2010年8月17日火曜日

澤田ふじ子『聖護院の仇討 足引き寺閻魔帳』

 今年の夏は格別暑い日が続いているが、昨日はまた特別暑く、都内では摂氏38度を越えたところも出た。湿気も多く、夜になっても気温が下がることはなかった。今日も同じような猛暑日になって、朝からうんざりする熱気がこもっている。

 それでも、昨日のお昼からようやく書斎のエアコンが機能しはじめ、幾分助かっている。だからといって仕事がはかどるわけでは決してないが。

 二日ほどかけて澤田ふじ子『聖護院の仇討 足引き寺閻魔帳』(2000年 徳間書店 2003年 徳間文庫)を読んだ。7話からなる短編連作で、分量も多いわけではないが、なんとなく読み進みづらかったのは、登場人物たちの京都弁の饒舌さになじめなかったし、会話の言葉使いに人物の特徴があまり感じられないような気がしたし、勧善懲悪の物語そのものに、いささかうんざりしていたからかも知れない。

 「足引き寺」というのは、京都の町の人々が法では裁けない悪人を懲らしめ(悪人の足を引く)、恨みを晴らしてくれる寺があると信じている寺のことで、いわば「仕事人」とか「仕掛け人」という恨みを晴らす人たちの京都版とでもいうものである。

 元々、法で裁けないような苦労や悲しみを背負わされた人の恨みを晴らすという発想は池波正太郎の『仕掛け人梅安』があって、映画化もされていたので、澤田ふじ子の『足引き寺閻魔帳』シリーズ(巻末の作品リストによれば3作出されている)の発想が新しいものでは決してない。

 もちろん、登場人物たちは、地蔵寺(足引き寺)の住職の宗徳、幼なじみで西町奉行所同心の蓮根左仲、左仲の手下で羅宇屋(煙管屋)の与惣次、女絵師のお琳、そして紀州犬の「豪」の四人と一匹で、それぞれの過去もあるし、特に紀州犬の活躍が光ったりするし、京都らしい風情もあり、たとえば第四話「闇の坂」で、散々苦労してようやく畳職人と夫婦になったのもつかの間、拐かされて枕絵のモデルとしてもてあそばれていた女性を彼らが助け出した後で、夫に顔向けできないような状態にされて去っていこうとする妻に、畳職人の夫が「わしのところにもどってこなんだら、お前はこれから闇の坂を、ずっと転げ落ちていくことになるねんで」(文庫版 170ページ)と呼びかける人情場面も描かれている。

 しかし、悪を懲らしめる正義というものを認めないわたしには、足引き寺の仕事人たちが下す「悪」の判断が、悪は悪ではあるが、どこか必然性を欠くように思えてならなかった。「正義」もまた「欲」の一つの形態に過ぎないと思っているからだろう。恨みを晴らすという思いも、個人的にあまり縁がない。「罪のゆるし」の別次元を考えるからかも知れない。一般的に言っても、現象の正悪の判断というのは、どこか底が浅いもののように思えてならない。だからといって正義を行うことに意味がないとは思っていないが。

 それにしても、この作品では男性が饒舌なのに比して女性が寡黙で、あまり女性が描かれないのは何故だろう。作品の内容が、恨みを晴らす「仕事人」の物語であり、それが力業で為されるから、老人や子どもや女性を弱者と見立てて、その弱者を助けるという勢いの中で、男性の姿が描かれるのかも知れないが、澤田ふじ子の作品を読むのはこれが初めてだから、彼女の文学傾向を知らないので、何とも言えないところがある。

 京都は全くなじみがないというわけではなく、よく京都に出かけていたが、こうして改めて京都弁を読むと、京都弁には人格の特徴が現れないような仕組みになっているのがわかるような気がする。多種多様な人間が住んだ京都では、人格は隠して、うまく人々とつきあっていく方法が言葉で採られたのかも知れないと思ったりもする。

 今日は図書館に出かけたいが、この暑さで躊躇している。食料品の買い出しにも出かけなければならないが、さて、どうしたものだろう。とりあえずは、仕事だろう。

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