2011年7月16日土曜日

諸田玲子『楠の実が熟すまで』

 昨日は満月で、東の空に浮かんだ月が柔らかな光を投げかけていたが、夜になっても熱気が治まらず、今日もうだるような暑さの中にある。久しぶりで二子玉川まで出かけて食事をとったが、水量を誇る多摩川もすっかり干上がっているような感じだった。昔はあのあたりでも鮎が捕れたらしいが、その面影はなく、現代建築技術の結晶のようなデパートとマンションが建ち並んでいる。

 木曜の夜から昨日にかけて、諸田玲子『楠の実が熟すまで』(2009年 角川書店)を読んだ。これは、安永2年(1773年)10月から安永3年9月までの一年間、京の公家と武家との対立の狭間に置かれたひとりの女性の姿を描いたもので、女心の妙が素朴に描かれている作品である。

 一般に、京の公家は独特の世界を繰り広げて、わたしなどには支配階級にあぐらをかいたとんでもない価値観をもつ種族のようにしか思えないが、江戸時代に幕府の支配下に置かれた公家たちは困窮の極みまで墜ち、格式と体面だけを重んじるがゆえに、内実の窮乏はひどく、文字通り「貧すれば鈍す」の状態であったことは間違いないであろう。彼らの生活は幕府の裁定にかかっており、勢い、必要経費をごまかして水増し請求をするということがまかり通っていた。

 本書は、京の公家たちのそうした不正を暴く目的で、京町奉行の意を受けて探索に当たっていた者たちの手先が次々と殺され、万策尽きた町奉行が、公家の奥深くに侵入して内偵をはたらく隠密として、ひとりの女性に白羽の矢を立て、彼女が不正の鍵を握ると思われる公家の嫁となり、嫁いだ公家の家の事情や夫の優しさ、抱えもっている苦悩などに触れ、隠密目的とは別に、心底、その夫に惚れていく姿を描いたものである。

 そして、不正を働いていた張本人が、婚家の縁者で、嫁いでから自分に親切にしてくれた人物であることが土壇場でわかっていくのである。

 物語の構成や展開、女性の母性本能と言われるもののとらえ方などにいくつか若干引っかかるところがあるのだが、物語としてすっきりまとまっているので面白く読めるし、作者らしい描写の仕方があって、密偵でありながらも夫に惚れていくという狭間に生きる心情が良く描かれている。

 人は、多かれ少なかれ二律背反的な面をもっており、その狭間で揺れ動いたりするが、その二律背反的なところを描くところに小説の面白さがあるとしたら、これは、主人公の立場そのものが公家と武家という二律背反に置かれるという設定だから、その設定の着想はうなずけるものがある。

 そう言えば、諸田玲子はそういう立場に置かれた人間をずっと描いてきたような気がしないでもない。このところまた精力的に仕事をされているようだから、作者が全体でどこに向かっているのかを見ていくのも面白い気がしている。

 エアコンが壊れたということで、屋上に置いてある室外機を見るために、久方ぶりで屋上に上がった。ここは丘の上で、屋上に上がると展望がきき、ひしめく家屋と点在する緑をぼんやり眺めたりした。それにしても陽射しが強い。

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