積乱雲が立ち上り、強い日差しがうだるような熱気を孕んで降り注いでいる。炎天というより炎地という方がいいかもしれない。
月曜日(2日)の夜から多岐川恭『江戸三尺の空』(1968年 東京文芸社 1998年新潮文庫)を読んでいた。文庫版で573ページもの長編であるが、登場人物のほとんどすべては、いわゆる「悪人」である。「悪人」というより、自己の欲望だけに忠実に生きている人間たちで、利が一致すれば共同するが対立すれば躊躇なく裏切り、徹底した個人主義者たちである。
主人公の音次は、強盗殺人の罪で獄門に処され、刑場に引き回される途中で縄抜けをして逃亡する。自分を裏切った元の仲間を殺すためである。彼の逃亡に金で手を貸した牢医者も小悪人で、人の弱みを見つけては強請を働くし、その情婦でもあった「おりゅう」は、自分の美貌を徹底的に利用して金や利になる男であれば誰とでも寝て、手玉にとり、平然と世渡りをしている女であり、彼女の情夫のひとりであり牢医者や「おりゅう」や寺を利用しての盗品の売買や妾の斡旋(男に女を、女に男をあてがう)などの悪事の元締め的存在で、城の茶坊主は、地位を利用してずる賢く裏で悪徳を働き人物である。
こうした悪の渦巻く世界の中で、音次と微妙な関係を持ちながら翻弄されていくぐれた大店の若旦那や女たち、悪の元締めの茶坊主と関係する武家が登場するし、利のためには悪事に手を染め、大店の乗っ取りなどを企む悪徳岡っ引きも登場してくる。彼らはリアリストであり、冷徹である。
他方、もうひとりの主人公で、音次の縄抜けの責めで自害したと思われる牢役人の息子の角之助が登場し、父の無念を晴らすために音次を捕らえるために奔走する。彼は貧乏牢役人の後を継がずに、父の意志を受けて商家に養子に出て、そこで許嫁もいたが、父の自害の真相を探るために岡っ引きの手下となって悪事の世界に入り、音次の行くへを探索するのである。
物語は、この角之助と音次の対決を中心に進んで行くが、音次の方が一枚も二枚も上手であり、また、人生と人間の機知に富んでいる。だから、決して一筋縄ではいかない。しかし、音次は自分を追う角之助が自分の弟に似ていることなどもあって、彼を殺さずに逃がしてしまうところもある。音次は悪を悪とも思わぬ割り切ったドライな人間だが、なぜか人を惹きつける魅力を持っている。
結局、悪はすべて滅び、音次は角之助に捕らえられるが、角之助は音次を追う途中で、角之助の父親が、実は音次が縄抜けしたからではなく、腐敗した牢役人の不正に端を発する事件で自害したという裏の裏がわかったりする。
本書は、こうした展開が実に見事な物語構成の中で語られていく。善悪というものが存在するのではなく、多々人の欲望と利の追求、保身といったものが存在するのであり、本書が勧善懲悪とは無縁のところで人間を描いているところがいい。多岐川恭が描く世界は、悪にしても悪の理想のような所があるが、物語作品としては絶妙なおもしろさをもっている。
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