2011年6月10日金曜日

坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り かじけ鳥』

 あざみ野の「山内図書館」に行って、書架に並んでいるたくさんの本を見るたびに、豊かな文章で、言葉のひとつひとつをたどる度に後から後からぽろぽろと留めなく涙がこぼれ落ちていくような、魂の奥底を深く揺さぶる美しい物語が記されている書物がどこかにないだろうかと探す。

 ひとりの小さな読書人として、自分の読書の遍歴はそういう物語を探す巡礼の旅のような気もする。高校一年生の最初の期末試験の時、勉強するという習慣がなかったわたしは、寮生活の中であまりに時間をもてあまし、生まれて初めて小説でも読んでみようかと思い立って、先輩の部屋を訪ね、2冊の小説を借りてきて読んだのが読書遍歴の最初だった。その時借りて読んだのは、ゲオルギュー『25時』と島崎藤村『夜明け前』だった。

 そして、その2冊の本に本当に深く感動し、同級生たちが試験勉強をしているのを横目で見ながら、徹夜で読み続け、素晴らしい世界があることを知って、洋の東西を問わずに次から次へと読み続けた。時代はちょうど思想の季節の時代で、わたしの読書は、その後は思想と哲学に傾き、文学作品も哲学的に読むようになってしまったが、「心を揺さぶる豊かで美しい物語」をずっと模索し続けてきたような気がする。

 一方で、理系の学生としてあわよくばノーベル賞を目指すような実験に明け暮れ、他方で思想と哲学を極めようとずいぶんとあくせくし、公害問題やベトナム戦争の問題と関わりながら、現実の人間と社会の問題から今の道に進むようになったが、「美しい物語」への憧憬は、今も続いている。

 そんな思いで図書館に足を運ぶのだが、なかなかそうした物語に出会うことはないので、今もって手当たり次第に乱読する状態が続いている。ここに記しているのは、その中でも、気楽に無聊の慰めとして読んでいる本に過ぎないのだが、アラビアンナイトの「千夜一話物語」のように、孤独な夜の楽しみを与えてくれる書物である。

 そんな感慨を抱きながら図書館の書架を眺めていて、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り かじけ鳥』(2007年 徳間文庫)が文庫の書架にあったので、借りてきて読んだ。

 これは『十手綴り』シリーズの最後の七作品目で、このあと『十手裁き』のシリーズへと続くのだが、手柄を立てることも出世することも、金儲けをすることにも関心がなく、同僚からは「昼行灯」とか、歩くことしか能がない呑気者の意味で「うぽっぽ」と渾名されながら、情け深く、真実に接する者にどこまでも寄り添おうとする主人公の長尾勘兵衛の姿が克明に浮かび上がるような作品になっている。

 主人公の長尾勘兵衛の妻「靜」は、水茶屋で働いていた女性で、勘兵衛が惚れて結婚し、ひとり娘「綾乃」を設けるが、わずか一年で理由もわからないままに失踪し、勘兵衛は男手一つで愛娘を育て上げる。「綾乃」は勘兵衛の拝領同心屋敷を間借りして医院を営んでいる豪放な医者である仁徳のもとで医者を志す女性に成長し、勘兵衛と同じように武骨な定町廻り同心である末吉鯉四郎と恋仲となり、この作品ではいよいよ二人の祝言が行われるようになるのである。

 だが、二人の祝言を前にして総出で紅葉狩りに出かけた先で、鯉四郎は何者かに刺され、毒が回って昏睡状態に陥ってしまう。鯉四郎の看護を医者の仁徳と綾乃にまかせ、勘兵衛はその犯人を捜し出すことに奔走する。そして、そこに強盗団の企みがあることを知っていくのである。

 その探索の傍らで、勘兵衛は、かつてこの強盗団の一員で、唯一捕縛されて遠島となり、恩赦で帰って来て、自分が残した娘に会いたいと密かに願っていた錠前破りの男と出会う。彼の娘は、強盗団に育てられ、強盗の一味なっていたことを勘兵衛は探り出す。強盗団の首領は娘を質にして錠前破りの男に再び強盗に加わるように強要する。そのことを知った勘兵衛は、ひとり、強盗が狙っていた蔵にひそみ、強盗団を一網打尽にして、錠前破りと彼の娘の再会を果たしてやり、錠前破りの心情を打ち明けてその父娘に救いの手を差し伸べるのである。

 ここには、男手一つで慈しんで育てた娘を嫁にやる勘兵衛とその娘の「綾乃」、そして遠島の刑を受けて帰って来た錠前破りと父親に捨てられたと思っていたその娘の二組の父娘の姿が描かれている。それは、どちらも父と子の愛情溢れる姿で、その切々とした思いが二組の父娘の姿を通して描き出されるのである。

 昏睡状態に陥っていた鯉四郎は、回復し、綾乃と祝言をあげる。その鯉四郎が、周囲から「うぽっぽ」と馬鹿にされる義父を尊敬し、彼を助けていく姿も描かれ、勘兵衛を中心にした温かみのある人間関係が築かれていく様も物語に味を添えるものになっている。

 第一話の表題「穴まどい」は、冬眠するかどうか迷いながら冬を迎えてしまう蛇の姿をさすもので、八丈島送りとなり、恩赦で帰って来た錠前破りが、娘に会いたいが会えないという戸惑いの中にあることを差すものとなっている。その辺りの構成のうまさは光っている。

 第二話「きりぎりす」は、どうにもならない借金を抱えて夜逃げする者を逃がしてやる遁科屋(夜逃げ屋)が絡んだ仇討ちの話で、手ひどい高利貸しのために両親が自死してしまった姉妹が、なんとかしてその仇を討とうとするのを、勘兵衛が、単身、高利貸しのところに乗り込んで助けていくのである。勘兵衛がそのことに関わるのは、失踪した妻の「靜」が残した銀の簪が高利貸しの手代によって殺人に使われ、その簪をたよりに失踪した妻の手がかりを探し出そうとして仇討ちを企てていた姉妹に行き着くからである。勘兵衛は、ずっと妻の行くへを探し続けているのである。

 第三話「かじけ鳥」は、妻の手がかりを求めて出かけた先で起こった絵師の殺人事件に出くわし、そこに枕絵を描かせて楽しんでいた旗本の異常な色欲があるというもので、勘兵衛は、この旗本に手を貸していた商人の手によって罠にはまり、殺されかける。だが、その窮地を何とか脱して一味を捕縛するのだが、失明して瞽女となった女性の悲しい人生が盛り込まれ、彼女が預かっていた枕絵の下絵で、町方が手を出すことができない旗本に鉄槌が降ろされるようになるという筋立てが、この話を一味も二味も違ったものにしてくれている。

 勘兵衛は、九死に一生を得て事件の落着を迎えるが、妻の「靜」の手がかりは失われ、寂しさは募るばかりである。だが、ある日、その「靜」がひょっこり帰ってくる。勘兵衛が探し続けていることを迷子塚で知ったからである。帰って来た「靜」に勘兵衛は何も尋ねずに、「ずいぶん、長いあいだ、迷子になっておったな」と一言言う(318ページ)。なんとも主人公らしい台詞で、このシリーズに一つの区切りがつけられている。

 本書には、この三話が収められているのだが、三話とも、物語が醸し出す雰囲気が柔らかい。文学的な技法も優れているが、その柔らかさがなんとも言えずいい味で、わたしにとってはいい読後感を味わうことができた作品だった。

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