2011年6月8日水曜日

南原幹雄『見廻組暗殺録』

 梅雨らしいといえば梅雨らしい雨模様の空が広がり、高い湿度が少々気分を萎えさせる。ひとつひとつのことにじっくり取り組みたいと願っているのだが、なかなかそうもいかない忙しない日常があって、この日常を早く切り捨てたいという思いが再び鎌首を持ち上げたりする。今頃の季節は仕事や生活に疲れを覚える時期からかもしれない。

 昨夜は、南原幹雄『見廻組暗殺録』(1995年 徳間書店 1998年 徳間文庫)を読んだ。

 幕末の騒然とした京都で跋扈した新撰組については、それぞれの人物についても含めて数多くの小説や研究書もたくさん出されて、いわばひとつの定説のようなものも出来上がっているが、同じ江戸幕府の京都守護職松平容保の配下におかれて、新撰組と並んで京都治安部隊であった京都見廻組については、一般には、せいぜい、坂本龍馬暗殺の実行部隊ではなかったかというぐらいでしか名前が挙がってこないところがある。

 京都見廻組は、1864年(元治元年)に、騒然としていた京都の治安維持のために幕府の軍事教練所であった「講武所」出身の旗本や御家人の次男・三男から隊員を募集して組織され、新撰組と並んで京都守護職の管轄下に置かれた特殊警察のような組織であった。最初の組織の長は、蒔田広隆と松平康正で、構成員は蒔田広隆の浅生藩(現:岡山県)の藩士と旗本であった松平康正が募集した幕臣で、後に増員されたりしている。松平康正などは、僅か数年で辞任し、組織の長は数年ごとに変わっている。しかし、実質的な指揮官は「与頭」と呼ばれる佐々木只三郎で、佐々木只三郎は、幕府「講武所」師範で小太刀の名手であったと言われている。

 この佐々木只三郎の下で京都見廻組は長州藩士殺害などを行っていくが、新撰組に比して遅れがちな行動しかとれなかったとも言われる。ちなみに、この佐々木只三郎は龍馬暗殺にも関係したと言われるが、真偽は定かではなく、龍馬の暗殺には政治的な裏があったと、わたしは思っている。

 坂本龍馬暗殺について記せば、明治2年になって函館で捕縛された元京都見廻組の組士だった今井信郎が佐々木只三郎以下七名で龍馬を襲ったと供述し、明治44年にも同じく見廻組士だった渡辺篤も龍馬暗殺に加わったと明かしたことから(二人の証言には食い違いがあって信憑性に欠けるところがある)、京都河原町の醤油屋(酢屋)の近江屋で龍馬を襲った人物の名前として、佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安二(次)郎、桂早(隼)之助、土肥仲蔵、桜井大三郎(今井の供述には渡辺篤は出てこない)などの名前があがり、今井の供述では、佐々木は階下で待機し、今井と土肥、桜井は見張り役だったという。

 この供述の信憑性は薄いところがあるのだが(幕府側は龍馬殺害の禁令を既に出しており、幕命によって動く見廻組が組織をあげて暗殺したということなどは考えにくいなど)、たとえこれらの見廻組が龍馬暗殺の実行犯だったとしても、龍馬に対してはいくつかの思惑が働いており(薩摩の大久保利通などは薩土同盟の後、「目障りごわんどんな、あん男は」と龍馬に対して目を光らせたと言われる)、その後の明治政府のあり方などを考えると、政治的な裏があったのではないかと思えてならないのである。

 それはともかく、今井信郎の供述に出てくる桜井大三郎と桂早(隼)之助いう人物の名を借りて、南原幹雄は、この『見廻組暗殺録』では、主人公を旗本家の次男で京都見廻組の組士となった若い「桜井千之助」を登場させ、彼を主人公にして、彼が見廻組に入隊するところから坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺するところまでを描いているのである。

 桜井千之助の父親が幕府の御使番として京都巡視中に何者かに殺されるところから物語が始まるが、桜井千之助は、その父親殺害の犯人を捜し出すためにも、募集があった見廻組に入隊するのである。そして、京都で、見廻組と新撰組との対抗意識を含めながら、剣の遣い手として活躍し、長州が起こした「禁門の変(蛤御門の闘い)」や桂小五郎を追い詰めることなどを交え、祇園の芸者との恋と父親の仇探しも絡めて、物語が展開していく。

 この物語では、佐々木只三郎は「佐々木唯三郎」になっており、桜井千之助の父親を殺したのが中岡慎太郎になっていて、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺が仇討ちでもあったということになっている。中岡慎太郎の描き方や歴史的事件や人物に対する理解があまりに通説的すぎるところなどに、いまひとつ納得がいかないところがあるのだが、幕末の京都の状況や新撰組と見廻組の立場や対抗意識、血気に満ちた青年らしさなどが踏まえられて、「物語」としての面白さは充分にある。だから、どこまでもフィクションであることを承知しながら読む必要がある。

 京都見廻組は、政治に利用され翻弄させられた青年たちだったので、そのあたりも掘り下げられるともっと面白かったかも知れない。勤王にしろ佐幕にしろ、幕末は青年の純粋さがほとばしり出たものとして描かれることが多いのだが、考えようによっては、単なる権力争いに過ぎないとも言えるのである。今の政争もあわせて、人の争いの姿はつくづく変わらないと思ったりもする。

 日本の社会は、明治維新と第二次世界大戦後に再生の大きな機会をもったが、いずれも人の思惑が優先されてしまった。人は自らの手に「力」を握りたがる。

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