14日(月)に降った大雪が溶けずに、まだ残って寒い。車を出すために雪かきならぬ氷かきをして道路の凍結状態を解除した。こういう経験もここでは珍しい経験である。
閑話休題。海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)の「島津騒動」の続きであるが、島津家第8代藩主で豪気な気質を持っていた島津重豪が89歳で病没し、重豪の孫の斉興がようやく藩の実権を握ることができたのは44歳であった。斉興には三人の男子があった(他に二女)。徳川家や伊達家の血筋を持つ賢婦人と言われた正室の周子(かねこ 弥姫)との間に長男の斉彬と次男の斉敏、そして側室であった「お由羅」との間に久光をもうけていた。この内、次男の斉敏は備前岡山の池田家の養子となり、後に岡山藩第7代藩主になったから、残ったのは長男の斉彬(1809-1858年)と三男の久光(1817-1887年)であった。
斉彬は幼少の頃から聡明の評が高く、特に曽祖父で豪胆だった重豪のお気に入りで、隠居屋敷に連れてきては珠玉のように可愛がったと言われている。斉彬が25歳になるまで重豪は在命しており、斉彬は重豪の大きな感化を受けたと思われる。特に、重豪は、オランダ人と交わるために自らオランダ語を習得するなどしたが、そういう新しいものを積極的に取り入れ、西洋の文物を趣向する傾向や世界情勢への知識は斉彬に受け継がれている。
斉彬は、私生活は曽祖父の重豪とは異なって吝嗇と思われるほど質素であったが、有用な西洋の品物は費用を惜しまず買い入れた。機械、器具、洋書を積極的に買い、それによって制作や実験を行い、理化学に基づいた工業が西洋列強の力の源であることを見抜いて、自らもアルファベットを学んだりしている。
しかし、彼のこの聡明さ、曽祖父の重豪と似た積極的な進歩への熱意、必要なものには金を惜しまない姿勢、才能ある者への身分を越えた登用などが、おそらく、父親の斉興や、ようやく重豪の乱費から財政を再建させた藩の重職らに危惧を抱かせたのである。海音寺潮五郎は、藩中の大部分が斉彬に対して経済的な危惧を抱いていたのではないかと言う。
他方、久光の生母「由羅」は、町家の出身で(八百屋の娘とか船宿の娘とかの諸説がある)、15歳で薩摩藩江戸屋敷に奉公に出て、まもなく斉興の寵愛を受けるようになり、男の子を生んだ。それが久光で、斉彬の8歳年下になる。斉興は「由羅」を寵愛し、国許の「お国御前」として薩摩に連れて行き、参勤交代で江戸に出るときは江戸に連れて帰り、国許に帰るときは国許に連れて行ったと言われるほどであった。斉彬は世子として江戸で育ち、久光は薩摩で育ったのである。
久光も幼少の頃から賢明だったそうだが、薩摩の重臣たちの間で育ったこともあり、洋学を嫌って旧来の保守の気質を色濃くもっていた人であった。
苦労して破綻した財政を立て直してきたこともあり、斉興は斉彬に家督を譲ることを躊躇したし、家老で財政再建の立役者であった調所廣郷らも強い危惧を持っていった。斉興も50歳を越え、斉彬も30歳を過ぎ、斉彬は、そのころ既に彼の聡明さや賢明さが人々によく知られ、特に老中首座であった阿部正弘は斉彬の見識を尊敬して兄事していた。弘化元年(1844年)から英国とフランスが相次いで琉球(沖縄)に来て通称を求めた際も、老中阿部正弘は、その処理を藩主の斉興ではなく、斉彬にさせるように命令している。江戸幕府は、斉興に早く引退して、斉彬に後を継がせるように諫言したのである。斉興は既に56歳、斉彬は38歳になっていた。この時に、家老の調所が費用を惜しんで斉彬に十分な働きをさせなかったことがあり、斉彬は調所ら薩摩の重臣たちに苦々しい思いを抱いていたし。薩摩の重臣たちも斉彬に対する危惧を一層強めたのである。
こういうことは、才気活発な人間とそれを取り巻く人々のなかによく起こることであるが、一面では抜きん出た先見性と見識、豪胆さと聡明さをもつ斉彬を旧来の枠の中でしか考えることができなかった薩摩の重臣たちと、そのことが理解できなかった斉彬の傲慢さが後の悲劇を生んだとも言えるかもしれない。
そして、斉彬の子どもたちがことごとく幼死するということが起こっており、斉彬を尊敬する藩士たち(主に才能豊かな青年たち)が、斉興がいつまでも藩主の座を譲らず、斉彬の子どもたちを根絶やしにして、自然に久光に後を継がせるようにする計画があるのではないかと言い出し、母親の「由羅」が我が子久光の可愛さに、「由羅」と家老の調所が結託して神仏に呪詛を祈願して、斉彬の子どもたちを呪詛で殺した疑いをもったのである。
「由羅」は、確かに郊外の精光寺に参詣し、参詣人のための茶屋を寄進したり、霧島神宮に詣でたりしていた。しかし、「由羅」や調所らが斉彬の子どもたちを呪い殺すというようなことをしたとはとうてい思われない。これは、はやく藩政を自分のものにして、危急の事態に備えたいと考えていた斉彬の意を組んだ反調所派の言いがかりだったのではないかと思う。家老の調所や彼を支えた人々の様々なことが取り上げられ、調所廣郷自身には不正なことはなかったが、些細なことで私腹を肥やしているということが挙げられたり、また、調所が頼りにしていた人々も、確かに、傲慢に私腹を肥やしたところがあったりして、それらが次々と取り上げられた。
これは、おそらく、西郷隆盛や大久保利通などもそうであるが、斉彬は有為で才能ある人材を藩の身分制度を無視する形で次々と登用し、そうした斉彬に師事した人々が、斉彬に早く家督を譲ることを性急に求めたのであろうし、斉彬自身も、中年になっても家督を譲られないことへの焦りがあったことで起こったことだろうと思う。そして、諸外国からの圧迫が強くなって事態の収拾を急いでいた江戸幕府も、斉彬の才能を高く評価して、彼に期待することが大であり、特に老中首座であった阿部正弘は、斉彬の正式な表舞台への登場を切望していた。
そこで、斉彬と阿部正弘は密議をこらして、綱渡りのような一計を行った。それは、薩摩の密貿易を幕府が知り、これを咎めることで、斉興に引退させ、調所らの失脚を行うというものであった。薩摩の密貿易は公然の秘密であったが、下手をすれば藩の取り潰しにもなりかねないことを行うのである。もちろん、これは江戸幕府老中が絡んでいるので、そのような事態にはならないという斉彬の腹積もりはあったのである。
幕府は、藩政を一手に取り仕切っていた調所廣郷を江戸に召喚して尋問した。しかし、調所廣郷は、密貿易などの全ての責任を一身に引き受けて自害し、事柄は藩主であった斉興にまで及ばなかった。しかし、中心であった調所を失った人々は没落する。ただ、調所の働きを重んじていた斉興は、責任をとった調所に厳罰を処すことをせず、一応は家の取り潰しという体裁を取りながらも、嫡男の左門を国許に返して稲留という苗字に改名させて家を存続させ、600両もの大金を家屋敷の取得のために与えている。
他方、斉彬を支持する人々は一層の結束を固め、1)兵動家(武士であると同時に山伏であり、陣中で敵を呪詛する修法を行う-こういうことが真面目に信じられていたのである-)を同志に引き入れて、斉彬とその子女の安泰を祈る。2)信賞必罰を求めて、調所を中心とした経済官僚に厳罰を求める。3)藩政改革。4)斉興の隠居と斉彬の襲封。5)以上を早急に実現するため、筑前福岡藩主となっている斉彬の叔父の黒田斉溥(長溥)に訴えて、幕閣に運動してもらう、を決めて行動していく(海音寺潮五郎は、彼らの計画をそう解釈している)。
薩摩藩の重臣たちはこの動きを察知して密偵を送り込み、この計画を藩主の斉興に告げた。この際に一気に斉彬を支持する者たちを潰そうとしたのである。そしてこれを聞いた斉興は激昂し、斉彬を支持していた人々を捕縛して厳罰に処したのである。この時、切腹はもちろん家族も遠島などの厳罰に処せられた者は50名を越えている。斉彬に組みし改革派であった江戸家老の島津壱岐も更迭されて隠居謹慎を命じられ、その二日後に切腹している。斉彬を支持していた者たちのすべてが根絶やしにされたのである。こうなっては、斉彬の世襲はもはや絶望的になった。
しかし、斉彬を支持していた者たちの中の4名が藩を脱出し、筑前福岡藩の黒田斉溥(長溥)に保護を求め、斉溥(長溥)は、薩摩藩の引渡し要求を巌として拒絶して、事態の収拾を老中阿部正弘に訴えたのである。阿部正弘は将軍徳川家慶に斉興の隠居を要請し、家慶は、引退後の生活を暗示する茶器や十徳(朱色であからさまに隠居を意味した)を贈って、斉興の隠居を勧めた。しかし、斉興はこれを無視して隠居しない。そこで、隠居が将軍命によることを告げ、ようやく斉興は隠居するのである。斉興62歳、斉彬43歳であった。
斉興は祖父の重豪が長く院政のような形で藩の実権を握り、ようやく44歳の時に藩政の実権を握ることができたが、その祖父と同じように長男の斉彬に藩主の座を長く譲らずにきたのである。その間に時代は大きく変化し、時代は斉彬の登場を待ち望んでいたが、これを無視し続けた。こういうところに島津騒動の問題があったのである。あるいはまた、抜きん出た才能をもった人物を取り巻いた騒動とも言える。
通称「お由羅騒動」と呼ばれる島津騒動はこれで決着したのであるが、海音寺潮五郎は、実はこの騒動は簡単には決着せずに、明治維新後の西郷隆盛と島津久光との間まで続いていたと見ている。
斉彬は、藩主となって、父の時代に家老や重職を務めた者をそのままにし、また、遠島になったり、差控えを命じられたりした者たちの処分も解くことなく、彼を支持した者たちにはそれが不満であったが、やがて機会を見て、適切に罪を解除していく方法をとった。斉彬は藩内に分裂を起こすことを賢明に避けたのである。彼は、曽祖父の重豪が行ったような「近思録くずれ」や、父親の斉興が行った厳罰主義を取らなかったのである。自分の子どもたちを呪詛したといわれる「お由羅」にもなんの処罰も与えていない。彼の賢さは彼の優しさとなって現れてもいた。
その代わりに、自分の腹心たちを藩政の要路につけ、次々と新策を実行し、造船所を建てて洋式帆船や蒸気船などの軍艦を作り、反射炉や溶鉱炉を設置し、兵器廠を作って洋式鉄砲を大量に製造した。また洋式紡績機を据えつけて紡績工業を起し、ガラス製造業(薩摩切子)を起し、電信機を作って城内に張り巡らせて電気通信を始め、ガス燈も制作させ、軍制も洋式に変えた。藩の富国強兵策を進めたのである。彼が起こした事業は「集成館事業」と呼ばれる。
これらは目を見張るような改革で、そのために斉彬は金銭を惜しまず使った。もちろん、藩内には重豪の再来としてこれらを危惧する人々もいて、時に、斉彬が老中阿部正弘と話して、一族の姫君を養女として将軍徳川家定に輿入れさせ、将軍家の岳父となるということがあって、人々はますます斉彬に重豪を重ね合わせて見たのである。
彼が幕府に対してこのような行動に出たのは、雄藩とはいえ外様であった島津家の藩主であり、国際的な見識と感覚を持った斉彬の幕府内における発言力の強化のためであったが、隠居した父の斉興は、苦労して立て直した財政が崩れ去るのに気が気ではなかったのである。ちなみに、この時に将軍徳川家定に輿入れしたのが篤姫である。
加えて、斉彬は琉球の開放策を積極的に押ししすめた。琉球を通じての密貿易で財政を立て直してきた斉興にすれば、それは琉球を薩摩が手離すことにも見えた。安政5年(1858年)に、幕府では阿部正弘の後を受けて、井伊直弼が大老となり、斉彬は将軍継嗣問題で真っ向から対立した。徳川家定が病弱で嗣子がなく、他の四賢候らとともに一橋家の慶喜を次期将軍として推挙したが、井伊直弼は紀州藩主徳川慶福を推挙し、安政の大獄で反対派を弾圧して、慶福が第14代将軍徳川家茂となったのである。
この問題は、井伊直弼の安政の大獄の弾圧もあり、日本を上げて騒然となったのであるが、この事態を受けて、斉彬は西郷隆盛を京に送ったりして、兵を猛訓練してクーデターで幕政改革を行おうと挙兵の準備を急がせたのである。彼は藩兵5000人をもって上洛を計画したのである。
こうした事態は薩摩藩の保守派の人々には、とんでもないことを斉彬がしようとしているという危惧を拡大させた。だが、斉彬は、藩士の練兵の観覧の時に、つまり挙兵の前に突然の発病によって死去するのである。海音寺潮五郎は、この斉彬の死を毒殺と見ている。一応はコレラとか赤痢とか言われているが、その死の時期があまりに状況を映し出すものであるし、死因とされたことに不審があるからである。西郷隆盛は、斉彬が毒殺されたと思っていたふしがある。後に大久保利通は久光についたが、西郷は最後まで久光を嫌っていた。それは斉彬の死に久光が関与していたと思っていたからであろうと海音寺潮五郎は見ているが、久光本人かどうかは別にして、斉彬が毒殺されたのではないかとわたしも思っている。
そして、斉彬死後に島津家に残ったのは久光の系統のものであり、斉彬の遺言によって久光の長男である島津茂久が藩主となったが、久光は藩主の父として、事実上の最高権力者となって明治を迎えることになるのである。
斉彬が藩主とし縦横に実力を発揮したのはわずか7年間に過ぎなかったが、彼が残した影響は大きく、彼なしには明治維新は起こらなかったといえる。わたしは、以前、鹿児島を訪れて、集成館事業の跡なども目にしたが、今日でも彼の偉業の影響は計り知れないものがある。しかし、島津騒動は、また、彼の聡明すぎる性急さや豪胆さ、そして優しさが招いたことでもあったであろう。斉彬の人と成りについては、また別に書くときもあるだろうと思う。ともあれ、この騒動についての海音寺潮五郎の記述は、実に丁寧でわかりやすい。
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