2011年6月30日木曜日

平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(六)春月の雛』

 朝から暑い日差しが照りつけていたが、午後になって雲が広がるようになってきた。少し時間ができたのだから、中途半端なままで終わっていることを片づければよいのだが、どうも気力が湧かない。まあ、こんな風にして時が過ぎていくのだろう。今日で一年の半分が終わる。

 平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(六)春月の雛』(1994年 講談社)を読みながら、人が生きることができる時間と空間について考えたりした。

 この中の第八話「落合清四郎の縁談」の中に、「数年前から近海をイギリス船が航行したり、エトロフ島とやらいう北方の蝦夷地にロシア船が上陸したなぞという事件が瓦版にも出て、公方様のお膝下で暮らす江戸の庶民の間にも、なにがなしに不安感が広がって、それが流行飛語の源にもなっている」(239ページ)という一文があって、そういう状況の中で、主人公の隼新八郎と友人になり、彼を兄とも慕うようになった三千石の旗本である落合清四郎の縁談の顛末が書かれていくのだが、人の営みというのは、こんな感じで進んでいくし、また、それでいいのではないかと思った次第である。

 つまるところ、人が生きることができる時間と空間には自ずと限度があり、人の営みはその中のものでしかないのだから、食べ、飲み、眠るという日常の営みを続けることを大事にする以外になく、仕事や業績などは、実は取るに足りないもので、「心の赴くままに、しかし矩をこえず」に過ごせれば一番で、「矩(のり)」というのは、わたしの場合は、思いやりや愛情だろう。

 閑話休題。『はやぶさ新八御用帳』のシリーズは、『はやぶさ新八御用旅』のシリーズと合わせて、ほとんど読んでいたと思ったが、この第六作『春月の雛』は、あまり記憶に残っていなかったのか、改めて読んだ次第で、江戸時代中期の名奉行と謳われた根岸肥前守鎮衛(1737-1815年)の「耳嚢(袋)」について関心をもったのも、このシリーズを読んでからだったような気がする。

 これは、江戸南町奉行となった根岸肥前守の内与力(秘書官のようなもの)である隼新八郎が、肥前守の命を受けて、いくつかの事件の探索を行うもので、さすがに平岩弓枝らしく人物の設定が巧みであっさりとしており、根岸肥前守は、頭脳明晰で懐の深い人物として描かれているし、隼新八郎をはじめとして、常に、弱者の側に立つ視座が明瞭に打ち出されている。また、主人公の隼新八郎は、神道無念流の達人で、頭脳は明晰、きっぷがよくて、非常に心優しい青年であるが、色恋には奥手で、それでも美貌の、あまり物事には拘泥しないのんびりした気質の妻がありつつも、かつての自分の母親の世話をしていた女中で、今は上役である根岸肥前守の奥女中をして細やかな配慮を見せる「お鯉」や、町方(岡っ引き)の娘で、粋でいなせなちゃきちゃきの江戸っ子気質の「小かん姐さん」に慕われたりして、その展開も味のあるものになっている。

 このシリーズの多くは根岸鎮衛の『耳嚢』から題材が取られており、たとえば表題作である第五話の「春月の雛」は、春月という人形師が作った雛人形に魅せられて二人の女性が死ぬという出来事を、女性の恋と嫉妬が絡んだ事件として展開したものである。

 本書には「江ノ島弁財天まいり」、「狐火」、「冬の蛙」、「鶏声ヶ窪の仇討」、「春月の雛」、「淀橋の水車」、「中川舟番所」、「落合清四郎の縁談」の八話が収められ、「耳嚢」を題材にした事件性のある話の展開は、すごくあっさりと展開されているが、この中では「中川舟番所」と「落合清四郎の縁談」だけが、主人公の隼新八郎と旗本の落合清四郎の出会とその顛末を描いたものとなって特別の事件性のあるものではなく、それだけに作者の技量が発揮された作品になっている。

 平岩弓枝の作品でいいのは、それぞれの登場人物たちが自分の思いに素直で正直に生きようとしているところで、様々な事情はあるが、根岸肥前守や隼新八郎も、そして「小かん」や「お鯉」も、あるいは主人公と一緒に働く同心や岡っ引きも、みな、それぞれに自分の思いに正直で素直である。「よい人間の関係」というものは、そういうものでできているのだから、結果がよくても悪くても、そうしたことが大事にされているのが作品の爽快さと情を生んでいるのである。

 物語の背後の歴史的考証や文章の歯切れの良さは言うまでもない。ただ、わたしがひねくれているのか、事件の結末があまりにあっけない気がしないでもない。しかし、肩の凝らない読み物としては申し分がない。誰でもが登場人物が好きになり、こういう関係があれば素晴らしいだろうと思うように描かれている。

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