2010年8月13日金曜日

諸田玲子『べっぴん あくじゃれ瓢六捕物帳』

 日本海を北上していった台風の余波で、朝から曇り空が広がっているが、暑さには変わりがなく、あい変わらず熱中症による死亡記事が新聞紙上に掲載され続けている。秋も立ってはいるのだが、気配はほとんどない。ただ、少し風が吹いているので夕暮れの散策にはいいかもしれない。

 昨夜、眠れぬままに諸田玲子『べっぴん あくじゃれ瓢六捕物帳』(2009年 文藝春秋社)を一気に読んでしまった。これは、以前読んだ『あくじゃれ瓢六捕物帳』(2001年)と『こんちき あくじゃれ瓢六捕物帳』(2005年)に続く、シリーズ化された第3作目で、4年に一度の割合でこのシリーズが出されていることになるものの現時点での最新作である。

 長崎の古物商「綺羅屋」の息子で、オランダ語の通訳もし、蘭医学、天文学、本草学などの知識もあって、本物と偽物の目利きもなかなかのもので、唐絵目利きをする六兵衛が、悪徳商人と役人が絡む密輸事件に巻き込まれ、それを解決するが、厭になり、長崎を出て江戸へ出てきて、「瓢六」と呼ばれるようになり、賭博の咎で捕縛され入牢する。しかし、その知恵と才覚に惚れ込んだ奉行所の与力と同心によって捕物の手伝いをすることを条件に出獄を許され、同心との信頼と友情を深めながら、与力の依頼でいくつかの難事件を解決していくというのが、このシリーズの大まかな格子である。

 瓢六はなかなかの男前で、べた惚れの美貌の自前芸者(自前というのは、借金もなく雇われてもいない独立した芸者ということ)の「お袖」がおり、「お袖」は、江戸前の気風の良さと瓢六への並々ならぬ愛情の深さをもっているが、その分、悋気が激しい女で、雌猫でさえ瓢六に近づくのを嫌うところがあるが、いつも、瓢六を助けていく女性である。

 瓢六はお袖の家に転がり込んではいるが、幕政を揶揄したり、権威をかさに着た人間や悪徳武士、商人を懲らしめるような瓦版を仲間と組んで出したりしながら、与力からの事件の探索の依頼を同心と共同しながら行っていく。

 今回の事件は、瓦版がお上に睨まれて休止状態となっているために瓢六と瓦版を作っていた貧乏長屋の仲間たちが働いていた一膳飯屋の主である杵蔵にかかわる事件で、杵蔵は、もとは料理人だったが、権威や権力を振う者への反骨精神をもち、米騒動の打ち壊しを影で組織したりする切れ者で、彼の一膳飯屋は悪の世界の入り口ともなっている。杵蔵は、元締め的な存在であり、唯一、瓢六を信じているところがある。瓢六自身が悪行を働くわけでは決してないが、瓢六もまた杵蔵を信頼し、頼りにしている。

 ところが、その杵蔵に、まるで婉曲に恨みを晴らすかのような事件が次々と襲ってくる。杵蔵が糸を引いた打ち壊しの最中に、大金の盗難事件が起こり、その事件を知っていた商家の出戻り娘が殺される。瓢六が一緒に瓦版を出して親しくしていた版元が殺され、そこに杵蔵が使っていた包丁が残されていたりする。瓢六はその事件の陰に、杵蔵の過去が関係していることを探り出し、それが、杵蔵が昔惚れていた女房との間にできていた杵蔵の娘の恨みによることを明らかにしていくのである。

 杵蔵は、惚れた女房が弟子に手篭めにされたことに腹を立て、身重であることも知らずに追い出し、そこから悪の世界に入って行ったのだが、追い出された女房は、頼りもなく、身を持ち崩して、ついに自分を手篭めにした男の下で過ごして、娘を託して死ぬ。不幸な事件をきっかけにそうなってしまったが、杵蔵も追い出された女房も、互いに惚れあっていたのである。そして、そのことで彼女を手篭めにした男もついに彼女の心を手に入れることができずに、育てている娘にあることないこと吹きこんで杵蔵を悪者に仕立て、娘は杵蔵に深い恨みを抱くようになったのである。

 杵蔵は自分に娘がいることを知らずにいたが、そのことを知り、自分を恨んで殺人を犯してしまった娘と心中する。

 この大筋の事件の間に、瓢六と信頼を深めていた固物の同心は、瓢六に恋の指南を仰ぎながら、ついに思いを遂げて結ばれるし、瓢六は、自分の怠け心に気がついて、惚れあったお袖とちょっとしたことで喧嘩をしてお袖の家を出ていくが、自分の道を探し始めたりする。お袖はそんな瓢六を深く理解して、瓢六を信じて待ち続けるようになる。お袖は自前の芸者としての誇りと働きよりも瓢六との関係を大事にしていくようになるのである。ほんの些細なことで人が切れてしまい、不幸になることを感じつつも、何が大事かをよく見極めて、お袖も瓢六も互いの愛情と信頼を深めていく姿が描き出されていく。また、瓢六の周りにいる人間たちの信頼関係の深さも描かれていく。お互いにお互いの存在を「ありがたい」と思う気持ちを持って生きている人間の嬉しさがあふれている。人の愛情の深さはそのありがたさの深さである

 今回の作品も凝っていて、各章の始まりに杵蔵の娘の独白が少しずつ入り、それが物語全体の構成を引っ張っていく構造がとられている。この作品には、瓢六の鋭い才覚や明察は少し影をひそめ、その分、彼の自分の生き方を模索する姿が描き出されている。何でもすることができるようであるということは、実は何もすることがないということで、才能ある人間の悩みはそこでは深いものがある。そうした姿が瓢六の模索の姿によく表わされているのである。

 人の思いやりの姿を描くこのシリーズは、まだ三作しか出されていないが、息の長いシリーズになてほしいと思っている。

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