2011年6月20日月曜日

浅田次郎『憑神』

 今にも泣き出しそうな重い雲が垂れている。九州では大雨が続いているし、東北では震災後のつらい状況が無策のままに続いているが、人はただ己の営みの中で生きるしかないのだから、今日は何を食べようかと思い悩んだりする。

 先日、ふと思い立って「にこにこ動画」という動画サイトで映画を見ていたら、途中で「に~こ、にこ動画(♪)」と入ってきて、「~が午前0時ぐらいをお知らせします」という時報が挿入され、その遊び心に思わず感心した。

 現代社会は、時間というものを何時何分何秒まで気にするようになってしまったが、考えてみるまでもなく、時間というのは場所や人間によって異なるのだから、「~時ぐらい」というのが最も正確な時報の表現であり、「にこにこ動画」の時報が最も正確な表現に近い気がする。

 江戸時代の時刻の「暮れ六つ」とか「七つ発ち」や「八つ(ちなみに「おやつ」はここから由来している)」という数字の時刻表現はだいたい2時間おきぐらいで数えられていたが、それぐらいの時間の感覚が人間の生活にあっているのかも知れないと思ったりもする。時は人の生活の営みの便利のために創られたものだが、その時に追われるのは、やはりどこかねじれた生活だろう。昨日はそんなことをぼんやり考えながら、半日、うつらうつらと眠り続けた。

 閑話休題。浅田次郎『憑神』(2005年 新潮社)を面白く読んだ。この作者の作品は、前に『壬生義士伝』(2000年 文藝春秋社)を読んでいたく感動し、中井貴一が主演した映画も見て、感涙を禁じ得なかったが、作者自身の型破りな人間性はともかくとして、人間に対する視点の面白さと深さは格別なものがあると思っていた。

 『憑神』は、御家人で御徒の家に生まれた次男が、崩壊していく江戸幕府の中で、武士としての矜持を保ちながら生きていく姿を描いたもので、『壬生義士伝』でもそうだったが、いわば「滅びの美学」とでも言うべきものが、不運のユーモアを交えながら描き出されている作品である。

 武家の次男坊として生まれた主人公の別所彦四郎は、文武共に優れた才能を持ちながらも、次男であるがゆえに能力を発揮する場に恵まれず、養子に行った先からも、養家の後継ぎとして男子が産まれるやいなや種馬としての役割が済んだということで、嵌められて出戻りさせられ、鬱々とした部屋済み生活を余儀なくされている身であった。

 そして、ある時、酔った勢いで河原にうち捨てるようにしてあった祠に「なにとぞ宜しく」と掌を合わせてしまい、その祠が貧乏神、疫病神、死に神の三神を巡る「三巡神社」であったことから、次々と禍に陥っていくのである。

 彼は貧乏神、疫病神にたたられていくが、それぞれの神も彼の人柄に打たれたりして、取り憑く「身代わり」を立てたりして、自分が養子に行った先の義父の策略が明らかになったり、自分勝手で小心な兄に変わって御徒としての勤めに出るようななったりし、最後に、死に神を抱きつつ、徳川家の影武者としての御徒の家柄に忠実に、死地を求めて徳川慶喜に成り代わって上野の彰義隊へ、それが愚かなこととわかりつつも赴いていくのである。「限りある命を輝かせて死ぬ」それが、彼がたどり着いた地平である。

 この作品の中で面白い設定だと思ったのは、貧乏神が恰幅のよい大店の主として、不治の病気をもたらす疫病神が、病弱とは縁のないような力強い力士として、また、死に神が生命力溢れる小さな娘として登場することで、「見た目」と「真相」が面白く対比させられている点で、まさに、悪は善の顔をしてやってくるということが面白く設定されているのである。

 もうひとつ、これは作者のどの作品でもそうだが、人はそれぞれの立場で、それぞれの言い分や理屈があり、それぞれの正義があって、そこで動いていることが充分描き出され、そして、それぞれがどこかで少しずつ狂ってきた不幸や不運が生み出されていくという描き方が面白いと思った。

 主人公を種馬として扱い、用が済めば策略を用いて「用無し」として扱った養家、自分勝手で録でもない兄、貧乏神、疫病神、死に神など、それぞれの立場と言い分がある。そして、人のいい主人公がそれぞれの言い分を認め、そのために苦労しながらも、自分の「最後の武士」としての生き方を貫き、その「滅びの美学」を全うしていく姿が物語の中で展開されているのである。

 文章も構成も、言うまでもなくうまく、それだけに読みやすいし、人の「情け」もペーソスも溢れている。主題そのものに普遍性があるわけではないが、物語として面白く読むことができた。著者の作品数が多いので、数冊読んだだけでは何とも言えないが、作者の姿勢は、何となくわかるような気もする。

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