んだり、大奥や芝居小屋などの人物たちが登場したりするように、工夫が凝らされている点である。その点で作者の持つ柔らかさが発揮されているとも言えるだろう。そして、力みのない成功譚は娯楽読み物としては面白いのである。

 しかし、なぜ時代小説で成功譚が書かれ、それが広く読まれるのかは、一考することが必要かもしれないとも思う。ニーチェ曰く、「功利主義(利を求めること)は奴隷の道徳である。」「利」の奴隷。それが現代人の姿でもある気がする。

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