2011年6月16日木曜日

高橋義夫『天保世なおし廻状』

 梅雨の隙間のようにして時折晴れ間が見え隠れする日になったので、洗濯をしたりした。九州地方では今日からまた大雨とのことで、九州の親しい人たちのことを案じたりしている。このところ就寝時間が夜中の3時過ぎになることが多く、いささか睡眠不足なのだろう身体が気怠いが、日常的には変わりはない。

 二日ほどをかけて高橋義夫『天保世なおし廻状』(2001年 新潮社)を読んだ。これは江戸末期の天保年間(1830-1843年)に起こった大塩平八郎の乱(1837年)と蛮社の獄(1839年)、老中水野忠邦による天保の改革などの激動する社会の姿を、1833年に大阪西町奉行となり元与力であった大塩平八郎の意見に耳を傾け、さらに、1841年に江戸南町奉行となって水野忠邦の改革に反対した矢部定謙(やべ さだのり・・1789-1842年)を中心にして描き出そうとしたもので、それを大塩平八郎の乱に荷担した庶民の側の仙吉という人物と矢部定謙の用人の狩野晋助という人物の二人を主人公にして、物語として見事に展開した作品である。

 ちなみに、矢部定謙は水野忠邦と政治上の対立をしたために、南町奉行の座を狙っていた鳥居耀蔵につけ狙われて、言いがかりのようにして、鳥居耀蔵の策謀によって南町奉行を罷免され、桑名藩の預かりとなったが、自ら絶食して非業の死を遂げている。ただ、水野忠邦と鳥居耀蔵は矢部定謙をおとしめたが、彼の死の翌年に、改革の失敗と不正を理由に共に罷免されている。策謀がいかに愚かであることかの典型のようなものである。

 江戸時代の天保年間は、社会の不安定さが急激に露呈しはじめてきた時代であった。以後、幕藩体制が揺らぎ始め、徳川幕府は急速に崩壊の道を辿っていくことになるが、まず、天保元年(1830年)に水戸藩主であった徳川斉昭の幕政批判が公になり、水戸や薩摩で藩政改革が起こっている。京都では大地震があり、1500人以上の死傷者が出ているが、社会体制の地盤が大きく揺らぎ始めていたのである。

 1833年あたりから天候不順で水害や冷害によって全国的な凶作が始まり、1836年から1837年にかけての大飢饉となって各地で大多数の餓死者が出、米価を初めとする諸物価が高騰し、百姓一揆が頻発し、農民の都市流入によって打ち壊しなどが相継いだ。他方では、「オットセイ将軍」と異名をとる徳川家斉の贅沢三昧と閨房による権力争い、収賄が大手を振ってまかり通っており、政治は腐敗の一途をたどっていた。逼迫した幕府の財政再建のために貨幣の改悪が重ねられ、それによって諸物価はさらに高騰し、社会的格差ははなはだしいものとなった。ちなみに、徳川家斉は、1837年に将軍職を家慶に譲るが、1841年に死去するまで大御所として幕政の実権を握り、家斉の側近たちによる政治が続いている。

 うち続く飢饉によって窮乏を極めた庶民の実情と収賄によって私腹を肥やしていくような腐敗した政治に見かねて、1837年2月に大塩平八郎が「救民」の旗を掲げて大阪で乱を起こし、ロシア船の蝦夷地侵入やモリソン号事件に見られるような諸外国からの脅威(これには中国でのアヘン戦争の影も大きい)など、内的にも外的にも危機感を募らせる状況が続いたのである。

 1838、1839年と江戸での大火が続く中で、水野忠邦の腹心で目付であった鳥居耀蔵の策謀によって蘭学者の渡辺崋山や高野長英が捕縛されるという蛮社の獄が起こり、1841年に徳川家斉が死去するやいなや、あらゆる贅沢が禁止され、価格が統制され、旗本や御家人の貸付金を帳消しにする棄損令が出され、貨幣の鋳造が行われた。そして、それらによって消費が押さえ込まれて流通経済の混乱に拍車がかけられ、不況が蔓延する状態を招いてしまったのである。

 つまり、天保年間というのは、一方では権力争いを巡る政治の暗躍が盛んになると同時に、他方では、普通の人々が生きることさえ困り果てたり、困窮を極めたりする状態が続いた時代であり、社会的危機が増大した時代だったのである。やがて27~28年後に、江戸幕府は崩壊する。

 こうした事柄を背景にして、大塩平八郎の乱の時に大塩側についていた仙吉という正義感の強い渡世人が、大塩平八郎から矢部定謙あての密書を預かり、大阪から江戸に向かう途中で、その密書を奪われるというところから物語が始まる。仙吉は山中で数人の侍に襲われて密書を失ってしまうのである。

 そして、密書を失った仙吉が矢部定謙の用人である狩野晋助に会い、狩野晋助は主人である矢部定謙を守るために善後策を講じていく。仙吉は大阪で親しくしていた講釈師(講談師)の西流斎吐月が住む達磨長屋という貧乏長屋に吐月の弟子という触れ込みで身を隠し、裏店での生活を始めながら吐月がたい金をだまし取られた詐欺事件の解決などに関わっていく。その長屋にお咲という娘が住んでいた。お咲は、姉のお芳とその亭主と一緒に生活していたが、姉の亭主によって手籠めにされ、姉の亭主を刺し殺してしまう。姉のお芳はお咲の罪を一身に引き受け、亭主を刺し殺した毒婦として処刑される。仙吉もまた吐月が巻き込まれた詐欺事件で相手を殺し、仙吉とお咲は逃亡することになる。

 身寄りがなくなり、頼る者がないお咲は、仙吉だけを頼りにして逃亡生活を続け、やがて一緒に大阪に戻り、そこで下駄の出店などをして暮らし始める。

 やがて、仙吉は、大阪で大塩平八郎の乱に荷担して生き残った者たちと会い、大塩平八郎の志を継いで「救民」運動を起こそうとする仲間たちと大塩平八郎を貶めた大阪東町奉行の跡部良弼(あとべ よしすけ)暗殺計画に荷担する。彼を唯一頼りにしていたお咲を振り切って、「救民」という大儀のために暗殺計画に荷担したのだが、その計画は失敗し、大塩の残党はことごとく殺され、彼は再び流浪の逃亡生活に入るのである。

 他方、主人である矢部定謙と乱を起こした大塩平八郎との繋がりの発覚を恐れた用人の狩野晋助は、策略が入り乱れた政治状況の中で主人を守るべく奔走していく。矢部定謙は、大阪西町奉行から勘定奉行となったが、水野忠邦が行った幕府財政救済のための貨幣の改悪に、これが物価を高騰させて経済を疲弊させることから反対し、ついに勘定奉行の任を罷免されて西丸留守居役に左遷される。そして、蛮社の獄が起こる。

 蛮社の獄で標的とされた渡辺崋山と江川太郎左衛門(英龍)との繋がり、かつて江川英龍が韮山代官であった時に大塩平八郎が江戸に送った書簡などをすべて押さえていたことから、矢部定謙の用人である狩野晋助は主人の立場を守るために蛮社の獄でうごめいていた鳥居耀蔵らの行動の裏を探し出したり、貨幣の改悪でかなりの金額が裏金として水野忠邦に流れている事実を探り出したりして奔走していく。しかし、鳥居耀蔵につけ狙われ、水野忠邦に対立した矢部定謙は、西丸留守居役からさらに小普請組支配に左遷させられる。1840年のことである。

 矢部定謙は悶々とした日々を過ごすが、大御所として幕政の実権を握っていた徳川家斉の死去によって、1841年4月に江戸南町奉行に抜擢される。しかし、彼を執拗に狙っていた水野忠邦と鳥居耀蔵の陰謀で、同年12月に罷免され、桑名に永のお預けとなってしまうのである。物語ではその経過が用人の狩野晋助の立場から記されていくのである。そして、狩野晋助は、桑名で矢部定謙が絶食して憤死するまで付き従い、その後始末をしていくが、どこまでも主家のために苦労を重ねていくその姿が克明に描かれている。

 一方、物語の最後で、各地を放浪していた仙吉が、ふとしたことで旅芸人のようにして大阪に向かう吐月と再開し、彼と一緒に大阪に帰り、自分がやむを得ず捨てたお咲を探し出していく姿が描かれる。その際、「世なおし、世なおしと大きなことをいうたかて、女房一人救えんのかいな」(459ページ)という深い反省が彼を突き動かしていく姿が描き出されている。そして、仙吉に捨てられたが、信じて仙吉を待ち続けたお咲との再開が果たされていくのである。

 この最後の部分は圧巻で、天保という歴史の激動を矢部定謙の側から描きだしてきた作者の意図が凝縮されたものとなっている。

 歴史的な事柄が綿密に押さえられて、その中で二人の主人公を通して時代が描かれているし、作者の意図(思想)が明確に盛り込まれて、まことに読み応えのある作品だった。それにしても、矢部定謙が大阪西町奉行時代や江戸南町奉行の時に行った人情味溢れる名奉行ぶりについて、その資料がどこから集められたのか、簡単には手に入らないので、資料調査について驚嘆に値する仕事ぶりだと改めて思ったりする。

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