このところ蒸し暑さがべっとりとまとわりついて体力を奪っていくような気がする日々になっている。こういう日々は熱中症の心配もあるが、思い切って汗をかいた方が爽快なのかもしれない。
それはともかく、文章も軽やかだし、物語の展開も肩の凝るようなものではないが、読み終わって、なんとなく「ふう~」と思ってしまう作品があるのだが、今回読んだ米村圭伍『影法師夢幻』(2001年 集英社)がそんな感じの作品だった。
もともと米村圭伍の作品は、これまで読んだ彼の作品での印象に過ぎないのだが、奇想天外の発想を俗説や流説などを盛り込みながら歴史の中に埋め込んで、それを講談や落語のような軽妙な語り口で述べていくというスタイルをもっているが、この『影法師夢幻』も、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で徳川軍に包囲された大阪城で自死した豊臣秀頼が、実は影法師を立てて逃げのび、鹿児島から四国の阿波、そして仙台伊達家へと逃れ、そこで伊達家の名武将と言われていた片倉小十郎(伊達家の家臣であった片倉家は、家臣とはいえ特別の家格で、初代の軍師であった片倉小十郎景綱 1557-1615年 以来、代々片倉小十郎の名を名乗っており、大阪夏の陣で武名をはせたのは二代目の片倉小十郎重長で、重長の妻は、大阪冬の陣、夏の陣で武名をとどろかせた真田幸村(信繁)の娘であった)に庇護され、真田幸村の子どもたちと共に隠し砦を作って、そこで代を重ねていったという発想のもとで物語が展開されている。
真田幸村の長男であった真田大助は父と共に大阪夏の陣で死去しているが、次男の真田大八は片倉重長に庇護されて、真田守信と名乗って、1670年59歳で亡くなるまで仙台藩士として生きのび、伊達家も真田守信が幸村の次男であることを隠し通したのは史実であるが、この作品では、真田大助も秀頼と共に生きのびて、隠し砦を守り続けたものとして物語が展開されている。
物語は、大阪夏の陣以後の真田大助、豊臣秀頼、真田十勇士と言われた猿飛佐助や霧隠才蔵(この物語では、霧隠才という女性になっている)らと共に、徳川家の目を欺きながら影武者を使って生きのびていく話と、それから170年後の、それぞれの七代目の話の二重の物語が、勇魚大五郎という秀頼に忠義を尽くそうとした軽輩とその七代目を名乗る人物を中心にして描き出されている。
もちろん、これらの物語が、たとえば豊臣秀頼が勇魚大五郎から馬の糞を食べさせられて、そこから勇魚大五郎と秀頼の関係が生じたといったところや、武骨な七代目霧隠才が子種を欲して美女を装う忍術を使うといったところ、七代目秀頼と思っていたらそれが七代目勇魚大五郎で、錦絵に当代随一の美女として描かれた笠森お仙に錦絵を見て惚れて、仙台の隠し砦から江戸まで向かうといった展開、太閤遺金を巡る徳川家の画策など、おもしろおかしく展開されているのである。
歴史を知る者にとっては、ちょっとばかばかしいような展開なのだが、史実が巧妙に入れ込まれているために、妙にリアリティーがあるところがあり、こういう創作の巧みさは作者お手の物という感じがする。
ただ、書き下ろしのためか、物語が細かなところと急速に展開していくところがあって、小さな小山はあっても大きな山場が希薄になっている気がしないでもないし、遺金や隠し金を巡る争いも作者の他の作品の展開と似ているし、人物像も似たような感じになって、読んでいて、少し「飽きが来る」気がしないでもない。娯楽物と言うには、細かな歴史が踏まえられすぎて、それはそれで必要不可欠ではあろうが、どうせなら、もっと人物を飛躍させてもいいようにも思えるのである。
もちろん、遊び心が満載で、歴史を遊ぶという姿勢は、わたしは好きだが、ドラマではなくバラエティ仕立てで、バラエティはどこまでも一時的産物と思っているためか、若干の物足りなさが残った作品だった。
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