2011年7月13日水曜日

宇江佐真理『彼岸花』

 今日も朝から暑い陽射しがかっと照りつけている。空気中に熱気が渦巻いているようで、日傘を差して行き交う人が陽炎のように見える。

 昨日、必要があって昔書いたある組織についての論文をパソコンのフォルダ内で探していたら、その論文を展開した第二部が書きかけのままに放置されていたことに気がついた。第一部で組織の基礎となる事柄や思想についての考察をした後で、社会学的な分析をし、「希望の形態」として提示する第一部は終えて発表していたのだが、それを現実的な形態の中で展開したいと思っていた第二部が書きかけのままだった。それから、西洋思想史を基にした小説も100ページあまりを書いて書きかけで終わっていたし、他にもいくつか構想だけで書きかけの論文が見つかった。

 それから周りを見回すと、文字も習字をきちんと習わなかったので、自分が書いた文字が均整のとれない不格好な字で、油絵も「ピエタ像」が描きかけで、フルートも音程の移行がスムーズに進まないまま終わっているし、仕事も納得がいかないままで進めてきたきらいがあったりして、何もかもが中途半端なままで終わっていることに愕然とさせられた。

 決して完全主義者ではないし、人が未完のままに自分の人生を終了しなければならないことは十分に承知しているが、なんだか中途半端なままで終わるような気がして、スピノザがレンズを磨き続けたような姿からはあまりにも遠いことを内省してしまった。

 昨日はそんな気分で一日を過ごしていたのだが、夕方から宇江佐真理『彼岸花』(2008年 光文社)を読み始め、この人のもつ独特の柔らかさと楽天性に大いに慰めを覚えた。宇江佐真理は、現実の苦労を背負いながらも人情の機微をもって生きている人の姿を柔らかく描き出すし、無理もてらいもなく、素朴で、作品としてのまとまりもすっきりしているので、何とも言えない読後感を味わうことができる作家のひとりである。

 『彼岸花』は、「つうさんの家」、「おいらのツケ」、「あんがと」、「彼岸花」、「野紺菊」、「振り向かないで」の6編の短編が収録された短編集である。いずれも、奥付によれば、2007年から2008年にかけて「小説宝石」(光文社)で発表されたものである。

 「つうさんの家」は、深川で材木屋を営む店の商売がうまくいかなくなり、店をたたむことになって、本店のある大阪に行く両親と離れて、奥多摩の山の中にある「つうさん」という老婆に引き取られることになった十五歳の「おたえ」という少女が、それまでの暮らしぶりとは全く異なった山の中の質素な生活の中で、自分を引き取ってくれた「つうさん」との暮らしに馴染んでいく姿を描いたもので、最後に、「つうさん」が亡くなった後で、つうさんの生涯と自分が「つうさん」の本当の孫であったことが知らされるというものである。

 この作品の中で、「つうさん」との素朴で質素な生活を通して、自分が人生の中で何を大切にしなければならないかを「おたえ」が学んでいく姿が、その日常生活を通して記されていくのだが、筆運びが細やかで柔らかいので、「つうさん」の愛情がしみじみと伝わる作品になっている。

 「おいらのツケ」は、深川の貧乏長屋で、隣家の夫婦に自分の子どものようにして育てられて大工の見習いとなった三吉が、嫁をもらって一人前になっていく姿を描いたもので、三吉は幼い頃から父親が病で倒れたために隣家に預けられて育った。隣家の梅次・おかつの夫婦は自分たちの息子が板前の修業で大阪に行っていることもあって、三吉を自分の子どものように可愛がり、三吉も「爺、婆」と呼んで、母親が働き先の居酒屋で知り合った男を家に引っ張り込むようになったことからも、ますます梅次・おかつの家で暮らすようになった。梅次は人としての道を丁寧に三吉に教え込んだりした。

 十五歳の時、木場の大工の棟梁の徒弟となり、三吉は棟梁の所に梅次の家から通うようになって、そこで大工の修行を重ねていく。その棟梁の家の近くの一膳飯屋に、小太りで決して美人とは言えないが愛嬌のある「おかよ」という娘がいて、三吉に思いを寄せている。三吉は棟梁の美貌の娘に思いを寄せていたために鼻も引っかけないでいたが、兄弟子たちへの義理で飯を奢って金がなくなり、それをツケにしてもらったこともあって、「おかよ」を連れて深川八幡いったりする。「おかよ」の両親も三吉のことが気に入っている。

 そして、母親がいよいよ通ってきていた子持ちの男と所帯を持つと言いだし、彼を可愛がって育ててくれた梅次も病をえて死んでしまう。梅次の息子は、結婚して残された「おかつ」の面倒を見たいから三吉に梅次の家から出るようにと頼む。新しい男と所帯を持った母親も、彼を家に入れようともしない。三吉はどこにもいく場所がなくなってしまったのである。

 思いあまって「おかよ」の家を訪ねるが、「おかよ」の父親から「おかよの亭主は店を継ぐ者にしたい」と言われる。だが、「おかよ」の母親が「三ちゃんがここから親方の所に通ったっていいじゃないか」と言って、話がまとまり、三吉は「おかよ」と夫婦になる。三吉はその一膳飯屋から大工の仕事に出て、仕事が休みの時や店が忙しい時には店を手伝い、「おかよ」もいい女房になっていく。

 そうしてある時、懐かしい思いでもと住んでいた貧乏長屋を訪ねてみると、梅次の息子には子どもができ、「おかつ」も嬉しそうな笑い声を立てていたために、ついに梅次の家を訪ねることができなかった。三吉は寂しい思いをするが、「おいらにはおいらのツケがある。そのツケを返すために、これからもあくせく稼ぐのだ」と思い返して帰っていくのである。

 人には、自分の居場所がどこにもないという寂しさがつきまとう。その寂しさをこういう単純だがすっきりした形で作品にして、一つの人生と生活の光景として描き出した作品である。

 「あんがと」は、本所の東側の貧乏尼寺で、代々捨てられた子どもを育てている尼僧たちの姿を描いたもので、結婚に失敗して尼僧となった安念は、寺に捨てられた子どもをやむを得ずに引き取って育て、その子が育って恵真と名づけられ、寺の後を継ぎ、恵真も、両親が強盗に殺された娘であった妙円と両親を病で失った牢人の娘であった浄空を引き取り、貧乏尼寺でかつかつの生活をしながらも育ててきた。

 そこにまた、言葉もうまくしゃべれないようにして育てられてきた女の子が捨てられた。女の子は妙円になつき、彼女たちに守られて元気になってきたが、親戚が見つかって引き取られることになった。それからしばらくして、引き取られた先で可愛がられている姿で彼女たちの尼寺を訪ね、その帰り際に、たどたどしい口調で「あんがと(ありがとう)」と言うのである。

 「あんがと」は、互いに思いやりと情けをもって静かに暮らしている美しい話である。描かれる女性たちの姿や状況は甘くて理想的過ぎるかもしれないが、こういう話を読むのは、決して悪くはないし、むしろ、いいものである。

 表題作となっている「彼岸花」は、気の強い母親の世話をしながら小梅村で農家の切り盛りをしている「おえい」の家族に対する思いを描いたものである。「おえい」は、気が強くて吝嗇気味の母親「おとく」と婿養子にきた夫の三保蔵、そして、十七歳の嘉助と十五歳の清助という二人の息子との五人暮らしをしている農家の主婦である。家は、かつては庄屋を務めるほどだったが、今はそれほど裕福ではなく、夫の三保蔵は農閑期には瓦職人として働いている。「おえい」は、自分が気に入らないことは一切受けつけない実母の「おとく」とそりが合わないで、若い頃思いを寄せていた儒学者の息子とも仲を裂かれたりした。

 この「おえい」に「おたか」という妹がいる。「おたか」はある旗本の家臣の家に嫁に行ったが、彼女の夫の偏屈さから夫が職を失って以来、頻繁に「おとく」に金を借りにきたり、農家で撮れる野菜を山ほど抱えてもらって帰ったりするようになった。武家に嫁いだ「おたか」は自尊心ばかりが強くなって、娘を武家の娘として育てるために、もらって帰って野菜などを路上に並べて売ったりして暮らしを立てているのだった。「おたか」の夫は殴る蹴るの暴行を働き、家の中では罵り声が絶えないという。「おたか」は、ただただ自尊心だけで生きている女になっていた。

 だが、その「おたか」が下血して死んでしまった。「おたか」の亭主は下血で家が汚れたことだけを言い、喪主は仏の側に座っているだけだと言って弔いも出そうともしないし、「おたか」が無理して習い事をさせていた娘は「これから御膳の仕度は誰がするの?お洗濯は?」と言うだけだった。「おえい」はやり切れなさを感じていく。

 苦労して、夫にも娘にも、その心さえ報われなかった「おたか」の家族の姿は誇張されてはいるが、しかし、それが現実だろう。人生はやりきれないことに満ちていて、特に心優しい人は、そのやり切れなさを深く感じざるを得ない。ほんの少しの温もりさえあれば、人は生きていけるが、そのほんの少しの温もりさえない時がある。彼岸花に託された人のやり切れなさが、この作品の妙味であろう。

 「野紺菊」は、夫が亡くなり、残された老いて惚け(認知症)が進んだ母親と養子として取っていた息子を抱え、その母親の介護で明け暮れるひとりの女性の姿を描いたもので、義姉とふたりで母親の面倒を見ているが、日々の暮らしの中で疲れも覚える。徘徊するために一日さがし歩いたりもする。だが、惚けた義母の不安を和らげるためにお漏らしをし始めた義母と一緒寝たりして、義母の面倒を見ていくのである。

 そして、義母が亡くなり、彼女は寂しさを感じていく。ふと、庭の片隅に野紺菊が花をつけていた。義母が俳諧の途中で見つけてきたものを植えたのが花を咲かせていたのである。その野紺菊を見ながら、彼女は「この花が好き・・・」とつぶやく。

 「振り向かないで」は、仲のよかった友人の亭主を寝取った女性が、自分の行いを悔いて、生活を改めていく話で、「そして胸の中で『もう、振り向かないで』と、自分で自分に言い聞かせていた.雨はなかなか止まなかった」(248ページ)という締めくくりの一文が光る作品だった。

 読み終えて、他の作品でもそうだが、宇江佐真理の作品はどうしてこう柔らかく染みわたるような作品になっているのだろうと思い続けた。作者の人柄というものがこれほど文章ににじみ出るような作家も少ないだろう。歴史考証や言葉遣いの曖昧さも全く気にならないほど、人が生き生きと描かれているので、一つの境地と言えば境地に違いない。観察力と感性が優れた作家だとつくづく思う。

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